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8章 迷宮の先(7)

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 スウェンのように裏を読むのは苦手だし、ログのように最短で行動を起こす事も出来ない。

 セイジは困ってしまった。難しい事に対しては、免疫がないのだ。三つの選択肢が目の前にあるとするならば、彼は真っ先に考える事を放棄して勘で選んでしまうだろう。

 とはいえ、勘では選べない今の状況は、彼にはとても難しい。

 ふと、セイジは足を止めて左方向へ顔を向けた。誰かに名前を呼ばれた訳でもないが、何かあるような勘が働いた。まるで、何者かが、こちらへおいで、と手招きしているような感覚だ。

 ちょっと探ってみようかという、根拠もない軽い心持ちが、セイジの足をそちらへと向かせた。

 しばらく進んだ先で、セイジは一つの扉を見付けた。それは、小さな正方形の勝手口のようだった。古い木製の引き戸タイプのものだったが、これから家に設置される物が置き忘れられてしまっているように、扉だけがあった。

 どこにも繋がっていない小さな正方形の扉を、セイジは、数十秒ほど観察した。
横から眺め、後ろに回って確認し、それから小首を傾げて扉の表側へと戻った。特に考える事もなく、今度は、腹ばいになって正面から見つめてみる。

 これぐらいの大きさなら、窮屈ではあるが通り抜けられそうだ。古風な造りは、昔住んでいた家の秘密基地を思い起こさせた。

 セイジは、思いつきで扉を開けてみた。向こうの風景がそのまま見えるばかりだと思っていたのだが、何もない暗闇の景色の中に、一人の子供が座っているのが目にとまって、セイジは思わず顔を上げた。

 慌てて扉の外枠から同じ方向を確認してみたのだが、そこに何もなかった。

 もう一度、扉の枠から、向こうの景色を見据えてみた。すると、暗闇にぽっかりと咲く白いワンピースが目にとまった。

 確かに人かいる。幼少の女の子が一人、地べたに腰を降ろして、興味深そうにセイジを見つめていた。

 セイジは、女の子と目が合った途端にうろたえ、思わず「こ、こんばんは」と場違いな挨拶をしていた。

「その、私は決して怪しい軍人ではなく……ッ」

 この体格のせいか、初対面では女子共に泣かれ、怖がられたりする事も多かった。特にセイジは、女性の弱い一面を見せられる事が苦手だったから、つい言い訳のような言葉が口からついて出た。

 でも、この状況なら不審がられても仕方ないのでは……?

 小さな扉から顔を覗かせている状況を思い、セイジは、恥ずかしくなって言葉を切った。

 女の子は、腹ばいになった男を不審がる様子も見せず、柔らかく微笑んで「こんばんは」と、鈴の音のような可愛らしい声で答えた。女の子そのもの、というよりは、教会で歌うメゾソプラノの男の子の、美しい声色をセイジに思い起こさせた。

 恐らく、声色が中性的なのだろう。

 セイジは、女の子を見て、八、九歳ぐらいだろうかと推測した。

 それにしても、すっかり女の子らしい仕草が似合う子だと、セイジは少しばかり驚いてしまった。癖のない真っ直ぐ腰まで伸びた漆黒の髪や、どこか色香も思わせる白い肌。薄く桃色づく頬と、血色の良い蕾のような小さな唇。華奢な顔は、小奇麗な日本人形にも似ている。

「あの、君はこんなところで何を――」
「申し訳ないのだけれど、こちらへ、いらしていただけるかしら。わたしは、あまり動けないものだから」

 女の子は、スカートの裾から覗く自身の白く細い足を撫でた。

 足が不自由なのだろうか。ほとんど筋力がない小さな足は、力なく横たわっていて、セイジは、どうにか小さな扉をくぐり抜けると、女の子の向かいに腰を落ち着けた。

 近づいてみて、セイジは、大人びた女の子の幼い眼が正常でない事に気付かされた。彼女の瞳孔はすっかり開いておらず、近くで手を振って見ても反応しなかった。

 この子は、目が見えていない。

 セイジは、少なからずショックを覚えてしまった。

「君は、目が見えないのか。その、申し訳ない……」
「優しい人なのね」

 女の子は、声のする方向で、人間の位置を把握しているらしい。セイジの顔を正面から見つめ「ありがとう」と続けた。

「わたしはね、ずっと待っているのよ」
「待っている……?」
「約束の刻を、こうして待っているの」

 彼女が小さく首を傾げた拍子に、艶やかな長い髪が、サラリと音を立てて、スカートの上にこぼれ落ちた。


「あなたの事も、待っていたのよ。伝えられる唯一の機会だったから」


 少女の視線が、宙の上を僅かに滑った。伏せられた睫毛が、日本人にしては明るい色をした大きな瞳に、大人びた女のような陰りを落としていた。

「あなた達が求めている女の子は、無事よ」
「君は、アリスを知っているのか? あの子は、今どこに――」

 急ぎ言い掛けたセイジの顔辺りへ、女の子が小さな手をあてがった。

「落ち着いて。あの子は眠っているだけ。しばらく一緒に深く眠りつく事で、最悪の事態を回避してくれているの。でも、予定通りの道筋は、変えようもなく最後の審判を待っている。もう一度『彼女』が目覚めたら、もう同じ誤魔化しは効かない。だからどうか、あの子を連れて行って……貴方達で、あの子を、元の世界に返してあげて欲しいのよ」

 女の子が話す内容が、セイジにはよく分からなかった。彼は頭脳派ではないし、物事の理解がすぐに出来るほど賢くもない。

 彼は、自分なりに精一杯考えてみた。

 状況は難しい事になっているようだが、とにかくアリスは無事らしい。今自分がやれる事は、目の前の女の子を助ける事だろう。

 セイジは片膝を立てると、そっと彼女の小さな手を取った。

「君も一緒に行こう。とにかく、ここを出なくては」
「わたしは存在していないから、連れて行かなくてもいいのよ」

 女の子が、小さく頭を振った。

「待つ事を、彼と約束したの。あの子が残した心の写しだとしても、それまでは、わたしが『彼女』の側にいると決めたの」

 彼女はそう言って、心の底から幸福そうに微笑んだ。

 セイジは、しばらくその笑顔に見惚れた。綺麗な微笑みだと思った。どうしたら、こんなにも幸福そうに笑えるのだろう。この暗闇には、彼と彼女の他には、何も存在しないというのに。

 しかし、セイジはふと、小奇麗で可愛らしいその微笑みに既視感を覚えた。彼がこれまでに出会った事のある誰かの面影が重なりかけたのだが、考え出すと途端に、思い出せなくなってしまう。

 あれは、一体誰だっただろう。

 セイジは、少し考えた。一瞬、何者かの姿が脳裏を過ぎったような気がしたが、うまく記憶の倉庫から引き出す事が出来なかった。彼には女性の知り合いは限られているから、もしかしたら、ログやスウェンと付き合う中で出会った、美しい日本人女性の誰かに重ねてしまったのかもしれないが……

 その時、女の子の華奢な手が、悩んでいたセイジの手を握り返した。

「どうか、お願いね。アリスには、これ以上の迷惑はかけたくないの。わたしは『エリスの世界』で待っているから、きっとあの子を連れ出してくれるって約束して。わたしが、あの子を近くまで届けるから、間に合わなくなってしまう前に、早く辿り着いて」
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