不思議な夜行列車~お見合い婚約した彼女と彼の場合~

百門一新

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物語の終わりは(上)

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 寂しい。

 少年の言葉が、胸の底にすとんと落ちてきた。口から吐き出される吐息が、白く染まる。

 自分の事がよくわからなかった。それなのに、香澄は両親を失った胸の痛みが疼くような喪失感を覚えた。

 ふと顔を上げると、真っ暗な車窓にぼんやりと白く、横殴りの雪が浮かんで見えた。


 ――お前は、もう大丈夫だ。


 父の声が聞こえたような気がして、香澄は、はっと車内を見渡した。

「どうしたの?」

 少年が不安げな表情で言う。

 香澄は、自分の頬にざらついた手の温もりを感じた。途端に、後ろからふんわりと抱きしめられるような暖かさに包まれる。

 懐かしい匂いが鼻をつき、涙がこぼれ落ちそうになった。
 若い頃の父と母が、この夜行列車に乗っていたさまが、鮮明に脳裏に浮かび上がった。


 ――さあ、行きなさい、香澄。お前の帰るべき場所へ、夜行列車は停まってくれるから。


 お父さんはどうするの、と香澄は心の中で訴えた。

 答えはもうわかっていたのに、そう訊かずにはいられなかった。


 ――父さんはね、母さんのところへ行くよ。お前が心配で離れられなかったけど、お前はもう大丈夫だ。父さんと母さんはずっと香澄を愛しているし、遠くに離れてしまっても、いつまでもお前のことを見守っているから。


 すうっと温もりが離れ、見えない父の手が背中を押した。

 夜行列車がじょじょに速度を落とすのを感じて、香澄は車窓を振り返った。

 そこに見慣れた駅の構内が見えた。ゆっくりと舞い落ちる雪の粒が、誰もいない白いコンクリートの底に吸い込まれていく。

 学生時代、よく利用していた駅だった。

 やがて、夜行列車は鈍い反響を低くして停まった。

 青年が現れ、恭しく扉を開ける。

「お嬢ちゃんの、降りるべき場所が決まったようだね」

 香澄が静かに立ち上がると、少年が「待って!」と叫んだ。

「もう行っちゃうの? 僕、あなたともっと話したいんだ」
「坊や、引き止めちゃ駄目だよ」

 青年がにっこりとたしなめた。

 香澄は、今にも泣き出しそうな少年を振り返った。

「また、どこかで会いましょう」

 彼女はそう、無難な言葉を口にした。

 彼は賢い少年だ。会えなくなることはわかっているのに、彼は大きく息を吸い込むと、二秒ほど瞳を閉じ、それから

「また会おうね」

 と、しとやかな声を出した。

「僕、お姉さんのこと忘れないよ」
「うん。私も、きっと忘れないわ」
「もう一度出会えたら、またお喋りしてくれる?」

 香澄は数秒ほど間をあけ、「ええ」と微笑んだ。

 自分に子どもがいたのなら、こんな感じなのだろうという暖かさを胸に抱きながら。

 開いた扉の向こうは、死んだように風が静まり返っていた。どんよりとした深い夜の向こうから、雪が音もなくゆっくりと舞い落ちてくる。

 香澄は駅に足を踏み出した。

 いつもなら多くの人で賑わう駅に、人の姿は見当たらなかった。購買の灯りは消え、駅に沿って三つの街灯が白いコンクリートを照らし出している。

 凍てつく空気を吸い込むと、匂いもないのに自分が生まれ育った街を強く感じた。

 ふと、どこからか一組の足音が聞こえてくる。

 香澄は、背後で夜行列車が動き出すのを感じながら、ゆっくりとそちらへ首を傾けた。

 ぼんやりと浮かび上がった構内に、白い息を荒々しく吐き出して駆けて来る晃光の姿を見つけた。

(え? どうして――)

 いろいろな疑問が頭に渦を巻くよりも早く、彼女は晃光に強くかき抱かれていた。

 香澄はあまりにも強い力に痛みを覚えたが、彼が震えていることに気がついた。すぐ近くにある整った顔を見上げると、彼は涙を押し殺して泣いているようだった。

「婚約を取り消すなんて、嘘だと言ってくれ」

 香澄は、すぐに言葉を返すことが出来なかった。

 胸に冷たい痛みが走る。すると彼女が唇を開く前に、晃光は両肩を掴んで、切々と言ってきた。

「君を愛しているんだ、香澄。一緒にいると、心が暖かくなる。とても幸福な気持ちになれるんだ。君が目の前からいなくなってしまうと思ったとき、身が張り裂けそうなほど辛かったんだよ。僕は毎日でも君に会いたくて、母から話を聞かされた時、会いたくて会いたくて、飛び出してきて――寂しかった」

 くしゃりと目を細めた彼が、香澄の肩に額を押し当てた。
 
 静まり返った世界は、二人の人間を残して沈黙していた。そこには家柄も育ちも関係のない男女が一組いるばかりで、やはり雪のヴェールをひいた世界には二人しかいなかった。

「ごめんなさい」

 謝った声は、震えていた。

 晃光の感じている悲しみや辛さが、香澄の胸にも同じように込み上げてきた。

 昨日までは知らなかったはずなのに、もうずいぶんと長いこと経験しているような自然さで、香澄は自分のある心がどんなものか気付いた。

「私も、あなたのことが好きだったのよ、晃光さん」

 いつからだったのかも、わからない。

 けれど、何かもかもを削ぎ落して一人の人間として向き会ったとき、香澄は晃光のことがひどく愛おしく感じた。

 気持ちを偽っていた自分に、そして迷惑をかけた晃光に香澄は「ごめんなさい」と謝り続けた。

「僕の家族が……怖い思いをさせて、ごめんね」

 そう答える晃光の声も震えていた。彼は、更に強く香澄を抱きしめる。

「もう一度、プロポーズをさせて欲しい。俺は、香澄のことを愛しているよ――結婚しよう」

 そう続けられた言葉に、香澄は、なぜかふと夜行列車で出会った少年のことを思い出した。

 あのとき、自分にも子どもがいたらと自然に思った。家庭を持った幸せそうな未来の自分が、幼い頃の父や母との思い出と重なって――。

「私と、結婚してください」

 香澄は、彼を抱き締め返してそう答えた。

 鮮明に思い浮かんだ晃光との未来が、今なら手を伸ばせば届きそうな気がした。

           ※※※

「もう一度出会えたら、またお喋りしてくれる?」
「ええ」

 微笑んだ女性は、ひどく綺麗だった。

 歩き出す背中は頼りないほど細いのにしっかりと伸び上がり、ウェーブの入った髪が、彼女の歩調に合わせて揺れるのを彼は眺めていた。

 彼女が降りてしまう。

 少年は瞬きもせずに彼女を見送った。

 彼女と入れ違いに、古びた焦げ茶色のコートを着た中年の男性が列車に乗り込んだ。ひょろりと伸びたその背丈は、

「ご利用いただき誠にありがとうございます。臨時のイケメン機関士です」

 とふざけた自己紹介をした青年と同じぐらい高い。

 男はぴんと伸びた背筋を少し曲げるような形で、深々とかぶった帽子を片方の手で頭に押さえつけていた。

 女性が列車から一歩を踏み出した瞬間、少年は「あっ」と声を上げた。

 女性の足元からぼんやりと白い風景が広がり、これまで見たこともない近代的な駅の一部が夢のワンシーンのように浮かび上がったのだ。

 滑らかなコンクリートは、雪と同様に白く発光し、幻想的な景色を作り出していた。

「……なんで、俺にもこの風景が見えるの?」

 ようやく言葉を吐きだして、胡散臭い機関士に答えを求めた。

 すると新たな乗客を入れて別の車両に案内したその青年は、不敵な笑みを刻んだ唇に人差し指を押し当てるだけで、何も語らなかった。
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