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15章 深い森(1)

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 無事に高所からの着地に成功した先に広がっていたのは、巨大な樹林だった。

 足場には、苔のはえた大石が不揃いに積み上げられており、太い樹木の根が絡みついていた。上空からの光りは、背丈のある木々の葉に遮られ、僅かな光りが筋となって降り注いでいるばかりだ。

 常に水の流れる音が聞こえており、水気を含んだ地面は足場が悪かった。岩の隙間に空いた窪みには水がたまり、どこかに水源地や、その流れがあるのだろうと思われた。

 こちらからは、山の反対側の海岸で蠢く巨人の様子が確認出来ないでいた。時折、思い出したように地響きが足元を伝わってくるが、ひとたび収まれば辺りには静寂が満ちた。

 ホテルマンは、セキュリティーの一部となった『番人』の感知圏内から、出来るだけ離れる事を助言した。距離が開けば『排除命令』外だと悟り、スウェンは休まず先を急いだ。

 足元に気を付けながら、一同はスウェンの後に続いて先を進んでいた。森に漂う空気は、湿気を含んでひんやりと肌にまとわりつき、暫くもしないうちに全身が汗と湿気で濡れ、体力は確実に消耗した。

 樹林の高さがありすぎて、空は木の葉に隠れてしまっていたが、スウェンは探査機のモニターを確認しながら向かう先を正確に捉え、力強い足取りで皆の前を進んだ。その背中を真っ直ぐ見つめて、セイジが一歩一歩軽快に足を進め、ログは不機嫌この上ない顔で足場を踏み付けて前進する。

 ホテルマンは、一見すると滑りやすそうな革靴にも関わらず、ズボンのポケットに手を突っ込み、軽やかな足取りで皆の後を追っていた。エルは、ボストンバッグを引き寄せ、足を滑らせないよう必死に歩みを進めていた。

「小さなお客様、大丈夫ですか? 尋常じゃない疲弊っぷりですが」
「気のせいだよ。俺は大丈夫だってば、――だから声掛をけるな」
「ふむふむ、余裕がない感じが致しますねぇ」
「足の長さとか関係ないからな」

 エルがすかさず言い返すと、ホテルマンはやや拍子抜けしたように「誰もコンプレックスは指摘していないのです……」と頬をかいた。

「そちらの『愛想のない大きなお客様』からも、何かおっしゃってあげて下さい。小さなお客様を、私がおんぶすればいいと思うのですよ」
「黙れ、俺に話しかけるな、殺すぞ」

 ログは一瞥すらくれず、淡々と脅迫の言葉を返した。

 先程、ログはあの建物から飛び降りた際に、エルを担いでいたのだが、地面に降ろした途端に反撃を喰らって機嫌が悪かった。彼はあの時、咄嗟に右腕でエルの蹴りを防いだものの、その直後に彼女の柔軟な身体で繰り出された逆の足からの膝突きを、胸に食らってしまったのだ。

 後方にいるログの、不機嫌極まりない様子を盗み見たスウェンが、セイジに耳打ちした。

「ログったら、防衛しきれなかった事がそんなにショックだったのかな?」
「さぁ……。私達の部隊にも、あそこまで体術に長けた兵士がいなかったせいだろうか?」

 言われて思い至り、スウェンは「なるほど」と肯いた。

「普段のログは、向かってくる人間を片っ端から叩き伏せていただけに、プライドが傷ついちゃったのかなぁ。でも他の部隊にはいたけどねぇ、エル君と同じぐらいの使い手とか……僕らもそろそろいい歳だし、ログも少しは、自分にそう言い訳できるようになって欲しいよね」

 当時は最年少部隊だった全員が、今では三十代中盤になった現実を思い、スウェンは「やれやれ」と溜息を吐いた。

 しばらく森の中を歩き通したが、樹林の出口は見えて来なかった。ボストンバッグで眠っていたクロエが目を覚まし、ボストンバッグから降りて、エルの位置を確認しながら森の中を探索し始めた。
同じように暇を持て余したホテルマンが、その辺で拾った枝を振り回しながら、調子外れの鼻歌を口にした。

 どれぐらい急ぎ歩いただろうか。

 足に伝わる地響きが遠くなり、一同の足に限界が来た頃合いで、ひとまず小休憩を取る事にし、それぞれが大地に横たわる巨大な根に腰を下ろした。

 深い森は、太古の昔から生存しているように全ての木々が巨大だ。車一台がすっぽりと入ってしまいそうなほど大きな幹を持っており、触れてみると、冷たくて心地良かった。

 エルは、ふと好奇心を覚えて幹に耳を当て、木の中から水の流れる音がする事に気付いた。

「水の音がするよ、ここ」

 すると、スウェンも木の幹に耳を押し当て、「ああ、なるほど」と彼は呟いた。

「飲み水を蓄えてくれる木もあるから、その一種じゃないかな」

 足の疲労が軽減されるのを待ちながら、クッキー型の非常食で糖分を補った。

 明るい橙色の輝きが、木々の茂みの向こうに見え隠れしていた。頭上を仰いでいる間に、微かな地響きがエルの足元を伝っていった。

 生物の気配は不思議となかった。虫も、鳥も、存在していないようだ。木々の根の下に覗く湿った地面を少し掘り返してみたが、見慣れた虫の姿一匹すら探す事が出来なかった。

 クロエの背中を撫でていたホテルマンが、ふと腰を上げた。

「嫌な気配がしますね」

 そう言って、ホテルマンは遠くを見やった。

「親切なお客様、森の配置が少し変わっているように思えませんか?」

 促されたスウェンが、同じように辺りを見渡した。彼は立ち上がりながら、前方に目を凝らした。

「……木々が入り乱れてはいるけれど……ん? さっきと少し、違うようにも感じるな」

 首の後ろを刺すような視線を感じて、エルは、不意に寒気を覚えて立ち上がった。森に漂う静寂の違和感に、ログやセイジも気付いて腰を上げる。

 その時、一つの小さな囀りが上空からした。

 エルは、ホテルマンの視線につられて空を仰いだ。木々の葉の向こうに、上空を旋回する鳥が見えた。

 森に入ってから初めて見る生き物だ。その鳥は身体が黄色く、波打つ美しい銀色の長い尾を持っていた。鳥は上空を優雅に舞った後、木々の茂みに羽を休ませようと翼を半ば折り畳み始めたが、――枝先が目にもとまらぬ速さで動き、鳥を攫って行った。

 再び訪れた沈黙の中、抜けた数枚の羽が、はらはらと森の中へ落ちて来た。

 深い森の中に生物がいない理由が、なんとなく分かったような気がした。舞い落ちてくる羽を、ホテルマン以外の一同がしばし呆けた顔で見守りつつ、一つの推測が脳裏で立てられた。

 この森は生きており、生物を喰らうのだろう、と。

 その時、ホテルマンが別の方へ目を向け、作り物のような顔を僅かに緊張で曇らせた


「ああ、これはまずい。『彼女』の干渉を受けます」


 呟かれた声と同時に、足元が激しく揺れ始めた。

 木々がざわめいて葉がこぼれ落ち、静寂を打ち破る轟音がエル達の鼓膜を叩いた。地面に横たわっていた巨木の根が、一斉に大地を離れて大蛇のように持ち上がり、大小様々な岩が木々の根や幹に弾かれ、柔らかい地面が不規則に崩れ始めた。

 前触れもなく始まったのは、木々の大移動だった。

 足場は非常に不安定となり、巨大な根と土埃を舞い上げる岩の波に押し潰されないよう避けるのに精一杯で、次から次へと足場を移動するように跳躍している間に、エルはスウェン達から離されていた。
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