神様、俺は妻が心配でならんのです

百門一新

文字の大きさ
上 下
17 / 18

17

しおりを挟む
 病院生活は快適だが、残念なのは、数日間絶食しなければならないこと。点滴で受ける睡眠剤が強いために、副作用を起こしてしまうことだった。

 絶食治療の間は、お風呂も制限されるから髪がごわごわになってしまう。

 それが私は少し、辛かった。

『いくつになっても女だもの。少しでも綺麗でいたいと思うのは、いけないことかしら』

 私は面会に来る息子達に、笑ってそう聞かせた。

 私は癌を患ってしまったから、必ず病院へ通わなくてはならなかった。

 一つ一つのお薬も、私の身体には生きるために必要な物だ。

 身体中を流れている血や、呼吸するための酸素と同じで、薬を飲まなければ私はみるみるうちに衰弱し、腹水が醜く膨れ上がって、頭も朦朧として、そして短い間に死んでしまうのだろう。

 唯一の救いは、テレビで見るような抗がん治療がなかったことだ。

 お薬に少し混じっていると、お医者様は言っていた。

 手術はできない状態ということを話し聞かせてくれたお医者様は、そう語っていた時、私に付き添っていた末の息子と同じ顔をしていた。

 入院する生活が増えていくと、自然と看護師や、同じような入院の常連者と友達になれた。

 ずっと前に夫とは別居しているのと私が言うと、みんな『大変だったのね』と口を揃えて、同情し『一人身の方が気楽よ』と励ましの言葉を口にした。

 別居はしているけれど、私は、まだ彼の妻だ。

 指にはめた結婚指輪を外す気にはなれないでいた。

 息子達は離婚させるといきり立っていたけれど、あの人が判を押さなかったことを、私は少し嬉しくも思っていたのだ。

「私、結婚してよかった。不幸ではなかったのよ」

 私がそう言うと、友人や周りの人達は、少し変な顔をした。

 愛した人と目が合わないことが多くなったり、彼が子供達に辛く当たる時できたり、その仲裁に入ることだって心苦しかった。

 けれど頑張らなきゃいけない時は、どの夫婦にだって必ず訪れる。

 私は、どうやら心が強くなかったらしい。よく涙を流し、彼のために何ができるだろうと胸を痛めた。それがだめなんだと息子は叱りつけるみたいに言った。

『母さんっ、頼むから……!』

 愛や気持ちは目に見えるものではない。私は彼を信じていたけれど、あの時、今にも壊れそうな顔でそう言って『俺と来て』と言った愛する息子を、長男を選んだのだ。

 子供達には、ずいぶん心配をかけてしまった。

 食事の量が減って、腹水のたまりが早くなったことを感じ始めた頃、激痛と共に吐血して、気付くと病院だった。

 出血の原因を探して、そこを縛ってしまいましょうねとお医者様は言った。

 辛そうな顔だった。なかなか出血場所が探し切れないのだと、息子が教えてくれた。まるで細胞から滲み出すみたいに胃には血が溜まり、昼夜問わず突然嘔吐し、そのたび苦しい時間が続いて、私は意識が深く落ちてしまう。

 そして今回、退院の予定が掴めていなかった。

 二番目の息子と入れ替えで見舞いに来た末の息子が、その日、珍しく夫のことを私に聞いたてきた。つまりは、彼らの父親のことを。

 私は、夫を怨んでいないことを教えてあげた。すると彼は、

「母さんは優し過ぎるよ。だから、損をしてしまうんだ」

 そう言って少し唇を尖らせていた。

「いつか、あなたにも分かるわよ」

 私は、微笑んでそう答えた。

 いつまで経っても退院できる気配はなかった。

 出血しているという大腸の一部は手術したけれど、病室のある階から、下は行かせてはもらえなかった。

 免疫が落ちてしまっているから、何か必要な物があれば声をかけてくださいと、目元に黒子のある美人な若い看護士がそう言った。

 彼女はどことなく目を引きつける美しい人で、シーツをまとめる時の丁寧な指先が優しい女性だった。夕方から深夜まで、彼女が私の病室を担当していた。

 最近は、眠ることが多くなっている。

 どういったことを考えながら眠りに落ちてしまったのか、目覚めると忘れているのだ。

 でも、いつも懐かしくて、大切な日々を回想しているようにも私は思えた。

(元気になったら、また退院して、定期検査の生活に戻るだけ)

 何度も経験したことだったが、なぜかある時、不意に不安になった。

 自分がすっかり弱ってしまっていることを感じて、私は『もう長くないのかしら?』なんて心配になった。

 一番上の息子は強く反対していたけれど、私は、もうずっと前から、夫のことを気にしていた。

 もし最期になるのなら、少しでも会いたいと思った。

 欲を言えば話したかった。

 息子達も知らない、私達だけの記憶を、懐かしく語り合いたかった。

 でも彼に連絡を取ったとして、そこで拒絶されたら、きっと私は立ち直れないような気もした。

 月が明けてすぐ、これまでとは比べ物にならない発作が起きた。苦しみが身体を貫いて、意識が混濁した。何度か目を開けた覚えはあるけれど、私は霞んだ視界の先に、心配した顔の息子達の姿があったような気がしている。

(ああ――)

 私は再び遠ざかっていく意識の中で、なぜかまたしても夫のことを思い出した。

(もしかしたら最期までに会うのは、間に合わないかもしれない)

 そんな残念な気持ちが、私の胸の中いっぱい込み上げる。

 だって、しようがないではないか。

 私は、今でも、最初で最後までもきっと、あの人が好きなのだ。

 意識は、深く昏睡し始めていた。その間夢はあまり見なかった。浅い覚醒は、私を心配する子ども達の姿を見せ、また暗闇へと私を引き込んでしまう。

 病室に待機してくれている子供達の中に、夫の姿を思わず探してしまうたび、私は悲しみが込み上げるのだ。

 末の息子は、父親に見舞いを提案したと言っていた。

 けれど彼のことだから、会いには来られないだろう。

 なぜか私は、そんな気がした。最初で最後に愛した人だから、彼のことはよく知っている。

(あの人が会いに来られないのなら――私が、あの人に会いに行きたい)

 私は、何度目かも分からない『苦しい』の中でもがきながら、そう思った。

(けれど私は、この身体で、いったいどうしようというのだろう?)

 せめて、彼の夢の中へでも、会いにゆければいいのにと思った。

 もし、彼と今でも、一緒に暮らしていたのなら。

 私は苦しくて勝手に溢れてくる涙の中、あの人はきちんと食べているのかしら、子供達から連絡を受けて心配に思っていないかしら、平気かしら――なんてことが、たくさん、頭の中に沸き起こった。

『――』

 そうしたら、誰かが、私の名前を呼んだ。

 とてもよく知っているようで、知らない複数の温かな〝音〟。

 私は毎朝捧げている祈りの言葉を、思った。

 ああ、神様、守護神様、守護霊様、どうか夫に――。

             ※
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】Amnesia(アムネシア)~カフェ「時遊館」に現れた美しい青年は記憶を失っていた~

紫紺
ミステリー
郊外の人気カフェ、『時游館』のマスター航留は、ある日美しい青年と出会う。彼は自分が誰かも全て忘れてしまう記憶喪失を患っていた。 行きがかり上、面倒を見ることになったのが……。 ※「Amnesia」は医学用語で、一般的には「記憶喪失」のことを指します。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

【完結】ぎゅって抱っこして

かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。 でも、頼れる者は誰もいない。 自分で頑張らなきゃ。 本気なら何でもできるはず。 でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。

クラスメイトの美少女と無人島に流された件

桜井正宗
青春
 修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。  高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。  どうやら、漂流して流されていたようだった。  帰ろうにも島は『無人島』。  しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。  男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?

独身寮のふるさとごはん まかないさんの美味しい献立

水縞しま
ライト文芸
旧題:独身寮のまかないさん ~おいしい故郷の味こしらえます~ 第7回ライト文芸大賞【料理・グルメ賞】作品です。 ◇◇◇◇ 飛騨高山に本社を置く株式会社ワカミヤの独身寮『杉野館』。まかない担当として働く有村千影(ありむらちかげ)は、決まった予算の中で献立を考え、食材を調達し、調理してと日々奮闘していた。そんなある日、社員のひとりが失恋して落ち込んでしまう。食欲もないらしい。千影は彼の出身地、富山の郷土料理「ほたるいかの酢味噌和え」をこしらえて励まそうとする。 仕事に追われる社員には、熱々がおいしい「味噌煮込みうどん(愛知)」。 退職しようか思い悩む社員には、じんわりと出汁が沁みる「聖護院かぶと鯛の煮物(京都)」。 他にも飛騨高山の「赤かぶ漬け」「みだらしだんご」、大阪の「モダン焼き」など、故郷の味が盛りだくさん。 おいしい故郷の味に励まされたり、癒されたり、背中を押されたりするお話です。 

【本編完結】繚乱ロンド

由宇ノ木
ライト文芸
番外編は時系列順ではありません。 更新日 2/12 『受け継ぐ者』 更新日 2/4 『秘密を持って生まれた子 3』(全3話) 02/01『秘密を持って生まれた子 2』 01/23『秘密を持って生まれた子 1』 01/18『美之の黒歴史 5』(全5話) 12/30『とわずがたり~思い出を辿れば~2,3』 12/25『とわずがたり~思い出を辿れば~1 』 本編は完結。番外編を不定期で更新。 11/11~11/19『夫の疑問、妻の確信1~3』  10/12 『いつもあなたの幸せを。』 9/14  『伝統行事』 8/24  『ひとりがたり~人生を振り返る~』 お盆期間限定番外編 8月11日~8月16日まで 『日常のひとこま』は公開終了しました。 7/31 『恋心』・・・本編の171、180、188話にチラッと出てきた京司朗の自室に礼夏が現れたときの話です。 6/18 『ある時代の出来事』 -本編大まかなあらすじ- *青木みふゆは23歳。両親も妹も失ってしまったみふゆは一人暮らしで、花屋の堀内花壇の支店と本店に勤めている。花の仕事は好きで楽しいが、本店勤務時は事務を任されている二つ年上の林香苗に妬まれ嫌がらせを受けている。嫌がらせは徐々に増え、辟易しているみふゆは転職も思案中。 林香苗は堀内花壇社長の愛人でありながら、店のお得意様の、裏社会組織も持つといわれる惣領家の当主・惣領貴之がみふゆを気に入ってかわいがっているのを妬んでいるのだ。 そして、惣領貴之の懐刀とされる若頭・仙道京司朗も海外から帰国。みふゆが貴之に取り入ろうとしているのではないかと、京司朗から疑いをかけられる。 みふゆは自分の微妙な立場に悩みつつも、惣領貴之との親交を深め養女となるが、ある日予知をきっかけに高熱を出し年齢を退行させてゆくことになる。みふゆの心は子供に戻っていってしまう。 令和5年11/11更新内容(最終回) *199. (2) *200. ロンド~踊る命~ -17- (1)~(6) *エピローグ ロンド~廻る命~ 本編最終回です。200話の一部を199.(2)にしたため、199.(2)から最終話シリーズになりました。  ※この物語はフィクションです。実在する団体・企業・人物とはなんら関係ありません。架空の町が舞台です。 現在の関連作品 『邪眼の娘』更新 令和7年1/25 『月光に咲く花』(ショートショート) 以上2作品はみふゆの母親・水無瀬礼夏(青木礼夏)の物語。 『恋人はメリーさん』(主人公は京司朗の後輩・東雲結) 『繚乱ロンド』の元になった2作品 『花物語』に入っている『カサブランカ・ダディ(全五話)』『花冠はタンポポで(ショートショート)』

ハイブリッド・ブレイン

青木ぬかり
ミステリー
「人とアリ、命の永さは同じだよ。……たぶん」  14歳女子の死、その理由に迫る物語です。

処理中です...