「蒼緋蔵家の番犬 1~エージェントナンバーフォー~」

百門一新

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始まった「普通の高校生」と、懺悔の鐘(1)

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 クラスで一番大柄な目が細い男子生徒によって、雪弥の席はすぐに用意された。相撲取りを目指しているというこの生徒は、森重(もりしげ)平(へい)次(じ)といった。高校生にしてはかなり大柄で、その身長も百八十センチを裕に越えていた。

 制服を着ていなければ、少し幼さが残る顔をした大学生である。雪弥は彼を見て、自分がすんなり高校生に溶け込めた理由の一つを理解出来たような気がした。

 実際、高校三年生の生徒たちは大きかった。大半は百七十三センチある雪弥より低かったが、発育の良い生徒たちは百七十センチ近くあった。顔や体格に幼さが残るだけで、ほとんど大人と変わらない。


 雪弥は日本の高校を途中で退学していたので、普通の高校三年生の基準が分からなかった。自分が高校生として溶け込めているとは到底思えず、全く疑われていない現状が不思議でならないが、エージェントの新人がよく言われているように、任務は度胸であると思い込む事にして半ば楽観を心がけた。


 じゃないと多分、精神的に参るのが先だ。今日一日がもたなくなる。

 修一の後ろに席を構えた雪弥は、黒板を向く少年少女たちを眺めるように、一時間目の授業を迎えた。真新しい教科書を開き、どうにか「緊張して授業を受けています」という振りをする。

 簡単な英文の教科書に飽きて眠気まで覚えてしまい、授業開始から五分で女教師の話しをボイコットした。黒板に書かれる文字を他の生徒たちのようにノートを取りながら、眠気覚ましに教室にいる子供たちの観察を始める。

 そこで雪弥が驚いたのは、眼鏡を掛けた「委員長」と呼ばれている前列の男子生徒よりも、斜め前に座っている暁也という少年の方がずば抜けて賢いことだった。

 一時間目の今の授業は、女教師が担当する英語だった。暁也は教科書すら広げてはいなかったが、その教師が唐突に突き付けた難しい問題もすらすらと解いた。授業の雰囲気を壊す事もなく静かに黒板を眺める姿は、雪弥の知っている不良とは少々雰囲気が違う。

 観察を更に続けると、暁也と真逆の生徒がいる事にも気付かされた。雪弥の前席にいる修一は、ほとんど勉強が出来なかったのである。

 基本的な問題は何となく理解しているようなのだが、ほぼ勘でやっているような気もする。教師に易しい問題を当てられても、修一は小首を傾げて「分かんねぇ」と真顔で返した。教師が落胆し、クラスメイトたちも呆れた表情を隠せないほど清々しい「だって分かんねぇんだもん」という言葉を残して、修一は席に着いた。

 受験生なので、自分の案内役をさせるよりは勉強をさせた方がいいのでは……

 雪弥は、後ろから見える引き出しから雑誌が飛び出している光景を見て思った。しかし、教師が修一少年の机の横に積まれている教科書やノートを注意する様子がなく、誰もそこに目を向ける様子がない事にも気付いた。

 ふと気になって、他の生徒たちに視線を滑らせてみた。

 女友達に手紙を書く女子生徒、教科書に落書きをして楽しむ数人の生徒たち。女教師の目を盗んで読書する真面目な風貌の少年に、机に堂々とお菓子を置いて、口をもごもごとさせる少年少女たち――

 なんだか、とてものんびりとした学校だ。

 高校生って、こんなものなのかなぁ。

 授業風景を後列席で眺めながら、雪弥はしばらく考えて、どうやらそういうものらしいと苦笑した。授業中であっても、この教室では楽しげな会話が溢れていた。時々女教師も黒板に字を綴ることを中断して、生徒たちの話しに入っていく。

 自分が学生だった頃は、勉強とストレス発散、母の見舞いばかりで気付かなかったのだが、思い返してみると似たような光景があったような気もする。考える事が多くて、やるべき事が重なっていて余裕がなかったせいで、今の今まで気付きもせず忘れていたらしい。


 そうか、『普通』ってこんなもんか。


 なんだか居心地が良いな、と雪弥は開いた窓の外へと視線を向けた。ナンバー1がいっていた「仕事の合間に休日を楽しめばいい」の意味が、少し分かったような気がして目を細める。

 耳に女教師が説明を再開した声が入り、生徒たちが緊張した様子もなく静まり返った。外には晴れ空が続き、下には穏やかな気候に包まれた運動場が広がっている。そこには中学生の幼さを残した男子生徒たちがいて、白い体育着で体育の授業を楽しんでいた。

 そういえば、僕が学生の頃って、こんな景色をゆっくりと見る暇もなかったな。

 何もしないまま、ぼんやりと過ごした記憶はあまりない。それを思い出して、雪弥は視線をそっと黒板に戻した。

 英字を書き綴り終わった小柄な女教師が、前列の女子生徒と話をしていた。彼女のお腹には、子供がいるようだ。少し膨らんだ腹部をさする姿に、他の生徒たちの雰囲気も穏やかなものに変わっていくのを感じる。

 そのとき、雪弥は不意に女教師と目があった。小さな丸い瞳が真っ直ぐに彼を見つめて、静かに微笑む。

「はじめまして、本田君」

 雪弥は、聞き慣れない名字に数秒遅れで顔を上げた。

 一瞬だけ「本田って誰だ」と思った直後に、今の自分がそうだったと再確認する彼に構わず、彼女はにっこりとして続ける。

「早速だけど、黒板に書かれている英文を読んでもらいましょうか」

 不意打ちを食らい、雪弥は自分に集まる視線を感じつつ硬直した。思考回路を高速回転させ、自分がどうするべきかを考える。

 学力の伸びに悩む生徒を演じたいが、ここは一つ、進学校に通っていた信憑性を高めたほうがいいだろうとコンマ一秒の内に彼は判断した。女教師に促されながらゆっくりと席を立ち上がり、「英語は得意だが他の科目の伸びに困っている学生像」を脳裏に思い浮かべる。

 数ヵ国語を話す雪弥にとって、黒板に書き綴られた長い英語を読むのは容易い事だった。質問攻めにされた際、国立国際大学付属高校から来たと彼は答えていたのだが、生徒たちの認識は「超難関大学へ続くハイレベルな進学校」から来たと事が大きくなっていた。

 こちらを見つめるクラスメイトたちの瞳には、「国際と付く進学校から来たのだから英語のレベルも高いだろう」という好奇心が浮かんでいる。雪弥はそれを感じながら、現地英語ではない、出来るだけ教科書に沿ったような英語を心掛けて口にした。

『――悲しみはときに残酷だ。懺悔の言葉も間に合うことなく、私はそれに打ちのめされる。ああ、愛しい人。あなたはどうして逝ってしまわれたのだ。私一人だけを、この世界に残して』

 しん、と教室が静まり返った。

 あまりにも静かすぎて、開いた窓から、運動場を走り回る少年たちの賑わいが聞こえてきた。どっと騒がしくなった隣の教室から「先生、この俺がその問題を解いてみせますよ!」と自信満々の声が上がり、「西田君うるさいッ」と女子生徒が毛嫌いするように一喝する声まで聞こえてきた。

 前列席で「委員長」と呼ばれていた男子生徒が、目を見開いたままゆっくりと眼鏡を押し上げる。他の生徒も、まさかという顔でぽかんと口を開けていた。
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