アザー・ハーフ

新菜いに/丹㑚仁戻

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第十五章 残滓の声

60. 呼ばれた先

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 二階で蒼達が話す声を聞きながら、涼介はルカの首に手を回した。

「お前、なんで……」

 涼介の腕に拘束されたルカが苦しげに声を上げる。彼の後ろに立つ涼介からはその表情を窺うことはできなかったが、ルカがレオニードの方を向いているのだろうということは察することができた。

「レオと、友達なんじゃなかったのかよ……!」

 ルカのその言葉は、何故レオニードを傷付けた蒼を助けて、自分に危害を加えるのかという意味だろう。涼介は苦笑を浮かべると、呆れたように溜息を吐いた。

「本当、自分勝手な子供だよな。レオニードが先に俺を殺そうとしたのに、自分は見逃してもらえるってどうしたら思えるわけ?」
「くっ……」
「それに、俺は自分の目的のために合理的な判断をしてるだけだよ。蒼ちゃんが俺の願いを叶える気になってくれたんだから、彼女を守るのは当然だろ?」

 言い切ると同時に力を込めると、鈍い音と共にルカの身体から力が抜けた。それでも軽い彼の身体に涼介は顔を歪めたが、視界に入った黒い煙で状況を思い出し、そっとそれを床に横たえる。
 一見すれば眠っているようにも見えたルカの身体は、みるみるうちに人の姿を失っていった。異常な生の末路――涼介は無表情でそれを見ながらゆっくりと立ち上がると、仰向けに倒れるレオニードの元へと近付いた。辛うじて息はあるらしく、胸が小刻みに上下しているのが見て取れる。

「うわ、しぶとい」
「リョウ、スケ……」
「安心しなよ、俺の願いが叶ったらお前も助かるから」

 そう言って、涼介は薄く笑みを浮かべた。


 § § §

 朔の腹部に乗せた蒼の手が、ゆっくりと中へと沈んでいく。通常では有り得ないはずのその現象は、初めて見るならば恐怖すら抱くだろう。しかし蒼には、そのような感情は全く芽生えなかった。

 代わりに感じたのは、その感触だけ。手から伝わる生温かい感覚に、蒼はそっと目を閉じた。同じ温度のぬるま湯に手を入れるのとは全く違う。だが不快というよりは、今まで体験したことのない感覚に少しばかり驚いただけだった。

 ――生きてる……。

 温かいということは、朔がまだ生きているということだ。ドク、ドク、と伝わってくる心臓の鼓動もそれを裏付けている。朔が死ぬかもしれない、生きていない身体なのかもしれない――そういった不安を先程からずっと感じていた蒼にとって、腕から伝わるこの感触は安心感を抱かせるものだった。

 目を開けて朔の顔を見てみれば、ずっと浮かべている苦悶の表情の中に、嫌悪感のようなものも含まれるようになっていた。その理由を知っている蒼はほんの少しだけおかしい気持ちになって、場違いとは分かっていたが思わず笑みを零す。

「だから言ったじゃないですか、これ気持ち悪いって。別に泣いてもいいんですよ?」
「……るせ」

 初めて朔の治療を受けた時、蒼は身の毛もよだつような不快感に襲われた。後から考えれば、意識を持ったまま腹部に手を突っ込まれているのだから当然だ。痛みを感じればまた違ったかもしれないが、この方法で身体の中を探られる時、これ自体に痛みはない。

 ――これで次この治し方しようとしてきたら、少しは気を遣ってくれるかな。

 そんなことを考えていると、何やら背筋がぞわぞわとしてくることに気が付いた。

「何……?」

 だんだんと、蒼の胸に消えかけていた不安が戻ってくる。その正体を探ろうと意識を向ければ、瞬く間に恐ろしい不快感が蒼を襲った。

「何、これ……」

 怒りと悲しみ――複雑に絡み合ったその感情が、蒼の胸に押し寄せてきた。朔であれば、それが朔自身の感情だと答えられただろう。しかしここには、彼の他にこの治療方法を使ったことのある人間はいない。正しく答えられる者など、殆ど口が利けなくなっている朔以外にはいないのだ。

 それなのに、蒼はそれが朔の感情だと気が付いた。強い怒りの中にある失望感、それにより引き起こされた悲しみ――涼介の裏切りがもたらしたものだと、すぐに分かった。

「朔さん……」

 蒼の声に、朔が顔を歪める。彼女が何故今、自分に声を掛けたのか分かったのだろう。

 ――知ってたんだ……。

 蒼の行動で、朔の感情が筒抜けになると。朔の性格を考えればあまり知られたくないことのはずだ。それなのに、彼は蒼の行動を止めなかった。そもそも朔がそうしたいと思わなければ、蒼の手は未だ彼の腹の上にあったはずだ。

 そのことを思うと、蒼はなんとも言えない気持ちになった。自分の思いつきの行動で、朔にとって嫌なことを強いてしまっている心苦しさ。断れたはずなのに、それを受け入れてくれた彼の意図。
 単に死にたくないから、背に腹は代えられないと嫌々付き合ってくれているのかもしれない。それでも、もしかしたら自分に心を開いてくれているのかもしれないとも思ってしまう。

 ――こんなときに、そんな都合良く考えるなんて……。

 なんだか自分が恥ずかしかった。けれど、そう思ってしまう気持ちは止められない。蒼がぎゅっと目を瞑ってなんとか切り替えると、冷静になった頭は先程まではなかった嫌な感覚が増えていることを教えた。

 ――……何か、来る?

 朔の感情に混ざって、何か得体の知れないものが遠くからやって来る。そんな気がした。

「無視、しろ……」

 慌てて蒼が朔の顔を見れば、その言葉だけが返ってくる。声を出すのは相当辛いはずなのにはっきりとそう言ったのは、それだけ朔にとって伝えたい情報なのかもしれない。それなのに、蒼はすぐに首を縦に振ることができなかった。

「無視しろって……でも……こんなの……」

 ――こんな悍ましいものを、無視なんてできるはずがない。

 声など聞こえないはずなのに、からは苦痛に喘ぐ声が聞こえる気がした。少しでも気を抜けば、意識が丸ごと引きずり込まれてしまいそうになる。

 それが更に近付いてくると、叫び出したくなるような感覚が蒼を襲った。苦しい、痛い――その二つだけが蒼の全身を巡り、彼女の意思とは無関係に目からは涙が零れ落ちていた。

「蒼ちゃん?」

 エレナが呼ぶ声は確かに聞こえるのに、身体の内側からはそれよりも大きな声で呼ばれている気がしている。
 無視などできなかった。気になってしまった。自分に嫌な感覚を与えるモノのはずなのに、どこか知っているような気もするそれの正体を、知らなければならないと思ってしまった。

 ――は、誰……?

 頭の中でそう問いかけた瞬間、蒼の周りの景色が変わった。

「――え……?」

 突然の出来事に、状況をすぐに把握することができない。

 ――誰も、いない……?

 蒼の周囲からは、人が消えていた。エレナも、輪島も、直前まで触れていたはずの朔さえも、そこにはいなかった。

 慌てて辺りを見渡してみれば、そこは異常なまでに赤かった。赤の他には、黒と灰。今まで生きてきて見たことのない景色に視線がうまく定まらない。

「ここ、どこ……?」

 思わず声を零すと、不自然に反響して聞こえる。まるで狭い部屋、例えば浴室にいるような音の響き方。ならば今蒼がいる場所が狭いかと言うと、そうは見えなかった。見渡す限りの赤は、果てしなく遠くまで続いているように感じられる。
 状況を把握しようと蒼がキョロキョロと辺りを見渡していると、ふと、右手が何かに引っ張られた。

っ……!」

 咄嗟に振り払おうとしたせいで、腕の傷が痛む。それでも右腕を押さえながら引っ張られた方へと顔を向けるも、そこには何もなかった。

 ――気の所為だった……?

 そんなはずはない、と不思議に思いながら再び辺りに視線を配ると、少し先の地面が割れているのが目に入る。

「あっちに、引っ張られた……?」

 それもおかしな話だとは分かっていた。蒼の手に触れたモノがその割れ目に隠れた可能性も考えたが、彼女が振り返るまでの間に辿り着ける距離ではない。

 あまりに非現実的な空間。しかし、先程腕の傷に走った痛みはそれが夢だということを否定している。蒼は暫く考えるように足元を見つめていたが、やがて顔を上げると恐る恐るその方向へと歩き始めた。

 荒涼とした大地を思わせる地面は、歩くたびに灰のような砂埃が立つ。しかし風はないのか、その砂埃はすぐにふっと消えた。

 ――これ、本当に砂……?

 自分の記憶にあるそれとは随分と違う動きに、蒼の眉間が皺を刻む。だがすぐに、この場所ならば何であってもおかしくないという結論に辿り着くと、蒼は地面に向けていた注意を周りに配り始めた。

 相変わらず何もない空間。そこにいるのは自分だけ。
 そう思っていたのに、低い音が鼓膜を微かに振動させているのに気が付いた。

 ――何の音……?

 聞いたことのないその音は、蒼が歩みを進めるたびに大きくなっていく。ならば音源は向かう先にあると分かったが、蒼の視界にはそれらしい物は映らない。

 他にあるとすれば、今向かっている地割れの中。得体の知れない音に、何があるか見ることができない地割れ。そんな場所に近付くのは怖いという気持ちは勿論あった。だが、こんな見知らぬ土地で他に何の手がかりもない中、近付かないという選択肢はない。

 そうしてその地割れ部分にたどり着いた時、蒼は自分の目を疑った。

 地割れだと思っていた場所は、大きな穴だった。それも端がどこか分からないくらい巨大な穴だ。深さは穴の幅の割にはあまりなく、二、三メートル程度といったところだろう。しかし底の方には炎が燃え滾っており、その中を何かが蠢いている。

 ――……赤い……人……?

 その何かは真っ赤ですぐに分からなかったが、一度そう思うとすぐに形が把握できる。

 それは、人間だった。それも全身が焼け爛れて真っ赤になった、見るも無残な状態の人々だった。それが見渡す限り、数百、数千と蠢いているのだ。

 蒼の耳に響いていた低い音は、彼らの呻き声だった。

「何、これ……?」

 異常な光景に、炎のせいで汗ばむような空気の熱さにも拘わらず、蒼の手は小刻みに震えていた。無意識のうちの腕を掴む力を強くすると、レオニードに切られた傷の痛みではっと我に返る。それでも、この状況を理解することなどできなかった。

 何が何だか分からない――いきなり自分のいる場所が変わっていることもそうだが、そもそもここはどこなのだろうか。そして眼下にいる彼らは何者なのだろうか。

 蒼にはその答えなど分かるはずもない。分かるはずが、なかった。

 ――振礼島の、代償となった人達……。

 知っているわけがないのに、何故かその答えが頭に浮かんだ。しかも蒼は、彼らがどうやって死んだかは知らない。朔から聞いているのは、レオニードの願いの代償として命が奪われたということだけだ。それにも拘わらず、何の疑問も抱かずにそうだと断言できた。

 蒼が自分の頭に浮かんだ答えに困惑しながら人々を見渡していると、一瞬だけ覚えのある気配がしたような気がした。無意識のうちにその辺りを探せば、ある一点で目が止まる。

「朔さん……?」

 朔がいるはずがない。ここにいるのが全員代償として回収された人間なのであれば、それから生き延びた朔がいるはずなどない。
 しかし、蒼にはそれが朔だと分かってしまった。見た目の特徴など残っていないのに、他の人間と見分けなどつかないはずなのに。

「朔さん!」

 蒼の声に、そこにいた全ての目が一斉に彼女を捉えた。

「ひっ」

 数え切れない程の目が蒼に向けられる。顔も焼け爛れているせいで眼球が剥き出しとなっており、それが余計に気味の悪さを増長していた。

 炎の中にいる人々は、声にならない声を発しながら蒼の方へと近付こうとしてくる。無数に伸ばされた彼らの腕に、蒼は自分もこの中に引き込まれるのではと恐怖を感じた。

 ――これ、落ちたらどうなるの……?

 これだけの炎が上がっているのだから、やはり焼け死ぬのだろうか。だが、彼らは生きている。炎に全身を包まれながら。とっくに消し炭になっていてもいいはずなのに。

 そうやって見ていると、蒼は不思議なことに気が付いた。焼け爛れた火傷というのは、ここ最近で随分見慣れている。ここにいる彼らのそれも普通にできた傷ではなく、振礼島の生き残りが持つ火傷と同じなのだろうと思われた。それなのに、ここにいる人々の身体には炭化した箇所が見当たらない。もし仮に違うとしても、これだけ長時間炎の中にいるのだから少しくらい焦げ付いていてもいいはずだ。

 ――終わりが、ない……?

 燃え尽きて、炭になってしまえばもう燃えることはない。それなのにいつまで経っても燃え尽きないということは、永遠に焼かれる苦しみを味わい続けなければならないということだろうか。

 そう思うと、先程よりも強く恐怖を感じた。
 そして同時に疑問に思う。何故、彼らは自分の方へと近付いてくるのだろうか。

 まるで知性を感じられない彼らは、果たして自分をどうしようというのか。蒼にはそんなこと分かるはずもない。
 朔の方を見れば、彼だけは他の人々と違い、最初に見た時のままぼんやりとそこに立っている。蒼の方へと近寄ろうとする人の波に飲まれ、時折よろめくその姿は全く朔らしくなかったが、彼以外の人々を得体の知れない化け物のように感じ始めていた蒼にとってはむしろ安心できるものだった。

 ――朔さんを、助け出さなきゃ。

 それに何の意味があるのか、蒼には分からなかった。けれどこの悍ましい集団の中に朔がいるというのが、どうしても耐えられなかった。聖杯の願いの被害者である彼らにこんな感情を感じるのは申し訳ない気もしたが、生前の姿を知らない蒼にとっては今ここにいる状態が全てなのだ。

「朔さん!」

 注目を集めてしまうのも厭わず、蒼は必死に声を上げた。離れたところにいる朔にどうにか近付けないかと辺りを見渡せば、彼の近くに足場にできそうな場所があるのが見えた。人一人くらいしか乗ることができなさそうだが、高さは十分にある。蒼のいる場所とは繋がっていないが、なんとか彼女でも跳べる距離だろう。

 ――落ちたら、助からないかも……。

 不安に思う一方で、既に身体は動き出していた。朔の近くの足場になるべく近付こうと、蒼の両脚は駆け出している。

 すぐに足場の一番近くまでやって来ると、蒼は改めて足元を見つめた。通常であれば落ちても足を挫くくらいで済む程度の高さかもしれないが、炎が上がっている上に、人とは言い難いモノが蠢いている。

 ――……落ち着け。さっきは、無傷で跳べたじゃないか。

 二階からレオニードの元へと跳んだことを思い出す。あの時だって怪我をしかねないと思っていた。それでも、着地で傷を負うことはなかったのだ。

 勇気を出せ、と全身に力を込める。

 ――……大丈夫、届く。

 そう自分に言い聞かせると、蒼は意を決して地面を蹴った。
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