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とはいえ、彼が以前『逃がすつもりはない』と言ったのが本気なのは分かった。
(それから、とてもリリーローズが大好きでたまらない、と)
そももそ手元にあるこの書類は、エステルのものだ。
でも指摘することを思い浮かべただけで疲れてしまい、彼女は頷く。
「分かりました」
とはいえ、集中したらしばらくもしないうちに読み終わってしまうだろう。
友達が去っていくような寂しさと共に、彼女の口から小さく息がもれていく。
「おや、三回目の溜息ですね」
どうせ彼には心の動きは知られている。
「音沙汰がないものですから、ただただ待つだけは暇なのです」
早く動きたい気持ちはあるものの、リリーローズがほとんど社交に出ないので、タイミングも探っているところだ。
その時、エステルはアルツィオが動かず、こちらを見たままにこーっと、とてもいい笑顔を浮かべたことに気づいた。
「……その笑顔はなんです?」
「ふふふ、いえ、これから王宮に行くが楽しみで。あそこまで心の音が愉快なのも、久し振りです」
愉快、とは。
そんなことを思ってエステルが首を捻ると、彼は質問をかわすみたいに「それでは」と言って、バルコニーから出ていった。
∞・∞・∞・∞・∞
それから四日、リリーローズに会えるタイミングは意外にも早く訪れた。
秋の社交シーズンということもあって、税の報告と共に国王陛下への挨拶で、リリーローズも舞踏会に参加するという情報を手に入れた。
そこでエステルも、前日までに王都の公爵邸へと戻った。
久しぶりに家族で食事もできて、健康的になった姿を母も喜んでくれた。
それから、エステルが気晴らしで舞踏会へ足を運びたいと告げていたのも、よい傾向だと嬉しくなったみたいだ。
当日は、朝からドレスやら装飾品やらを引っ張り出しては、どれを着せようかと楽しそうにしていた。
人の注目を集めるのではなく、その場の空気を〝友人と〟〝一出席者として〟味わいたいので、あまり目立たない控えめのもので――と言って、エステルはどうにか主役級ではないドレスに落ち着いた。
(着飾りすぎると、デートと勘違いされるわ)
今日は、アルツィオとリリーローズの初対面なのだ。
彼女の普段のドレスの傾向は調査済みで、彼女に緊張感をあまり覚えられないようなファッションを考えた。
そうしている間に昼、そして湯あみの時間を迎え、ドレスへと着替えた。
「お嬢様、本当に大丈夫でございますか?」
「ええ、友人になったアルツィオを案内してあげたくて」
あくまで、友人であるとはメイドには強調しておく。
久しぶりの舞踏会ではあるが、今回は友人と回るとは伝えてあったので家族とは会場で別れる予定だ。
母は、よき友人であることを信じてくれた。
「楽しめるといいわね」
玄関ホールで出発前に集合となった時、嬉しそうな顔を見せてくれた。
父の方は、今回の目的を知っているせいか『ちょっと訳が分からない』という困惑の表情だ。
「人助けですわ」
エステルは自信たっぷりに、こそっと改めて教えてあげたのだが、父は一層「うーん?」と悩んだ声をもらして、頭を大きく右に傾げていた。
兄の方も、今夜のエステルの出席には少々複雑と言った様子だ。
それはエステルが、まだアンドレアの婚約者という肩書きを持ったままであるせいだろう。
あれだけ騒ぎになったアンドレアは、いまだ何も動いていないのだという。
そんな彼も出席するので、心配もしていると兄は言った。
「会場は広いので、そうそう会うとは限らないが……」
「人気者ですのでお会いはできないかと」
本当なら出席はしたくない気持ちもあったので、足が委縮してしまう前に、エステルはさっとそう答えた。
「ところで伯爵令嬢は」
「今夜もご一緒されるようだ」
尋ねた瞬間、父があまり聞かせたくない様子ですぐにそう言ってきた。
――今夜〝も〟。
その言葉に、初めて友人と舞踏会に出席することへの新鮮な気持ちも沈んでいった。
「そう……」
彼女は、それ以上の情報を家族に求めなかった。
エステルが離れる前と変わらず、ユーニとの交流は続いているみたいだ。
(それなら早く答えをくださってもいいのに)
ユーニを選ぶ、と。そう示すように婚約を解消してくれれば――。
「だがなぁ、陛下が」
父が何事か言いかけたが、兄が止めた。
「陛下がいかがされたのですか?」
「いや、……この件は分からないことが多くてな」
殿下の返事待ちみたいなものではあると、父は迷うようにして言葉をしめた。
分からないというのは、アンドレアが、という意味だろう。
そもそも彼があの日に婚約の解消に動いていれば、人々もこんなには騒がなかっただろう。
まだ彼の婚約者のせいで、別荘に行っても尚エステルは注目された。
隣国の第三王子が何度もこの国に来ている真相や、二十一歳のアンドレアが今年こそは結婚を表明して世継ぎを残してくれるのかどうか――といったところも、不明瞭なことばかりで、あらゆる方向の意見が飛び交っている。
だから、噂の熱もこんなにも長く続いている状況だ。
雑誌社や新聞社は儲けていると、兄は皮肉か八つ当たりが分からないことを呟いていた。
そして夜の公爵邸から、エステル達をのせた馬車が出発した。
舞踏会が開かれている王宮は眩しい光を放ち、その灯かりの恩恵を受けた庭園は、早い時間のためどこもかしこも恋人や夫婦で歩く姿が目立った。
エステルは、そちらから目をそらしていた。
昔からずっとそうだった。
「エステル」
舞踏会の会場に入る前、兄が呼び留めた。
「お前がどれだけ殿下を想っていたのかは、この前聞いて知っている」
彼は入場していく貴族の雑踏に声をまぎれさせ、早口で言った。
「だから、第三王子殿下とは『いい友達』とお前が言うのなら、俺も信じる」
「お兄様……」
「相手も嫌な男でなければ、失恋したばかりの女性をくどこうとはしないはずだ」
そんな相手ではないんだろう?と兄の真剣な目が、尋ねてくる。
エステルは庭園の前を通過した時の、胸が痛いような表情を一変させて笑った。
「ええ、もちろんです。アルツィオは良心的なお方ですよ」
入場し、家族とは別行動となった。
家族は社交がある。エステルは噂の件もあるので、同行しない方がいいだろうという配慮もあった。
できるだけ人と目を合わさないよう進む。
だが、久しぶりに受ける大勢の貴族がいる独特の空気に、エステルの足は震えそうになる。
(アルツィオとの約束を守らなければ……)
ただ一つ、その目的を心で唱えて勇気に変えていく。
アルツィオがリリーローズと接触できる絶好の機会なので、エステルは久し振りに舞踏会へ出席した。
自由出席の場に来ることは滅多にない。
家族とも離れ、エスコートする相手もいない状況にますます緊張する。
すると、すーっと体力が奪われていくような感覚を覚えた。
(だめよ、落ち着いて。もう少しゆっくり歩くのよ)
とても少なくなってしまった魔力のせいで、体力の落ちは早い。
けれど、緊張と焦りでどんどん足は速くなる。
「おっと。そうそうにバテておしまいになられますよ」
その時、エステルの肩を優しく抱き留めた人がいた。
ふわり、と頬に感じた魔力の風に、彼女はハタと気づく。
「アルツィオ」
「今夜はありがとうございます」
見上げると、そこにいた彼はとてもにこにこしていた。
今日、ようやくリーローズと話しができる期待に胸を膨らませているのだろう。
とはいえ――少し、気になった。
「……大切な日なのに、また遅刻ですか?」
(それから、とてもリリーローズが大好きでたまらない、と)
そももそ手元にあるこの書類は、エステルのものだ。
でも指摘することを思い浮かべただけで疲れてしまい、彼女は頷く。
「分かりました」
とはいえ、集中したらしばらくもしないうちに読み終わってしまうだろう。
友達が去っていくような寂しさと共に、彼女の口から小さく息がもれていく。
「おや、三回目の溜息ですね」
どうせ彼には心の動きは知られている。
「音沙汰がないものですから、ただただ待つだけは暇なのです」
早く動きたい気持ちはあるものの、リリーローズがほとんど社交に出ないので、タイミングも探っているところだ。
その時、エステルはアルツィオが動かず、こちらを見たままにこーっと、とてもいい笑顔を浮かべたことに気づいた。
「……その笑顔はなんです?」
「ふふふ、いえ、これから王宮に行くが楽しみで。あそこまで心の音が愉快なのも、久し振りです」
愉快、とは。
そんなことを思ってエステルが首を捻ると、彼は質問をかわすみたいに「それでは」と言って、バルコニーから出ていった。
∞・∞・∞・∞・∞
それから四日、リリーローズに会えるタイミングは意外にも早く訪れた。
秋の社交シーズンということもあって、税の報告と共に国王陛下への挨拶で、リリーローズも舞踏会に参加するという情報を手に入れた。
そこでエステルも、前日までに王都の公爵邸へと戻った。
久しぶりに家族で食事もできて、健康的になった姿を母も喜んでくれた。
それから、エステルが気晴らしで舞踏会へ足を運びたいと告げていたのも、よい傾向だと嬉しくなったみたいだ。
当日は、朝からドレスやら装飾品やらを引っ張り出しては、どれを着せようかと楽しそうにしていた。
人の注目を集めるのではなく、その場の空気を〝友人と〟〝一出席者として〟味わいたいので、あまり目立たない控えめのもので――と言って、エステルはどうにか主役級ではないドレスに落ち着いた。
(着飾りすぎると、デートと勘違いされるわ)
今日は、アルツィオとリリーローズの初対面なのだ。
彼女の普段のドレスの傾向は調査済みで、彼女に緊張感をあまり覚えられないようなファッションを考えた。
そうしている間に昼、そして湯あみの時間を迎え、ドレスへと着替えた。
「お嬢様、本当に大丈夫でございますか?」
「ええ、友人になったアルツィオを案内してあげたくて」
あくまで、友人であるとはメイドには強調しておく。
久しぶりの舞踏会ではあるが、今回は友人と回るとは伝えてあったので家族とは会場で別れる予定だ。
母は、よき友人であることを信じてくれた。
「楽しめるといいわね」
玄関ホールで出発前に集合となった時、嬉しそうな顔を見せてくれた。
父の方は、今回の目的を知っているせいか『ちょっと訳が分からない』という困惑の表情だ。
「人助けですわ」
エステルは自信たっぷりに、こそっと改めて教えてあげたのだが、父は一層「うーん?」と悩んだ声をもらして、頭を大きく右に傾げていた。
兄の方も、今夜のエステルの出席には少々複雑と言った様子だ。
それはエステルが、まだアンドレアの婚約者という肩書きを持ったままであるせいだろう。
あれだけ騒ぎになったアンドレアは、いまだ何も動いていないのだという。
そんな彼も出席するので、心配もしていると兄は言った。
「会場は広いので、そうそう会うとは限らないが……」
「人気者ですのでお会いはできないかと」
本当なら出席はしたくない気持ちもあったので、足が委縮してしまう前に、エステルはさっとそう答えた。
「ところで伯爵令嬢は」
「今夜もご一緒されるようだ」
尋ねた瞬間、父があまり聞かせたくない様子ですぐにそう言ってきた。
――今夜〝も〟。
その言葉に、初めて友人と舞踏会に出席することへの新鮮な気持ちも沈んでいった。
「そう……」
彼女は、それ以上の情報を家族に求めなかった。
エステルが離れる前と変わらず、ユーニとの交流は続いているみたいだ。
(それなら早く答えをくださってもいいのに)
ユーニを選ぶ、と。そう示すように婚約を解消してくれれば――。
「だがなぁ、陛下が」
父が何事か言いかけたが、兄が止めた。
「陛下がいかがされたのですか?」
「いや、……この件は分からないことが多くてな」
殿下の返事待ちみたいなものではあると、父は迷うようにして言葉をしめた。
分からないというのは、アンドレアが、という意味だろう。
そもそも彼があの日に婚約の解消に動いていれば、人々もこんなには騒がなかっただろう。
まだ彼の婚約者のせいで、別荘に行っても尚エステルは注目された。
隣国の第三王子が何度もこの国に来ている真相や、二十一歳のアンドレアが今年こそは結婚を表明して世継ぎを残してくれるのかどうか――といったところも、不明瞭なことばかりで、あらゆる方向の意見が飛び交っている。
だから、噂の熱もこんなにも長く続いている状況だ。
雑誌社や新聞社は儲けていると、兄は皮肉か八つ当たりが分からないことを呟いていた。
そして夜の公爵邸から、エステル達をのせた馬車が出発した。
舞踏会が開かれている王宮は眩しい光を放ち、その灯かりの恩恵を受けた庭園は、早い時間のためどこもかしこも恋人や夫婦で歩く姿が目立った。
エステルは、そちらから目をそらしていた。
昔からずっとそうだった。
「エステル」
舞踏会の会場に入る前、兄が呼び留めた。
「お前がどれだけ殿下を想っていたのかは、この前聞いて知っている」
彼は入場していく貴族の雑踏に声をまぎれさせ、早口で言った。
「だから、第三王子殿下とは『いい友達』とお前が言うのなら、俺も信じる」
「お兄様……」
「相手も嫌な男でなければ、失恋したばかりの女性をくどこうとはしないはずだ」
そんな相手ではないんだろう?と兄の真剣な目が、尋ねてくる。
エステルは庭園の前を通過した時の、胸が痛いような表情を一変させて笑った。
「ええ、もちろんです。アルツィオは良心的なお方ですよ」
入場し、家族とは別行動となった。
家族は社交がある。エステルは噂の件もあるので、同行しない方がいいだろうという配慮もあった。
できるだけ人と目を合わさないよう進む。
だが、久しぶりに受ける大勢の貴族がいる独特の空気に、エステルの足は震えそうになる。
(アルツィオとの約束を守らなければ……)
ただ一つ、その目的を心で唱えて勇気に変えていく。
アルツィオがリリーローズと接触できる絶好の機会なので、エステルは久し振りに舞踏会へ出席した。
自由出席の場に来ることは滅多にない。
家族とも離れ、エスコートする相手もいない状況にますます緊張する。
すると、すーっと体力が奪われていくような感覚を覚えた。
(だめよ、落ち着いて。もう少しゆっくり歩くのよ)
とても少なくなってしまった魔力のせいで、体力の落ちは早い。
けれど、緊張と焦りでどんどん足は速くなる。
「おっと。そうそうにバテておしまいになられますよ」
その時、エステルの肩を優しく抱き留めた人がいた。
ふわり、と頬に感じた魔力の風に、彼女はハタと気づく。
「アルツィオ」
「今夜はありがとうございます」
見上げると、そこにいた彼はとてもにこにこしていた。
今日、ようやくリーローズと話しができる期待に胸を膨らませているのだろう。
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