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第三章 礼拝堂
6 青い鹿
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6 青い鹿
吉田こむぎと常盤明日香というのと、当時はよくつるんでいた。常盤は武士のように静かなたたずまいでバイオリンを弾き、リレーのアンカーを務め、ドッジボールで鋼の球を繰り出す女だ。
こむぎと常盤の二人が訪ねてくることになっていたある日、チャイムが鳴ったので階下に降りると、なにやら不穏な気配がした。どすのきいた声に、階段の半ばで立ち止まる。玄関でうろたえる母の後ろ姿の向こうに、まぶしい夏の光と蝉の声を背負って汗だくの村崎がいた。
階段を上ってきた常盤が私の肩を抱き、こむぎが連れてきたと小声で言った。とりあえず自室に通す。世間話もそこそこに、村崎は、軽井沢に別荘があるというのは本当かと詰め寄ってくる。私が毎夏叔母のアトリエにこもっていることを、こむぎに聞いたらしい。夏の文学散歩は軽井沢にするから、叔母の家を拠点にできないだろうかと言う。
手始めの返答として、嫌だという気持ちを伝えたが、まあ通用しない。鶴見先生は何と言っているのか、日程は調整がついたのかと尋ねると、引率は付けず、我らだけで行くという。鶴見先生には黙っていろという。こむぎは目を輝かせている。私は呆れ、常盤と顔を見合わせた。叔母の家はたぶんもうないと答えると、村崎は目を見開いたままゆっくりと前傾していき、起き上がることは無かった。
三人が帰った後、母に、叔母のアトリエはいまどうなっているのかと尋ねた。村崎が気の毒だったからではない。ふと気になったからだ。このところ常時うわの空だった母が私を見た。二人が消えて以来、誰も触れたがらなかった話題だ。
売りに出すつもりだが、と母は言った。なんだ、まだあるのと言うと、処分にはあなたの承諾がいるからと言う。聞けば、独り身だった叔母は、アトリエを私に遺す手続きをしていたそうだ。そんなことはつゆ知らなかった。
私は、うんともすんとも言わずに部屋に戻った。
叔母が私のためにあの場所を遺していた。黒く塗りつぶされ、もう二度と見ない場所だと思っていた。言葉が出なかった。
風になぶられる金色の木立が目に入った。窓の外は風が強いのだ。西日はまだまだ透き通っている。あの風に似ていた。海のようにゆすれ、気付けば目を満たした。黒い光がかき流される。眩しい。輪郭の決壊は一度始まると、止まらなくなった。親にはわからないのだ。この風の意味も、匂いも。その時、私は生まれて初めて人の死を悼んだ。
* * * *
村崎にアトリエを使っていいと言ったのは、売る前に、もう一度行く口実が欲しかったからだ。最後にするつもりだった。親には合宿だと嘘をついて出かけた。部員でもないのにこむぎ、常盤が同行した。
アトリエは埃をかぶってはいたが、何一つ変わったところはなかった。木製家具に染み込んだ油絵の具の匂い。露に濡れた枯葉とシダの小道、イチイの垣根、草花の匂い。奥には、細かく震える指を持った叔母の気配がしていた。
夜、皆が寝静まった後、私は青い鹿を見た。青い鹿が沙良の目をしてこちらをじっと見ていた。森の奥からやってきたのか、沙良の中から飛び出したのか、私にはわからなくなる。
眠れなくなって、ベッドを出て、向かったのは叔母のキャンバスの前だった。わからない。なぜこんなことになったのか。沙良を叔母の家に送り込んだのも私なら、青い鹿を森に放ったのも私だと思った。
一人では何もできない寂しがりの沙良。病院で数日間生死をさまよっている間、沙良はどんな思いでいたのだろう。沙良の魂は、私の体に入っただろうか。私の目で世界を見たいと言っていた。
わからないことだらけだった。久々に筆を持つ手は他人のように動き、見えないものを掬い取っていった。夜も外では、海鳴りのような風が吹いていた。月明りに照らされたキャンバスは青い鏡となり、私と沙良をつないだ。それからずっと、描き続けていた。
✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎
妙な流行り病で、コンクリートの時間が止まり、いびつな形で凝固した。もう取り返しのつかない凝固した時間が、今更、力ずくで崩され、瓦礫がぞろぞろと押し流されてきた。その瓦礫の中から、妙な部長が現れた。マスクと前髪の間から、妙な目だけを光らせて。
おぼろげに生きてきた。部長に問いただされるまで、自分を言語化したことなどなかった。何から話せばいい。嘘はつきたくないが、何が本当かもわからない。ようするに、どうして今まで私は消えなかったのか。自他の眼差しに怯えながら、額縁の外に身を置いて、それでも世界を眺めていた。それには価値も理由もなかった。
悩んでいる矢先、着信があった。すぐに切れたが、部長からだと分かっていた。迎えになどいくものか。私を待つと言っていた。本気ではないだろう。それでも夜、無視することはできなかった。不安に駆られ、車に乗る。
ヘッドライトで暗い道を切り裂きながら、不安は、いつしか赤黒い感情に変わった。怒り。私の貧弱な語彙ではそんな分類しかできない。初めて名付けてしまってから、憐れむべきものに対して、そんな感情を抱いていいのかと驚いた。あんな目への、また、あんな目をさせたものへの。名前が正しいかは知らない。だが思えばその色は、心の奥にずっと存在していた。沙良が死んだ時からずっと噛み締めていた。
自己への後悔もある。嫌悪もある。でもこの身勝手で理不尽な何かが、自分をここまで連れてきたと思った。発作的に一線を飛び越え、遺されたものの過去と未来を黒く塗り潰すことへの怒り。一度織り込まれた色彩を、面影を、眼差しを、抜き取ることはできない。簡単なことじゃない。遺された絵は、塗りつぶされ、めちゃくちゃに引き裂くしかなかった。
さみしくってしかたがないから、私は描いた。ものを眺め、風に触れ、描くことしかできないから描いた。誰にも理解されない。何の役にも立ちはしない。それでも。
部長の眼差しは、私にしか見えないものの一つなのかもしれず。多分役割のためではなく、私自身のために追いかけた。誰かに押し付けることはできないと知っていた。
吉田こむぎと常盤明日香というのと、当時はよくつるんでいた。常盤は武士のように静かなたたずまいでバイオリンを弾き、リレーのアンカーを務め、ドッジボールで鋼の球を繰り出す女だ。
こむぎと常盤の二人が訪ねてくることになっていたある日、チャイムが鳴ったので階下に降りると、なにやら不穏な気配がした。どすのきいた声に、階段の半ばで立ち止まる。玄関でうろたえる母の後ろ姿の向こうに、まぶしい夏の光と蝉の声を背負って汗だくの村崎がいた。
階段を上ってきた常盤が私の肩を抱き、こむぎが連れてきたと小声で言った。とりあえず自室に通す。世間話もそこそこに、村崎は、軽井沢に別荘があるというのは本当かと詰め寄ってくる。私が毎夏叔母のアトリエにこもっていることを、こむぎに聞いたらしい。夏の文学散歩は軽井沢にするから、叔母の家を拠点にできないだろうかと言う。
手始めの返答として、嫌だという気持ちを伝えたが、まあ通用しない。鶴見先生は何と言っているのか、日程は調整がついたのかと尋ねると、引率は付けず、我らだけで行くという。鶴見先生には黙っていろという。こむぎは目を輝かせている。私は呆れ、常盤と顔を見合わせた。叔母の家はたぶんもうないと答えると、村崎は目を見開いたままゆっくりと前傾していき、起き上がることは無かった。
三人が帰った後、母に、叔母のアトリエはいまどうなっているのかと尋ねた。村崎が気の毒だったからではない。ふと気になったからだ。このところ常時うわの空だった母が私を見た。二人が消えて以来、誰も触れたがらなかった話題だ。
売りに出すつもりだが、と母は言った。なんだ、まだあるのと言うと、処分にはあなたの承諾がいるからと言う。聞けば、独り身だった叔母は、アトリエを私に遺す手続きをしていたそうだ。そんなことはつゆ知らなかった。
私は、うんともすんとも言わずに部屋に戻った。
叔母が私のためにあの場所を遺していた。黒く塗りつぶされ、もう二度と見ない場所だと思っていた。言葉が出なかった。
風になぶられる金色の木立が目に入った。窓の外は風が強いのだ。西日はまだまだ透き通っている。あの風に似ていた。海のようにゆすれ、気付けば目を満たした。黒い光がかき流される。眩しい。輪郭の決壊は一度始まると、止まらなくなった。親にはわからないのだ。この風の意味も、匂いも。その時、私は生まれて初めて人の死を悼んだ。
* * * *
村崎にアトリエを使っていいと言ったのは、売る前に、もう一度行く口実が欲しかったからだ。最後にするつもりだった。親には合宿だと嘘をついて出かけた。部員でもないのにこむぎ、常盤が同行した。
アトリエは埃をかぶってはいたが、何一つ変わったところはなかった。木製家具に染み込んだ油絵の具の匂い。露に濡れた枯葉とシダの小道、イチイの垣根、草花の匂い。奥には、細かく震える指を持った叔母の気配がしていた。
夜、皆が寝静まった後、私は青い鹿を見た。青い鹿が沙良の目をしてこちらをじっと見ていた。森の奥からやってきたのか、沙良の中から飛び出したのか、私にはわからなくなる。
眠れなくなって、ベッドを出て、向かったのは叔母のキャンバスの前だった。わからない。なぜこんなことになったのか。沙良を叔母の家に送り込んだのも私なら、青い鹿を森に放ったのも私だと思った。
一人では何もできない寂しがりの沙良。病院で数日間生死をさまよっている間、沙良はどんな思いでいたのだろう。沙良の魂は、私の体に入っただろうか。私の目で世界を見たいと言っていた。
わからないことだらけだった。久々に筆を持つ手は他人のように動き、見えないものを掬い取っていった。夜も外では、海鳴りのような風が吹いていた。月明りに照らされたキャンバスは青い鏡となり、私と沙良をつないだ。それからずっと、描き続けていた。
✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎
妙な流行り病で、コンクリートの時間が止まり、いびつな形で凝固した。もう取り返しのつかない凝固した時間が、今更、力ずくで崩され、瓦礫がぞろぞろと押し流されてきた。その瓦礫の中から、妙な部長が現れた。マスクと前髪の間から、妙な目だけを光らせて。
おぼろげに生きてきた。部長に問いただされるまで、自分を言語化したことなどなかった。何から話せばいい。嘘はつきたくないが、何が本当かもわからない。ようするに、どうして今まで私は消えなかったのか。自他の眼差しに怯えながら、額縁の外に身を置いて、それでも世界を眺めていた。それには価値も理由もなかった。
悩んでいる矢先、着信があった。すぐに切れたが、部長からだと分かっていた。迎えになどいくものか。私を待つと言っていた。本気ではないだろう。それでも夜、無視することはできなかった。不安に駆られ、車に乗る。
ヘッドライトで暗い道を切り裂きながら、不安は、いつしか赤黒い感情に変わった。怒り。私の貧弱な語彙ではそんな分類しかできない。初めて名付けてしまってから、憐れむべきものに対して、そんな感情を抱いていいのかと驚いた。あんな目への、また、あんな目をさせたものへの。名前が正しいかは知らない。だが思えばその色は、心の奥にずっと存在していた。沙良が死んだ時からずっと噛み締めていた。
自己への後悔もある。嫌悪もある。でもこの身勝手で理不尽な何かが、自分をここまで連れてきたと思った。発作的に一線を飛び越え、遺されたものの過去と未来を黒く塗り潰すことへの怒り。一度織り込まれた色彩を、面影を、眼差しを、抜き取ることはできない。簡単なことじゃない。遺された絵は、塗りつぶされ、めちゃくちゃに引き裂くしかなかった。
さみしくってしかたがないから、私は描いた。ものを眺め、風に触れ、描くことしかできないから描いた。誰にも理解されない。何の役にも立ちはしない。それでも。
部長の眼差しは、私にしか見えないものの一つなのかもしれず。多分役割のためではなく、私自身のために追いかけた。誰かに押し付けることはできないと知っていた。
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