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15章 深い森(5)

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 彼の腰に巻かれていたロープが、二人を頭上の出口へと引き上げ始めた。腕一本でよく支えられるなと、エルは、ガッシリと自分を支える彼の横顔を訝しげに見上げた。無駄に大きいから出来る芸当なのか……?

「どうせ、また迷子になってたんだろ」
「……真っ暗だったんだから、迷子もしょうがな――て、おいコラ。それ以上いうと、マジでぶっ飛ばすぞ」

 方向音痴なのはお前の方だ、自覚して認めろよ大人げないッ。

 エルが拳を固めて睨み上げると、ログが目を合わさぬまま「可愛くねぇな」と短い息をついた。まるで上から目線の物言いに、エルはカチンと来た。

「この際だからハッキリ言わせてもらうけど、お前の方がよっぽど方向音痴じゃん! もし一緒に迷子になったら、俺がいないとお前は迷子のままだからな――」

「だったら、お前が手を離さなきゃいいだろ」

 当然のように言い返され、エルは、ログを訝しげに睨み上げた。

 目が合ってすぐ、腕を掴まれて、太い胸板に押し付けられるように更に引き上げられた。大き過ぎる彼とは普段近づけない距離から、何を考えているのか分からない仏頂面の静かな眼差しで、真っ直ぐ見降ろされた。

「……俺が迷子になるって前提の設定は気にくわねぇが、つまり、お前が俺の手を離さなければ問題にならねぇ。お前からすると、俺は方向音痴なんだろう? じゃあ、お前は俺の手を離すな」
「でも」

 俺がずっと、こいつが迷子にならないよう手を引くって事か? いやいや、普通逆だろ。デカい大人なんだから、普通ならログが俺の手を引くとかそういう……

 そもそも、近いうちに別れなければならないのに、そんな事出来る訳がないだろうとは言えず、エルは言葉に詰まった。きっと例え話なのだと、ひとまず自分を落ち着けて少し考えてみる。

「もし、俺が迷子になったら……? 俺は、きっと、お前を巻き込めないよ」

 エルには、絶対に迷子にならない自信も、常に正しい道を進める自信もなかった。彼の手を離さず握り続けていたら、この先に待っている『使命』に、否応無しに引きずり込む事になるだろう。

 そんな事は、嫌だと思った。

 しかし、エルが言葉を言い終わらないうちに、ログが「んなの知るかよ」と顔を顰め、腰に回した腕に力を入れた。

「難しい事をぐだぐだと考えんな。お前が迷子になったら、一緒に出口でもなんでも探せばいいだけだろ」
「それ、二人揃って迷子とかいう構図では……?」
「迷子じゃねぇ、探索だ」

 いいか、とログは、エルに理解し難い理屈を押し通すように続けた。

「お前が勝手に一人で迷子になったら、俺が見付けてやるし、俺がその手を掴んだら、お前はいつもみたいに細かい事は考えず引っ張り回せばいい。二人で迷っちまったとしてもな、スウェンかセイジが、俺達を見付けてくれる」

 それって結局は、他力本願というやつでは……?

 エルはそう思ったが、促されるまま少しだけ考えてみた。へそ曲がりで口減らずな大きな子共――みたいな性格をしたログ――の手を引く自分を想像してみると、つい最近彼と迷子になった迷路が思い出された。

 あのログが、素直について来るとは到底思えない。絶対に何かしら文句を言うか、気付いたら主導権を奪い返して勝手に先導に立っている気がする。

 けれど、何だか、そんな未来が少しだけ可笑しくも思えた。

 迷子になるのは、きっとログの方だろう。エルが慌てて彼を追い掛けて、そうやって一緒に道を探している間に、セイジが真っ直ぐ二人を見付け、スウェンが何食わぬ顔で合流するのだ。ひょっこりホテルマンがやって来て、どうして私を探して下さらないのですかと、そう文句を言うかもしれない。

 そんな叶わない未来を想像して、楽しく感じてしまった自分にエルは苦笑した。

 ログが頭上を仰ぎ、思い出したように顔を歪めて「そういや」と愚痴った。

「あのホテル野郎は、全く使えねぇな。どうにかしろと俺が言った途端、『この木の壁ならあなたの能力で壊せます』とか何とか言いやがって、暴れ狂う木の根の反動を利用して、俺をぶっ飛ばしやがった」
「……じゃあ、このロープって」
「ホテル野郎の私物だ。あいつ、『私に力仕事は無理です』とか言って、ちゃっかりロープの端をセイジに渡したんだぜ? スウェンも『ログが適任だよね』って笑顔で俺を見送りやがった」

 なんとなく想像がつくような気がする。

 エルは抱きしめられたまま、「そっか」と答えて目を閉じた。触れているログの大きな胸からは、心臓の鼓動が頬と手に伝わって心地良くもあった。

 ああ、彼は生きているんだなと、エルは想いを噛みしめた。彼は生きていて、この世界の外に、身体が待っていてくれているのだ。

 この世界は、もうすぐで完全に閉ざされてしまうだろう。

 その前に、彼らを外の世界へ返さなければならない。エルには、この身と引き換えにやらなければならない事がある。――けれど、きっと彼らは大丈夫だろうとも思えるのだ。帰るべき身体が、彼らを引き寄せてくれるはずだから。

 エルが気がかりなのは、クロエの事だった。

 最期まで側にいて欲しいと彼女に言いながら、エルは結局、彼女を置いて、先に一人で逝こうとしているのだから。

              ※※※

 ログに引っ張られて外に出ると、そこには夜が広がっていた。

 巨木の根が、眠り落ちた竜のように大地を埋め尽くしていた。荒れ狂った後に、そのまま動きを止めてしまったような光景に、エルはしばし瞬きをして沈黙した。

 この世界が夜に呑まれたのは、ログが、エルの救出に向かう直前の事だったらしい。

 空はとっぷりと暮れ、星も見えない夜空が広がっていた。吹き抜ける冷気を含んだ風も、深夜のそれを思わせた。

「時間が逆転したのでしょう。完成された夢世界ほど、条件に縛られますから」

 一同の無事が確認された後で、説明してくれたホテルマンがそう言った。

「大きなエネルギーを必要とする『夢』は、一時的に稼働を止める事があります。『夢』そのものに強い力が宿っていようとも、その力の元である『夢人』と、器である『宿主』がいない事には、膨大なエルネギーは育たないのです」
「つまり、エネルギー不足だって事か。――今なら妨害無しで進めるという認識でいいのかい?」
「その通りですよ、『親切なお客様』」

 スウェンの問いに対し、ホテルマンは、胡散臭い顔でニッコリと笑った。

 エルが木の中に閉じ込められていた間、外に残されたメンバーは、相当な体力を消耗されたようだった。衣服の一部は擦り切れ、ホテルマンの整えられた髪もやや乱れていた。ホテルマンはもっぱら、シャツに皺が入ってしまった事を残念がっており、疲弊はしていないようだが……

 騒動の最中、ホテルマンはクロエを腕に抱えて逃げ回っていたらしい。彼は、エルにそう語った。

 しかし、スウェン達の沈黙と疲弊振りを見る限り、この男はログが言っていたように、特に役に立たなかっただろう事が見て取れた。エルが真相を求めても、スウェンは溜息をこぼすばかりで、しばらくの間はホテルマンに目も向けなかった。セイジも珍しく黙りこみ、疲労の浮かぶ顔で遠くを見つめていた。

 スウェンは騒動の際に、携帯していた探査機や地図を失ってしまっていた。一同が腰を休めている間、彼は足元に横たわる木々の根の間を覗きこみ、辺りを見渡し、大きく肩を落とした。

「まぁいいか。『夢人』とかいうの少年ほど使えないにしても、ホテルの彼が、道案内代わりにはなるだろうからね……」

 スウェンの言葉を、ホテルマンは否定しなかった。ホテルマンは、何となく気が抜けたような、作り物の顔で面倒そうに「そうですねぇ、まぁ、確かに分かりますけれど、はい」とぼやいた。

 少しの休憩を挟んだ後、一同はホテルマンの後について歩き出した。

 車ほど大きな巨木の根や幹を踏み越え、エル達は森の終わりを目指した。

 スウェンに答えた後、やる気が萎えたホテルマンの後ろ姿に、ログが苛立ちとストレスをぶつけると、彼は珍妙な表情でこちらを振り返り、その原因について告げた。

「だって、疲れてしまったのです。仕方がないのです」

 ホテルマンは、唇に指を当てる仕草をした。その様子を見たスウェンが、悪寒と鳥肌が止まらない様子で「可愛くない全然可愛くないッ」と身震いし、ログが「このタイミングでやられると、マジで殺したくなるな」と殺気立った。

 ホテルマンがしっかり守っていてくれた事もあり、無傷だったクロエは、エルと再会出来てからというもの、エルの腕に抱かれたまま飽きずに顔をすり寄せていた。エルがすっかり毛だらけになった頃、ようやく納得したようにボストンバッグに戻った。

 歩き通す両足には、時間の経過と共に疲労が蓄積した。夜風は冷えるとはいえ、肌の上には汗が滲む。

 夜が終わってしまう前に森を抜けなければならない、という意識もあって、休まず歩き続ける中で、次第に交わされる言葉数が減った。ホテルマンは度々、全員が後ろをついて来ているか確認したが、珍しく声も掛けなかった。

 木々の向こうから、僅かな光りが差しこむ場所が目に止まり、森の終わりが見えた。

 もう陽が昇るのだろうか。この世界の夜が終わってしまったら、生物を食う木々も活動を再開してしまう。そんな思いで自然と気持ちが急かされ、エルの前進する足にも、知らず力が入った。

 木々の向こうが、白い――

 エルは力を振り絞り、最後の大きな木の根を踏み越えた。
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