颯(はやて)

おりたかほ

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第三章 礼拝堂

4 黒い光

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4 黒い光

 階下から、言い争う声が聞こえる。言い争うというより、もっぱらくぐもって空気を震わすのは母の正論演説だ。おそらく姉は、もう諦めて、聞くに徹している。気の毒にと思う。

 私は中一だったが、沙良の知らないであろう、いろいろな言葉を知っていた。同級の吉田こむぎがやたらと変な本を読むから影響を受けたのだろう。この時もすでに、こむぎに借りたグリム童話の深層解釈本で「どくはは」という言葉を知っていた。だから落ち着いて母の言うことが聞き流せる。沙良にも教えてやろうと思って腕組みしながら机に向かっていた。

 姉が階段を上ってくる。音が判りやすくとぼとぼしている。私は部屋のドアを開け、手招きした。

「もめてるの」
「うん」

 沙良は塾をやめて叔母のアトリエに通いたいと言ったらしい。それには私も少し驚いたが、黙って聞いていた。

「いまさら何言ってるのっていわれた」

 高二の晩秋だ。確かにいまさらではある。だが、夏に沙良が絵をやりたいと言っていたのが本気だったのなら、よく言ったという気もする。沙良は何でもできてしまうから目立たないが、本当は絵だって私よりうまい。

「あやみたいなこと言わないでっていわれた」
「ふーん」

 図らずもコンクールの覇者となって、変わり者の叔母のDNAも市民権を獲得するかと思いきや、そうはならなかった。ますます変人扱いである。期待されていないのは楽ではあるが。

「お母さんは正しいよ。私はあやみたいに絵一筋でやってこなかった」
「……こないだ私がT大目指すっていったら、あっそって言われた」

 沙良は少し笑った。長女の沙良が王道を行く優等生でいてくれるおかげで、ぬくぬくと変人をやっていられる。

「沙良にはあっそって言わないね、お母さん」
「いきなり何言ってるのって感じだった。自分でも何言ってるんだろうって思った」

 親は分かっていない。だが私は沙良の絵をよく知っていた。もともと沙良をまねており、結局沙良にはなれないと分かるまで、一体どれだけの絵を描いただろうか。

 私に描かれるものはいつもいびつで形を得ないが、沙良は、少ない筆で、優美に、見えないものに形を与えることができた。

「我慢してたの、知ってるよ」

 私は姉のように我慢ができなかったから。私が絵を描きつづける、それだけで姉が傷ついていたのも知っていた。

「弱かっただけだよ。流されたの。でも、自分のためだよ。褒められることをすれば、自分が好きになれるって思ったんだから。でもあやは偉いね。あやは本当に強い。あのコンクールの絵、凄かった」

 沙良が私を褒めてくれる百分の一でも、私が沙良への想いを伝えたことがあっただろうか。

「受験を辞めるって言ったわけでもないんだよ? ただ、その前に、何か描いてみたかっただけ。塾は要らないから、アトリエに行かせてって言っただけなの。でも何のためにって聞かれると上手く説明できなくて」

 結局は、ただの現実逃避だと言われてしまったらしい。沙良も、それを認めてしまっていた。本当は、その逆だったかも知れないのに。

「よほどの才能がないと、好きなことでは食べてけないって」
「......千草は人並みの技術でご飯食べてるよ」

 叔母にできて沙良にできないことなどあろうか。沙良は少し気まずそうに笑った。

「叔母さんみたいになれるものならなりたいよ」

 我が家には、千草みたいにならないでよ、という定番の軽口がある。確かにT大を出た人間と、叔母とを比べたら、生きやすさも収入もずいぶん違うだろう。娘には、できることなら前者の生き方を薦めたいだろう。

「ねえ、私が千草叔母さんみたいに暮らすの、想像できる?」
「えっ……」

 沙良があの叔母のようになる。それは絶対に無理だ。

「沙良は画家になったとしても、もっとなんかにぎやかな、敏腕画家になるだろうね」

 そもそも沙良が一人で暮らす姿が思い浮かばなかった。たくさんの人に囲まれて、頼り頼られ、人脈を築いて、絵を描くにしても、沙良は一人ではいない。

 沙良は、きっと人に何かを見せることができる。私や叔母のような独りよがりの奇形の提示とは違う。沙良が描くのはなにか、素朴で美しいもの、初めてあった人同士でも共有できるもの、すがしいもの、楽しいものになるだろう。それを芸術と呼ぶ時代ではないかもしれないけれど。

「敏腕画家ねえ」

 沙良は照れたように鼻の下を指でこすった。

「でもそう、私寂しがりだから。何をするにも、一人では無理」
「そこがいいところ」
「いいところじゃないよ。弱いんだよ」

 褒めてやっても、すぐに謙遜する。カリスマ生徒会長がこんなうじうじした性格だということを、私の同輩が知ったらどう思うだろうか。

「別にこのままでもいいんだ。受験して、大学に入って、趣味で絵をやる。それで十分なんだけど」
「うん」
「あやの絵を見てたら、苦しくなって」

 例の怪物の話かと思うと、頷くのが怖かった。

「私はもう、今までに、描きたいと思った何枚もの絵を殺してきてて、忘れてきてて」

 沙良は俯いて、頭をかいた。

「本当に大学入ったら、片手間に絵が描けるかな。今でさえ描けないのに、大人になって仕事に追われて、それでも本当に何かを描くのかな」

 何を描きたかったのか、なぜ描きたかったのか、自分でももう分からなくなったとつぶやいた。

「絵のことだけじゃないの。必然性なんか無い沢山のことに、私みたいな弱い奴が、ちゃんと向き合えるかな」

 私は沙良の言う意味が分からなかったが、悲しくはなった。ぼんやりと、あの訳の分からない熱に浮かされて要塞の地図を描いていた時を思い出していた。あの絵に意味などなかった。でも描かずにいられなかった。

 生まれたことを呪う怪物と、生まれなかった怪物と、どちらが悲しいだろう。生んだことで苦しむのと、生めなくなることと、どちらが。

 沙良は何か言おうとした。いつも私を褒めてくれる時の笑顔を浮かべかけたが、それをやめ、そっと頭を撫でてくれた。私を羨ましいと言おうとして、思いとどまり、言葉を濁したのかも知れなかった。

「ごめん。大丈夫だから。単にね、よくわからなくなってただけなの。何がやりたいのかとか、自分が何者なのかとか」
「沙良は……沙良でしょ」
「まあ、あやもいつか分からなくなるんだよ」

 姉は笑って、実におやじくさい仕草で私の肩を叩いた。私はなんだかまだもやもやしていた。沙良の悪い癖がまた出ている気がした。

「本当に大丈夫なの」
「大丈夫になった」

 沙良の悩みの核心にはまだ触れていない。沙良はきっと、私にはわからないことだと勝手に判断し、遠慮して、話すのをやめたのだ。優しくて傲慢な悪い癖だ。

 私は、肝心なことを伝えていなかった。

 沙良は私の目が欲しいと言ってくれた。でも私は、沙良の目がどんなに善いものであるかということを、伝えてはいなかった。そんなことは余りに自明のことで、頭のいい沙良が気付いていないはずはないと思い込んでいた。

「千草に聞いてもらいなよ」

 私は本当にバカだったと思う。沙良にもわからないことがあるのだ。千草に見えないこともあるのだ。それでも私にだけは見え、伝えられることはあったのだ。何故安易に、沙良に向き合う役目を千草に押し付けたのか。私にとっての逃げ場所は、姉にとってもそうだとは限らないのに。

「これ、貸してあげる」

 アトリエに通うための定期だった。足繁く通う私のために、叔母が買ってくれたのだ。

「いいの」
「うん。思いっきり描いてきなよ。あとついでに、どうやって食べているんですかって聞いておいでよ」
「叔母さんに……」

 私はどぎまぎとうろたえる千草を想像して笑ったが、姉は定期を見つめたままじっと何かを考えていた。

 その表情を見てもまだ、私が笑っていられたのはなぜだろう。

 * * * *

 翌日の夜、模試に出かけた姉が帰ってこないのだと母が慌てだした。塾にも学校にも問い合わせたが居ないと言う。警察に行くというので、叔母のとこかもと教えた。

 絵の道は薦めなかったと、叔母は電話で言ったらしい。沙良も、本気ではないと言っているし、単に休みたかっただけだと思うから、と叔母は言ったそうだ。相当プレッシャーを感じているみたいだし、疲れているから、今日はこっちで少しゆっくりさせてあげてと。

 母は宿泊は許さなかった。すぐ駅まで送ってくれと頼んでいる。なぜすぐに連絡してくれなかったのと、叔母を問い詰める。しかめ面をした叔母が受話器を顔から遠ざけているのが分かるのだろうか、母の声はどんどん大きくなる。父と私はその後ろから母を宥める。

 まって、まって、ごめん。受話器の向こうから叔母の焦った声がした。沙良が出てっちゃったみたい。そんなふうに聞こえた。私は母を必死で黙らせる。ごめんまたかけるから。そう言って叔母は電話を切った。

 そこからの記憶が綺麗にない。

 あるのは私の想像ばかりだ。誰かに聞いた話の継ぎはぎかも知れない。

 沙良は叔母に気を遣って帰ることにした。電話に耐えられなくて、黙ってアトリエをでたのだ。追いかけて、諭そうとしても、沙良はもう心を閉ざしていて、大丈夫だと笑うだけ。叔母は途方に暮れながら、せめて送らせてくれと申し出た。

 明るい夏の森とは違う、冷たい秋の夜の森を、二人は歩いていた。曲がりくねった道を月影がまだらに照らす。

 青い雌鹿が踊り出して、耳を震わせた。雌鹿の影をくり抜くように、ヘッドライトが差す。鹿の目が赤く光る。光が不意に脇道にそれ、叔母が走り寄って姉を突き放す。黒い光が姉を貫く。

 車は転倒し、叔母は即死、姉は入院するも、三日後息を引き取った。あっけなく、少しずつ、姉は消えていった。病院の記憶も、葬式の記憶もない。

 そうだ、仙人がお葬式に来てくれたのだった。西先生。姉を亡くしてから、彼も仙人ぶりに拍車がかかった。先生の記憶は、私と同じくまだらになっている。その事情を知る教員も少なくなった。

 きっと沙良は、死にたくて死んだわけではない。何か生もうとしてもがいて、そのまま、戻れなくなっただけ。誰のせいでもない。誰のせいでもない。

 私や、母や、仙人や、沙良を大好きだった人たちの心の一部を嵐のようにちぎり取って、生まれなかった怪物と一緒に、隠れてしまったのも、絶対に沙良が望んだことではない。

 会えないだけ。風にのって、沙良はしょっちゅうやってくる。会えないのが、届かないのが不思議なだけ。

 それでも、私は何も描けなくなった。

 
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