神様、俺は妻が心配でならんのです

百門一新

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「事情はいくらかは聞いています。まず、始めに言っておかねばならないことは、私がその手のことを専門にしている者ではない、ということです。隣にいるこいつとは違って、属する寺も、流派も、師もありません」

 それでもよろしいですか、と彼は続けて尋ねてきた。

「は、はい。もちろんです」

 仲村渠は了承を示すため、さらに大きく頷いても見せた。

 すると東風平が、仲村渠の焦燥し切った顔色を見て、ふっと眉間の厳しい雰囲気を緩めた。

「心配せずとも大丈夫だ。あなたは、何も間違えてはいない」
「え……」
「すべては今、この現実で起こっていることであり、あなたの判断は正しいのです」

 東風平は、比較的静かな口調でそう告げてきた。感情の読めない鋭い眼差しは、先程から仲村渠を見据えたままだ。

 仲村渠はなぜか、どっと緊張が抜けるような心地に襲われた。

 その直後、ようやく巡り合えたのだろうかという期待と、不安が胸の鼓動を速くした。手と唇が震えそうになるのをこらえ、聞く。

「あなたには……私達の身に起こっている不可思議な現象が、すでに見えていたりするのですか? そんなこと、本当に在りうるのでしょうか」
「あなたに起こっている、いえ、正確に言えばあなたの妻に起こっている現象については、高位の守護霊・守護神・先祖霊には可能だ、とは聞いたことがあります」

 東風平は、唇を薄く開く。

「あなたはこの現象が発生してからは、知人とも会えなかったはずです。あなたの目には映らず、彼らからも、あなたたちの姿は映ることがないという不可思議な現象だ」
「時間や空間において、何かしらの相違が発生するんやろうなぁ」

 自称『ミムラ』が補足した。彼は、着流しの袖から白い手を出して、手振りで説明を交えながら、言う。

「その微妙なズレや違和感を防ぐために、第三者の記憶や違和感も修正されてしまう、と。かなりでたらめな現象ですが、まぁ、在り得ない話じゃないと思います」

 少し海の向こうの訛りが入った調子で、彼はそう語った。

 彼は、もう、ほとんど分かってしまっている。仲村渠は聞き終わるなり、姿勢を整え二人に頭を下げた。

「少し、話を聞いてくださいませんか」

 そうして仲村渠は、起こったすべてのことを、語り始めた。

             五

 肝臓癌を患っていた妻が、とうとう倒れたと聞いたのは、一年前のことだった。

 妻が癌であったという事実を、仲村渠はすぐに受け入れることができなかった。

 別居が始まってから十六年、仲村渠はその間の妻のことを何も知らないでいた。彼女が通院していたことさえも、彼の耳には知らされていなかった。

 十六年前、一番下の息子が成人してすぐ、仲村渠は二人の息子から唐突に妻との別居を宣言された。

 すでに家の中の荷物は片付けられており、妻の姿はなかった。

 仲村渠は納得いかず、離婚には反対し続けた。

 しかしその間にも別居生活が始まって、離婚届に判を押すこともなく、長い時だけが過ぎていった。

 長い月日が経つと、仲村渠の気持ちも落ち着いていく。

 そういえば一緒に暮らしていた時代もあったなと、時々思い出すばかりで、すべては終わった過去の話となっていた。

(離婚届けに、判を押してやろう)

 そう思ったのだが、その時はすでに五年の絶縁状態だった。仲村渠は生憎、息子達の連絡先も知らないでいた。

 一人暮らしが始まって七年が経った頃、仲村渠は結婚していた思い出が残っていた家と土地を売り、老後に暮らす家として那覇新都心に新しい一軒家を建てた。そうしてそこで、満期退職を迎える。

 その後も、彼の一日のサイクルは変わらなかった。

 朝は珈琲の香りから始まり、夜は少しの酒を楽しみながらテレビを眺め、早めに就寝する日々が続く。

 生活は穏やかなものだった。一人だから静か、と言えばいいのか。

 家庭菜園に興味はなかったが、庭はあったのでトマトやピーマン、ゴーヤーを育ててみた。

 仕事をしていた頃より読書の時間が増えたことは嬉しく、気が向けば私立図書館へも足を運んだ。

 歳のせいか、新しい恋人が欲しいとは思わなかった。

 もとより、仲村渠の毎日は仕事ばかりで女気のない男ではあった。

 告白を受けて付き合い、同棲して、結婚をしたのも、妻が最初で最後の女性だった。

 一人の生活は、仲村渠の性に合っていた。

 妻と二人で住んでいた頃と何も変わらない暮らし振りであると気付かされた時、彼女自身の生活がなかったのではないかと感じて、ある意味で衝撃を覚えた。

 いつでも妻は彼の後ろをついてきたし、自分から何かを言ったことがあったのか、探し出すことも難しい。

 本当に結婚してよかったのだろうかと、愛や恋について関心なく育った自分を仲村渠は考え始めることになる。

 そうしているうちに時が流れ、仲村渠の家に一本の電話がかかってきた。

 それは早朝のことだった。相手は一番目の息子で、いったいどうやって新しい番号を調べたのだろうかと仲村渠が不審に思う間に、息子は手短に用件を告げてきた。

『俺達は親父を許したことはない。けれど、俺達にも今、大きな息子や娘がいる――母さんは末期癌で、治療代がいるんだ』

 用件は、金の工面だった。

 仲村渠はいてもたってもいられなくなった。必要な金額を聞き出し、すぐに送金した。すっかり心は離れていたと思っていたのに、妻が心配でたまらない自分に気づかされた。

 仲村渠は妻に会わせてくれと頼んだが、長男はものの見事に一蹴した。

 何度連絡をとっても、同様の意見に関しては受け付けないと断られ、すぐに電話を切られる始末だ。

 誰に似たんだと仲村渠は苛立った。

 けれど、母親を愛して、必死に守ろうとする息子達を責めることは、やはりできなかったのも事実だ。

(俺は、――知らず知らずのうちに、ひどいことをしてきたのだろう)

 すっかり年を取ってしまうまで、自分についてくることで妻の心が満たされていると信じて疑わなかったのだ、と。

 仲村渠はそう、後悔し続けていた。

 妻の癌は末期ではあったが、まだ余命は残されていた。何度か入院生活を送らねばならなかったが、頭もしっかりとしていて、定期的な通院で済んでいる。

 肝臓癌は転移もほとんどないから、よく付き合っていけば、長く生きる者だっている。

 仲村渠は、数年前から食事療法はすでに行っていたという妻のことを、毎晩想った。

 けれど――。

『もう、だめかもしれない』

 そう連絡を受けたのが、今から一ヶ月前のことだ。

 末の息子が、泣きながら仲村渠に連絡を入れてきた。

 いい歳をした大人の男が泣くんじゃないと、仲村渠は叱った。動揺と弱気を押し殺して、彼は、末の子から慎重に話しを聞き出した。

 末の息子は、涙を呑みながら一生懸命に話してくれた。

 吐血で入院することは初めてではないが、母さんがどんどん弱っていくのが分かるのだ、と。血は臓器の組織から滲み出ていて、もう、どうしようもないと医者は言っていた。もう、そんなに長くはないだろう。昏睡に陥ることが多く、時々孫のことや、僕らのことまで分からなくなってしまう時があるんだよ……と。

 仲村渠は、自分にはもう何もできないんだ、ということが分かった。

 どうにか病院の場所は聞き出せたが、肝臓移植も不可能、ほとんど病院のベッドの上で眠りに落ちて、話せる時間もない事実が彼の行動を抑えた。

 長男が彼を会わせたくない理由も、今ではわからなくはなくなってしまっていたから、赴いてやることもできず、仲村渠は身動きできない状況だった。

 何かできることはないかと探し回っていた時、ちょうど古い友人を思い出した。

 今は仕事から引退して隠居生活を送っている、城間という男だ。
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