上 下
78 / 159

10章 夢人と宿主~そしてエル達~(10)

しおりを挟む
 否、ガラス瓶に収められた鼠は死んでいるのだ。

 眠っているようにも見えなくはないが、培養液に浸されたその死骸に、生命は感じられなかった。鼠の閉ざされた小さな瞳は筋が入り、開いた口許からは、小さな歯と舌が覗いていた。

「痛くない……?」

 エルは、恐る恐る少年に尋ねた。少年は「ううん、ちっとも」首を左右に振って答えた。

「『主』を抱えて無我夢中で走り回っていたら、こうなっていたんだ。主の命が旅立ってしまって、この世界で俺の姿も崩れ始めているみたいだ……本来であれば『死に抱かれる者の夢』まで、俺が導かなくちゃならないらしいんだけど、主は身体だけを置いていってしまったし、どうやってその場所まで行けばいいのか、これからどうすればいいのか、俺にはまだ分からなくて」
「命のないものであれば、ログならその枷を壊す事が出来る」

 スウェンが、顎先でログを指名しながら、少年に教えるようにそう言った。

「彼が触れて、力を発動させれば全てが終わる。けれど君の『主』の身体は、そこから消えてしまうだろう」

 エルとセイジは、お互い視線を交わしてしまった。少年の様子を見ていると、無理やりそれを実行するような展開は避けたいとも感じていたからだ。

 ログはスウェンの指示を待ちように、仏頂面で少年を眺めているだけだった。

「で、でも、俺は主の心がまだ、ココに残っているのを感じるんだ」
「僕は詳しくは知らないけど、この状態ではきっと駄目だと思うよ。君と彼は、この世界に囚われ続けているんじゃないのかな。彼の方は死んでも尚、君の事が心配で心だけが離れられないのかもしれないし……死んでも利用され続けるなんて、あまりにも可哀そうだ」

 スウェンはそう言い、歯切れ悪く言葉を切った。ログもセイジも、それぞれの過去を思い出したように、視線をそらしてしまった。

 少年は、考え込むように足元を見降ろした。のそのそとシャツのボタンを締め直し、意味もなく砂利を指で払って、ズボンの裾に擦りつけた。

「……このままじゃ駄目なんだろうなって事は、俺も分かっているんだ。だけど、貴方達が言うように『主』の身体が解放されたら、俺は一体どうすればいいのか……まだ何も思い出せなくて」

 不安が、少年の声や眼差しから伝わった。未知の世界に存在する不可思議な住人というよりは、まるで人間そのものに見えた。

 ズキリ、と頭が痛み、エルの思考は遮られた。

 唐突に、エルの脳裏に、まるで砂嵐のような映像の断片が流れた。ブロンドの幼い少女が、豊かな髪を翻してこちらに微笑みかけている。


 あなた本当に何も知らないのね。どこから来たの、こっちへいらっしゃいな。あらあら今日は泣きむしさんなのね。私? 私の名前はね……


 腕を掴まれ、エルは我に返った。

 無意識に手で額を押さえつけていた為、前髪が乱れてしまっていて、ハッとして目を向けた先には、見慣れた仏頂面があった。

「おい、大丈夫か」

 ログが見降ろし、そう問いかけて来た。いつの間にか距離を縮めていた彼は、背中を丸めるようにこちらを覗きこんでいる。

 エルは吐息が震えかけたが、悟られてはいけないと思った。まだ核心を掴めていないのだ。肝心な部分を、何一つ思い出させてはいないのだから。

「――なんでも、ない」

 乾いた喉から、どうにか声を絞り出した。

「日差しが暑いせいかな」

 エルがやんわりと答えると、ログが「あまり力むなよ」と視線をそらしながら告げて、素直に離れていった。エルは、くしゃくしゃになった前髪を整えた。

 その時、クロエが顔を上げ、耳を真っすぐ立て辺りを窺った。

 クロエの異変にエルたちが気付いた直後、途端に視界が薄暗くなり、四方から無数の槍が突き出されていた。


 それは、まるで一枚の絵を捲ったような、唐突な来襲だった。

 瞬きの間にエル達は、一瞬にして大量の鼠男達に取り囲まれていた。集まった槍の先端が、無数の針からなる拷問器具のように壁となって立ちはだかり、強行突破しようにも分が悪い状況だ。


 数本の槍ならまだしも、同時に数十本が降り注ごうものなら、上からの突破も厳しいだろう。

 四人は警戒態勢のまま、ゆっくりと立ち上がり、それぞれ背中合わせになって少年を庇うように立った。クロエが忍び足でエルの元にやって来て、彼女が肩から斜めに掛けたままだったボストンバッグへ、器用に飛び込んで中に身を滑り込ませた。

「……おい、どうするよ。スウェン隊長」
「……まいったね。事前の歪みもなかったから気付けなかったよ。本当に、このエリアの完成度は高いらしい」
「私とログが、このまま強行突破した方がいいだろうか」

 セイジが遠慮がちに口を挟んだが、エルは「無茶だよ」と間髪入れず否定した。

「そんな事したら大怪我じゃ済まないと思うし……うーん、盾とトンファーがあれば、どうにかなりそうなんだけどなぁ」
「お前それ、一般人としての対処法じゃねぇだろが。聞いて呆れるぜ」

 ほんの数秒、ログが鼠男達から視線をそらし、一番小さなエルの頭を見てぼやいた。しかし、その光景を想像した彼の口角は、薄らと引き上がってもいた。

 エルは、シャツの胸元を握りしめる少年を、肩越しにちらりと振り返った。大切な物を盗られるのではないかと怯える瞳と、ふと視線がぶつかった。

 ああ、彼は戦えない子なのだ。

 数歳年下の風貌をした彼を見て、エルは、年上としてしっかり守らなければ、という妙な使命感を覚えた。

「大丈夫、俺が守るよ」

 少年の目をしっかり見つめて、エルは肯いてみせた。敵を見据えたまま、スウェンが余裕のない表情に強がる笑みを浮かべ、「恰好良いねぇ」と口笛を吹いた。

「だから信じてよ」

 エルは緊張を悟られないよう拳を固めながらそう言い、安心させるように笑いかけてから、鼠男へと向き直った。

           ※※※

 少年は、自分の周りを囲うように立つ人間達の、大きく見える背中を眺めた。

 なんの力も持たないただの人間が、死の概念もない自分を、守ろうとしているのだ。そう思うと、奇妙な感覚が少年の中に込み上げた。

 平気だよ、俺はただの『夢人』だから、怪我をしたって血は出ないし、自分の身体を覚えていれば、すぐに再生出来るのだから……

 けれど少年の唇は震えるばかりで、人間達に声を掛ける勇気も出て来ない。

 少年は『夢人』として、初めて苦悩を覚えた。守られたいなんて、彼は望んだ事はなかった。誰かが傷つくのを見るのが嫌で、どうしたらいいのか、どこへいけばいいのかと思考が空回りする。

 ああ、でも、結局のところ俺は怖いんだ。

 俺は生まれて日の浅い『夢人』で、弱いし、何もしてやれない。

 その間にも、鼠男達の殺気は強くなっていた。ログにせかされたスウェンが、最悪の事態を避けるべく考え続けながら「ちょっと待ってよ」と奥歯を噛みしめる。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】婚約破棄されたので、引き継ぎをいたしましょうか?

碧桜 汐香
恋愛
第一王子に婚約破棄された公爵令嬢は、事前に引き継ぎの準備を進めていた。 まっすぐ領地に帰るために、その場で引き継ぎを始めることに。 様々な調査結果を暴露され、婚約破棄に関わった人たちは阿鼻叫喚へ。 第二王子?いりませんわ。 第一王子?もっといりませんわ。 第一王子を慕っていたのに婚約破棄された少女を演じる、彼女の本音は? 彼女の存在意義とは? 別サイト様にも掲載しております

父が死んだのでようやく邪魔な女とその息子を処分できる

兎屋亀吉
恋愛
伯爵家の当主だった父が亡くなりました。これでようやく、父の愛妾として我が物顔で屋敷内をうろつくばい菌のような女とその息子を処分することができます。父が死ねば息子が当主になれるとでも思ったのかもしれませんが、父がいなくなった今となっては思う通りになることなど何一つありませんよ。今まで父の威を借りてさんざんいびってくれた仕返しといきましょうか。根に持つタイプの陰険女主人公。

兄のお嫁さんに嫌がらせをされるので、全てを暴露しようと思います

きんもくせい
恋愛
リルベール侯爵家に嫁いできた子爵令嬢、ナタリーは、最初は純朴そうな少女だった。積極的に雑事をこなし、兄と仲睦まじく話す彼女は、徐々に家族に受け入れられ、気に入られていく。しかし、主人公のソフィアに対しては冷たく、嫌がらせばかりをしてくる。初めは些細なものだったが、それらのいじめは日々悪化していき、痺れを切らしたソフィアは、両家の食事会で…… 10/1追記 ※本作品が中途半端な状態で完結表記になっているのは、本編自体が完結しているためです。 ありがたいことに、ソフィアのその後を見たいと言うお声をいただいたので、番外編という形で作品完結後も連載を続けさせて頂いております。紛らわしいことになってしまい申し訳ございません。 また、日々の感想や応援などの反応をくださったり、この作品に目を通してくれる皆様方、本当にありがとうございます。これからも作品を宜しくお願い致します。 きんもくせい

裏切りの代償

志波 連
恋愛
伯爵令嬢であるキャンディは婚約者ニックの浮気を知り、婚約解消を願い出るが1年間の再教育を施すというニックの父親の言葉に願いを取り下げ、家出を決行した。 家庭教師という職を得て充実した日々を送るキャンディの前に父親が現れた。 連れ帰られ無理やりニックと結婚させられたキャンディだったが、子供もできてこれも人生だと思い直し、ニックの妻として人生を全うしようとする。 しかしある日ニックが浮気をしていることをしり、我慢の限界を迎えたキャンディは、友人の手を借りながら人生を切り開いていくのだった。 他サイトでも掲載しています。 R15を保険で追加しました。 表紙は写真AC様よりダウンロードしました。

私はお母様の奴隷じゃありません。「出てけ」とおっしゃるなら、望み通り出ていきます【完結】

小平ニコ
ファンタジー
主人公レベッカは、幼いころから母親に冷たく当たられ、家庭内の雑務を全て押し付けられてきた。 他の姉妹たちとは明らかに違う、奴隷のような扱いを受けても、いつか母親が自分を愛してくれると信じ、出来得る限りの努力を続けてきたレベッカだったが、16歳の誕生日に突然、公爵の館に奉公に行けと命じられる。 それは『家を出て行け』と言われているのと同じであり、レベッカはショックを受ける。しかし、奉公先の人々は皆優しく、主であるハーヴィン公爵はとても美しい人で、レベッカは彼にとても気に入られる。 友達もでき、忙しいながらも幸せな毎日を送るレベッカ。そんなある日のこと、妹のキャリーがいきなり公爵の館を訪れた。……キャリーは、レベッカに支払われた給料を回収しに来たのだ。 レベッカは、金銭に対する執着などなかったが、あまりにも身勝手で悪辣なキャリーに怒り、彼女を追い返す。それをきっかけに、公爵家の人々も巻き込む形で、レベッカと実家の姉妹たちは争うことになる。 そして、姉妹たちがそれぞれ悪行の報いを受けた後。 レベッカはとうとう、母親と直接対峙するのだった……

【完結】公女が死んだ、その後のこと

杜野秋人
恋愛
【第17回恋愛小説大賞 奨励賞受賞しました!】 「お母様……」 冷たく薄暗く、不潔で不快な地下の罪人牢で、彼女は独り、亡き母に語りかける。その掌の中には、ひと粒の小さな白い錠剤。 古ぼけた簡易寝台に座り、彼女はそのままゆっくりと、覚悟を決めたように横たわる。 「言いつけを、守ります」 最期にそう呟いて、彼女は震える手で錠剤を口に含み、そのまま飲み下した。 こうして、第二王子ボアネルジェスの婚約者でありカストリア公爵家の次期女公爵でもある公女オフィーリアは、獄中にて自ら命を断った。 そして彼女の死後、その影響はマケダニア王国の王宮内外の至るところで噴出した。 「ええい、公務が回らん!オフィーリアは何をやっている!?」 「殿下は何を仰せか!すでに公女は儚くなられたでしょうが!」 「くっ……、な、ならば蘇生させ」 「あれから何日経つとお思いで!?お気は確かか!」 「何故だ!何故この私が裁かれねばならん!」 「そうよ!お父様も私も何も悪くないわ!悪いのは全部お義姉さまよ!」 「…………申し開きがあるのなら、今ここではなく取り調べと裁判の場で存分に申すがよいわ。⸺連れて行け」 「まっ、待て!話を」 「嫌ぁ〜!」 「今さら何しに戻ってきたかね先々代様。わしらはもう、公女さま以外にお仕えする気も従う気もないんじゃがな?」 「なっ……貴様!領主たる儂の言うことが聞けんと」 「領主だったのは亡くなった女公さまとその娘の公女さまじゃ。あの方らはあんたと違って、わしら領民を第一に考えて下さった。あんたと違ってな!」 「くっ……!」 「なっ、譲位せよだと!?」 「本国の決定にございます。これ以上の混迷は連邦友邦にまで悪影響を与えかねないと。⸺潔く観念なさいませ。さあ、ご署名を」 「おのれ、謀りおったか!」 「…………父上が悪いのですよ。あの時止めてさえいれば、彼女は死なずに済んだのに」 ◆人が亡くなる描写、及びベッドシーンがあるのでR15で。生々しい表現は避けています。 ◆公女が亡くなってからが本番。なので最初の方、恋愛要素はほぼありません。最後はちゃんとジャンル:恋愛です。 ◆ドアマットヒロインを書こうとしたはずが。どうしてこうなった? ◆作中の演出として自死のシーンがありますが、決して推奨し助長するものではありません。早まっちゃう前に然るべき窓口に一言相談を。 ◆作者の作品は特に断りなき場合、基本的に同一の世界観に基づいています。が、他作品とリンクする予定は特にありません。本作単品でお楽しみ頂けます。 ◆この作品は小説家になろうでも公開します。 ◆24/2/17、HOTランキング女性向け1位!?1位は初ですありがとうございます!

愚かな父にサヨナラと《完結》

アーエル
ファンタジー
「フラン。お前の方が年上なのだから、妹のために我慢しなさい」 父の言葉は最後の一線を越えてしまった。 その言葉が、続く悲劇を招く結果となったけど・・・ 悲劇の本当の始まりはもっと昔から。 言えることはただひとつ 私の幸せに貴方はいりません ✈他社にも同時公開

どうぞご勝手になさってくださいまし

志波 連
恋愛
政略結婚とはいえ12歳の時から婚約関係にあるローレンティア王国皇太子アマデウスと、ルルーシア・メリディアン侯爵令嬢の仲はいたって上手くいっていた。 辛い教育にもよく耐え、あまり学園にも通学できないルルーシアだったが、幼馴染で親友の侯爵令嬢アリア・ロックスの励まされながら、なんとか最終学年を迎えた。 やっと皇太子妃教育にも目途が立ち、学園に通えるようになったある日、婚約者であるアマデウス皇太子とフロレンシア伯爵家の次女であるサマンサが恋仲であるという噂を耳にする。 アリアに付き添ってもらい、学園の裏庭に向かったルルーシアは二人が仲よくベンチに腰掛け、肩を寄せ合って一冊の本を仲よく見ている姿を目撃する。 風が運んできた「じゃあ今夜、いつものところで」という二人の会話にショックを受けたルルーシアは、早退して父親に訴えた。 しかし元々が政略結婚であるため、婚約の取り消しはできないという言葉に絶望する。 ルルーシアの邸を訪れた皇太子はサマンサを側妃として迎えると告げた。 ショックを受けたルルーシアだったが、家のために耐えることを決意し、皇太子妃となることを受け入れる。 ルルーシアだけを愛しているが、友人であるサマンサを助けたいアマデウスと、アマデウスに愛されていないと思い込んでいるルルーシアは盛大にすれ違っていく。 果たして不器用な二人に幸せな未来は訪れるのだろうか…… 他サイトでも公開しています。 R15は保険です。 表紙は写真ACより転載しています。

処理中です...