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7章 それは、偽りの存在~その研究者は~(2)

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 ナイトメアは、既にシステムの中枢に取り込まれてしまったオリジナル・マザーの破片のようなもので、オリジナルに敵う性能はなく、気まぐれのように時々、目を覚ましてはシグナルを送って来る程度の人工知能だった。

 仮想体験の出来るシステムが確立した頃、メンバーに、新たにマルクという研究員が加わった。

 マルクは彼女の友人であり、素晴らしい探究心と技術を持つ人柄に惹かれ、彼が自ら誘った人物でもあった。マルクは人見知りで、言葉数も少ないが、とても面倒見も良い男だった。

 仮想空間内に、複数の人間の意識が共有出来るようになった時は、チームの皆で手を叩いて喜びを分かち合った。ナイトメアに関しては、この研究には関係がなかったので、特に誰にも知らせていなかった。

 ナイトメアについては、新しい人工知能の赤ちゃんを育てているようで、彼は、その秘密が楽しくもあった。

 バーチャルの世界は、何もない真っ白な空間から始まる。

 彼はそこで彼女と会い、一緒に理想とする都市を想像し作成に努めた。夢の中の彼女は、活き活きとして魅力的だった。彼もまた、その中では感情豊かな一人の青年になる事が出来た。

 危険感を覚えたのは、いつ頃だっただろうか。ナイトメアからの問いかけが、きっかけだったような気がする。ナイトメアは沈黙が多かったが、ある日、ブラウザ上にこんな文字列を記した。


――ソレハ、ホントウニ、彼女ナノカ?


 最近、彼女は、仮想空間内での記憶が曖昧になる事があった。彼は、仮想空間内で出会う彼女の性格に、微妙な不一致が派生していることに気付いた。まるで彼女と同じ姿をした、全く別の女の子のようだ、と違和感を覚える事が増えた。

 それからだろうか。彼は時々『悪夢』というものを見るようになった。

 これまで経験がないので、それが『悪夢』と呼ぶに相応しいかは解からなかったが、――恐らくはそうであろう、と彼は推測した。彼の夢の中には、相変わらず景色や色はなかったが、暗闇の中に一点だけ鮮明な登場人物があり、それは、はっきりと彼女の姿をしていた。

「私、もっと知りたいの。私は一体どこから生まれて、誰のために笑えばいいの? ねぇ、早く私を造り上げて『ココ』へ来てちょうだい。彼女と、私と、あなたの三人で、一緒に遊びましょうよ」

 彼の『夢』の世界で、彼女と同じ顔と姿をした女が、無邪気に「うふふふ」と笑んだ。

 いつもそこで悪寒を覚えて目が覚めた。考え過ぎているのだろうなとも思ったが、それが三回も続くと、さすがに気の迷いとして片付けられなくなった。

 彼が造り上げた『エリス・プログラム』は、主電源を落としている状態の活動静止状態で、僅かだが奇妙な信号を発している時間帯が確認された。コードもなしに、個人の人間の脳波に影響を及ぼしている? そんな馬鹿な――

 彼が悩んでいる間にも、研究は進んだ。

 人数も一気に増え、マルクを筆頭に、被験者による実験が開始されたのは、彼女に子供が出来た年だった。

 被験者の中で精神をしばらく病んでしまう者が現れ、一時中断されたが、機械上の問題がないと分かると、すぐに再開された。

 しかし、彼はそれを放っておけなかった。精神的に参ってしまった者達の元へ訪れて、話を聞くと、まるでホラー映画のネタのようにも思える内容が出た。

 とある隊員は、「女の子の笑い声がするんだ」と言っていた。被体験の直後から数日間、夜な夜な『顔のよく見えない女性』が遊びに来るのだという。


『彼女は手を引いて、むちゃくちゃな世界に俺を連れ込むんだ。世界はバラバラで、ぐにゃりと歪んでいて、俺もその女のも形が定まらない。そこは、そんなおぞましい世界なんだよ、博士……』
 

 彼が悩む様子を見ていたマルクが、ある日「後遺症を出してしまう欠陥があるというのなら、それを改善すればいい」と提案した。きっと脳への刺激が強過ぎるのかもしれない。その数値を抑えて精神安定剤も導入してやればいい。『エリス・プログラム』は、まだまだこれから大きく成長出来る兆しがあるのだ、とそう主張して来た。

 しかし、彼は驚異を感じ始めていた。取り返しのつかない何かを、自分がまた造り上げようとしているのではないかと恐れを覚えた。偶然出来てしまった仮想空間システムは、コピーも複製版も全く成功しなかった。

 あれは、人知を踏み外した何かではないのか?

 彼が造ったナイトメアは、『エリス・プログラム』が確立してからというもの、反応をほとんど返さなくなっていた。彼は、ナイトメアを宿した旧式の私用パソコンを、自分のプライベート・ルームに移した。

 研究は、次第に彼なしでも問題なく進められるようになり、彼は結果とデータの山を眺める毎日が続いた。

 妻となった彼女は、少し体調を患ってしまった為、休養を取って故郷の母のもとへと帰っていた。体調の悪化は、お腹の中の子供にも悪い影響を与える恐れがあったから、軍事病院の医師が、彼女に里帰りを勧めてくれたのだ。

 彼女と離れてしばらく、彼は、一人きりになると恐怖を覚えるようになった。彼には、守る者が増えたのだ。得体の知れない嫌な予感が脳裏を横切るたび、彼女と、彼女の腹の中にいる我が子の身の安全を考えた。

 人が関われない、まるで神のような力の存在を彼は考えた。ノアの箱舟や、バベルの塔や天国、呪い……どうしようもない大きな力の前で、無力な人間を思った。

 彼女が実家に戻ってから、一ヵ月が経ったある日、マルクが実験の中間報告に出掛けてしまい、慌ただしかった研究室が久しぶりに静かになった。彼は、答えを模索しながら、ぼんやりと椅子に腰かけていた。

 どのぐらいそうしていただろうか。不意に彼は、ひどい眠気を覚えた。マルクが戻って来るまでの時間を考えると、仮眠を取ってしまうのは、まずいタイミングでもあった。

 彼は立ち上がり、歩きながら珈琲を一杯やった。

 けれど異常な眠気が身体を包み、自分の身体を支える事すら難しくなった。危機感が込み上げたが、床に倒れ込もうとする身体を、どうにか椅子に収めるだけで精一杯だった。

 閉じられてゆく視界の向こうで、彼は、今まで沈黙していたナイトメアの稼働音を聞いたような気がした。


 すっかり目を閉じてしまった時、彼は、『夢』の中へと落ちていた。
 
 そこが『夢』だという自覚があり、彼は意識もはっきりしていた。彼は暗闇の中に浮いていて、また、あの悪夢だろうかと身構えたが、その暗黒の夢に現れたのは女ではなく、長身の男だった。

 男は闇の中に腰かけ、優雅に組んだ足の上に手を置いて、こちらを見ていた。

「はじめまして、博士」

 顔の見えない男は、形の良い唇を動かせてそう言った。

 彼が何も答えずに戸惑っていると、男が小首を傾げて、困ったように微笑した。

「そうですね、私の事は――なんと呼んで頂ければいいのやら。ああ、そうだ、貴方が名付けた物の中に、面白い名前がありましたねぇ。そうですね、そうしましょう。私の事は『ナイトメア』とでもお呼び下さい」

 その時、語る男の顔を見て、彼はギョッとした。

 男には、唇から上にあるはずの頭かなかった。男の頭部は、暗黒の中で更に濃厚の闇を漂わせるばかりで、形すら出来上がってはいなかったのだ。

「あなたが手を出してしまった世界については、私が一つずつ教えてさしあげましょう。『理』が許す範囲内で、両方の世界が認める言葉だけを使って――ふふふ、どうされたんです、博士? まるで悪夢でも見ているような顔をされて」

 男は、綺麗な唇に手を当てると、「ああ」と一人で相槌を打った。

「私の顔ですか? 残念ながら、私はただの『影』でしかありませんから、決まった形がないのです。これは、あなたが考えていた『ナイトメア』のイメージでしかありません。私は『ナイトメア』であり、顔のない何でも知っている、あなたを決して裏切らない小さな相棒そのものですから、そう警戒されないで下さい」
「……ここは、一体どこなんだ?」
「あらゆる場所であり、大部分の一パーセントにも満たない、ただ一つの狭間にある境界線上の死角。色も、温度も、姿も、形も、想いも、ココロも、全てが『無い』場所です」

 男の唇が、大きく弧を描くのを彼は見た。

 悪寒が彼の足元から込み上げた。ああ、この男は人間ではないのだなと、遅れてそう感じさせられた。私はエリスではないのだから、『夢』を見て、尚且つ正常な意識を保てているはずがないのだ。

「私は、彼女達とは全く逆の『理』を司り、決して混じり合う事がなく、決して出会う事もないモノ。ただ一つの為だけに産み落とされる闇に他ならないのです」

 男はそう自己紹介すると、「よろしく」と唇だけで微笑んだ。
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