上 下
63 / 68
最終章 願いの代償

63. 責任の所在

しおりを挟む
『契約したら代償なんていらないからだよ』

 その言葉に、朔達が困惑した表情を浮かべた。彼らは聖杯を使うとどれだけの代償が必要か、身をもって体験しているのだから当然の反応だろう。

 ──だけど俺が言ったことを否定できるほど、朔達は聖杯のことを知らない。

 涼介は小さく息を吐き、丁寧に言葉を続ける。

「聖杯の存在を知った時に聞いた話だと、契約したらその力を自分のものにできるらしい。自分のものってことは、代償はいらなくて当然だろ?」

 ──そんなこと、誰も言ってなかったけど。

 涼介は自分の狡さに苦笑すると、そのままその顔に自信を貼り付けた。


 § § §

 聖杯から流れ出た血が、石材の目に沿って少しずつ床に染み込んでいく。涼介はその様子を見ながら、隣に立つ女に話しかけた。

「結局、この聖杯っていうのは何なわけ?」
「悪魔と契約するものよ」
「……何だよそれ。そんなオカルトみたいな話――」
「でも、見たでしょう?」

 何を、とは聞くまでもない。先程急に蒸発した聖杯の中の血のことだ。何かの仕掛けなら有り得るかもしれないが、部屋に漂っていた重たい空気に関しては仕掛けなどでどうにかなるとは思えなかった。初めて感じたあの不快な感覚は、人の手で作り出せるとは到底思えない。

「……百歩譲って本当だとして、君はこんなところで何をやってるの?」

 そう言って、涼介は周りにそっと目を配った。女に連れて来られたこの場所は、振礼島の建造物には珍しく石造りの構造をしている。それもだいぶ古いものだということは、建築知識を全く持たない涼介にもすぐに分かった。
 石材の劣化の仕方は分からないが、ところどころにある調度品の風合いが年季を感じさせるのだ。古い物を持ち込んだにしては不自然で、全てが同じ年月を過ごしてきたと考えればしっくりくる。我ながら感覚的な考え方に呆れたが、それしか判断する材料がないのだから仕方がない、と小さく息を吐いた。

 地下教会を思わせる造りのこの存在を、涼介は聞いたことがなかった。そもそもこの場所自体、本来は何もないとされている土地――振礼島の東側に位置しているのだ。だから女にそこへ呼び出された時は耳を疑ったし、合流した彼女に地下への隠し通路を見せられた時には頭を抱えたくなった。
 しかもその隠し通路は巧妙に隠されていて、何も知らなければ見つけることすらできないだろう。だからこの場所の存在を、偶然自分だけが知らなかったとは思えない。

 そんな場所に、当たり前のように出入りする女――彼女の容姿から思い当たる人物に、涼介は自分の眉間に力が入るのを感じた。

「貴方の仕事は、島に害をなすものを駆除することのはずだけど」

 先程の涼介の質問に対する女の言葉は、それ以上聞くなという意味だとすぐに理解できた。自分の仕事に関係のない部分を聞く必要はない――いつもの涼介なら引き下がっただろうが、異質な体験をした直後で気分が高揚していたのだろうか、彼にしては珍しく理性よりも興味がまさった。

「……リーザ、って言ったっけ。エリザベータか……確か、ヴォルコフにはエリザベータって娘がいたな」

 記憶を辿り、出会った時に女が名乗った名前からその素性を暴こうと試みる。すると女――リーザは嬉しそうににっこりと笑って、小首を傾げながら涼介と目を合わせた。

「勘が良いのね」
「調子良いな、どうせ最初から隠すつもりなかったくせに。俺の仕事のことを知っていて、レオニードと同じ目の色をして、名前まで普通に名乗る――どれか一つでも隠そうとした?」

 ――それに、その顔も……。

 涼介はリーザに気付かれないように、ギリ、と奥歯を噛み締めた。

 沸々とその胸に湧き上がるのは、自分ではどうすることもできないという無力感と悔しさ。普段は目を背けている劣等感を刺激されて、涼介は貼り付けた笑みを維持するのに必死だった。

 鋭くなりそうな視線を誤魔化しながらリーザを見やると、その視線を受けた彼女はふんわりと微笑んだ。目の前の男から漂う不穏な空気に気付いていないのか、それともわざとなのか。涼介にとって場違いなその笑みは、彼の動きを止めるには十分だった。

「貴方にはこれからもお世話になる予定だから。どうせいつまでも隠しておけないなら、最初に全部教えちゃってもいいかなって」

 そう悪戯っぽく笑うと、リーザは髪をかき上げた。そうして一瞬だけ伏し目がちになった彼女の顔を見て、涼介の脳裏に朔の姿が過ぎる。

 ――けど、何か違う……。

 一目で血縁者だと分かる程朔とよく似た顔立ちなのに、それを忘れさせるような柔らかい雰囲気。かと言って、レオニードに似ているわけでもない。外見から予想していたのとは全く異なるリーザの様子に、涼介は不思議な感覚を覚えながら決まりが悪そうに視線を逸らした。

「ていうか、レオニードにやらせればいいだけじゃないの?」
「兄じゃ駄目よ。この聖杯は契約した者に力を与える。あの人がそんなこと知ったら、たとえ信じなくても面白半分で使うに決まってるでしょ?」
「あー……」

 否定できない、と涼介は乾いた笑みを浮かべた。自分の一番の友人であるレオニード。彼は仕事面では確かに優秀だが、その性格に難がある。駄目と言われていること程やりたくなってしまうような、そんな理性の足りない子供のような性格に、涼介は何度も困らされてきた。

 実の妹にさえそう思われているのか――涼介は呆れの混じった溜息を吐くと、リーザの言葉の中の理解できなかった内容を拾い上げて問いかけた。

「力って、どういうこと?」
「どんな願いでも叶えてくれるの」

 そう言ったリーザの顔は、おどけたように不敵に微笑んでいた。


 § § §

 『自分のものってことは、代償はいらなくて当然だろ?』

 聖杯を自分のために使うことを朔達に受け入れさせるため、涼介は嘘を吐いた。蒼が願いのために代償を払うことを嫌がったのであれば、その代償自体がなければ彼らは自分の言葉を聞き入れやすくなる――そう思っての発言だ。
 しかし、実際の反応は想定していたものではなかった。

「お前はなんでそんなこと知ってるんだよ……」

 そう零す朔の顔は、辛そうに歪んでいた。明らかに自分が意図していたのとは違う反応に、咄嗟に目を逸らしそうになる。だが涼介は自分を叱咤すると、表情一つ変えずに朔を見下ろした。

 思いがけない言葉に視線を床に落としていた朔は、探るように涼介を見上げた。余裕を感じさせる笑みを浮かべて自分を見ているその姿は、見慣れたもののはずなのにどこか居心地が悪い。島ではずっと近くにいたはずなのに、その口から語られるのは自分が全く知らない話ばかりで、まるで見知らぬ他人を相手にしているようだった。

 涼介に対してそう感じるのは今に始まった話ではない。彼の告白にとっくに理解していたはずなのに、それを思い出させる言動を見るたびに、心が抉られるような感覚が朔を襲う。

 ――それでも、まだ……。

 目を逸らしてはならない。嘆いてはならない。今ここで何もせず項垂れてしまえば、腕の中にいる蒼が助かる可能性がなくなってしまう。そう思って、朔は涼介を見る目に力を込めた。

「色々な仕事をしてるとね、知る機会も多いんだよ」

 朔が何を考えているか敢えて考えないようにして、涼介は話を続けた。直前の朔の発言を受けてのものだったが、彼の言葉が自分への質問を意図していなかったことくらい分かっている。その証拠に、涼介の返事に朔は何も返そうとしない。僅かに動いた眉は彼が涼介の反応に不満を抱いていることを示していたが、それでも涼介は気付かない振りを続けた。

 すると少しの間、静寂が訪れた。互いの息遣いすら聞こえそうな静けさに、心の内が相手に筒抜けなってしまうかのような錯覚さえ感じる。涼介が朔に見抜かれないよう平静を装っていると、この沈黙に耐えかねたエレナが口を開いた。

「でもレオニードは知らなかったんでしょう? 息子としてヴォルコフからの仕事もしていたはずの彼が知らなくて、貴方が知ってる。それがおかしいって話なのよ」
「あいつが知らないのは、信用ないからだろ?」

 涼介の答えに、エレナは言葉を詰まらせた。彼女自身、レオニードとは姉の繋がりで知り合っただけだ。だから彼が父親にどういう印象を抱かれているのかは知る由もなかったが、噂に聞くレオニードという人物の問題行動を考えると、信用されていないとしても何もおかしくはない。そう考えると、自分が涼介にした質問は的外れもいいところだとエレナは唇を噛んだ。

 何も言えなくなっているエレナを見て、涼介は自分の眉間に力が入るのが分かった。エレナとレオニードが顔見知り程度でしかないのは涼介も知っている。そんな希薄な関係性なのに、エレナでさえも彼の信用の無さは知っているのだ。

 ──そのせいで、俺が……。

 涼介はそう思う気持ちを押し隠しながら、ためらいがちに口を開いた。

「俺だって、知りたくないことなんてたくさんあった。聖杯のことだって、知らなければ盗もうだなんて思わなかった。……何も知らなければ、あんなことにならずに済んだんだ」

 隠そうとする涼介の意図とは裏腹に、その口から出た声には不満の色が滲む。

 ――レオニードがヴォルコフに信用されていれば、俺が代わりにやる必要なんてなかったのに……。

 リーザとのやり取りを思い出しながら、涼介は眉根を寄せた。聖杯という情報の機密性を考えれば、身内であるレオニードがリーザの手伝いをすべきだったのだ。それなのに自分に白羽の矢が立ってしまったのは、リーザにもヴォルコフにも、レオニードが信用されていないからだろう。

 そう思うと、大声で叫び出したくなるような、なんとも言えない不快な感情が胸に湧き上がる。しかし彼らに言っても仕方がない──涼介が息を大きく吸って、気持ちを落ち着けようとした時だった。

「だから自分のせいじゃないって? どの口が言ってんだよ!」

 朔の怒声が、涼介の息を詰まらせた。

「散々色々かき乱しておいて、今更人のせいにすんなよ。聖杯の存在を知った上で盗もうとしたのはお前自身の意思だろ!? さっきからずっと他人押し退けて自分の願いばっか叶えようとしてるくせに、被害者面してんじゃねぇよ!」

 続け様に放たれたその言葉は、涼介に息を吐くのを忘れさせていた。

 朔の立場からすれば、至極真っ当な意見だとは分かっていた。それでも、彼の言い分は納得できない。何も知らないくせにどうして責められなければならないのか。そう不満に思う一方で、分かって欲しいとも思ってしまう。
 涼介は何も言うまいと口を真一文字に結んだが、大きく吸ったままだった息はもう出口を求めて無理矢理外に出ようとしている。動揺しているせいか、苦しくなって堪らず開いた口からは、涼介の意に反して言葉が零れ落ちていった。

「全部ヴォルコフのせいだろ! 確かにあの日のことは俺がレオニードの動きを読みきれてなかったせいかもしれない。俺の失敗が招いたことだから、俺だって望んでなかったことだから……他の何を置いてもちゃんと元に戻そうとしたじゃないか……!」

 つい先程彼の胸に押し寄せた感情が、絞り出すような声と共にその口から溢れ出ていた。聖杯を持つ右手を力任せに額に押し当て、ぎゅっと強く瞼を閉じる。そうやってどうにか押し留めようとしたものの、一度堰を切ったそれは、もう涼介本人にすら止めることはできなかった。

「俺のせいだと思ったのに……だからどんなことでもしようと決めたのに……! それなのに俺に聖杯を盗ませたのも、レオニードに計画とは違う動きをさせたのも、結局はヴォルコフが仕組んでたんだ……! こうなったのは全部あいつのせいじゃないか!」

 そう言って大きく息を荒げる涼介の脳裏には、レオニードとの最期のやり取りが浮かんでいた。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

ARIA(アリア)

残念パパいのっち
ミステリー
山内亮(やまうちとおる)は内見に出かけたアパートでAR越しに不思議な少女、西園寺雫(さいおんじしずく)と出会う。彼女は自分がAIでこのアパートに閉じ込められていると言うが……

探偵SS【ミステリーギャグ短編集】

原田一耕一
ミステリー
探偵、刑事、犯人たちを描くギャグサスペンスショート集 投稿漫画に「探偵まんが」も投稿中

彩霞堂

綾瀬 りょう
ミステリー
無くした記憶がたどり着く喫茶店「彩霞堂」。 記憶を無くした一人の少女がたどりつき、店主との会話で消し去りたかった記憶を思い出す。 以前ネットにも出していたことがある作品です。 高校時代に描いて、とても思い入れがあります!! 少しでも楽しんでいただけたら幸いです。 三部作予定なので、そこまで書ききれるよう、頑張りたいです!!!!

瞳に潜む村

山口テトラ
ミステリー
人口千五百人以下の三角村。 過去に様々な事故、事件が起きた村にはやはり何かしらの祟りという名の呪いは存在するのかも知れない。 この村で起きた奇妙な事件を記憶喪失の青年、桜は遭遇して自分の記憶と対峙するのだった。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

橋まで

折原ノエル
ミステリー
 橋に間に合って。  私は、彼女を救えるか?

変な屋敷 ~悪役令嬢を育てた部屋~

aihara
ミステリー
侯爵家の変わり者次女・ヴィッツ・ロードンは博物館で建築物史の学術研究院をしている。 ある日彼女のもとに、婚約者とともに王都でタウンハウスを探している妹・ヤマカ・ロードンが「この屋敷とてもいいんだけど、変な部屋があるの…」と相談を持ち掛けてきた。   とある作品リスペクトの謎解きストーリー。   本編9話(プロローグ含む)、閑話1話の全10話です。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

処理中です...