上 下
81 / 159

11章 悪夢と闇とナイトメア(2)

しおりを挟む
 足元には、薄い霧のような靄がかかっている。手で触れるように払ってみると、全く温度も手触りも感じなかった。そういえば、先程から室内が妙に薄暗いが外はまだ日中のはず、とハイソンは訝しんだ。

 その時、再び女の子の笑い声のようなものが、ハイソンの耳に障った。

 先程よりも近く、はっきりと耳に飛び込んで来た声の発生源に気付いて、ハイソンとクロシマは、一つの部屋を同時に素早く振り返っていた。得体の知れない気配の蠢きが、本能を直撃してもいた。

 その部屋は、元は別の研究室として使われていたが、現在は休憩室として利用されていた。プライベートでの使用が許されているパソコンと、専用のキッチンが設置されており、時間潰しの漫画や雑誌、トランプやチェスといったゲームの私物も持ち込まれて、唯一喫煙が許されている部屋でもあった。

「……なんで慌てて振り返ったんだ、クロシマ」
「……いやいやいや、ハイソンさんこそ」

 二人は視線を交わしながら、誰が合図した訳でもなく、そろりそろりと扉へ顔を近づけた。

 ハイソンとクロシマは、恐る恐る扉に手を掛けて、音を立てぬよう心掛けて覗ける隙間を確保する為に少しだけ扉を開いた。

 息を殺して室内を覗き込んだ途端、ひどい冷気が二人の頬に触れた。

 開かれた細い隙間から見える位置には、簡易ベンチにだらしなく腰を下ろしている赤毛の中年男の姿があった。室内には、湿った土壌を掘り返したような、嫌な匂いが立ち込めていた。

 簡易ベンチに腰かけていたのは、ハイソンの同僚が助手として連れて来た、エスターとかいうサーフィンが趣味の男だった。

 フライトが身体に堪えたようで、到着早々、少佐の前で吐いた強者でもある。波は平気だが上空が駄目なのだと、そう手短に紹介された内容が印象的だった。エスターは飛行機酔いの為に、たびたび部屋を抜けていたので、二人はプライベートな言葉は交わしていない。

 とはいえ、褐色に焼けた引き締まった肌は、色白の所員達の中でも一番に目立っていたから、ハイソンもクロシマも彼の事は覚えていた。

 投げ出した自身の足を見降ろすエスターの目は、かろうじてまだ開いていた。

 ハイソンはそれに気付き、「エスター」と声を掛けた。しかし、自分でも驚くほど頼りない掠れ声が出て、不安と緊張で喉がうまく開かないのだと自覚した。

 空調の稼働音しかない室内であった為か、虫の息のようなハイソンの声でも、エスターの耳には届いたようだった。彼は、おもむろにハイソンとクロシマの方へ視線を向けた。

 目尻に皺を刻んだエスターの眉間に、僅かに力が戻った。彼は身体を動かせないようで、何度か僅かに唇を震わせた後、ようやく絞り出すようにこう言った。

「……ここから……離れろ…………奴らは俺の、意識が飛ぶのを、待っている……今のうちに、逃げるんだ」

 ハイソンは戸を開く手に力を込めたが、それをクロシマが同じ力で防いだ。

 クロシマは血の気が引いた顔で、反論しかけたハイソンに、余裕のない目で黙るよう牽制した。

 その時、見えない室内の奥で何者かが動く気配を感じ、二人は息を殺した。クロシマの手が硬直したタイミングで、恐れに反してハイソンの手が戸を少しだけ押し開けてしまう。

 部屋の奥まで確認出来るようになった扉の隙間に、二人は、知らず怖い物見たさで顔を覗き入れてしまっていた。

 部屋の奥には、倒れている影が二つあった。四方に影すら出来ないはずの電気設備が整った室内で、エスターのいる場所以外は、暗い影を落としていた。

 まるで夕暮れが訪れた、灯りのない廃墟を思い起こさせるような視界の悪さだった。倒れた二人の人間の上に覆いかぶさるように、揺らめく気配があり、ハイソンは思わず、眼鏡を中指で押し上げて目を凝らした。

 そこには、半透明の大きな獣が三匹、身体の輪郭を炎のように揺らめかせて佇んでいた。

 はっきりとした体格は視認出来ないが、ひどく汚らしい、大きな顔をした獣だとは見て取れた。眼球があるはずの窪みには、半透明の泥色の球体が押し込められ、耳元まで裂け広がった口には、収まらない無数の歯が伸び放題になって、口の外まで飛び出している。

 エスターが身体を震わせながら、一度だけ、牛ほども大きさのある獣へと目を向けた。それから、ハイソンとクロシマへ視線を戻し、頬を引き攣らせながら、僅かに口角を引き上げた。

「……済まない。俺はもう、駄目だ…………眠って、しまう……」

 ハイソンが声を上げる間もなく、エスターの首が、がくんと落ちた。

 瞬間、半透明の獣が彼に襲いかかった。

 獣は意識のないエスターに飛びかかると、その大きな口を開いて、エスターを丸ごと飲み込んだ。半透明なぶよぶよとした化け物の身体は、エスターに飛び付いた勢いで、顔と胴体が分からなくなるほど潰れてしまい、彼の身体が透明な膜の中で歪むのが見えた。

 獣は、何かしらの液体で出来た身体をしているのか、不思議な事に、飲み込まれたエスターの身体に外傷は発生しなかった。しかし、飲みこまれて数秒も経たずに、エスターの身体が激しく震えたかと思うと、彼の口から白い靄のようなものが吐き出され、そのまま化け物の半透明な身体に滲んで、混ざり合っていった。

 すっかり顔も首も分からなくなった半透明の塊の傍にいた、別の二頭の化け物が、細く開かれた戸に気付いて顔を上げた。

 真っ直ぐこちらに向けられた、泥のような目と視線がカチリと噛み合った。獣の荒い息使いが、水の中から発生られるような響きで空気を鈍く震わせている。

 一瞬後、二人は危険を察知し無我夢中で走り出していた。

 背後で扉が吹き飛び、泥水のような半透明の身体を持った二頭の獣が、その後を追い駆けて来た。

「き、来たぁぁぁあああ!」
「ハイソン! いいから前だけを見て走るんだ!」
「そ、そそそんな事言われたって、俺は走るとか全然無理なんだよッ」
「あれに喰われるよりマシだろう! とにかくラボまでッ、死ぬ気で走れ!」

 先輩兼上司に対する敬語もすっ飛ばし、クロシマは、ハイソンに激を飛ばした。

 二人の背後で、一頭の獣が身体の重心を低く身構えた。クロシマがそれに気付き、ハイソンの腕を掴んで、素早く引き寄せた。

 進行方向からやや左にそれた二人の脇に、跳躍して来た獣が頭から突っ込んだ。

 勢いよく飛び込んで来た化け物は、ミサイルの如く一直線に廊下の壁に頭を打ち付けると、柔らかい安定感のない半透明の身体の半分を重力に押し潰され、壁にべしゃりと張り付いた。

「……うげぇ、まるでアメーバのようっすねぇ」

 ハイソンの腕を掴んで走り出しつつ、クロシマが、後方を確認してそう感想した。

「んな呑気な事言ってる場合かッ!」
「いやぁ、食欲を失うような光景だなぁ、と思ったまででして」

 そう言い掛けたクロシマの顔が、不意に強張った。

 クロシマはハイソンの腕を掴んだまま、突然両足に急ブレーキを掛け「スト――――――ップ!」と腹の底から叫んだ。

 一喝する声に、ハイソンは思わず、反射的に両足を揃えて「はい!」と踏ん張ってしまった。腕を引かれるがまま頭を下げると、その頭上を巨大な何かが、二人の髪を僅かに掠りながら通り過ぎていった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

ボロ雑巾な伯爵夫人、やっと『家族』を手に入れました。~旦那様から棄てられて、ギブ&テイクでハートフルな共同生活を始めます2~

野菜ばたけ@既刊5冊📚好評発売中!
ファンタジー
 第二夫人に最愛の旦那様も息子も奪われ、挙句の果てに家から追い出された伯爵夫人・フィーリアは、なけなしの餞別だけを持って大雨の中を歩き続けていたところ、とある男の子たちに出会う。  言葉汚く直情的で、だけど決してフィーリアを無視したりはしない、ディーダ。  喋り方こそ柔らかいが、その実どこか冷めた毒舌家である、ノイン。    12、3歳ほどに見える彼らとひょんな事から共同生活を始めた彼女は、人々の優しさに触れて少しずつ自身の居場所を確立していく。 ==== ●本作は「ボロ雑巾な伯爵夫人、旦那様から棄てられて、ギブ&テイクでハートフルな共同生活を始めます。」からの続き作品です。  前作では、二人との出会い~同居を描いています。  順番に読んでくださる方は、目次下にリンクを張っておりますので、そちらからお入りください。  ※アプリで閲覧くださっている方は、タイトルで検索いただけますと表示されます。

大好きな母と縁を切りました。

むう子
ファンタジー
7歳までは家族円満愛情たっぷりの幸せな家庭で育ったナーシャ。 領地争いで父が戦死。 それを聞いたお母様は寝込み支えてくれたカルノス・シャンドラに親子共々心を開き再婚。 けれど妹が生まれて義父からの虐待を受けることに。 毎日母を想い部屋に閉じこもるナーシャに2年後の政略結婚が決定した。 けれどこの婚約はとても酷いものだった。 そんな時、ナーシャの生まれる前に亡くなった父方のおばあさまと契約していた精霊と出会う。 そこで今までずっと近くに居てくれたメイドの裏切りを知り……

【完結】クビだと言われ、実家に帰らないといけないの?と思っていたけれどどうにかなりそうです。

まりぃべる
ファンタジー
「お前はクビだ!今すぐ出て行け!!」 そう、第二王子に言われました。 そんな…せっかく王宮の侍女の仕事にありつけたのに…! でも王宮の庭園で、出会った人に連れてこられた先で、どうにかなりそうです!? ☆★☆★ 全33話です。出来上がってますので、随時更新していきます。 読んでいただけると嬉しいです。

【完結】私だけが知らない

綾雅(りょうが)祝!コミカライズ
ファンタジー
目が覚めたら何も覚えていなかった。父と兄を名乗る二人は泣きながら謝る。痩せ細った体、痣が残る肌、誰もが過保護に私を気遣う。けれど、誰もが何が起きたのかを語らなかった。 優しい家族、ぬるま湯のような生活、穏やかに過ぎていく日常……その陰で、人々は己の犯した罪を隠しつつ微笑む。私を守るため、そう言いながら真実から遠ざけた。 やがて、すべてを知った私は――ひとつの決断をする。 記憶喪失から始まる物語。冤罪で殺されかけた私は蘇り、陥れようとした者は断罪される。優しい嘘に隠された真実が徐々に明らかになっていく。 【同時掲載】 小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ 2023/12/20……小説家になろう 日間、ファンタジー 27位 2023/12/19……番外編完結 2023/12/11……本編完結(番外編、12/12) 2023/08/27……エブリスタ ファンタジートレンド 1位 2023/08/26……カテゴリー変更「恋愛」⇒「ファンタジー」 2023/08/25……アルファポリス HOT女性向け 13位 2023/08/22……小説家になろう 異世界恋愛、日間 22位 2023/08/21……カクヨム 恋愛週間 17位 2023/08/16……カクヨム 恋愛日間 12位 2023/08/14……連載開始

寵愛のいる旦那様との結婚生活が終わる。もし、次があるのなら緩やかに、優しい人と恋がしたい。

にのまえ
恋愛
リルガルド国。公爵令嬢リイーヤ・ロイアルは令嬢ながら、剣に明け暮れていた。 父に頼まれて参加をした王女のデビュタントの舞踏会で、伯爵家コール・デトロイトと知り合い恋に落ちる。 恋に浮かれて、剣を捨た。 コールと結婚をして初夜を迎えた。 リイーヤはナイトドレスを身に付け、鼓動を高鳴らせて旦那様を待っていた。しかし寝室に訪れた旦那から出た言葉は「私は君を抱くことはない」「私には心から愛する人がいる」だった。 ショックを受けて、旦那には愛してもられないと知る。しかし離縁したくてもリルガルド国では離縁は許されない。しかしリイーヤは二年待ち子供がいなければ離縁できると知る。 結婚二周年の食事の席で、旦那は義理両親にリイーヤに子供ができたと言い出した。それに反論して自分は生娘だと医師の診断書を見せる。 混乱した食堂を後にして、リイーヤは馬に乗り伯爵家から出て行き国境を越え違う国へと向かう。 もし、次があるのなら優しい人と恋がしたいと…… お読みいただき、ありがとうございます。 エブリスタで四月に『完結』した話に差し替えいたいと思っております。内容はさほど、変わっておりません。 それにあたり、栞を挟んでいただいている方、すみません。

冷宮の人形姫

りーさん
ファンタジー
冷宮に閉じ込められて育てられた姫がいた。父親である皇帝には関心を持たれず、少しの使用人と母親と共に育ってきた。 幼少の頃からの虐待により、感情を表に出せなくなった姫は、5歳になった時に母親が亡くなった。そんな時、皇帝が姫を迎えに来た。 ※すみません、完全にファンタジーになりそうなので、ファンタジーにしますね。 ※皇帝のミドルネームを、イント→レントに変えます。(第一皇妃のミドルネームと被りそうなので) そして、レンド→レクトに変えます。(皇帝のミドルネームと似てしまうため)変わってないよというところがあれば教えてください。

【完結】ちびっこ錬金術師は愛される

あろえ
ファンタジー
「もう大丈夫だから。もう、大丈夫だから……」 生死を彷徨い続けた子供のジルは、献身的に看病してくれた姉エリスと、エリクサーを譲ってくれた錬金術師アーニャのおかげで、苦しめられた呪いから解放される。 三年にわたって寝込み続けたジルは、その間に蘇った前世の記憶を夢だと勘違いした。朧げな記憶には、不器用な父親と料理を作った思い出しかないものの、料理と錬金術の作業が似ていることから、恩を返すために錬金術師を目指す。 しかし、錬金術ギルドで試験を受けていると、エリクサーにまつわる不思議な疑問が浮かび上がってきて……。 これは、『ありがとう』を形にしようと思うジルが、錬金術師アーニャにリードされ、無邪気な心でアイテムを作り始めるハートフルストーリー!

悪役令嬢はお断りです

あみにあ
恋愛
あの日、初めて王子を見た瞬間、私は全てを思い出した。 この世界が前世で大好きだった小説と類似している事実を————。 その小説は王子と侍女との切ない恋物語。 そして私はというと……小説に登場する悪役令嬢だった。 侍女に執拗な虐めを繰り返し、最後は断罪されてしまう哀れな令嬢。 このまま進めば断罪コースは確定。 寒い牢屋で孤独に過ごすなんて、そんなの嫌だ。 何とかしないと。 でもせっかく大好きだった小説のストーリー……王子から離れ見られないのは悲しい。 そう思い飛び出した言葉が、王子の護衛騎士へ志願することだった。 剣も持ったことのない温室育ちの令嬢が 女の騎士がいないこの世界で、初の女騎士になるべく奮闘していきます。 そんな小説の世界に転生した令嬢の恋物語。 ●表紙イラスト:San+様(Twitterアカウント@San_plus_) ●毎日21時更新(サクサク進みます) ●全四部構成:133話完結+おまけ(2021年4月2日 21時完結)  (第一章16話完結/第二章44話完結/第三章78話完結/第四章133話で完結)。

処理中です...