「蒼緋蔵家の番犬 1~エージェントナンバーフォー~」

百門一新

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作戦決行の朝、家庭事情で迷惑を被る(2)

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 しばらく間を置いた後、夜蜘羅が長い息をついた。

「なるほど、話は分かったよ。でも、私は蒼緋蔵の特殊筋である『番犬』が、ただの副当主になり下がろうと構わないんだ。『番犬』として資格を持っているらしい君に、個人的に興味を抱いていてね」
「は。番犬? 父さんは犬を飼ってませんし、そんな話は聞いたこともないですけど。あなたが何を言っているのかさっぱり――」
「ひとまず、我が家の特殊筋から生まれた『働き蜘蛛』と手合わせしてくれないかな」

 夜蜘羅が唐突にそう告げて、こちらの言葉を遮った。

 なんだか嫌な予感が的中したような台詞だと感じて、雪弥は思わず頬を引き攣らせて「はい?」と聞き返していた。

 ベンツの窓ガラスは、こちらから見ると周囲の景色を写し取るだけの黒だったが、その向こうで夜蜘羅が笑ったような気がした。それが苦手な兄の存在と重なり、思わずじりじりとあとずさってしまう。

 分かった、こいつは絶対ドSだ。

 しかも、優しさオプションがついた性質の悪いタイプの方の、超ドS。

 雪弥は手つかずになっている家の事情と、黒いベンツの彼と対峙してしまっている今の状況から逃げ出したい衝動を覚えた。しかし、こちらの気持ちもお構いなし、といった様子で夜蜘羅は続ける。


「手加減するようには言ってあるよ。これは『小蜘蛛』だから、君が殺すのには全然構わないんだけどね――ああ、でも帰る時は『糸』を辿らないと大回りになるし、さて困ったな」


 どうしようか、と夜蜘羅の声が笑んだとき、車体の下から強烈な殺気が溢れ出し、大きな黒い影が明確な殺意を持って飛び出してきた。

 それを敏感に察した雪弥は、反射的に地面を蹴り、マンションの三階部分の高さまで飛び上がっていた。ふわりとなびく前髪から地面を凝視した彼は、そこに人間とは呼べないモノがいることに気付いて、黒いコンタクトレンズがされた目を見開いた。

 車体の長いベンツの脇に、猫背のように盛り上がった屈強な肩を持ち、アンバランスなほど長い四肢をした二足歩行の『ナニか』が佇んでいた。

 二メートルほどあろうかという身体は、伸縮性の黒い服に包まれており、それはやけに細い腰周りをしている。ぴったりとした黒い衣服の袖口から覗いた手は、獣というよりは昆虫のごつごつとした棘のような剛毛に指まで覆われ、サージカルステンレスを鋭利に尖らせたような獣の爪が五本付いている。

 その剣のように太く弧を描いた爪は、一掴みで軽自動車のフロント部分を切り刻めるほどの大きさがあった。手首部分から先だけがやけに巨大で、それが重々しく地面に垂れ下げている光景も異様だ。

 否。異様なのは、全体的な骨格や形ばかりではない。

 晒された男の顔は、火傷跡のような黒い皮膚に覆われていて頭皮には毛がなかった。穴が開いただけの潰れた鼻下には、割れ広がった長く広い口があり、短い額に小さな三つの赤い瞳がそれぞれ違う方向に動いている。

 これは人間じゃない、と呟いた言葉が唇の上を滑り落ちる。

 化け物の三つの赤が、途端に雪弥を追うように宙へ向けられた。その様子を車内から見ていた夜蜘羅が「素晴らしい!」と感嘆の声をもらす。「なるほど、身体能力は五分五分といったところかな? ますます楽しみでならないよ」という言葉が聞こえた。

 雪弥はそれに反応を返す余裕もなく、警戒したように化け物を注視したまま、マンションのレンガ壁に垂直に着地した。


 ブレザーの裾とネクタイが宙を舞い上がり、それが重力に従って落ち着く時間も与えないかのように、唐突に化け物がその身を揺らして一気に跳躍した。


 化け物がアスファルトを砕くほどの力で、ミサイルのようにこちらに突っ込んできた。そのコンマ一秒遅れでレンガ壁を蹴り上げて移動した雪弥は、異形の男が標的を見失ったように宙で動きを止めたのを見て、素早くその背後に回って思い切り足を振り回した。

 しかし、殺すつもりで化け物の背骨に強靭な蹴りを叩きこんだところで、雪弥は露骨に顔を歪めて舌打ちした。真っ二つに折ってやろうとした化け物の背中は、まるで何重もの骨と筋肉に覆われているように頑丈だったのだ。

「無駄に頑丈みたいだなッ」

 雪弥は小さく呻き、すかさず空中で瞬時に体制を変えて、その背中に足を突き落として第二派を放った。地面に叩きつけるべく、装甲車を叩き凹ませるほどの力を背骨に受けた化け物が、筋肉と骨を軋ませて地面へと引き寄せられる。

 しかし、その直後の刹那、化け物の首が百八十度反転してこちらを見た。

 一メートルの距離で目が合った雪弥が「げっ」と、気味の悪さに顔を歪めた瞬間、黒い左腕が軟体動物のように伸びてこちらに振るわれた。その腕が弾かれるように眼前に迫ったかと思うと、その鋭い爪が明確な殺意で持って襲いかってくる。

「くそッ、なんつーでたらめな身体してんだよ!」

 間一髪で鋭利な凶器から身をかわし、雪弥は悪態を吐いた。

 本気で集中しないとまずい相手だと判断し、ずっと持ったままであった鞄を仕方ないとばかりに放り捨てた。なびいた彼の髪先が、わずかに掠った銀色の鋭利な爪先に切れ、その風圧が耳元で凶暴な音を立てる。

 黒いフィルター越しに碧眼が淡く光り、はっきりと異形の標的を捕えた。そのコンマ数秒の間に雪弥は右手の指を揃えると、降下する化け物を追って共に地面へと向かった。


 化け物の身体が、アスファルトを砕きながら地面へと叩きつけられるのと、その肉体の一部が切断音を上げて宙に投げ出されたのは、ほぼ同時だった。


 砕かれたアスファルトが舞い上がり鈍い地響きが起こる中、数秒遅れで地面に到着した雪弥は、その場でバク転するとベンツの車体上部へ着地した。視線を地面にめり込んだ化け物の身体に縫い付けたまま、肩にかかったネクタイを、左手でブレザーの中に押し込む。

 そのタイミングで、一瞬にして切断されていた異形の右腕が落ちてきた。

 鋭利な爪を地面に突き刺すように着地したその腕の切断面は、まるで高速再生でも始まっているかのように、ゼラチン状の血がぶよぶよと振動していた。少し周りに飛び散った血液らしきものも同様で、液体化しないまま、気味悪く震え続けている。

 蹴った感触は確かに生き物だった。その感触を思い返しながら、雪弥は指先に付着したゼリーのような赤い物質を払い落した。

 痛みを感じていない化け物の様子は、先日レッドドリームで豹変した里久を思い起こさせた。しかし、骨格や筋肉の動きは常識を逸していた、吹き出しかけた血は一瞬で生き物のように切断面に引きこまれたのを見ていたし、飛び散ったゼリー状の血が、続いて固形化するように赤黒い石となるのも異様な光景だった。


「素晴らしい! 自身の爪で相手の腕を切り落とすとはね! まさか君が『爪』を隠しているとは思わなかったよ、実に素晴らしい!」


 速すぎて目で追えなかったよ、と愉快そうな声が聞こえて、雪弥はじろりと足元を見降ろした。車内に座っている夜蜘羅を想像し、気分を害して眉間に皺を作る。
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