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12章 最後のセキュリテイー・エリア(1)
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不自然に砂浜に立つ緑の扉は、後ろに回ると、ただの壊れた扉に見えた。鼠の顔を象ったドアノブが一つあるが、建築材料の一つである板きれ一枚の扉が、どのような仕組みで砂浜に直立しているのか不思議でならない。
半信半疑、渋りつつスウェンが扉のドアノブを引いてみると、扉の枠の向こうには、光りの洪水が渦を成して待ち構えていた。
スウェンが持っていた小型探査機も、確かにここが、仮想空間同士の接合点である事を示していた。
扉の幅は、大人二人分ほどだった。少年が作ったらしいその出口を、スウェンは、何故だか気乗りしない顔でしばらく眺めていた。
「……僕が推測するに、嫌な予感しかしないんだよねぇ。出来るだけ同時に突入しよう」
しばらく逡巡したものの、スウェンが諦めたようにそう告げた。
まずスウェンとログが扉へと踏み込み、その直後に、エルとセイジが光りの渦へと足を踏み入れた。
途端に視界いっぱいに緑や黄色、赤やブルーといった光りが眩しく瞬いた。光りの洪水は強烈な風を伴って、前へと進める足を絡め取ろうとする。あまりの眩さに酔いそうになりながら、エルは吹き飛ばされそうになる身体を両足で支え、一歩一歩確実に先へと進んだ。
数分も掛からずに、前触れもなく視界が開けた。
同時に、覚えのある浮遊感に襲われ、エルの思考は停止した。
大気が薄く、水で溶かしたような青い空が眼前には広がっていた。伸ばし削がれたような雲が大空に描かれている。束の間、エルは全く関係のない感慨深さを覚えた。とても広大で美しい空だ……
けれど、その数秒の浮遊感の間に、今自分が置かれている状況を正確に把握し、すぐにエルの表情は強張った。
足場のない大空に放り出されている事実に、半ばパニックになりかけたところで、エルは、同じように大空へと放り出された男達と目が合った。スウェンの爽やかな顔も見事に引き攣っており、セイジは半ば放心状態だ。
エルは、ボストンバックに潜り込むクロエに気付き、慌ててバッグのチャックを締めて胸に抱いた。スウェンが、咄嗟に近くにいたセイジの手を掴んだ。
ログの顔が険悪さを増した時、唐突に四人の落下が始まった。
「あの野郎、また空かよ! わざとじゃねぇのか!」
「そ、そそそんな事言っている場合じゃないでしょ! どうすんのさ!?」
耳元を切る激しい風の音が、お互いの声をかき消してよく聞こえない。セイジがエルに向かって何か叫んだが、距離が離れている為に聞き取る事が出来なかった。
眼下を見降ろしたスウェンが、一同に向かって一際大きな声で叫んだ。
「落ち着くんだッ、そこまでの標高はない! 下のプールに身体が入るよう調整するんだ! 恐らく十三秒後には着水するぞ!」
エルは、恐怖に押し潰されそうになりながら、眼下の様子を確認した。
地上には、扇形の敷地をしたリゾートホテルらしき建築物が佇んでおり、建物の湾曲した内側を彩るように、美しい造りをした巨大なプールが設置されているのが見えた。
ああ、もう駄目かもしれない。
エルはそう思いながら視線を水平に戻し、――一瞬、呼吸すら忘れて目の前に広がる世界の光景に見入ってしまった。
神々しい山々と川が連なる広大な大地と、緑の山中に聳え立つ荘厳な礼拝堂の美しさに目を奪われた。ほとんどの土地には、生命力溢れる高い木々が生い茂り、美しいばかりの異世界が、そこには広がっていたのである。
山の傾斜に密集する、古びた小さな集落。木々が途絶えた丘には雑草の群生があり、山の麓を横切る川や海岸沿いに広がる眼下の街並みも、望郷を垣間見たように胸を詰まらせるほど美しかった。
緑の山々の向こうには果てがなく、世界は、どこまでも続いていた。
空気はひんやりと頬を打ち、肺に取り込まれるたび新鮮な美味さを覚えた。世界は驚くほど多彩な色彩に溢れていて、エルは昔オジサンと見た映画の、一昔前の西洋の街並みや中東の部落村が、まるで完成された絵画のように配置されているような印象を覚えた。
「着水するぞ!」
野太い怒声が鼓膜を叩き、エルは我に返った。しかし、気付いた時にはプールが眼前に迫っており、受け身もままならず水面に叩きつけられた。
エルは、どうにかボストンバッグは抱え込めたものの、水面に打ちつけた全身が鞭で打たれたように痛み、空気を含んだボストンバッグが思わず手から離れた。水は容赦なくエルの全身を飲み込み、彼女の身体は、上空からの落下の衝撃で、プールの底まで沈んだ。
耳にまで水が浸入し、その冷たさに思わず息を吐き出しそうになった。
とにかく水を飲んでしまわないよう、エルは口と鼻を塞ぎながら、辺りの状況を確認するよう目を走らせた。深さ二メートルの頭上を、女性と子共の白い素足が、水をかきながら通り過ぎてゆくのが見えた。
空気が入ったままのボストンバッグが、浮力で上へと引き寄せられていることに気付いて、エルは咄嗟に、自分の身体に絡みついていたボストンバッグの掴み手を離した。とにかく、クロエを先に、空気がある場所へ持って行かなければならないと思ったのだ。
リゾートホテルの客は、空からの珍客に気付きもせず、プールを楽しんでいるようだった。少し離れたプールの縁側辺りから、先に辿り着いたらしいセイジの足が見えて、水面に浮かび上がったボストンバッグを、彼が引き上げてくれたのも見えた。
クロエの無事を安堵した後、エルは不意に、どうやって泳げばいいのか全くわからない事に気付いた。
思えば、水の中に入ったのは初めての事だった。足を精一杯動かしてみるが、頭に酸素が回らないせいか、いつまで経っても水中から身動きが取れないような錯覚を覚えて、焦りが冷制な判断力を奪った。
酸素が口からこぼれ、目がぐるぐると回り始めた。
クロエは、ちゃんと無事だっただろうか? セイジさんが回収してくれているから、大丈夫なはずだろう。
ここはかなり深いプールだが、ログとスウェンは大丈――……考えたら、あいつらやたら身体がでかいから、きっと問題ないのだろうな。
エルが場違いな事を考えた時、水中に飛び込む人影があった。
大きな手が乱暴にエルの腕を掴み、強い力で一気に水面へと引き上げた。顔が水上に出ると身体が酸素を求め、エルは、早々に何度も大きな呼吸を繰り返した。
片方の手でエルの腕を掴んでいたログが、濡れた髪を大雑把にかき上げながら「お前はッ」と怒鳴った。
「馬鹿野郎! 泳げねぇんならそう言え! てめぇはいつまでも上がって来ねぇし、飛び込む前にテーブルを蹴り飛ばしちまうし、とにかく無駄に体力を使っちまっただろうがッ」
息が吸えるようになった途端、近くから罵詈雑言を浴びせられ、エルは喉に入ってしまった水を吐き出しながらログを睨み上げた。こちらが沈まないよう、腕を腰に回して支えてくれるのは有り難いが、その台詞は完全に選択を間違えていると思った。
というか、テーブルにぶつかったのは俺のせいじゃなくね?
それはログ自身の注意が足りないせいであって、何故そこで自分の名前が出てくるのだろうか、とエルは顔を顰めた。
半信半疑、渋りつつスウェンが扉のドアノブを引いてみると、扉の枠の向こうには、光りの洪水が渦を成して待ち構えていた。
スウェンが持っていた小型探査機も、確かにここが、仮想空間同士の接合点である事を示していた。
扉の幅は、大人二人分ほどだった。少年が作ったらしいその出口を、スウェンは、何故だか気乗りしない顔でしばらく眺めていた。
「……僕が推測するに、嫌な予感しかしないんだよねぇ。出来るだけ同時に突入しよう」
しばらく逡巡したものの、スウェンが諦めたようにそう告げた。
まずスウェンとログが扉へと踏み込み、その直後に、エルとセイジが光りの渦へと足を踏み入れた。
途端に視界いっぱいに緑や黄色、赤やブルーといった光りが眩しく瞬いた。光りの洪水は強烈な風を伴って、前へと進める足を絡め取ろうとする。あまりの眩さに酔いそうになりながら、エルは吹き飛ばされそうになる身体を両足で支え、一歩一歩確実に先へと進んだ。
数分も掛からずに、前触れもなく視界が開けた。
同時に、覚えのある浮遊感に襲われ、エルの思考は停止した。
大気が薄く、水で溶かしたような青い空が眼前には広がっていた。伸ばし削がれたような雲が大空に描かれている。束の間、エルは全く関係のない感慨深さを覚えた。とても広大で美しい空だ……
けれど、その数秒の浮遊感の間に、今自分が置かれている状況を正確に把握し、すぐにエルの表情は強張った。
足場のない大空に放り出されている事実に、半ばパニックになりかけたところで、エルは、同じように大空へと放り出された男達と目が合った。スウェンの爽やかな顔も見事に引き攣っており、セイジは半ば放心状態だ。
エルは、ボストンバックに潜り込むクロエに気付き、慌ててバッグのチャックを締めて胸に抱いた。スウェンが、咄嗟に近くにいたセイジの手を掴んだ。
ログの顔が険悪さを増した時、唐突に四人の落下が始まった。
「あの野郎、また空かよ! わざとじゃねぇのか!」
「そ、そそそんな事言っている場合じゃないでしょ! どうすんのさ!?」
耳元を切る激しい風の音が、お互いの声をかき消してよく聞こえない。セイジがエルに向かって何か叫んだが、距離が離れている為に聞き取る事が出来なかった。
眼下を見降ろしたスウェンが、一同に向かって一際大きな声で叫んだ。
「落ち着くんだッ、そこまでの標高はない! 下のプールに身体が入るよう調整するんだ! 恐らく十三秒後には着水するぞ!」
エルは、恐怖に押し潰されそうになりながら、眼下の様子を確認した。
地上には、扇形の敷地をしたリゾートホテルらしき建築物が佇んでおり、建物の湾曲した内側を彩るように、美しい造りをした巨大なプールが設置されているのが見えた。
ああ、もう駄目かもしれない。
エルはそう思いながら視線を水平に戻し、――一瞬、呼吸すら忘れて目の前に広がる世界の光景に見入ってしまった。
神々しい山々と川が連なる広大な大地と、緑の山中に聳え立つ荘厳な礼拝堂の美しさに目を奪われた。ほとんどの土地には、生命力溢れる高い木々が生い茂り、美しいばかりの異世界が、そこには広がっていたのである。
山の傾斜に密集する、古びた小さな集落。木々が途絶えた丘には雑草の群生があり、山の麓を横切る川や海岸沿いに広がる眼下の街並みも、望郷を垣間見たように胸を詰まらせるほど美しかった。
緑の山々の向こうには果てがなく、世界は、どこまでも続いていた。
空気はひんやりと頬を打ち、肺に取り込まれるたび新鮮な美味さを覚えた。世界は驚くほど多彩な色彩に溢れていて、エルは昔オジサンと見た映画の、一昔前の西洋の街並みや中東の部落村が、まるで完成された絵画のように配置されているような印象を覚えた。
「着水するぞ!」
野太い怒声が鼓膜を叩き、エルは我に返った。しかし、気付いた時にはプールが眼前に迫っており、受け身もままならず水面に叩きつけられた。
エルは、どうにかボストンバッグは抱え込めたものの、水面に打ちつけた全身が鞭で打たれたように痛み、空気を含んだボストンバッグが思わず手から離れた。水は容赦なくエルの全身を飲み込み、彼女の身体は、上空からの落下の衝撃で、プールの底まで沈んだ。
耳にまで水が浸入し、その冷たさに思わず息を吐き出しそうになった。
とにかく水を飲んでしまわないよう、エルは口と鼻を塞ぎながら、辺りの状況を確認するよう目を走らせた。深さ二メートルの頭上を、女性と子共の白い素足が、水をかきながら通り過ぎてゆくのが見えた。
空気が入ったままのボストンバッグが、浮力で上へと引き寄せられていることに気付いて、エルは咄嗟に、自分の身体に絡みついていたボストンバッグの掴み手を離した。とにかく、クロエを先に、空気がある場所へ持って行かなければならないと思ったのだ。
リゾートホテルの客は、空からの珍客に気付きもせず、プールを楽しんでいるようだった。少し離れたプールの縁側辺りから、先に辿り着いたらしいセイジの足が見えて、水面に浮かび上がったボストンバッグを、彼が引き上げてくれたのも見えた。
クロエの無事を安堵した後、エルは不意に、どうやって泳げばいいのか全くわからない事に気付いた。
思えば、水の中に入ったのは初めての事だった。足を精一杯動かしてみるが、頭に酸素が回らないせいか、いつまで経っても水中から身動きが取れないような錯覚を覚えて、焦りが冷制な判断力を奪った。
酸素が口からこぼれ、目がぐるぐると回り始めた。
クロエは、ちゃんと無事だっただろうか? セイジさんが回収してくれているから、大丈夫なはずだろう。
ここはかなり深いプールだが、ログとスウェンは大丈――……考えたら、あいつらやたら身体がでかいから、きっと問題ないのだろうな。
エルが場違いな事を考えた時、水中に飛び込む人影があった。
大きな手が乱暴にエルの腕を掴み、強い力で一気に水面へと引き上げた。顔が水上に出ると身体が酸素を求め、エルは、早々に何度も大きな呼吸を繰り返した。
片方の手でエルの腕を掴んでいたログが、濡れた髪を大雑把にかき上げながら「お前はッ」と怒鳴った。
「馬鹿野郎! 泳げねぇんならそう言え! てめぇはいつまでも上がって来ねぇし、飛び込む前にテーブルを蹴り飛ばしちまうし、とにかく無駄に体力を使っちまっただろうがッ」
息が吸えるようになった途端、近くから罵詈雑言を浴びせられ、エルは喉に入ってしまった水を吐き出しながらログを睨み上げた。こちらが沈まないよう、腕を腰に回して支えてくれるのは有り難いが、その台詞は完全に選択を間違えていると思った。
というか、テーブルにぶつかったのは俺のせいじゃなくね?
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