「蒼緋蔵家の番犬 1~エージェントナンバーフォー~」

百門一新

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始まった「普通の高校生」と、懺悔の鐘(2)

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 しばし生徒達が黙っている様子を、女教師が不思議そうに見やった後、「素晴らしいわ、本田君、ありがとう」と拍手をしたところで、彼らは金縛りが解けたようにさわがしくなった。

「さっ、次はその和訳を、川島君にやってもらいましょうか」
「ええッ、俺っすか!?」

 前列の男子生徒が困ったように頭をかき、どっと笑いが起こった。

 先程のしばしの沈黙の間は「もしやへたを打ったか」と緊張したものの、結局なんでもなかったらしいと察した雪弥は、小さく息をついて席に座り直した。取り越し苦労だったようだ、と心の中で呟いて緊張を解く。


 そのとき、不意に前席の修一がこちらを振り返った。雪弥は「どうしたの」と言いかけて、思わず言葉を詰まらせて後ろへと身をひいた。

 
 修一が、好奇心と尊敬できらきらと瞳を輝かせていたのだ。これまでそんな瞳で見つめられたことがなかった雪弥は、気圧されるように身をそらせていた。真っ直ぐに向けられる無垢な輝きに耐えきれず、口許が引き攣る。

 今すぐ逃げ出したい衝動を堪えて、雪弥は先に声を掛けた。

「えっと、何かな? 比嘉君……?」

 どうしてそんなにきらきらしているの、とは言えずに、雪弥は言葉を濁らせる。すると、修一が気にした様子もなくけらけらと笑った。

「修一でいいって。やっぱお前、頭良いのなぁ。めっちゃ格好良かったぜ!」
「そ、そうなんだ……あの、別にすごい事ではないから。ほら、授業中だから前を見よう――ね?」
「おう、邪魔して悪かったな!」

 ニカッと笑って、修一が前に視線を戻していった。

 雪弥は内心ほっとしたが、別方向からの強い視線に、思わず作り笑いが再びピキリと引き攣った。横目にこちらを睨みつけていた暁也に気付き、ぎこちなく顔を向けて、仏頂面を更に顰めた彼を見つめ返す。

「あの、何かな金島く――」
「暁也だ」

 暁也が無愛想に口を挟んだ。女教師が別の生徒を指名して新しい英文を読ませ始めたタイミングで、一度黒板へと視線を戻したものの、彼はすぐこちらへと視線を滑らせる。

 何か聞きたいことでもあるんだろうか、と雪弥が頬をかいたとき、暁也は表情の読めない鋭い瞳でこう続けた。

「お前、外国にいたことがあるのか」
「え? なんで?」

 雪弥は尋ね返したあと、彼が優秀な頭脳を持っている生徒だと思い出した。聞き慣れている者はそれが本格的な現地の英語なのか、日本人形式の英語なのか分かるのである。

 とはいえ、これくらいの英会話能力を持った学生は、探せばいくらでもいた。国際社会とあって、日本人の大半が英語技術を磨こうとしている時代である。「本田幸也」の設定は、国際大学付属高校に通っていたという事になっていたので、そんな生徒が英語を得意としていてもおかしくはない。

「お前の英語、完璧だったからよ」

 憮然とした様子で暁也が述べた。雪弥は「そう?」とすました顔で言って、自然な笑みを作る。

「まぁ、前の学校ではすごく得意だったよ」
「ふうん」

 暁也が片眉を上げて、数秒の間押し黙ったあと、興味もなさそうに前へと向き直った。その会話を耳にしていた生徒たちが、「本田君、英語が得意なんだねぇ」と感心したような声を上げる。

 雪弥はノートを取りながら、あとは微調整で他の教科点を落とすだけだと考えていた。それが終われば、英語だけが得意な進学に悩む生徒像が完成するだろう。


『ここにいるのは、やっぱりつまらない人間ばかりだ』


 英語で語る暁也の声が聞こえて、雪弥は、ふと手を止めると彼を見た。

 修一は暁也が何を言ったのかさっぱり分からず、「突然どうしたよ」と怪訝そうに声を潜める。しかし、暁也は面白くもなさそうに黒板の方を眺めたまま、唇をへの字に曲げて腕を組んでいた。

 暁也の静かな声色は、答えの返ってこない独り言だとして呟かれたものだった。発音は日本人独特のもので、癖がなく聞き取りやすい。

 その独白に至るまでの事情は知らないが、大人である雪弥としては、何やらそれなりに悩みでもあるのだろうか、と感じてしまう。どうしようかと悩んだものの、彼より少し人生経験が長い身として、少しだけ助太刀するつもりで呟きを返す事にした。

 この子は英会話にも心得があるようなので、きっと伝わるだろうと思った。

『詳しい事は知らないけれど、つまらないと思うから、そう見えてしまう事もあるんじゃないかな。――ここは、とてもいいところだと僕は思うよ。何もかも穏やかで、平和だ』

 きちんと頭で和訳出来たかも雪弥には分からなかったが、暁也が少し驚いた顔をしてこちらを振り返った。「だから、突然どうしたよ」と修一は交互に二人を見やるが、答える人間はいない。

 なるほど、どうやら優等生らしく正しく英文を和訳できたらしい。

 雪弥はそれ以上何も言わず、口元に微笑をたたえて意味もなく手の中のシャーペンをもて遊んだ。しばらくそうしていると、二人の少年が「気のせいだったのかな」という顔で目配せをして、正面に向き直っていった。


 その時、重々しいチャイムが鳴り響いた。心臓を震わせる音色に、すべての生徒が魔法にかかったように動きを止める様子に目を向けて、雪弥は回していたシャーペンを止めた。


 ああ、懺悔の鐘か。

 聞いてすぐ、エージェントだった尾崎が設置したのだろうと察した。それは特殊機関本部を含めたすべての支部に定期的に流れる音色であり、罪を犯してはならない、犯した罪を忘れてはいけない。それでいて同じ過ちを繰り返してはならない、という意味があった。

 自分たちに寄越される依頼は、ほぼ処分決定が下ったものがほとんどだ。生きて返さず、命を取る事で任務が終了する。

 皮肉なものだ、といったナンバー1の言葉が雪弥の脳裏に横切った。お前は人が子孫を残す遺伝子レベル同様に、命を奪うこと、殺すという行為を本能的に知っているのかもしれない、と言って彼はらしくないほど悲しげに笑った。

 雪弥は十七歳の頃、彼に「だからこそ、命が消えるという重みを理解し難いのだ」と言われた。なぜかその言葉が鋭く突き刺さったのを、今でもはっきりと覚えている。

 その思い出に引きずられるように、殺すために生きているのだろう、とどこかのエージェントに一方的に非難された出来事が蘇った。サポートにあたっていた同僚たちが嘔吐する中で、サポートリーダーだった男がこう喚いたのだ。


――なぜッ、なぜ必要もなく『標的』共をバラバラにしたんだ! チクショーお前は、血も涙もない化け物だ! 俺はッ、俺は……! 

――お前とだけは一緒に仕事をしたくない!


 怨念のような呪いの声のすぐあと、ナンバー1がよく口にしていた「それでもお前は人間なんだ」という言葉が記憶の向こうから聞こえた気がした。別に気にしていないというのに、どうしてか彼は、そう言われて非難されるたび茶化しもしないで、雪弥が人間である事を勝手に肯定してくる。

 命は大事だ。僕はそれを知っている。

 生きている者は、壊れないように優しく扱わなければいけない。

 脳裏に焼き付いて離れない様々な声を、自分の言葉で塗り潰し、雪弥は授業終了を告げるその音を聞きながら、祈るように目を閉じた。
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