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10章 夢人と宿主(3)
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どうやら、自分は無駄な喧嘩を吹っ掛けられただけらしい。そう悟ったエルは、苛立ちを隠さず踵を返した。状況を把握していないクロエが、足早に浴室へと向かうエルの様子に喜び、床を飛び跳ねるようについて行った。
一人と一匹がいなくなると、リビングルームは静かになった。
やけに荒々しい浴室の開閉音が聞こえた後で、ログが一缶目のビールを飲み干し、スウェンが二缶目を開けた。
「エル君を怒らせちゃったなぁ。全く、君が一体何を考えているのか分からないよ――でも、このビール、味はちゃんとついていて良かったね。仮想空間へ入ってから、初めて『飲んだ』感じがするなぁ。酔いは一向に回らないけど」
スウェンが反省しつつ笑うと、ログが鼻を鳴らした。
「結局のところ、俺たちの脳が機械に騙されるような軟な造りじゃなきゃ、酔えないんだろ。擦り傷程度じゃ、痛みさえ感じさせられねぇしな」
「ふふ、そうだね。銃弾が掠った時もリアリティがほとんどなかったから、なんだか拍子抜けしちゃったしなぁ。――まぁそれも、三番目のエリアまでの話だけれどね」
スウェンの表情から、途端に陽気さが薄れた。
「四番目のセキュリティー・エリアだけど、君は気付いていたかい? 受ける衝撃も全て本物そっくりだった。あのラスボス級の化け物の尻尾を避けた時、風圧で脇腹が軋んだんだけど、ひどい打撲になっていたよ。接近戦の際の瓦礫の破片が、この世界に来ても腕に刺さったままだったし、ほんと最悪だ」
「生きていたんだから、いいじゃねぇか」
「まぁね」
スウェンは、ビール缶を膝の上に乗せると、ソファに背を預けた。
「確かに、この世界の時間経過が早いせいか、傷も早急に癒え始めている。だけど、腕に刺さった瓦礫の破片は、シャワーで洗い流すまで僕の腕についていたんだ。ハイソン君達の方で予測していたような、エリアを超える瞬間の『リセット論』は、一体どうなったんだろうね?」
彼らが持つ武器や備品は、エリアを超える毎に、使う前の状態へと戻るはずだったが、今回リセットは一切かかっていなかった。
疲労も時間経過も、先のエリアへと進むごとに心身に蓄積されていっている。だから、念の為セイジには、武器の調達に出てもらっていた。
元々、各エリアにそれぞれ存在している物は、エリア毎に指定された演出の小道具であるため、次のエリアまでは持ち込む事が出来なかった。そのルールに変化が訪れたのは、三番目のセキュリティー・エリアからで、調達した非常食は消えず、現地で追加購入していた予備の弾丸に関しても、次のエリアへ持ち込めてしまっていた。
別エリアで消費された体力と時間の経過間隔は、確実に身体への疲労感に直結している。実体を持ちこんでいないスウェン達が、仮想空間内で休養欲、睡眠欲を覚えるなど、本来であればあってはならない事のはずだった。
生身の身体であるエルに関しては、リセット機能が働かないので、三番目のセキュリティー・エリアでは、スウェンが心配に思うほど昏々と眠り続けていた。破壊の能力を発動するにあたっては、ログも、休養と睡眠を取らざる得ない状況となっている。
「別エリアのエキストラであるはずの『ホテルマン』が、四番目のエリアにいた時点で、既にリセット論は崩れてしまっていると結論すべきだったね。僕らが接近戦で受ける衝撃もリアルだったし、ここから先、五感に受ける刺激は、更に本物に近づいていく可能性がある」
「エリス域に近いほど、よりリアルな世界になるって訳か?」
ログが片眉を持ち上げ、怪訝そうにスウェンを見やった。
「仮想空間は、ハイソン君たちの予想を超えて、独自に早急な進化を遂げている可能性もあるって事だよ。用意されている『強制送還システム』を使うような事態になったら、僕らはまさに、死の疑似体験を嫌でも味わう事になる訳だ。実際のところ肉体への害はないらしいけれど、今となっては、それすらも疑わしいね」
スウェンは、大きく息を吐いた。
常識や理屈、理論が通用しない真実が、この世には多くある事は、軍のこれまでの極秘実験から知っているつもりだ。だからこそ、理解する必要はないとも分かっている。どうすれば問題を解決でき、任務を遂行する事が出来るのか、がスウェン達の役目であるからだ。
余計な探求心は、遂行達成の足を引っ張るリスクとなる。――とはいえ、今回の現場については、あまりにも謎が深いのも事実だ。
二人は、しばらく黙ってビールを飲み、部屋を吹き抜ける風に耳を済ませた。穏やかな時間が流れている事を、目に、耳に、肌に、視覚に強く認識した。
いつでも外の異変や危険が察知できるよう、わざと開け放っている部屋の出入口の前を、若い旅行者カップルを連れたブロンドの受付嬢が、楽しげな声を上げながら通り過ぎて行った。
「全部がリアルってわけじゃない。俺の中で、違和感は残ってる」
ログはそう告げ、ビール缶をテーブルの上に戻した。缶の中には、まだ液体が半分は残されていた。
「ビール、美味しくなかった?」
「好みじゃねぇな」
「確かに、君には好みじゃない味だったかもしれないね。――僕も、ここが仮想空間内だという事は理解しているよ、違和感は残ってはいるからね」
そう語りながら、スウェンは持っていたビール缶に浮いた水滴を、意味もなく指で拭った。
「僕は、受ける刺激が精密になっていくところに関しては、正直に言うと危惧を覚えている。僕らの知らないところで、仮想空間は、厄介な成長を遂げているんじゃないかと思う」
「そもそも、仮想空間じたいが現実的じゃない」
「だからこそ、隠し通したいんじゃないの、軍は。解明されていないモノに手を出して、気付いたときには手遅れで大慌てで隠ぺいする。奴らのお得意のやり方さ。ローランドやバークス、ジェイミーも結局は助からなかった。『成長する翼計画』なんていう未知の細胞を、あいつらは――」
その時、ログがスウェンの膝を軽く叩いた。スウェンは我に返って、すぐに口をつぐんだ。
「……済まない、酔っている訳ではないのだけれど。結局、過去の過ちを繰り返すんだなと思うと、残念でならなくて」
「報告を受けた限りじゃ、仮想空間の確立も詭弁だったろ。俺は利口じゃねぇ。お前が良くない類のモノだと判断したんなら、一緒に潰すまでさ。ここには何かがあるんだろうが、深く関わるつもりはねぇよ。俺は所長に助けられたから、今度は俺がアリスを助ける。それだけだ」
ログはそう言うと、ソファに寝そべった。
スウェンは、勢い良くビールを喉に流しこんだ。味はとても鮮明だったが、やはり一向に酔えるような気配はなかった。
一人と一匹がいなくなると、リビングルームは静かになった。
やけに荒々しい浴室の開閉音が聞こえた後で、ログが一缶目のビールを飲み干し、スウェンが二缶目を開けた。
「エル君を怒らせちゃったなぁ。全く、君が一体何を考えているのか分からないよ――でも、このビール、味はちゃんとついていて良かったね。仮想空間へ入ってから、初めて『飲んだ』感じがするなぁ。酔いは一向に回らないけど」
スウェンが反省しつつ笑うと、ログが鼻を鳴らした。
「結局のところ、俺たちの脳が機械に騙されるような軟な造りじゃなきゃ、酔えないんだろ。擦り傷程度じゃ、痛みさえ感じさせられねぇしな」
「ふふ、そうだね。銃弾が掠った時もリアリティがほとんどなかったから、なんだか拍子抜けしちゃったしなぁ。――まぁそれも、三番目のエリアまでの話だけれどね」
スウェンの表情から、途端に陽気さが薄れた。
「四番目のセキュリティー・エリアだけど、君は気付いていたかい? 受ける衝撃も全て本物そっくりだった。あのラスボス級の化け物の尻尾を避けた時、風圧で脇腹が軋んだんだけど、ひどい打撲になっていたよ。接近戦の際の瓦礫の破片が、この世界に来ても腕に刺さったままだったし、ほんと最悪だ」
「生きていたんだから、いいじゃねぇか」
「まぁね」
スウェンは、ビール缶を膝の上に乗せると、ソファに背を預けた。
「確かに、この世界の時間経過が早いせいか、傷も早急に癒え始めている。だけど、腕に刺さった瓦礫の破片は、シャワーで洗い流すまで僕の腕についていたんだ。ハイソン君達の方で予測していたような、エリアを超える瞬間の『リセット論』は、一体どうなったんだろうね?」
彼らが持つ武器や備品は、エリアを超える毎に、使う前の状態へと戻るはずだったが、今回リセットは一切かかっていなかった。
疲労も時間経過も、先のエリアへと進むごとに心身に蓄積されていっている。だから、念の為セイジには、武器の調達に出てもらっていた。
元々、各エリアにそれぞれ存在している物は、エリア毎に指定された演出の小道具であるため、次のエリアまでは持ち込む事が出来なかった。そのルールに変化が訪れたのは、三番目のセキュリティー・エリアからで、調達した非常食は消えず、現地で追加購入していた予備の弾丸に関しても、次のエリアへ持ち込めてしまっていた。
別エリアで消費された体力と時間の経過間隔は、確実に身体への疲労感に直結している。実体を持ちこんでいないスウェン達が、仮想空間内で休養欲、睡眠欲を覚えるなど、本来であればあってはならない事のはずだった。
生身の身体であるエルに関しては、リセット機能が働かないので、三番目のセキュリティー・エリアでは、スウェンが心配に思うほど昏々と眠り続けていた。破壊の能力を発動するにあたっては、ログも、休養と睡眠を取らざる得ない状況となっている。
「別エリアのエキストラであるはずの『ホテルマン』が、四番目のエリアにいた時点で、既にリセット論は崩れてしまっていると結論すべきだったね。僕らが接近戦で受ける衝撃もリアルだったし、ここから先、五感に受ける刺激は、更に本物に近づいていく可能性がある」
「エリス域に近いほど、よりリアルな世界になるって訳か?」
ログが片眉を持ち上げ、怪訝そうにスウェンを見やった。
「仮想空間は、ハイソン君たちの予想を超えて、独自に早急な進化を遂げている可能性もあるって事だよ。用意されている『強制送還システム』を使うような事態になったら、僕らはまさに、死の疑似体験を嫌でも味わう事になる訳だ。実際のところ肉体への害はないらしいけれど、今となっては、それすらも疑わしいね」
スウェンは、大きく息を吐いた。
常識や理屈、理論が通用しない真実が、この世には多くある事は、軍のこれまでの極秘実験から知っているつもりだ。だからこそ、理解する必要はないとも分かっている。どうすれば問題を解決でき、任務を遂行する事が出来るのか、がスウェン達の役目であるからだ。
余計な探求心は、遂行達成の足を引っ張るリスクとなる。――とはいえ、今回の現場については、あまりにも謎が深いのも事実だ。
二人は、しばらく黙ってビールを飲み、部屋を吹き抜ける風に耳を済ませた。穏やかな時間が流れている事を、目に、耳に、肌に、視覚に強く認識した。
いつでも外の異変や危険が察知できるよう、わざと開け放っている部屋の出入口の前を、若い旅行者カップルを連れたブロンドの受付嬢が、楽しげな声を上げながら通り過ぎて行った。
「全部がリアルってわけじゃない。俺の中で、違和感は残ってる」
ログはそう告げ、ビール缶をテーブルの上に戻した。缶の中には、まだ液体が半分は残されていた。
「ビール、美味しくなかった?」
「好みじゃねぇな」
「確かに、君には好みじゃない味だったかもしれないね。――僕も、ここが仮想空間内だという事は理解しているよ、違和感は残ってはいるからね」
そう語りながら、スウェンは持っていたビール缶に浮いた水滴を、意味もなく指で拭った。
「僕は、受ける刺激が精密になっていくところに関しては、正直に言うと危惧を覚えている。僕らの知らないところで、仮想空間は、厄介な成長を遂げているんじゃないかと思う」
「そもそも、仮想空間じたいが現実的じゃない」
「だからこそ、隠し通したいんじゃないの、軍は。解明されていないモノに手を出して、気付いたときには手遅れで大慌てで隠ぺいする。奴らのお得意のやり方さ。ローランドやバークス、ジェイミーも結局は助からなかった。『成長する翼計画』なんていう未知の細胞を、あいつらは――」
その時、ログがスウェンの膝を軽く叩いた。スウェンは我に返って、すぐに口をつぐんだ。
「……済まない、酔っている訳ではないのだけれど。結局、過去の過ちを繰り返すんだなと思うと、残念でならなくて」
「報告を受けた限りじゃ、仮想空間の確立も詭弁だったろ。俺は利口じゃねぇ。お前が良くない類のモノだと判断したんなら、一緒に潰すまでさ。ここには何かがあるんだろうが、深く関わるつもりはねぇよ。俺は所長に助けられたから、今度は俺がアリスを助ける。それだけだ」
ログはそう言うと、ソファに寝そべった。
スウェンは、勢い良くビールを喉に流しこんだ。味はとても鮮明だったが、やはり一向に酔えるような気配はなかった。
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