「蒼緋蔵家の番犬 1~エージェントナンバーフォー~」

百門一新

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エージェント、県警本部長と話す夜(1)

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 午後九時五十分、雪弥は携帯電話のバイブ音で目が覚めた。

 電気も灯っていない室内は薄暗く、ベランダの開けられた窓から三日月の明かりが差しこんでいるばかりだった。

 雪弥は眠りの余韻に浸ったまま、帰宅して早々ナンバー1に連絡を取ったことをぼんやりと思い出した。そのあとの記憶が曖昧で、思い出そうとすると眠気に思考を中断された。

 心地よい眠気を貪るように二、三度寝返りを打ちながら、自分からナンバー1に電話を掛けてある用件を言い渡した後、「ちょっと眠いんで切ります」と一方的に通話を終わらせたことを思い出す。

 渋々といった様子で上体を起こすと、雪弥は制服のブレザーを脱いでベッドに放り投げた。早朝と帰宅直後にしか触れていなかった、持ち慣れた小型で厚みのある自身の携帯電話を手に取る。

 学園に持って行く代理の携帯電話は、ブレザーのポケットに入ったままであった。そちらからナンバー1に掛け直す事も出来たが、操作も不慣れだったのでまだ一度も使用していない。

 携帯電話の着信歴には、「不在」の表示がされたナンバー1の名が載っていた。雪弥はようやくといった様子で立ち上がり電気をつける。

 一瞬にして明るくなった室内から外を覗くと、心地よいほどの深い闇が小さな明かりを埋まらせて広がっていた。夜風は生温く、かいた寝汗にしっとりと絡みつくようだった。

 しばらく、雪弥は部屋の中央からベランダを眺め見た。持っていた携帯電話が静かに震えだしたのを合図に、それを耳に当ててベッドへと歩み寄る。

「はい、もしもし」
『私だ。お前、私の話も聞かずに電話を切りおって――』
「眠かったんです、仕方ないんです」

 やかましそうに片眉を引き上げ、雪弥は棒読みで言葉を並べてベッドに腰を降ろした。低い声が『本当に用件だけすませて電話を切るとは』と忌々しげに愚痴りかけて、ふと口調を和らげる。

『そちらの様子はどうだ』
「至って順調ですよ。あれ? さっきも言わなかったっけ」
『だから、私が話す暇もなくお前が電話を切ったんだ』

 まぁいいだろう、とナンバー1が重々しい息を吐き出した。

『お前のことだから、うまくやっていると思う。ところでお前、さっき高知県警察の本部長と話したいと言っていたな』
「ああ、そうそう。少し話を聞こうと思って」

 答えて、雪弥は大きな欠伸を一つもらした。『眠そうだな』と疑問形式に尋ねる低い声を聞きながら、のんきに背伸びをする。

「う~ん、なんか寝足りない感じ」
『そっちに着いた三日間、しっかり休んだだろう。たっぷり眠ったら三日間戦場を駆けまわれる人間が、任務一日目でというのも珍しいな』
「こっちは、おっさんだってバレやしないかと冷や冷やもんでしてね。非常に疲れるわけですよ。これで僕の寿命が縮んだらどうしてくれるんですか」
『お前ほどの図太い神経の持ち主が、そんな柔なものか』

 一言で意見を切り捨て、ナンバー1が興味もなさそうに鼻を鳴らした。

 くそっ、と声もなく悪態をついた雪弥は、舌打ちをする仕草で顔を歪める。話しを円滑に進めるためには黙っている方が利口だと自分に言い聞かせるが、唇を引き結んでいないと反論しそうだったので沈黙した。

『高知県警本部長の名は金島(かねしま)一郎(いちろう)だ。すぐに電話させる』
「……了解」

 雪弥は、ややあって答えると電話を切った。癖で胸ポケットに携帯電話を入れかけて苦笑する。学生服のシャツにそれがついていないことに気付いたとき、彼は携帯電話を手に持ったままふと顔を顰めた。

「あれ? 金島……?」

 最近どっかで見聞きしたような…………

 白鷗学園辺りだったと思うが、誰の名字だったかうまく思い出せなかった。「確か事前の資料と、クラス名簿でも見かけたような」と記憶を辿りかけた雪弥の手の中で、携帯電話がバイブ音を上げて震えた。

 思い出し掛けた事柄がぷっつりと途切れたが、「まぁいいや」と雪弥は楽観視して携帯電話の通話をオンにして耳に当てた。相手の応答を待ちながら、意味もなく指先を遊ばせる。

 唾を呑むような間を置いたあと、相手が息を吸い込んで言葉を切り出した。

『ナンバー4、ですか。……高知県警察本部長の金島一郎と申します』

 野太く低い声を、どこか意識的に和らげよようとするような様子で、受話器越しに言葉が響いた。丁寧さを装った台詞だったが、ひどくゆったりとした口調としぼられた声量の奥には竦むような戸惑いを感じた。

 特殊機関の名に委縮する者は多いのだ。雪弥は、慣れたように話し掛けた。

「はじめまして、ミスター金島。ナンバー4です。僕のことは好きなようにお呼びください」
『いえ、恐れ多くもそんな…………』

 曖昧に語尾が濁り、金島の言葉が途切れた。雪弥は肩をすくめると、「やれやれ」と内心ぼやきながら続けた。

「僕が茉莉海市の白鴎学園に潜入していることは、ご存知ですよね?」
『はい、一の番号を持ったお方から伺っております』
「よろしい。我々は全面協力を求めています。僕が既に白鴎学園に入っている事は、もうご存じですよね?」
『白鴎学園にいる事も、先程、知らされました……』

 震えた野太い声が答え、ゴクリと生唾を呑んだ後、それ以上には続かなかった。

 金島はきちんと受け答えする場面も見られ、これまでに関わった人間の中で比較すると、ひどく怯えている方でもない。しかし、所々で極端に震え上がっているような気がした。

 特に白鴎学園というキーワードを伝えた際の反応を疑問に思った雪弥は、ふと、自分の噂をどこかで聞いたのではないか、というついでのような推測も立ててしまった。勝手な噂に翻弄されて、仕事のやりとりが上手くいかないのを時々鬱陶しく感じる事があった。そういう時は、心の中に少しだけ冷たいものが満ちる。


 自分は、そこまで怯え恐れられるようなエージェントではない。気付いたらナンバー4の地位にいた。仕事を忠実にこなして遂行しているだけで、命の重さを軽んじているわけでもなく、守るべき大切なものだと知って――


 ぐらり、と脳が揺れた気がした。

 どうしてか考えたくなくて、雪弥は今必要のない個人的な思案を振り払うように立ち上がり、意味もなくベランダの奥に広がる夜空へと目を向けた。

 静寂したままの携帯電話を耳に当てながら、どこかで同じようにこちらの沈黙を聞いている金島を思い浮かべる。寝起きの汗が身体にまとわりついている心地悪さに、髪をかき上げて、ベランダから吹き込む夜風に身を冷ました。

「我々の許可なく、事件に介入することは認めません。常に指示に従ってください。今起こっている事件で明白になっていることは、白鷗学園に大量のヘロインがあること、そして学園内で覚せい剤が出回っていることです」

 東京の事件で我々が動いている事はご存知ですか、と雪弥は落ち着いた口調で言った。金島が電話越しで低く呻き、考えるようにしばらく間を置いたあと、ようやく『東京の事件と聞いております』と答えた。

「東京で、少々腑に落ちない薬物事件が相次いでいるんです。その新たな卸し場所が、この白鷗学園であると我々は考えています」
『先程話を聞かされましたが、今でも信じられません。……何故、学園に』

 雪弥は遅い返答を待つつもりで、ベッドに腰を下ろして説明した。

「盲点だった、と捜査に携わっている者は皆一同に述べています。話を聞かされた時は、まさか学校敷地内であるとは僕も思いませんでしたし――いろいろと疑問の残る事件ですが、やはり大量のヘロインが持ちこまれていると同時に、覚せい剤が出回っていることにも強い疑問があります」

 また少しばかり沈黙が続くんだろうな、とばかり思っていた。

 だから言葉を切ってすぐ、受話器越しからはっきりとした低い声が聞こえてきた時、雪弥は不意打ちを食らって目を丸くした。
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