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第二十三章 ビョルンの屋敷
9 空と影
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9 空と影
屋敷のドアの前で僕は立ち止まった。この煤だらけの有り様を見たら、メアリは卒倒するだろう。
「裏庭の井戸で、顔と手足だけ洗ってくるよ」
過保護な息子ホクトくんは、それにもついてこようとする。
「ドレスもぜ~んぶ脱いで、よ~くはたかなきゃなあ」
僕が大声で言うと、さすがのホクトくんも同行は控えてくれた。
僕は急いで井戸に走った。
つるべを落とす。何気なく覗き込んだ井戸の底は暗い。ザクロさんの身長だと、結構深くまで見下ろせた。
空と雲が揺れてる。逆光で、そこに食い込む影がたぶん僕。
このまま力を抜いたら、僕は深い深い大地の底の水になって、ケイトのところに行けるんじゃないか。
ふと、そんなことを考える。
ケイトのそばにいられるなら、僕は水でも空気でも、どんな姿でもいいって気がした。
「あいたい」
井戸の中で誰かの声がこだましていた。しばらく耳をすましてから、「ザクロさん」の声だって気付く。僕の口から勝手に出たんだ。
そうだね、会いたい。一人になると、よく分かる。僕は、ケイトの眼差しに飢えていた。
丸い青空の、黒く欠けた部分。顔のない僕のシルエット。
眺めているとその影に、「化け物」と呼ばれて去っていった男の人の姿が重なる。
あの人の目は哀しい鳶色だった。
たったそれだけの理由で僕は、あの人を放っておけない気持ちになる。
追いかけていって、拒まれても、あの哀しい瞳をした人の後をトボトボと、どこまでもついて行きたいような気がした。
はぐれたハイイロオオカミみたいに。何も考えず、僕はあの人の後に黙って付いていくんだ。
僕があの人に尽くす理由。それは、ケイトと同じ目をしてるということだけ。
二人の間にあるのは、雪と飢えた心だけ。
そうやって、ケイトの影を追い続け、一人ぼっちで死ねたなら……。
なんでだろう。それは氷の森で永遠に生きるよりも、ずっと幸せなことのように僕には思えた。
ーーコココ、コケーッ!
背後で突然、雄鶏が鳴いた。馬小屋の方からバタバタと、鶏の暴れる音がする。
僕は、奇妙な空想から我に返った。
***************
物音のした馬小屋に向かう。日は南天を過ぎたとはいえ、空はまだ明るい。
小屋は薄暗く、板壁の隙間から差す扇状の日差しの中を光る埃がゆったり舞っている以外はしんとしていた。
月は出ていなかったけど、僕はダメ元で袖から火打石を取り出した。
「ピノ、ここなら誰もいないよ……」
僕は火打石に話しかけた。
「ちょっと話せないかな」
ピノの反応はない。やっぱり日中はだめか。月が出るのを待つしかない。
なんだってピノはこんな無機質なものに姿を変えてしまったんだろう。
「何かあったのかな」
僕がザクロさんの姿に変えられた時、ピノはどうしていたのだろう。何かされていないとも限らない。
今夜、月が昇ってもピノが現れなければ、氷の森に戻ってプリッツに報告した方がいいかも。
僕は再び石を袖の中にしまった。振り返ると、ファラダが静かに僕を見ていた。
柵のところまで近付くと、ファラダは首を差し出して、僕の胸に顔を擦り寄せてきた。
「どうした?」
ファラダは、小屋のすみにうず高く盛られた藁の山に鼻先を向けた。
「あっちに、何かあるの」
僕は足音を殺して藁の山に近付いた。朝見た時と、別段変わらないように見える。
ちょっと突いてみようか。掃除用のフォークを取ろうとした矢先に、何かにけつまづいた。
「ん?」
足元を見た瞬間、僕は軽い悲鳴をあげてそこを飛び退いた。
藁の中から、誰かの足が突き出していたのだ。
「だ、誰?! マフなの?」
足はぴくりと震えて、もぞもぞと藁の中に入っていった。
あとずさる僕に、ファラダがブフッと鼻息を漏らした。
ちゃんと確かめてください、って言ってるんだ。
僕は勇気を振り絞って藁をかき分けた。
「あっ! 貴方は!」
そこにうずくまっていたのは、さっき出ていったはずの男の人だった。
矢は自分で引き抜いたらしい。腕から血が出て袖を黒く濡らしていた。ぶるぶる震えている。
「……大丈夫?」
なるべく安心させるように、男の人の目を覗き込んで言った。
男の人はやっぱり鳶色の目をしていた。
こんなに綺麗な目をした人のことを「化け物」だなんて、どうして思えるのだろう。
水で傷口をそっと洗い、ドレスの袖を裂いて止血した。
男の人は、逃げようとはしなかった。黙って僕のすることを見ていた。
「本当にごめんなさい。みんなにはちゃんと説明しますから、僕の屋敷で休んでください」
男の人は首を振った。
「でも……」
男の人は指先を地面につけて、ゆっくりと動かした。
ーーあり ガと ここで じュブん
決して上手とはいえない字。きっと、口からヒキガエルが出るのを恐れて、わざわざ筆記にしてくれたんだ。
「僕の前では気にせず、しゃべっていいんですよ」
男の人は顔を歪めた。多分、笑ってくれたんだと思う。
ーーここ いセセて ナおるまで
「も、もちろん」
僕は高速で頷く。
「屋敷の中より、ここのほうがいい?」
男の人は僕を真似るように高速で頷いた。僕は笑った。
男の人はぶくぶく膨れた瞼の下から、じっと僕を見あげていた。
さっきの変な空想を思い出すと、なんだか恥ずかしくて、僕は目を逸らした。
身体中が、急にポカポカしだした。僕の顔は、きっと真っ赤になってたと思う。
「分かった。ここで休んでてね。薬と食べ物を持ってくるから!」
僕はそう言い残すと、屋敷に向かって走り出した。なんだか足取りが軽い。
胸がドキドキしていた。誰にも秘密で、怪我した子熊を飼うみたいに。
屋敷のドアの前で僕は立ち止まった。この煤だらけの有り様を見たら、メアリは卒倒するだろう。
「裏庭の井戸で、顔と手足だけ洗ってくるよ」
過保護な息子ホクトくんは、それにもついてこようとする。
「ドレスもぜ~んぶ脱いで、よ~くはたかなきゃなあ」
僕が大声で言うと、さすがのホクトくんも同行は控えてくれた。
僕は急いで井戸に走った。
つるべを落とす。何気なく覗き込んだ井戸の底は暗い。ザクロさんの身長だと、結構深くまで見下ろせた。
空と雲が揺れてる。逆光で、そこに食い込む影がたぶん僕。
このまま力を抜いたら、僕は深い深い大地の底の水になって、ケイトのところに行けるんじゃないか。
ふと、そんなことを考える。
ケイトのそばにいられるなら、僕は水でも空気でも、どんな姿でもいいって気がした。
「あいたい」
井戸の中で誰かの声がこだましていた。しばらく耳をすましてから、「ザクロさん」の声だって気付く。僕の口から勝手に出たんだ。
そうだね、会いたい。一人になると、よく分かる。僕は、ケイトの眼差しに飢えていた。
丸い青空の、黒く欠けた部分。顔のない僕のシルエット。
眺めているとその影に、「化け物」と呼ばれて去っていった男の人の姿が重なる。
あの人の目は哀しい鳶色だった。
たったそれだけの理由で僕は、あの人を放っておけない気持ちになる。
追いかけていって、拒まれても、あの哀しい瞳をした人の後をトボトボと、どこまでもついて行きたいような気がした。
はぐれたハイイロオオカミみたいに。何も考えず、僕はあの人の後に黙って付いていくんだ。
僕があの人に尽くす理由。それは、ケイトと同じ目をしてるということだけ。
二人の間にあるのは、雪と飢えた心だけ。
そうやって、ケイトの影を追い続け、一人ぼっちで死ねたなら……。
なんでだろう。それは氷の森で永遠に生きるよりも、ずっと幸せなことのように僕には思えた。
ーーコココ、コケーッ!
背後で突然、雄鶏が鳴いた。馬小屋の方からバタバタと、鶏の暴れる音がする。
僕は、奇妙な空想から我に返った。
***************
物音のした馬小屋に向かう。日は南天を過ぎたとはいえ、空はまだ明るい。
小屋は薄暗く、板壁の隙間から差す扇状の日差しの中を光る埃がゆったり舞っている以外はしんとしていた。
月は出ていなかったけど、僕はダメ元で袖から火打石を取り出した。
「ピノ、ここなら誰もいないよ……」
僕は火打石に話しかけた。
「ちょっと話せないかな」
ピノの反応はない。やっぱり日中はだめか。月が出るのを待つしかない。
なんだってピノはこんな無機質なものに姿を変えてしまったんだろう。
「何かあったのかな」
僕がザクロさんの姿に変えられた時、ピノはどうしていたのだろう。何かされていないとも限らない。
今夜、月が昇ってもピノが現れなければ、氷の森に戻ってプリッツに報告した方がいいかも。
僕は再び石を袖の中にしまった。振り返ると、ファラダが静かに僕を見ていた。
柵のところまで近付くと、ファラダは首を差し出して、僕の胸に顔を擦り寄せてきた。
「どうした?」
ファラダは、小屋のすみにうず高く盛られた藁の山に鼻先を向けた。
「あっちに、何かあるの」
僕は足音を殺して藁の山に近付いた。朝見た時と、別段変わらないように見える。
ちょっと突いてみようか。掃除用のフォークを取ろうとした矢先に、何かにけつまづいた。
「ん?」
足元を見た瞬間、僕は軽い悲鳴をあげてそこを飛び退いた。
藁の中から、誰かの足が突き出していたのだ。
「だ、誰?! マフなの?」
足はぴくりと震えて、もぞもぞと藁の中に入っていった。
あとずさる僕に、ファラダがブフッと鼻息を漏らした。
ちゃんと確かめてください、って言ってるんだ。
僕は勇気を振り絞って藁をかき分けた。
「あっ! 貴方は!」
そこにうずくまっていたのは、さっき出ていったはずの男の人だった。
矢は自分で引き抜いたらしい。腕から血が出て袖を黒く濡らしていた。ぶるぶる震えている。
「……大丈夫?」
なるべく安心させるように、男の人の目を覗き込んで言った。
男の人はやっぱり鳶色の目をしていた。
こんなに綺麗な目をした人のことを「化け物」だなんて、どうして思えるのだろう。
水で傷口をそっと洗い、ドレスの袖を裂いて止血した。
男の人は、逃げようとはしなかった。黙って僕のすることを見ていた。
「本当にごめんなさい。みんなにはちゃんと説明しますから、僕の屋敷で休んでください」
男の人は首を振った。
「でも……」
男の人は指先を地面につけて、ゆっくりと動かした。
ーーあり ガと ここで じュブん
決して上手とはいえない字。きっと、口からヒキガエルが出るのを恐れて、わざわざ筆記にしてくれたんだ。
「僕の前では気にせず、しゃべっていいんですよ」
男の人は顔を歪めた。多分、笑ってくれたんだと思う。
ーーここ いセセて ナおるまで
「も、もちろん」
僕は高速で頷く。
「屋敷の中より、ここのほうがいい?」
男の人は僕を真似るように高速で頷いた。僕は笑った。
男の人はぶくぶく膨れた瞼の下から、じっと僕を見あげていた。
さっきの変な空想を思い出すと、なんだか恥ずかしくて、僕は目を逸らした。
身体中が、急にポカポカしだした。僕の顔は、きっと真っ赤になってたと思う。
「分かった。ここで休んでてね。薬と食べ物を持ってくるから!」
僕はそう言い残すと、屋敷に向かって走り出した。なんだか足取りが軽い。
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