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10章 夢人と宿主~そしてエル達~(10)
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否、ガラス瓶に収められた鼠は死んでいるのだ。
眠っているようにも見えなくはないが、培養液に浸されたその死骸に、生命は感じられなかった。鼠の閉ざされた小さな瞳は筋が入り、開いた口許からは、小さな歯と舌が覗いていた。
「痛くない……?」
エルは、恐る恐る少年に尋ねた。少年は「ううん、ちっとも」首を左右に振って答えた。
「『主』を抱えて無我夢中で走り回っていたら、こうなっていたんだ。主の命が旅立ってしまって、この世界で俺の姿も崩れ始めているみたいだ……本来であれば『死に抱かれる者の夢』まで、俺が導かなくちゃならないらしいんだけど、主は身体だけを置いていってしまったし、どうやってその場所まで行けばいいのか、これからどうすればいいのか、俺にはまだ分からなくて」
「命のないものであれば、ログならその枷を壊す事が出来る」
スウェンが、顎先でログを指名しながら、少年に教えるようにそう言った。
「彼が触れて、力を発動させれば全てが終わる。けれど君の『主』の身体は、そこから消えてしまうだろう」
エルとセイジは、お互い視線を交わしてしまった。少年の様子を見ていると、無理やりそれを実行するような展開は避けたいとも感じていたからだ。
ログはスウェンの指示を待ちように、仏頂面で少年を眺めているだけだった。
「で、でも、俺は主の心がまだ、ココに残っているのを感じるんだ」
「僕は詳しくは知らないけど、この状態ではきっと駄目だと思うよ。君と彼は、この世界に囚われ続けているんじゃないのかな。彼の方は死んでも尚、君の事が心配で心だけが離れられないのかもしれないし……死んでも利用され続けるなんて、あまりにも可哀そうだ」
スウェンはそう言い、歯切れ悪く言葉を切った。ログもセイジも、それぞれの過去を思い出したように、視線をそらしてしまった。
少年は、考え込むように足元を見降ろした。のそのそとシャツのボタンを締め直し、意味もなく砂利を指で払って、ズボンの裾に擦りつけた。
「……このままじゃ駄目なんだろうなって事は、俺も分かっているんだ。だけど、貴方達が言うように『主』の身体が解放されたら、俺は一体どうすればいいのか……まだ何も思い出せなくて」
不安が、少年の声や眼差しから伝わった。未知の世界に存在する不可思議な住人というよりは、まるで人間そのものに見えた。
ズキリ、と頭が痛み、エルの思考は遮られた。
唐突に、エルの脳裏に、まるで砂嵐のような映像の断片が流れた。ブロンドの幼い少女が、豊かな髪を翻してこちらに微笑みかけている。
あなた本当に何も知らないのね。どこから来たの、こっちへいらっしゃいな。あらあら今日は泣きむしさんなのね。私? 私の名前はね……
腕を掴まれ、エルは我に返った。
無意識に手で額を押さえつけていた為、前髪が乱れてしまっていて、ハッとして目を向けた先には、見慣れた仏頂面があった。
「おい、大丈夫か」
ログが見降ろし、そう問いかけて来た。いつの間にか距離を縮めていた彼は、背中を丸めるようにこちらを覗きこんでいる。
エルは吐息が震えかけたが、悟られてはいけないと思った。まだ核心を掴めていないのだ。肝心な部分を、何一つ思い出させてはいないのだから。
「――なんでも、ない」
乾いた喉から、どうにか声を絞り出した。
「日差しが暑いせいかな」
エルがやんわりと答えると、ログが「あまり力むなよ」と視線をそらしながら告げて、素直に離れていった。エルは、くしゃくしゃになった前髪を整えた。
その時、クロエが顔を上げ、耳を真っすぐ立て辺りを窺った。
クロエの異変にエルたちが気付いた直後、途端に視界が薄暗くなり、四方から無数の槍が突き出されていた。
それは、まるで一枚の絵を捲ったような、唐突な来襲だった。
瞬きの間にエル達は、一瞬にして大量の鼠男達に取り囲まれていた。集まった槍の先端が、無数の針からなる拷問器具のように壁となって立ちはだかり、強行突破しようにも分が悪い状況だ。
数本の槍ならまだしも、同時に数十本が降り注ごうものなら、上からの突破も厳しいだろう。
四人は警戒態勢のまま、ゆっくりと立ち上がり、それぞれ背中合わせになって少年を庇うように立った。クロエが忍び足でエルの元にやって来て、彼女が肩から斜めに掛けたままだったボストンバッグへ、器用に飛び込んで中に身を滑り込ませた。
「……おい、どうするよ。スウェン隊長」
「……まいったね。事前の歪みもなかったから気付けなかったよ。本当に、このエリアの完成度は高いらしい」
「私とログが、このまま強行突破した方がいいだろうか」
セイジが遠慮がちに口を挟んだが、エルは「無茶だよ」と間髪入れず否定した。
「そんな事したら大怪我じゃ済まないと思うし……うーん、盾とトンファーがあれば、どうにかなりそうなんだけどなぁ」
「お前それ、一般人としての対処法じゃねぇだろが。聞いて呆れるぜ」
ほんの数秒、ログが鼠男達から視線をそらし、一番小さなエルの頭を見てぼやいた。しかし、その光景を想像した彼の口角は、薄らと引き上がってもいた。
エルは、シャツの胸元を握りしめる少年を、肩越しにちらりと振り返った。大切な物を盗られるのではないかと怯える瞳と、ふと視線がぶつかった。
ああ、彼は戦えない子なのだ。
数歳年下の風貌をした彼を見て、エルは、年上としてしっかり守らなければ、という妙な使命感を覚えた。
「大丈夫、俺が守るよ」
少年の目をしっかり見つめて、エルは肯いてみせた。敵を見据えたまま、スウェンが余裕のない表情に強がる笑みを浮かべ、「恰好良いねぇ」と口笛を吹いた。
「だから信じてよ」
エルは緊張を悟られないよう拳を固めながらそう言い、安心させるように笑いかけてから、鼠男へと向き直った。
※※※
少年は、自分の周りを囲うように立つ人間達の、大きく見える背中を眺めた。
なんの力も持たないただの人間が、死の概念もない自分を、守ろうとしているのだ。そう思うと、奇妙な感覚が少年の中に込み上げた。
平気だよ、俺はただの『夢人』だから、怪我をしたって血は出ないし、自分の身体を覚えていれば、すぐに再生出来るのだから……
けれど少年の唇は震えるばかりで、人間達に声を掛ける勇気も出て来ない。
少年は『夢人』として、初めて苦悩を覚えた。守られたいなんて、彼は望んだ事はなかった。誰かが傷つくのを見るのが嫌で、どうしたらいいのか、どこへいけばいいのかと思考が空回りする。
ああ、でも、結局のところ俺は怖いんだ。
俺は生まれて日の浅い『夢人』で、弱いし、何もしてやれない。
その間にも、鼠男達の殺気は強くなっていた。ログにせかされたスウェンが、最悪の事態を避けるべく考え続けながら「ちょっと待ってよ」と奥歯を噛みしめる。
眠っているようにも見えなくはないが、培養液に浸されたその死骸に、生命は感じられなかった。鼠の閉ざされた小さな瞳は筋が入り、開いた口許からは、小さな歯と舌が覗いていた。
「痛くない……?」
エルは、恐る恐る少年に尋ねた。少年は「ううん、ちっとも」首を左右に振って答えた。
「『主』を抱えて無我夢中で走り回っていたら、こうなっていたんだ。主の命が旅立ってしまって、この世界で俺の姿も崩れ始めているみたいだ……本来であれば『死に抱かれる者の夢』まで、俺が導かなくちゃならないらしいんだけど、主は身体だけを置いていってしまったし、どうやってその場所まで行けばいいのか、これからどうすればいいのか、俺にはまだ分からなくて」
「命のないものであれば、ログならその枷を壊す事が出来る」
スウェンが、顎先でログを指名しながら、少年に教えるようにそう言った。
「彼が触れて、力を発動させれば全てが終わる。けれど君の『主』の身体は、そこから消えてしまうだろう」
エルとセイジは、お互い視線を交わしてしまった。少年の様子を見ていると、無理やりそれを実行するような展開は避けたいとも感じていたからだ。
ログはスウェンの指示を待ちように、仏頂面で少年を眺めているだけだった。
「で、でも、俺は主の心がまだ、ココに残っているのを感じるんだ」
「僕は詳しくは知らないけど、この状態ではきっと駄目だと思うよ。君と彼は、この世界に囚われ続けているんじゃないのかな。彼の方は死んでも尚、君の事が心配で心だけが離れられないのかもしれないし……死んでも利用され続けるなんて、あまりにも可哀そうだ」
スウェンはそう言い、歯切れ悪く言葉を切った。ログもセイジも、それぞれの過去を思い出したように、視線をそらしてしまった。
少年は、考え込むように足元を見降ろした。のそのそとシャツのボタンを締め直し、意味もなく砂利を指で払って、ズボンの裾に擦りつけた。
「……このままじゃ駄目なんだろうなって事は、俺も分かっているんだ。だけど、貴方達が言うように『主』の身体が解放されたら、俺は一体どうすればいいのか……まだ何も思い出せなくて」
不安が、少年の声や眼差しから伝わった。未知の世界に存在する不可思議な住人というよりは、まるで人間そのものに見えた。
ズキリ、と頭が痛み、エルの思考は遮られた。
唐突に、エルの脳裏に、まるで砂嵐のような映像の断片が流れた。ブロンドの幼い少女が、豊かな髪を翻してこちらに微笑みかけている。
あなた本当に何も知らないのね。どこから来たの、こっちへいらっしゃいな。あらあら今日は泣きむしさんなのね。私? 私の名前はね……
腕を掴まれ、エルは我に返った。
無意識に手で額を押さえつけていた為、前髪が乱れてしまっていて、ハッとして目を向けた先には、見慣れた仏頂面があった。
「おい、大丈夫か」
ログが見降ろし、そう問いかけて来た。いつの間にか距離を縮めていた彼は、背中を丸めるようにこちらを覗きこんでいる。
エルは吐息が震えかけたが、悟られてはいけないと思った。まだ核心を掴めていないのだ。肝心な部分を、何一つ思い出させてはいないのだから。
「――なんでも、ない」
乾いた喉から、どうにか声を絞り出した。
「日差しが暑いせいかな」
エルがやんわりと答えると、ログが「あまり力むなよ」と視線をそらしながら告げて、素直に離れていった。エルは、くしゃくしゃになった前髪を整えた。
その時、クロエが顔を上げ、耳を真っすぐ立て辺りを窺った。
クロエの異変にエルたちが気付いた直後、途端に視界が薄暗くなり、四方から無数の槍が突き出されていた。
それは、まるで一枚の絵を捲ったような、唐突な来襲だった。
瞬きの間にエル達は、一瞬にして大量の鼠男達に取り囲まれていた。集まった槍の先端が、無数の針からなる拷問器具のように壁となって立ちはだかり、強行突破しようにも分が悪い状況だ。
数本の槍ならまだしも、同時に数十本が降り注ごうものなら、上からの突破も厳しいだろう。
四人は警戒態勢のまま、ゆっくりと立ち上がり、それぞれ背中合わせになって少年を庇うように立った。クロエが忍び足でエルの元にやって来て、彼女が肩から斜めに掛けたままだったボストンバッグへ、器用に飛び込んで中に身を滑り込ませた。
「……おい、どうするよ。スウェン隊長」
「……まいったね。事前の歪みもなかったから気付けなかったよ。本当に、このエリアの完成度は高いらしい」
「私とログが、このまま強行突破した方がいいだろうか」
セイジが遠慮がちに口を挟んだが、エルは「無茶だよ」と間髪入れず否定した。
「そんな事したら大怪我じゃ済まないと思うし……うーん、盾とトンファーがあれば、どうにかなりそうなんだけどなぁ」
「お前それ、一般人としての対処法じゃねぇだろが。聞いて呆れるぜ」
ほんの数秒、ログが鼠男達から視線をそらし、一番小さなエルの頭を見てぼやいた。しかし、その光景を想像した彼の口角は、薄らと引き上がってもいた。
エルは、シャツの胸元を握りしめる少年を、肩越しにちらりと振り返った。大切な物を盗られるのではないかと怯える瞳と、ふと視線がぶつかった。
ああ、彼は戦えない子なのだ。
数歳年下の風貌をした彼を見て、エルは、年上としてしっかり守らなければ、という妙な使命感を覚えた。
「大丈夫、俺が守るよ」
少年の目をしっかり見つめて、エルは肯いてみせた。敵を見据えたまま、スウェンが余裕のない表情に強がる笑みを浮かべ、「恰好良いねぇ」と口笛を吹いた。
「だから信じてよ」
エルは緊張を悟られないよう拳を固めながらそう言い、安心させるように笑いかけてから、鼠男へと向き直った。
※※※
少年は、自分の周りを囲うように立つ人間達の、大きく見える背中を眺めた。
なんの力も持たないただの人間が、死の概念もない自分を、守ろうとしているのだ。そう思うと、奇妙な感覚が少年の中に込み上げた。
平気だよ、俺はただの『夢人』だから、怪我をしたって血は出ないし、自分の身体を覚えていれば、すぐに再生出来るのだから……
けれど少年の唇は震えるばかりで、人間達に声を掛ける勇気も出て来ない。
少年は『夢人』として、初めて苦悩を覚えた。守られたいなんて、彼は望んだ事はなかった。誰かが傷つくのを見るのが嫌で、どうしたらいいのか、どこへいけばいいのかと思考が空回りする。
ああ、でも、結局のところ俺は怖いんだ。
俺は生まれて日の浅い『夢人』で、弱いし、何もしてやれない。
その間にも、鼠男達の殺気は強くなっていた。ログにせかされたスウェンが、最悪の事態を避けるべく考え続けながら「ちょっと待ってよ」と奥歯を噛みしめる。
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