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惨劇へと繋がる旧帆堀町会所(2)
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思えば彼はまだ『学生』の身であるのだ。社会に出ているわけではないので、子供みたいに思えてしまうのも仕方がない事なのだろう。
覚せい剤に手を出したとはいえ、鴨津原は今事件の被害者でもある。通常の覚せい剤であったのなら、処罰と更生によって彼は社会に復帰する資格を持ち合わせていた。だから、出来るのなら助けたいと考えていたことを、雪弥は思い出した。
彼がどれほどブルードリームを使用し続けたのかは分からないが、レッドドリームに手を出していなければ助かるのだろう。こうして話している限り、里久のように会話が出来ないほどの異常をきたしているわけでもない。
「僕が殺させません」
雪弥は静かに告げた。怯える青年を落ちつかせるように笑みを浮かべ、自分が彼の敵ではないことを示す。
対する鴨津原が「じゃあ」と、喉の奥から声を絞り出して、こう続けた。
「…………俺は、どうすればいいんだよ……?」
問い掛ける声は震え、激しい感情を殺した瞳は、疑いの色を孕んで雪弥を見つめていた。鴨津原は、突然現れた雪弥を信じてはいないが、そこには小さな希望にもすがる想いがあった。
研究班たちが治療法を早急に見つけることを願いながら、雪弥は嫌な予感を頭の片隅に押しやった。一歩だけ足を進めたものの、彼がギクリと警戒する様子を見て、一旦立ち止まって柔らかくはっきりと言葉を紡いだ。
「僕は、鴨津原さんを守りたいんです」
自分が向かうとナンバー1に告げた時の心境で、雪弥は鴨津原を真っ直ぐ見据えてそう言った。
助けるのが間に合わなかった里久のことを考えていた。自分は、目の前の彼の友人の四肢を切り落としたうえ、最後は人でないまま死を迎えさせた。せめて次こそはと、らしくない情に心が小さく揺れる。
そのとき、階段の下から一つの声が上がった。
「鴨津腹健、そこにいるんだろう? 素直に降りてくれば手荒なことはしない、降りて来い!」
それは、急かすような早口だった。部屋を満たす埃と黴臭い空気が、その怒号するような一方的な主張と共に耳障りに振動した。
※※※
保健室で明美と話した後、十分な睡眠を取った常盤は、午後の授業を終えても気力が残っている状態だった。騒がしい教室に気が散ることもなく最後の授業が終わり、担任である女教師の話を聞いてあと、いつも通りすぐに教室を出た。
木曜日の放課後も、教室の外には相変わらずの光景が広がっていた。
廊下で教師を捕まえて勉強や進路の話しをする者や、他愛ないお喋りを続けながら歩くたくさんの生徒の姿があった。受験生であることを忘れたようにはしゃぐ男子生徒が、駆け出した廊下でクラスメイトや教師に叱られる光景も、すっかり見慣れてしまった光景だ。
常盤は「馬鹿じゃないか」という言葉を覚えたが、いつも以上にゆっくりとした歩調で歩いた。目に映るものを静かに捕え、耳に入る音を無意識に追う。
彼の足が不意に止まったのは、三組の教室から暁也が出てきたときだった。
二年の頃に同じクラスだったが、暁也が彼を嫌うように、常盤も彼の姿が視界に入ると条件反射のように顔を歪める。何故なら、悪党になれそうな奴だと抱いた第一印象を砕かれて以来、常盤は暁也を毛嫌いするようになっていたからだ。
初めて暁也を見たとき、体力と喧嘩に優れ、リーダーに信頼を寄せる悪党になれるだろうと常盤は思った。しかし、暁也は群れることを嫌い、編入当日の喧嘩以来大きな問題も起こさなかった。
学校生活に問題があることは不良らしかったが、学年主席の常盤に二点差の成績を叩きだしていた。しばらく彼を観察した結果、正義感と真っ直ぐな根を持っていると気付いた時の常盤の失望感は大きかった。
一匹狼の不良みたいである癖に、暁也には迷いがないのだと分かった。
彼は自分の中に、確立した正義を持っている少年だったのだ。
昨年町で見掛けた際、信号もない横断歩道をのろのろと歩く老婆が、数組の自動車に迷惑がられている光景に遭遇した事がある。そこに一台のバイクが通りかかって近くで停まり、車のクラクションを鳴らす大人たちを叱り付けて老婆の荷物運びを手伝った。それが、当時高校二年生だった暁也だった。
三学年に上がってからしばらく距離を置いたせいか、常盤は今の暁也を見つめていても、ひどい苛立ちを感じないことに気付いた。
ただ意味のなく騒いではしゃぐような、ガキみたいな馬鹿よりはマシか……。
そう、らしくないことを考えて歩き出したとき、数学教師の矢部と共に、暁也を追って修一が教室から廊下へと出てくるのが見えた。
勉強は出来ないが運動神経抜群で仲間想いの比嘉修一は、常盤の理想とする手下像に近いものを持っていた。信頼と絆を大切にし、考えることをすべてリーダーに任せて、指示に従いそうな人間になりうる可能性がある人材だ。
しかし、彼は落ち込んでいる生徒の話を、飽きずに延々と聞くほどのお人好しなので、悪党になるのは難しいことを常盤は悟っていた。それでも、裏表ない修一は嫌いではなかった。
廊下に出た暁也が、修一のそばにいる担任教師を見て「うげっ」と言い、げんなりとした表情をする。
「今日もかよ、あんたもいちいちしつこいなぁ」
「暁也君が逃げるから……」
四組の担任は、数学教師をしている矢部だ。彼は、校内でも有名なほど口ごもった話し方をする。数学の授業があるたび、常盤はさぼりたくなる衝動を堪えた。つい「矢部先生の声どうにかなんないの」と、彼と面識がない大学の富川学長にもらす事もあった。
そんな矢部と、暁也と修一の組み合わせを前に、常盤は冷静を装いゆっくりと歩いた。片足をかばうようにせかせかと進む矢部に対して、渋々付き合う事にした暁也の隣で、修一が「俺、特に希望する大学も職業もないんだよ先生」と告げる。
矢部は普段は少々背を丸めているものの、歩くときは背筋がぴんと伸びた。長身を誇張するように歩けばいいのに、と小柄な常盤は羨ましく思ってしまう。自分は長身で、威圧感を持った悪党になりたいのだ。
会話を始めた三人組を、常盤は歩調を上げて追い越した。途中暁也が怪訝そうな顔を向けてきたが、彼は気付かない振りで通り過ぎた。そのとき――
「僕は真っ直ぐ帰るから、二人とも頑張ってね」
やけに澄んだ声色を耳にして、常盤は足を止めかけた。しかしすぐに、「ちぇッ、他人事にのんきかましやがってよ」と暁也の声を聞いて先を急ぐ。
聖歌隊とかにいそうな声だったな。
常盤は何気なく思った。しっかりと出来あがった大人の声色に近いが、この葉の囁きのように身に沁み込むような心地よさがある。それは、矢部と正反対のものだと思った。
※※※
「やぁ、常盤君」
学校を出たところで、常盤は里久にそう声を掛けられた。一見すると眼鏡の好青年にしか見えないが、彼も覚せい剤に手を染めている一人である。
正門で待っているなんて珍しいな、と常盤は思ったが、ふと明日のことで今朝にメールで連絡した一件を思い出した。そもそも彼の場合は、先週渡した薬がなくなる頃合いでもあるので、早めに欲しいのだろうかと思って口を開く。
「里久先輩、メールくれれば持っていきましたよ」
下校中の生徒たちの中で、常盤は自然に話しを切り出した。
覚せい剤に手を出したとはいえ、鴨津原は今事件の被害者でもある。通常の覚せい剤であったのなら、処罰と更生によって彼は社会に復帰する資格を持ち合わせていた。だから、出来るのなら助けたいと考えていたことを、雪弥は思い出した。
彼がどれほどブルードリームを使用し続けたのかは分からないが、レッドドリームに手を出していなければ助かるのだろう。こうして話している限り、里久のように会話が出来ないほどの異常をきたしているわけでもない。
「僕が殺させません」
雪弥は静かに告げた。怯える青年を落ちつかせるように笑みを浮かべ、自分が彼の敵ではないことを示す。
対する鴨津原が「じゃあ」と、喉の奥から声を絞り出して、こう続けた。
「…………俺は、どうすればいいんだよ……?」
問い掛ける声は震え、激しい感情を殺した瞳は、疑いの色を孕んで雪弥を見つめていた。鴨津原は、突然現れた雪弥を信じてはいないが、そこには小さな希望にもすがる想いがあった。
研究班たちが治療法を早急に見つけることを願いながら、雪弥は嫌な予感を頭の片隅に押しやった。一歩だけ足を進めたものの、彼がギクリと警戒する様子を見て、一旦立ち止まって柔らかくはっきりと言葉を紡いだ。
「僕は、鴨津原さんを守りたいんです」
自分が向かうとナンバー1に告げた時の心境で、雪弥は鴨津原を真っ直ぐ見据えてそう言った。
助けるのが間に合わなかった里久のことを考えていた。自分は、目の前の彼の友人の四肢を切り落としたうえ、最後は人でないまま死を迎えさせた。せめて次こそはと、らしくない情に心が小さく揺れる。
そのとき、階段の下から一つの声が上がった。
「鴨津腹健、そこにいるんだろう? 素直に降りてくれば手荒なことはしない、降りて来い!」
それは、急かすような早口だった。部屋を満たす埃と黴臭い空気が、その怒号するような一方的な主張と共に耳障りに振動した。
※※※
保健室で明美と話した後、十分な睡眠を取った常盤は、午後の授業を終えても気力が残っている状態だった。騒がしい教室に気が散ることもなく最後の授業が終わり、担任である女教師の話を聞いてあと、いつも通りすぐに教室を出た。
木曜日の放課後も、教室の外には相変わらずの光景が広がっていた。
廊下で教師を捕まえて勉強や進路の話しをする者や、他愛ないお喋りを続けながら歩くたくさんの生徒の姿があった。受験生であることを忘れたようにはしゃぐ男子生徒が、駆け出した廊下でクラスメイトや教師に叱られる光景も、すっかり見慣れてしまった光景だ。
常盤は「馬鹿じゃないか」という言葉を覚えたが、いつも以上にゆっくりとした歩調で歩いた。目に映るものを静かに捕え、耳に入る音を無意識に追う。
彼の足が不意に止まったのは、三組の教室から暁也が出てきたときだった。
二年の頃に同じクラスだったが、暁也が彼を嫌うように、常盤も彼の姿が視界に入ると条件反射のように顔を歪める。何故なら、悪党になれそうな奴だと抱いた第一印象を砕かれて以来、常盤は暁也を毛嫌いするようになっていたからだ。
初めて暁也を見たとき、体力と喧嘩に優れ、リーダーに信頼を寄せる悪党になれるだろうと常盤は思った。しかし、暁也は群れることを嫌い、編入当日の喧嘩以来大きな問題も起こさなかった。
学校生活に問題があることは不良らしかったが、学年主席の常盤に二点差の成績を叩きだしていた。しばらく彼を観察した結果、正義感と真っ直ぐな根を持っていると気付いた時の常盤の失望感は大きかった。
一匹狼の不良みたいである癖に、暁也には迷いがないのだと分かった。
彼は自分の中に、確立した正義を持っている少年だったのだ。
昨年町で見掛けた際、信号もない横断歩道をのろのろと歩く老婆が、数組の自動車に迷惑がられている光景に遭遇した事がある。そこに一台のバイクが通りかかって近くで停まり、車のクラクションを鳴らす大人たちを叱り付けて老婆の荷物運びを手伝った。それが、当時高校二年生だった暁也だった。
三学年に上がってからしばらく距離を置いたせいか、常盤は今の暁也を見つめていても、ひどい苛立ちを感じないことに気付いた。
ただ意味のなく騒いではしゃぐような、ガキみたいな馬鹿よりはマシか……。
そう、らしくないことを考えて歩き出したとき、数学教師の矢部と共に、暁也を追って修一が教室から廊下へと出てくるのが見えた。
勉強は出来ないが運動神経抜群で仲間想いの比嘉修一は、常盤の理想とする手下像に近いものを持っていた。信頼と絆を大切にし、考えることをすべてリーダーに任せて、指示に従いそうな人間になりうる可能性がある人材だ。
しかし、彼は落ち込んでいる生徒の話を、飽きずに延々と聞くほどのお人好しなので、悪党になるのは難しいことを常盤は悟っていた。それでも、裏表ない修一は嫌いではなかった。
廊下に出た暁也が、修一のそばにいる担任教師を見て「うげっ」と言い、げんなりとした表情をする。
「今日もかよ、あんたもいちいちしつこいなぁ」
「暁也君が逃げるから……」
四組の担任は、数学教師をしている矢部だ。彼は、校内でも有名なほど口ごもった話し方をする。数学の授業があるたび、常盤はさぼりたくなる衝動を堪えた。つい「矢部先生の声どうにかなんないの」と、彼と面識がない大学の富川学長にもらす事もあった。
そんな矢部と、暁也と修一の組み合わせを前に、常盤は冷静を装いゆっくりと歩いた。片足をかばうようにせかせかと進む矢部に対して、渋々付き合う事にした暁也の隣で、修一が「俺、特に希望する大学も職業もないんだよ先生」と告げる。
矢部は普段は少々背を丸めているものの、歩くときは背筋がぴんと伸びた。長身を誇張するように歩けばいいのに、と小柄な常盤は羨ましく思ってしまう。自分は長身で、威圧感を持った悪党になりたいのだ。
会話を始めた三人組を、常盤は歩調を上げて追い越した。途中暁也が怪訝そうな顔を向けてきたが、彼は気付かない振りで通り過ぎた。そのとき――
「僕は真っ直ぐ帰るから、二人とも頑張ってね」
やけに澄んだ声色を耳にして、常盤は足を止めかけた。しかしすぐに、「ちぇッ、他人事にのんきかましやがってよ」と暁也の声を聞いて先を急ぐ。
聖歌隊とかにいそうな声だったな。
常盤は何気なく思った。しっかりと出来あがった大人の声色に近いが、この葉の囁きのように身に沁み込むような心地よさがある。それは、矢部と正反対のものだと思った。
※※※
「やぁ、常盤君」
学校を出たところで、常盤は里久にそう声を掛けられた。一見すると眼鏡の好青年にしか見えないが、彼も覚せい剤に手を染めている一人である。
正門で待っているなんて珍しいな、と常盤は思ったが、ふと明日のことで今朝にメールで連絡した一件を思い出した。そもそも彼の場合は、先週渡した薬がなくなる頃合いでもあるので、早めに欲しいのだろうかと思って口を開く。
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