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とりあえず、不思議なこともあるのだと思うに留めた。そのまま彼が世話になっているというその友人宅について説明を受け、短く礼を言って、電話を切った。
現在の時刻を確認すると、書斎に入ってから七分という時間の経過があった。
足りないのか、足りているのかは不明だった。
やけに時間の経過が短いような気もするし、妥当なような気もするし……。
仲村渠は財布と携帯電話、車の鍵を持ってリビングに向かった。
テレビの前のソファには妻が腰かけていた。ほつれてしまった彼のシャツのボタンを、縫っているところだ。
「あら。どちらかへ出掛けられるのですか?」
「少し仕事の相談事を持ち掛けられてな。できるだけ早く帰るようにする」
「うふふ、あなたは慕われていますからねぇ。しようがないでしょう」
職場から彼の席がなくなって、もう長いことが経っている。けれど、彼は妻にあえてそれは言わないまま微笑み「そうだな」とだけ答えて、家を出た。
電話で教えてもらったその家は、南部の山中にあった。
てっきり北部にあるものだとかってに思い込んでいたから、電話で住所を聞いた時、それも仲村渠のフットワークを軽くした理由の一つだ。
(――友人の家に、近いな)
妻がああなってから一週間と少し、顔さえも見ていないが。
下の道路から見上げると、南部の緑の山々は雲の影を映していた。そこを車で登り始めてしばらく、道幅は狭く、雑草が生い茂るようになる。
途中、道が開ける場所があり、そこから見降ろせる町と海は素晴らしい眺めであった。
教えられた道順に車を進めると、切り開かれた山の中腹に出た。
所々に部落の住宅があった。緑の土地に埋もれそうな古い民家や、細い道の曲がり角にある小さなスーパーを通り過ぎ、仲村渠は山道をさらに奥へと進んだ。
しばらくすると、教えられていた『電工』という小さな古い看板を見つけた。
仲村渠はその看板に従って、道路脇の砂利道に車を乗り入れる。
砂利道の傾斜は急だった。舗装が悪い獣道が、車をガタガタと鳴らせた。
車一台がようやく通れる道だったが、対向車が来るだとか、人が歩いているという心配事には発展しなかった。
道を抜けると、車が五台以上も停められそうな砂利の駐車場が広がっていた。そこには、一軒の長い民家が佇んでいる。
木製の古い門の上には『電工』と記載のある看板が掛かっていた。
仲村渠は、先に停まっていた白いバンの隣に、自分の乗用車を停めた。
太陽はまだ天辺まで昇っていなかったが、日差しは肌を焼くように暑い。敷地の周りには雑草や木々が雑踏としており、ここが山の上なのだと改めて感じさせられる。やや強い風には、海の匂いも混じっていた。
門の出入り口には扉はなく、石垣で囲まれた塀の中は雑草が茂った庭と池、引き戸式の玄関があった。
玄関はすでに開かれており、着流し姿のあの男が仲村渠を出迎えた。
「お久しぶりですねぇ。改めて紹介させていただきます。僕は、ミムラと申します」
「はぁ、ナカンダカリです」
「ナカンダカリさんですか。ふむふむ、成程。これから会っていただく僕の友人の名前は、コチンダといいます。彼の方はお仕事がもう少しかかるそうなので、先に客間へどうぞ」
家主は、東風平というらしい。
仲村渠は頷き、名乗ったミムラという男の後ろをついて家に上がった。
東風平家は、昔の平屋敷造りで広かった。玄関から南側は仕事用の工場となっていて、北側は住居用だ。
案内された縁側の細い廊下に沿って、襖で閉ざされたいくつかの部屋を通り過ぎる。
廊下の半ばで、ミムラは足を止めると、畳み間に仲村渠を迎え入れた。
客間は、縁側に広がっている庭が一望できた。背丈の短い雑草が自由に成長を続けている。高さはまばらで、成長が早い種類の雑草に関しては、他の緑の中から花頭や葉っぱを突き上げて風に揺られていた。
どうやら家主は、庭の手入れには興味がないらしい。
奥でどっしりと腰を降ろしている桜の木だけが、青々と葉を茂らせていた。
「向こう側に、池がありましたでしょう? いちおう鯉や亀なんかがいるんですけども、まあ濁ってあまり確認しづらいというか。それでも彼は、どうやらあの厳つい顔で、一人池の住人達を可愛がっているようでしてねぇ。この前、池を覗き込んでいると、スッポンが飛び出してきて僕は危うく噛みつかれるところだったのですが、かえって私が怒られてしまった、みたいな?」
「いや、私に聞かれても分からないんだが……」
「まあ、そうですよねぇ」
ミムラはお喋りなのか、一人話で盛り上がりながら喉でころころと笑った。
「僕的には『なんで池からスッポンが出てくるんだ』と思いましたよ。けれど、彼に言わせれば『驚かすな』とそっけない一言。けれどね、昨日なんて、鯉に餌をあげているとすごくぶさいくでデカい金魚が飛び跳ねてきて、驚きました。彼の家の池は、ミステリアスな池に仕上がってますよ」
結局のところ、家主は細かいことに無頓着な性格――なのだろう。
とりあえずは、暇があるからといって池を見に行くのはよそう、と仲村渠はミムラの話を教訓のごとく思った。彼の話を聞くに、池には何かしら風変わりで癖のある生物が他にも住みついていそうだ。
部屋の中は、風通りがよく過ごしやすかった。
ミムラが冷茶を取りに戻り、仲村渠のテーブルを挟んだ向かいに腰を落ち着けた。
彼はテーブルに肘を置くと、開いているのか開いていないのか不明な狐目で、仲村渠をじっと眺めてくる。
(なんだろうなぁ……)
落ち着かぬ他人の家であるし、面構えの怪しい男には無言で意味もない視線を送られ続けているし、仲村渠は居心地が悪かった。
いったい何なのだろう。そう思って視線をそらしていたのだが、ふと、ミムラが自分の顔ではなく、頭の少し上をぼんやり眺めていることに気付く。
「あなたは――」
不思議に思って、質問しようとした時だった。
つの足音が近づいてきて、仲村渠はハッとした。
二人は家主の気配を感じて、ほぼ同時に廊下の方へと目を向ける。
すると、黒い煤のような跡が残るTシャツに、ブルーの作業用ズボンを履いた体躯の細い男がぬっと現れた。部屋にいる二人をそれぞれ見比べて、元々の造りらしい仏頂面をさらに顰めた。
筋肉質っぽくもあるが、身体は一見した際に『華奢』という言葉が浮かびそうな感じで、全体的に引き締まってもいる。肌は少し焼けていて、切れ長の目は眼光が鋭く、目や口許に刻まれる薄い皺は五十代くらいか。
「あなたが、客人か」
ハッキリとした低い声が問い、仲村渠は遅れて自己紹介した。
話し方に鈍りのない彼は「東風平といいます」と短く言って、ミムラを押しやるように彼の隣へと腰を下ろした。
東風平は胡坐をかきつつも、背筋は伸びていた。
「出迎えることができず、すまなかった。仕事が少し長引いてしまったものですから」
腰を落ち着けるや否や、彼は腕を組んで仲村渠を見据える。
「いえ、こちらこそお時間を取らせてしまって、申し訳ございませんでした。ミムラさんに『すぐ来てよい』という言葉を有難く受け取ってしまい……」
「いえ、それで構いません。ちょうど時間が空きましたから」
仲村渠が戸惑いつつ彼の隣へ視線を移動させると、東風平は「ああ」と言って、隣の男を顰め面で見た。
「彼のことは気になさらず。初対面で本名を名乗らない、怪しげで生意気な若造ですので」
「うわぁ、友人に対してそらぁひどい扱いやないか」
ミムラがぐずるみたいに言ったが、東風平は相手にしなかった。彼はその辺りに目をやってタオルを見つけると、額に浮かぶ汗を拭い、改めて仲村渠と向かい合った。
現在の時刻を確認すると、書斎に入ってから七分という時間の経過があった。
足りないのか、足りているのかは不明だった。
やけに時間の経過が短いような気もするし、妥当なような気もするし……。
仲村渠は財布と携帯電話、車の鍵を持ってリビングに向かった。
テレビの前のソファには妻が腰かけていた。ほつれてしまった彼のシャツのボタンを、縫っているところだ。
「あら。どちらかへ出掛けられるのですか?」
「少し仕事の相談事を持ち掛けられてな。できるだけ早く帰るようにする」
「うふふ、あなたは慕われていますからねぇ。しようがないでしょう」
職場から彼の席がなくなって、もう長いことが経っている。けれど、彼は妻にあえてそれは言わないまま微笑み「そうだな」とだけ答えて、家を出た。
電話で教えてもらったその家は、南部の山中にあった。
てっきり北部にあるものだとかってに思い込んでいたから、電話で住所を聞いた時、それも仲村渠のフットワークを軽くした理由の一つだ。
(――友人の家に、近いな)
妻がああなってから一週間と少し、顔さえも見ていないが。
下の道路から見上げると、南部の緑の山々は雲の影を映していた。そこを車で登り始めてしばらく、道幅は狭く、雑草が生い茂るようになる。
途中、道が開ける場所があり、そこから見降ろせる町と海は素晴らしい眺めであった。
教えられた道順に車を進めると、切り開かれた山の中腹に出た。
所々に部落の住宅があった。緑の土地に埋もれそうな古い民家や、細い道の曲がり角にある小さなスーパーを通り過ぎ、仲村渠は山道をさらに奥へと進んだ。
しばらくすると、教えられていた『電工』という小さな古い看板を見つけた。
仲村渠はその看板に従って、道路脇の砂利道に車を乗り入れる。
砂利道の傾斜は急だった。舗装が悪い獣道が、車をガタガタと鳴らせた。
車一台がようやく通れる道だったが、対向車が来るだとか、人が歩いているという心配事には発展しなかった。
道を抜けると、車が五台以上も停められそうな砂利の駐車場が広がっていた。そこには、一軒の長い民家が佇んでいる。
木製の古い門の上には『電工』と記載のある看板が掛かっていた。
仲村渠は、先に停まっていた白いバンの隣に、自分の乗用車を停めた。
太陽はまだ天辺まで昇っていなかったが、日差しは肌を焼くように暑い。敷地の周りには雑草や木々が雑踏としており、ここが山の上なのだと改めて感じさせられる。やや強い風には、海の匂いも混じっていた。
門の出入り口には扉はなく、石垣で囲まれた塀の中は雑草が茂った庭と池、引き戸式の玄関があった。
玄関はすでに開かれており、着流し姿のあの男が仲村渠を出迎えた。
「お久しぶりですねぇ。改めて紹介させていただきます。僕は、ミムラと申します」
「はぁ、ナカンダカリです」
「ナカンダカリさんですか。ふむふむ、成程。これから会っていただく僕の友人の名前は、コチンダといいます。彼の方はお仕事がもう少しかかるそうなので、先に客間へどうぞ」
家主は、東風平というらしい。
仲村渠は頷き、名乗ったミムラという男の後ろをついて家に上がった。
東風平家は、昔の平屋敷造りで広かった。玄関から南側は仕事用の工場となっていて、北側は住居用だ。
案内された縁側の細い廊下に沿って、襖で閉ざされたいくつかの部屋を通り過ぎる。
廊下の半ばで、ミムラは足を止めると、畳み間に仲村渠を迎え入れた。
客間は、縁側に広がっている庭が一望できた。背丈の短い雑草が自由に成長を続けている。高さはまばらで、成長が早い種類の雑草に関しては、他の緑の中から花頭や葉っぱを突き上げて風に揺られていた。
どうやら家主は、庭の手入れには興味がないらしい。
奥でどっしりと腰を降ろしている桜の木だけが、青々と葉を茂らせていた。
「向こう側に、池がありましたでしょう? いちおう鯉や亀なんかがいるんですけども、まあ濁ってあまり確認しづらいというか。それでも彼は、どうやらあの厳つい顔で、一人池の住人達を可愛がっているようでしてねぇ。この前、池を覗き込んでいると、スッポンが飛び出してきて僕は危うく噛みつかれるところだったのですが、かえって私が怒られてしまった、みたいな?」
「いや、私に聞かれても分からないんだが……」
「まあ、そうですよねぇ」
ミムラはお喋りなのか、一人話で盛り上がりながら喉でころころと笑った。
「僕的には『なんで池からスッポンが出てくるんだ』と思いましたよ。けれど、彼に言わせれば『驚かすな』とそっけない一言。けれどね、昨日なんて、鯉に餌をあげているとすごくぶさいくでデカい金魚が飛び跳ねてきて、驚きました。彼の家の池は、ミステリアスな池に仕上がってますよ」
結局のところ、家主は細かいことに無頓着な性格――なのだろう。
とりあえずは、暇があるからといって池を見に行くのはよそう、と仲村渠はミムラの話を教訓のごとく思った。彼の話を聞くに、池には何かしら風変わりで癖のある生物が他にも住みついていそうだ。
部屋の中は、風通りがよく過ごしやすかった。
ミムラが冷茶を取りに戻り、仲村渠のテーブルを挟んだ向かいに腰を落ち着けた。
彼はテーブルに肘を置くと、開いているのか開いていないのか不明な狐目で、仲村渠をじっと眺めてくる。
(なんだろうなぁ……)
落ち着かぬ他人の家であるし、面構えの怪しい男には無言で意味もない視線を送られ続けているし、仲村渠は居心地が悪かった。
いったい何なのだろう。そう思って視線をそらしていたのだが、ふと、ミムラが自分の顔ではなく、頭の少し上をぼんやり眺めていることに気付く。
「あなたは――」
不思議に思って、質問しようとした時だった。
つの足音が近づいてきて、仲村渠はハッとした。
二人は家主の気配を感じて、ほぼ同時に廊下の方へと目を向ける。
すると、黒い煤のような跡が残るTシャツに、ブルーの作業用ズボンを履いた体躯の細い男がぬっと現れた。部屋にいる二人をそれぞれ見比べて、元々の造りらしい仏頂面をさらに顰めた。
筋肉質っぽくもあるが、身体は一見した際に『華奢』という言葉が浮かびそうな感じで、全体的に引き締まってもいる。肌は少し焼けていて、切れ長の目は眼光が鋭く、目や口許に刻まれる薄い皺は五十代くらいか。
「あなたが、客人か」
ハッキリとした低い声が問い、仲村渠は遅れて自己紹介した。
話し方に鈍りのない彼は「東風平といいます」と短く言って、ミムラを押しやるように彼の隣へと腰を下ろした。
東風平は胡坐をかきつつも、背筋は伸びていた。
「出迎えることができず、すまなかった。仕事が少し長引いてしまったものですから」
腰を落ち着けるや否や、彼は腕を組んで仲村渠を見据える。
「いえ、こちらこそお時間を取らせてしまって、申し訳ございませんでした。ミムラさんに『すぐ来てよい』という言葉を有難く受け取ってしまい……」
「いえ、それで構いません。ちょうど時間が空きましたから」
仲村渠が戸惑いつつ彼の隣へ視線を移動させると、東風平は「ああ」と言って、隣の男を顰め面で見た。
「彼のことは気になさらず。初対面で本名を名乗らない、怪しげで生意気な若造ですので」
「うわぁ、友人に対してそらぁひどい扱いやないか」
ミムラがぐずるみたいに言ったが、東風平は相手にしなかった。彼はその辺りに目をやってタオルを見つけると、額に浮かぶ汗を拭い、改めて仲村渠と向かい合った。
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