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最終章 願いの代償
66. 肩代わり
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視界いっぱいに広がる真っ赤な空を見上げながら、蒼は溜息を吐いた。
「結局、独りかぁ……――」
朔を抱きかかえた瞬間、突然後ろへと引っ張られた自分の身体。意識を失ったのか、ただ驚いただけか、その後どうなったのか詳しくは分からない。だが、気が付いた時には穴の中の足場は遠くなっていて、自分が穴の外に戻されたのだということが分かった。
――夢だった? でも、ここにいるしな……。
この世界が現実でないのなら、夢の中で夢を見たということになる。そんな馬鹿なことがあるものかと思いながら起き上がるために身を捩れば、経験したことのない痛みが右半身を襲った。
「いっ……――!」
痛い――そう叫ぼうとして、声と共に強まった痛みに蒼は思わず叫びを飲み込んだ。無意識のうちに身体に振動を与えないよう静かに呼吸をし、痛みの波が過ぎ去るのをじっと待つ。
――一体、何が……。
この痛みの原因はなんだ――考えてすぐに、蒼の脳裏には少し前の出来事が浮かんだ。朔を引っ張り上げようとして、彼の炎に熱せられた身体に抱きついたのだ。しかも彼に触れただけでなく、他の人々にも身体をあちこち触られた。それは蒼の肌を間違いなく焼いていて、今襲うこの痛みはその時の火傷によるものだろう。ただの火傷にしては痛すぎる気もしたが、こんなに広い面積に火傷を負ったのは初めてだ、想像と違うことがあってもおかしくはない。
そうして痛みの原因に考え至ると、蒼の胸には安堵が広がった。辛いことには変わりなかったが、この痛みこそが今までの出来事が夢ではないと物語っているのだ。
夢ではないのなら、今ここに朔がいないのは自分の行動に何か意味があったということを表しているのではないか。我ながら前向き過ぎると思ったが、そうとでも考えなければ冷静でいられない。
――多分、もう帰れない。
自分をここに呼んだのがあの朔だったのであれば、彼と一緒に帰らなければならなかったのだ。目を閉じて何度も彼を探そうとしたが、もうどこにもその気配は感じられなかった。
ここに、取り残された。そう気が付いた時、蒼の口からは勝手に自嘲するような笑みが零れていた。
「――さっきレオニードに殺されてたら、独りじゃなかったんだけどなぁ」
口を動かすたびに痛みが走ったが、その痛みを感じていたくて蒼は独り言ばかりを呟いていた。この痛みが無くなった時、自分は本当に死ぬのだ――そう思うと、耐え難い苦痛を伴うこの火傷すら大事な仲間に思えてくる。
「でも殺されなかったから、こっちの朔さんのこと助けられたのかな」
助けられたという確信などなかったが、自分の行動に意味があったのだと思いたかった。いや、思わなければならなかった。
赤と黒と灰の世界は到底人の世界とは思えないし、絶えず鼓膜を震わす呻き声は、その正体が分かっていても心を不安で引き裂くようだった。そんな世界に取り残されたのに、そのきっかけとなった行動に何も意味がなかったのだと考えるのが怖かったのだ。
そうして自分の考えを無理矢理変えようとしていたからか、蒼は近付く気配に気付かなかった。
「――何、ここ」
突然聞こえてきた人の声に、蒼は目を瞬かせた。もう二度と聞くことはないと思っていた、自分以外の声。本当は仰向けに転がる身体を起こして声のする方を見たかったが、鉛のように重い身体はもう蒼の意思では動かせなかった。
「あれ? 蒼ちゃん意識あるの?」
すっ、と見上げた空を覆い隠すように声の主が顔を覗かせる。ここにいるはずのないその顔に、蒼はぽかんとした表情を浮かべた。
「涼介さん……? なんで此処に……。あ、朔さんは!? 朔さんはどうなったんですか!? 生きてない身体は治せないって嘘ですよね!?」
「うわ、その怪我でよくそんな喋れるね。もはやちょっとグロいよ」
そう言いながら、涼介は呆れたように思い切り顔を顰めた。蒼は初めて見るその顔に違和感を覚えて、はてと内心首を傾げる。
――こんな人だったっけ……?
何が違うのだろうと考えてみれば、涼介が常に纏っていたはずの飾り気のようなものが無くなっているのに気が付いた。今までのことを思うと自然体を思わせるその様子が不思議で、蒼はぼうっとしながら涼介の顔を見返していた。
「血の持ち主の特権ってやつ? まあ、上手くいったみたいだしもうなんでもいいや」
「上手くいったって……?」
「思ったとおりここに来れたってこと」
ふわりと、柔らかく涼介が微笑う。少しだけ困ったような表情に見えたが、今まで蒼が見た彼のどの表情よりも自然で、本心から出たものだと感じられた。
「──それで、生きてないって悪魔が言ったの?」
ぼんやりとしていた蒼に、涼介が問いかける。それに蒼が小さく「……はい」と返せば、涼介は眉間に深く皺を刻んで苦笑した。
「なるほどね。悪魔っていうのも人が悪い。人、って言うとおかしいのかな?」
「そんなこと言ってる場合じゃ――」
「確かに、生きていないって言えば生きていないのかもね」
驚きで何も言えなくなった蒼を見ながら、涼介はゆっくりと思い出すように語りかけた。
「半分欠けてたんだよ。あの日レオニードの願いの代償として取られかけた俺たちの命は、結局のところ半分しか取り返せてなかった。……取り返せなかった残り半分は、多分ずっとここにいた」
――なら、さっきの朔さんは……。
突飛とも思える涼介の言葉だったが、蒼はそれをすぐに受け入れることができた。もしかしたら似たようなものだと、どこかで思っていたのかもしれない。あの朔は、やはり朔本人だったのだ。自分のしたことが無駄ではなかったと思えて、蒼の口元はゆるく弧を描いた。
しかし、涼介の表情は浮かない。彼は蒼の様子に眉を顰めると、吐き捨てるように言葉を続けた。
「きっと不完全な状態だから物も通り抜けられたし、銀で命を落とす。これが、普通の人間のように生きているって言える?」
「それ、は……」
少し投げやりにも感じられる涼介の物言いに、蒼は彼ら自身にとっては何も喜べることなどないのだと思い出した。つい自分の行動が正当化された気がして笑顔になりかけたが、きゅっと口を噤んで涼介の言葉の意味に考えを巡らせる。
すると蒼の脳裏に、先程の朔の姿が浮かんだ。“半分欠けた状態”ということは、あの朔がその半分ということだったのだろう。生身の朔はともかく、ここにいた朔は生きているとは言い難い。彼の半分がその状態だったのなら、それは確かに生きているとは言えないのかもしれない。
「じゃあ、朔さんは……?」
途端に蒼の心は不安に覆い尽くされた。ここにいた朔がいなくなったことで全てが良い方向に行ったのだと思い込んでいたが、実際はそうではないのかもしれない。もし欠けた半分が朔に還ったのではなく、完全に消えてしまっていたのだとしたら。そうしたら、残された朔は生きていられるのだろうか。
蒼が不安げな表情を浮かべるのをちらりと一瞥して、涼介が小さく息を吐いた。
「朔なら無事だよ。君があいつの肩代わりしたからね」
「肩代わり……?」
それは、自分が今ここにいることを指すのだろうか──蒼には涼介の言葉の意味が分からなかったが、朔が無事だという言葉に自分のしたことが間違っていなかったのかもしれないと思えて、身体から力が抜けるのを感じた。
「多分だけどね。朔の欠けた半分を、蒼ちゃんが引き受けたってこと。だから君はここにいる。他の代償となった命と一緒に、囚われている」
――他の命と一緒に、ってことは……やっぱりもう、戻れない……?
予想していた状況を再確認させられて、蒼は自分の中に諦めが広がるのが分かった。それでも、無駄でなかったのならそれでいい――自然とそう思えて、蒼は自分でも驚くほど落ち着いたまま涼介に視線を向けた。
「涼介さん、やけに詳しいですけど……ここがどこだか、知っているんですか?」
「さあ? 地獄ってやつじゃないの?」
「地獄……」
予想していなかった答えに、蒼は返すべき言葉が浮かばなかった。またオカルトな――そう思いかけたが、今更だ。ここが普通の場所でないことなど明らかだし、炎の中で延々と苦しみ続ける人々がいるこの世界が、天国だなんて言われても到底信じられない。そう考えると、地獄という表現はしっくりと来る。
何か言おうと涼介を見上げれば、彼は蒼の様子を窺う素振りも見せず、「気に入らないんだよね」と、独り言のように呟いた。
「気に入らない?」
「朔は、俺の弟なんだよ。それがレオニードの弟って言われたり、君があいつの責任を負おうとしたり」
そう言う涼介の顔は悔しげに歪められていたが、蒼にはその心境が分からなかった。その言い方も表情も、まるで自分こそが朔の兄だと言わんばかりだったからだ。
以前の涼介がそう言ったとしても、蒼は疑問を抱かなかっただろう。だが、今の涼介に対しては違う。彼は朔を二度も裏切り、その上殺そうとしたのだ。自分の勝手な都合で殺そうとした相手を大事にしているかのような発言は、蒼には理解できなかった。
「今更何言ってるんですか……? そんなふうに思ってるなら、なんで朔さんを裏切るようなことしたんですか!? あの日だって、朔さんの気持ちを利用して……朔さんがどれだけ心を痛めていたか、貴方は分かってるんですか!?」
気付けば、蒼の身体は僅かに起き上がっていた。力などもう入らないと思っていたのに、涼介に対して感じた怒りのせいだろうか、軽症で済んでいる左腕で身体を支え、幾分か近くなった彼の顔を睨みつけた。
蒼は朔のことをただ見ていただけではないのだ。実際に朔の感情に触れ、涼介に裏切られたことに対する悲しみや怒りを感じたのだ。言葉にしてしまえば簡単かもしれないが、蒼が自分の心で感じたその感情はもっと複雑で、胸を締め付けられるようなものだった。自分自身のものと同じようにその感情を感じたのに、涼介の言動が許せるわけがない。
そう思いながら近くで見た涼介の顔は、意外にも悲痛に歪んでいた。唇がわなわなと震え、小さな声で何事かを呟いている。蒼が更に強く睨みつければ、堰を切ったように涼介の口から言葉が溢れ出した。
「こんなはずじゃなかった……! 俺が朔を利用するのに何も思わなかったとでも!? あの時全部上手くいってれば、俺が朔を裏切っただなんてあいつにバレずに済んだ! 俺だけが罪悪感を抱えればよかったんだ! なのに……!」
「なら、どうして……そんなに辛いことなら、なんで裏切ろうとしたんですか!? 貴方は聖杯を盗んで、何を願おうとしていたんですか……!?」
蒼の問いに涼介が下唇を噛み締める。そうして、ぽつりと「……分からない」と零した。
「『分からない』って……」
「何を願えば良かったかなんて、分からない。ただ、俺は――」
涼介の唇は、空気を吐く音しか発しなかった。それでも近くで見ていた蒼には、口の動きで彼が何と言ったのか分かってしまった。
「涼介さん、貴方は……」
蒼の言葉を遮るように、彼女の唇に涼介の指が触れた。蒼が眉を八の字にしてその顔を見上げれば、涼介が困ったように笑っているのが見える。そしてゆっくり手を離したかと思うと、涼介は立ち上がって穴の方に目をやった。
「あそこに、朔がいたの?」
「そう、ですけど……なんで、分かるんですか?」
「俺の片割れも、あそこにいるから」
そっと片方の口端を上げて、涼介は蒼に振り返った。
「蒼ちゃんが聖杯から受けた影響は、君が聖杯の血を捨てれば無くなるよ」
「急に何を――」
「言っただろ? 朔は俺の弟だから、あいつの肩代わりは俺がする」
言い終わった涼介は、ゆっくりと穴に向かって歩き出した。それに彼の次の行動を察した蒼は、止めるため必死に立ち上がろうと腕に力を込める。しかしその途端、バランスを崩し地面に突っ伏してしまった。先程は怒りに任せて起き上がることができた身体は、その怒りが萎んでしまった今はもう言うことを聞いてくれない。
『ただ、俺は――』
蒼の脳裏に、先程の涼介の言葉が蘇る。あれを、朔に伝えなくていいのか。何も教えないまま、終わりにしようというのか。
蒼はなんとか顔だけを少し上げると、涼介に向かって声を張り上げた。
「待って! 伝えなくていいんですか!? 謝らなくていいんですか!? このままじゃ朔さん、きっと涼介さんのこと――」
「知らなくていいよ。あいつは俺に全部奪われた、その事実は変わらない。今更訂正したところで、朔だって困るだけでしょ」
「無責任なこと言わないでください! 貴方さっき言ってましたよね? 私が朔さんの責任を負ったのが気に入らないって……。それがもし自分が朔さんに対して責任を持つってことなら、ちゃんと責任果たしてくださいよ。逃げないで、ちゃんと気持ち伝えてくださいよ……」
消え入りそうな蒼の声に、涼介がゆっくりと振り返る。その顔には諦めのようなものも垣間見えて、蒼は目の前が滲んでいくのが分かった。
「……もう遅いよ。もう、間に合わない。だけど……朔の大事なもの、一つだけなら俺にも取り戻せるから」
「朔さんの、大事なもの……?」
「そう、大事なもの」
悪戯っぽくニカッと笑って、涼介は再び蒼に背を向けた。その笑顔が無理して作られたものだと分かったのに、蒼には何も言うことができなかった。
「巻き込んでごめんね、蒼ちゃん」
その言葉を残して、蒼の視界から涼介が消えた。
「結局、独りかぁ……――」
朔を抱きかかえた瞬間、突然後ろへと引っ張られた自分の身体。意識を失ったのか、ただ驚いただけか、その後どうなったのか詳しくは分からない。だが、気が付いた時には穴の中の足場は遠くなっていて、自分が穴の外に戻されたのだということが分かった。
――夢だった? でも、ここにいるしな……。
この世界が現実でないのなら、夢の中で夢を見たということになる。そんな馬鹿なことがあるものかと思いながら起き上がるために身を捩れば、経験したことのない痛みが右半身を襲った。
「いっ……――!」
痛い――そう叫ぼうとして、声と共に強まった痛みに蒼は思わず叫びを飲み込んだ。無意識のうちに身体に振動を与えないよう静かに呼吸をし、痛みの波が過ぎ去るのをじっと待つ。
――一体、何が……。
この痛みの原因はなんだ――考えてすぐに、蒼の脳裏には少し前の出来事が浮かんだ。朔を引っ張り上げようとして、彼の炎に熱せられた身体に抱きついたのだ。しかも彼に触れただけでなく、他の人々にも身体をあちこち触られた。それは蒼の肌を間違いなく焼いていて、今襲うこの痛みはその時の火傷によるものだろう。ただの火傷にしては痛すぎる気もしたが、こんなに広い面積に火傷を負ったのは初めてだ、想像と違うことがあってもおかしくはない。
そうして痛みの原因に考え至ると、蒼の胸には安堵が広がった。辛いことには変わりなかったが、この痛みこそが今までの出来事が夢ではないと物語っているのだ。
夢ではないのなら、今ここに朔がいないのは自分の行動に何か意味があったということを表しているのではないか。我ながら前向き過ぎると思ったが、そうとでも考えなければ冷静でいられない。
――多分、もう帰れない。
自分をここに呼んだのがあの朔だったのであれば、彼と一緒に帰らなければならなかったのだ。目を閉じて何度も彼を探そうとしたが、もうどこにもその気配は感じられなかった。
ここに、取り残された。そう気が付いた時、蒼の口からは勝手に自嘲するような笑みが零れていた。
「――さっきレオニードに殺されてたら、独りじゃなかったんだけどなぁ」
口を動かすたびに痛みが走ったが、その痛みを感じていたくて蒼は独り言ばかりを呟いていた。この痛みが無くなった時、自分は本当に死ぬのだ――そう思うと、耐え難い苦痛を伴うこの火傷すら大事な仲間に思えてくる。
「でも殺されなかったから、こっちの朔さんのこと助けられたのかな」
助けられたという確信などなかったが、自分の行動に意味があったのだと思いたかった。いや、思わなければならなかった。
赤と黒と灰の世界は到底人の世界とは思えないし、絶えず鼓膜を震わす呻き声は、その正体が分かっていても心を不安で引き裂くようだった。そんな世界に取り残されたのに、そのきっかけとなった行動に何も意味がなかったのだと考えるのが怖かったのだ。
そうして自分の考えを無理矢理変えようとしていたからか、蒼は近付く気配に気付かなかった。
「――何、ここ」
突然聞こえてきた人の声に、蒼は目を瞬かせた。もう二度と聞くことはないと思っていた、自分以外の声。本当は仰向けに転がる身体を起こして声のする方を見たかったが、鉛のように重い身体はもう蒼の意思では動かせなかった。
「あれ? 蒼ちゃん意識あるの?」
すっ、と見上げた空を覆い隠すように声の主が顔を覗かせる。ここにいるはずのないその顔に、蒼はぽかんとした表情を浮かべた。
「涼介さん……? なんで此処に……。あ、朔さんは!? 朔さんはどうなったんですか!? 生きてない身体は治せないって嘘ですよね!?」
「うわ、その怪我でよくそんな喋れるね。もはやちょっとグロいよ」
そう言いながら、涼介は呆れたように思い切り顔を顰めた。蒼は初めて見るその顔に違和感を覚えて、はてと内心首を傾げる。
――こんな人だったっけ……?
何が違うのだろうと考えてみれば、涼介が常に纏っていたはずの飾り気のようなものが無くなっているのに気が付いた。今までのことを思うと自然体を思わせるその様子が不思議で、蒼はぼうっとしながら涼介の顔を見返していた。
「血の持ち主の特権ってやつ? まあ、上手くいったみたいだしもうなんでもいいや」
「上手くいったって……?」
「思ったとおりここに来れたってこと」
ふわりと、柔らかく涼介が微笑う。少しだけ困ったような表情に見えたが、今まで蒼が見た彼のどの表情よりも自然で、本心から出たものだと感じられた。
「──それで、生きてないって悪魔が言ったの?」
ぼんやりとしていた蒼に、涼介が問いかける。それに蒼が小さく「……はい」と返せば、涼介は眉間に深く皺を刻んで苦笑した。
「なるほどね。悪魔っていうのも人が悪い。人、って言うとおかしいのかな?」
「そんなこと言ってる場合じゃ――」
「確かに、生きていないって言えば生きていないのかもね」
驚きで何も言えなくなった蒼を見ながら、涼介はゆっくりと思い出すように語りかけた。
「半分欠けてたんだよ。あの日レオニードの願いの代償として取られかけた俺たちの命は、結局のところ半分しか取り返せてなかった。……取り返せなかった残り半分は、多分ずっとここにいた」
――なら、さっきの朔さんは……。
突飛とも思える涼介の言葉だったが、蒼はそれをすぐに受け入れることができた。もしかしたら似たようなものだと、どこかで思っていたのかもしれない。あの朔は、やはり朔本人だったのだ。自分のしたことが無駄ではなかったと思えて、蒼の口元はゆるく弧を描いた。
しかし、涼介の表情は浮かない。彼は蒼の様子に眉を顰めると、吐き捨てるように言葉を続けた。
「きっと不完全な状態だから物も通り抜けられたし、銀で命を落とす。これが、普通の人間のように生きているって言える?」
「それ、は……」
少し投げやりにも感じられる涼介の物言いに、蒼は彼ら自身にとっては何も喜べることなどないのだと思い出した。つい自分の行動が正当化された気がして笑顔になりかけたが、きゅっと口を噤んで涼介の言葉の意味に考えを巡らせる。
すると蒼の脳裏に、先程の朔の姿が浮かんだ。“半分欠けた状態”ということは、あの朔がその半分ということだったのだろう。生身の朔はともかく、ここにいた朔は生きているとは言い難い。彼の半分がその状態だったのなら、それは確かに生きているとは言えないのかもしれない。
「じゃあ、朔さんは……?」
途端に蒼の心は不安に覆い尽くされた。ここにいた朔がいなくなったことで全てが良い方向に行ったのだと思い込んでいたが、実際はそうではないのかもしれない。もし欠けた半分が朔に還ったのではなく、完全に消えてしまっていたのだとしたら。そうしたら、残された朔は生きていられるのだろうか。
蒼が不安げな表情を浮かべるのをちらりと一瞥して、涼介が小さく息を吐いた。
「朔なら無事だよ。君があいつの肩代わりしたからね」
「肩代わり……?」
それは、自分が今ここにいることを指すのだろうか──蒼には涼介の言葉の意味が分からなかったが、朔が無事だという言葉に自分のしたことが間違っていなかったのかもしれないと思えて、身体から力が抜けるのを感じた。
「多分だけどね。朔の欠けた半分を、蒼ちゃんが引き受けたってこと。だから君はここにいる。他の代償となった命と一緒に、囚われている」
――他の命と一緒に、ってことは……やっぱりもう、戻れない……?
予想していた状況を再確認させられて、蒼は自分の中に諦めが広がるのが分かった。それでも、無駄でなかったのならそれでいい――自然とそう思えて、蒼は自分でも驚くほど落ち着いたまま涼介に視線を向けた。
「涼介さん、やけに詳しいですけど……ここがどこだか、知っているんですか?」
「さあ? 地獄ってやつじゃないの?」
「地獄……」
予想していなかった答えに、蒼は返すべき言葉が浮かばなかった。またオカルトな――そう思いかけたが、今更だ。ここが普通の場所でないことなど明らかだし、炎の中で延々と苦しみ続ける人々がいるこの世界が、天国だなんて言われても到底信じられない。そう考えると、地獄という表現はしっくりと来る。
何か言おうと涼介を見上げれば、彼は蒼の様子を窺う素振りも見せず、「気に入らないんだよね」と、独り言のように呟いた。
「気に入らない?」
「朔は、俺の弟なんだよ。それがレオニードの弟って言われたり、君があいつの責任を負おうとしたり」
そう言う涼介の顔は悔しげに歪められていたが、蒼にはその心境が分からなかった。その言い方も表情も、まるで自分こそが朔の兄だと言わんばかりだったからだ。
以前の涼介がそう言ったとしても、蒼は疑問を抱かなかっただろう。だが、今の涼介に対しては違う。彼は朔を二度も裏切り、その上殺そうとしたのだ。自分の勝手な都合で殺そうとした相手を大事にしているかのような発言は、蒼には理解できなかった。
「今更何言ってるんですか……? そんなふうに思ってるなら、なんで朔さんを裏切るようなことしたんですか!? あの日だって、朔さんの気持ちを利用して……朔さんがどれだけ心を痛めていたか、貴方は分かってるんですか!?」
気付けば、蒼の身体は僅かに起き上がっていた。力などもう入らないと思っていたのに、涼介に対して感じた怒りのせいだろうか、軽症で済んでいる左腕で身体を支え、幾分か近くなった彼の顔を睨みつけた。
蒼は朔のことをただ見ていただけではないのだ。実際に朔の感情に触れ、涼介に裏切られたことに対する悲しみや怒りを感じたのだ。言葉にしてしまえば簡単かもしれないが、蒼が自分の心で感じたその感情はもっと複雑で、胸を締め付けられるようなものだった。自分自身のものと同じようにその感情を感じたのに、涼介の言動が許せるわけがない。
そう思いながら近くで見た涼介の顔は、意外にも悲痛に歪んでいた。唇がわなわなと震え、小さな声で何事かを呟いている。蒼が更に強く睨みつければ、堰を切ったように涼介の口から言葉が溢れ出した。
「こんなはずじゃなかった……! 俺が朔を利用するのに何も思わなかったとでも!? あの時全部上手くいってれば、俺が朔を裏切っただなんてあいつにバレずに済んだ! 俺だけが罪悪感を抱えればよかったんだ! なのに……!」
「なら、どうして……そんなに辛いことなら、なんで裏切ろうとしたんですか!? 貴方は聖杯を盗んで、何を願おうとしていたんですか……!?」
蒼の問いに涼介が下唇を噛み締める。そうして、ぽつりと「……分からない」と零した。
「『分からない』って……」
「何を願えば良かったかなんて、分からない。ただ、俺は――」
涼介の唇は、空気を吐く音しか発しなかった。それでも近くで見ていた蒼には、口の動きで彼が何と言ったのか分かってしまった。
「涼介さん、貴方は……」
蒼の言葉を遮るように、彼女の唇に涼介の指が触れた。蒼が眉を八の字にしてその顔を見上げれば、涼介が困ったように笑っているのが見える。そしてゆっくり手を離したかと思うと、涼介は立ち上がって穴の方に目をやった。
「あそこに、朔がいたの?」
「そう、ですけど……なんで、分かるんですか?」
「俺の片割れも、あそこにいるから」
そっと片方の口端を上げて、涼介は蒼に振り返った。
「蒼ちゃんが聖杯から受けた影響は、君が聖杯の血を捨てれば無くなるよ」
「急に何を――」
「言っただろ? 朔は俺の弟だから、あいつの肩代わりは俺がする」
言い終わった涼介は、ゆっくりと穴に向かって歩き出した。それに彼の次の行動を察した蒼は、止めるため必死に立ち上がろうと腕に力を込める。しかしその途端、バランスを崩し地面に突っ伏してしまった。先程は怒りに任せて起き上がることができた身体は、その怒りが萎んでしまった今はもう言うことを聞いてくれない。
『ただ、俺は――』
蒼の脳裏に、先程の涼介の言葉が蘇る。あれを、朔に伝えなくていいのか。何も教えないまま、終わりにしようというのか。
蒼はなんとか顔だけを少し上げると、涼介に向かって声を張り上げた。
「待って! 伝えなくていいんですか!? 謝らなくていいんですか!? このままじゃ朔さん、きっと涼介さんのこと――」
「知らなくていいよ。あいつは俺に全部奪われた、その事実は変わらない。今更訂正したところで、朔だって困るだけでしょ」
「無責任なこと言わないでください! 貴方さっき言ってましたよね? 私が朔さんの責任を負ったのが気に入らないって……。それがもし自分が朔さんに対して責任を持つってことなら、ちゃんと責任果たしてくださいよ。逃げないで、ちゃんと気持ち伝えてくださいよ……」
消え入りそうな蒼の声に、涼介がゆっくりと振り返る。その顔には諦めのようなものも垣間見えて、蒼は目の前が滲んでいくのが分かった。
「……もう遅いよ。もう、間に合わない。だけど……朔の大事なもの、一つだけなら俺にも取り戻せるから」
「朔さんの、大事なもの……?」
「そう、大事なもの」
悪戯っぽくニカッと笑って、涼介は再び蒼に背を向けた。その笑顔が無理して作られたものだと分かったのに、蒼には何も言うことができなかった。
「巻き込んでごめんね、蒼ちゃん」
その言葉を残して、蒼の視界から涼介が消えた。
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「君の不安は僕が取り除く」
彼は穏やかな、とても優しい眼差しで私に誓う。でもそれは、奇怪な日常の始まりだった。
「彼は本当に、私を愛しているのだろうか――」
※ この物語はフィクションです。実在の人物•団体•事件などとは関係ありません。
※エブリスタさま・小説家になろうさまにも掲載。
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