アザー・ハーフ

新菜いに

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第十四章 血の饗宴

58. 甘い囁き

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「――何があったの……?」

 そう声を零したのはエレナだ。朔も聞こえてきた蒼の声に身を捩り、その様子を確認しようとする。

に何か言われたみたいだね」

 涼介の言葉に朔が視線だけを彼に向ける。涼介はそれに気が付くと、肩を竦めて言葉を続けた。

「どう見てもレオニードが話してる相手は、蒼ちゃんじゃないでしょ」
「でも、何も聞こえないじゃない」
「あれの声が聞こえるのは、願いを持つ者だけだよ。多分こっちの願いにあれが応えて初めて、その声を聞くことができるんだと思う。二人だって心当たりあるだろ? あんなふうに距離関係なく頭の中に直接響く声なのに、他の奴の願いに対する言葉は聞こえなかったはずだ」

 そういえばそうだ、と朔はあの日のことを思い返した。
 自分の願いが叶えられるより先に、少なくともレオニードの島を壊すという願いに関するやり取りはあったはずだなのだ。自分の場所にまで届いた声なのであれば、その願いの時のやり取りが聞こえていてもおかしくはない。それなのに聞いた覚えがないということは、涼介の言うとおりその時点での悪魔の願いの対象者にしか、その声は聞こえないのかもしれない。

「なら、蒼ちゃんは……? あの子だって、レオニードと会話してるようには見えないわ」
「蒼ちゃんは聞こえてると思うよ。何せ血の持ち主だし」
「何、だと……?」
「そう睨むなよ。悪魔と契約するための聖杯に血を注いだ本人なら、特別でもおかしくないだろ? まあ、それだけじゃないんだけどね。蒼ちゃんはいつまでかな?」

 どういうことだ――涼介の言葉にそう言おうとした朔だったが、うまく声が出なかった。それでも説明を求めるように涼介を睨みつけると、涼介は再び肩を竦める。

「血の持ち主――契約の権利を持つ人間は、精神を侵されるんだよ」

 それが何を意味するのか、まだ朔にははっきりとは分からなかった。しかし、良くないことだということだけは分かる。何故涼介がそんなことを知っているのかは検討も付かなかったが、先程レオニードが二つの聖杯両方に血を注いだのを見たことで、彼に対しては諦めにも近い感情が湧いていた。

 ――どっちが本物か分からないから両方に血を注いだ? いや、そんな感じじゃなかった。あれはきっと、二つとも……。

 そこまで考えて、朔は何かに耐えるように目を瞑った。二つとも本物なのであれば、ここに来る前に涼介が自分に話したことは嘘になる。レオニードの持つ聖杯が偽物だと露呈しないうちに動きたいと言ったのは、そう言えば自分が涼介の言うとおりに動くと考えたからだろう。

 ――聖杯は二つあったのにレオニードが一つしか持っていなかったのは、きっと最初からリョウが……。

 あの日も結局自分は踊らされていただけなのだと気が付いて、朔は言いようのない苦しさを感じていた。否定しようにも、先程涼介が聖杯の盗みを計画したと口を滑らせた蒼の様子を見る限り、今自分の中にある想像は正しいのだろう。

 自分に対して嘘ばかり吐いていた涼介の言葉など、もはや信じるだけ無駄なのかもしれない。だが、彼の口から語られた聖杯の影響に関しては、そんな嘘を吐く理由が朔には思い付かなかった。
 蒼の状態がどうなったところで、涼介には関係ないはずなのだ。朔に対してだって、もう動くこともできない相手にわざと悪い想像を掻き立てさせる意味はない。それを考えると、やはり血の持ち主である蒼の精神が侵されるというのは事実と考えるのが妥当だろう。

 そう思っても、朔にはただ蒼を見ることしかできなかった。もう身体はろくに動かせないのだ。蒼がレオニードの元へ行こうとするのを止めることだってできなかったし、その血が奪われたことも彼女の小さな悲鳴で気が付いたくらいなのだ。

 ――それ以上、何もするな。

 今ならまだ腕の怪我だけで済むのであれば、せめてこれ以上傷つかなくていいように。蒼にそう伝えたくても、朔には彼女の元に届くほどの声はもう出せなかった。


 § § §

 ――『生きていない身体は、治せない』……?

 蒼には、その言葉の意味が分からなかった。

 朔に付けられた腹部の傷を治したい――そうレオニードが望んだことに対する返答として聞こえてきたそれは、彼だけでなく同じ身体を持つ朔にも当てはまる。

 ――……?

 生きていない――言い換えれば、朔が既に死んでいるということだ。それも今の怪我が原因ではなく、何事もないように動くことができていた頃から。

 しかし蒼にはそんなこと、到底受け入れられるはずもない。何故なら蒼は見ているのだ。朔が自分と同じように食事をして、睡眠を取って、時には血も流す。そんな状態の人間が死んでいると言われても、信じられるわけがなかった。

「生きてないって……そんなの嘘です! 悪魔だかなんだか知らないけど、勝手なこと言わないでよ……!」

 殆ど悲鳴のような声で泣き叫びながら、蒼は行き場のない怒りをぶつけた。朔が既に死んでいるという話もそうだが、レオニードの傷を治すことができないというのであれば、それは朔の傷も同じなのだ。

 蒼にとって、今はまだ間違いなく朔は生きている。しかしこのまま彼の怪我が治らなければ、いずれ命を落とすことになるだろう。朔の命を助けるための唯一の希望であった方法がなくなってしまったこともまた、蒼から冷静さを奪っていた。

 すると不思議なことに、先程しぼんだはずの黒い感情が再び膨れ上がってくる。朔が死ぬかもしれないという悲しみや、彼を助けることができないという無力感が堰を切ったように溢れ出し、それはやがて現状に対する怒りや憎しみに近いものへと変わっていった。

 ――誰がの……?

 そう思った時、突然、蒼の髪が上に引っ張られた。慌てて見上げれば、レオニードが自分の髪を鷲掴みにしているのが分かった。

 ――だ。

 自分の中で囁いたその声に、蒼はまだ気付いていない。

「何を――」
「だったら、リョウスケを殺せ。人間一人くらい安いもんだろう。代償はこの女の命だ。足りなきゃあそこの男の命も持っていけ!」

 その言葉を聞いた瞬間、蒼の中で何かが変わった。先程まで蒼を苦しめていた頭痛はぴたりと治まり、冷静さを奪っていた黒い感情も、まるで最初から自分の一部だったかのように馴染んでいる。

 ――この人は、どうして私を殺すの?

 時間の流れが、酷く遅く感じられた。近くにいるレオニードだけでなく、恐らく彼の指した男のことであろう輪島と、それに気が付いたエレナが息を飲む様子まですぐ近くに感じられる。意識を朔に向ければ、彼が小さく浅い呼吸をしているのが分かった。

「それは流石に困るな」

 蒼が周りの様子を探っていると、涼介から声が上がった。至って冷静に見える彼は、いつもの困ったような笑みを浮かべながらレオニードを見ている。

「悪魔の声は聞こえないけど、レオニードは自分じゃ契約できないって今知ったってとこだろ? 調べ方が足りなかったな。契約の権利を持つのは血の持ち主だけ――つまりそもそも儀式ができない俺たちじゃ、どうやったって契約することなんて無理なんだよ」
「……お前、これが狙いで止めなかったな」

 レオニードが忌々しげに涼介を見上げる。蒼はまだレオニードの言葉の意味が分からなかったが、それはその後の涼介の発言ですぐに理解することとなった。

 自分が睨まれているのを自覚していないかのように薄く笑みを浮かべている涼介は、「俺はまだ殺されたくないんだよね」、と小さく呟いた。そしてゆっくりと蒼に視線を合わせ、微笑みかける。

「蒼ちゃん。聞いてたと思うけど、契約の権利は今君にある」

 ――ああ、だからか……。

 涼介に話しかけられた時、蒼の中で全てが繋がった。涼介は知っていたのだ――レオニードが自分のために儀式をしても、契約の権利が蒼に渡ると。

 最初にレオニードを止めるかのような声の掛け方をしたのは、止めるのが目的ではない。彼が生贄として、蒼をエレナの姉と同じように殺してしまわないかを確認するためだ。結果、レオニードのやりたいようにさせておけば、蒼が自動的に契約の権利を持つと判断した。だから、止めなかった。

 ――私に、何をさせたいの……?

 考えるまでもなかった。自分で聖杯を使ったところで、涼介本人は契約することも、ましてや儀式を成功させることもできない。つまり代理人が必要なのだ――涼介の願いを、代わりに叶える人間が。

 蒼は警戒した様子で涼介を見上げたが、それに気付かないはずのない涼介は相変わらず優しく微笑んでいる。それが妙に、蒼の心をざわつかせた。

「朔を助けるいい方法、教えてあげようか?」
「え……?」

 ――どういうこと……?

 涼介は自分に彼の願いを叶えさせたいのではないのだろうか。それなのにどうして、朔を助ける方法を教えてくれようとするのだろうか。

 蒼の中にあった涼介に対する警戒心は、どういうわけかその瞬間、霧散した。普段の蒼であれば、何か意図があるのではと勘繰っただろう。しかし何故かこの時は、朔を助けるという言葉に囚われるかのように、蒼にはそれしか考えられなくなっていた。

「朔の怪我が治せないんだったら、あの日からやり直せばいいんだよ」

 それは、まさしく悪魔の囁きだった。

 涼介の言うあの日とは、朔がまだ今の身体になる前のことだ。最初に涼介にその話をされた時は有り得ないと突っぱねたが、今は状況が違う。
 朔は今の身体ではどうやったって助からない。だが時を戻せば、今の身体になったことも、あんな怪我を負ったことだって全てなかったことになる。

 ――そうすれば、朔さんは助かる……?

 朔と出会ったことまでなかったことになるとしても、それでもが彼が生きることを望むのであれば、それでもいいのではないか――蒼の中に、先程までとは全く異なる考えが浮かんだ。
 縋るように顔を上げれば、優しく微笑む涼介がいる。少し前までは恐ろしくも見えたその表情は、今ではほっとするような、頼もしさを感じられるものに思えていた。

「蒼ちゃん! 駄目よ、そんなことしたら――」
「エレーナは困るよね。大嫌いなお姉さんが生き返るんだから」

 蒼の表情を見て慌てて声を掛けたエレナだったが、涼介の言葉に遮られる。「涼介……!」と忌々しげに彼を睨む彼女の目には、ほんの少しだけ動揺が浮かんでいた。

「俺言ったよね? あの日、『リューダを外に連れ出しておいてくれ』って。俺のすることに巻き込まないようにしたかったからさ。でも、君はそうしなかった。ああ、『レオニードが家にいたから』って言い訳はいいよ? レオニードがいようがいまいが、エレーナならリューダを連れ出せるって知ってるしね」

 涼介の言葉に、エレナの脳裏には嫌な記憶が蘇る。思わずきつく握りしめた拳は、小刻みに震えていた。

「エレナちゃん……?」

 エレナらしくないその様子に、今まで口を開かなかった輪島が声を漏らした。この非現実的な状況で次々と起こる出来事に自分の出る幕はないと思っていたが、エレナに関わることなら話は変わるのだ。

 しかしエレナは輪島に話しかけられたことにより、自分の中の罪悪感が一気に膨張するのを感じていた。輪島にだけは知られたくない。だが、嘘も吐きたくない――相反する想いを抱えながら、自棄になったかのようにエレナは大きく息を吸った。

「そうよ、わざとよ! アナタにリューダを家から離せって言われた時点で、あの家で何かするんだってことくらい分かってた! だからちょっとだけ困らせてやろうと思ったのよ……散々人に嫌がらせしてきてたアイツに、少しくらいバチがあたったっていいって思って……けど、あんなことになるなんて思わないじゃない……」

 だんだんと尻すぼみになりながら、それでも何とかエレナは最後まで言い切った。嘘を吐きたくないということは、真実を話さなければならない。真実の中の自分はなんて浅はかだったのだろうと実感しながら、これを聞いた輪島の反応が怖くて彼の方を見ることができなかった。

「そういう後悔も含めて、やり直せるんだよ? 今度はきっとリューダは死なない。だからエレーナからも蒼ちゃんに言ってやってよ、『やり直せば全部上手く行く』って」
「それは……」

 とても魅力的な響きに聞こえた。自分の中に燻る後悔の原因が、見られたくない大嫌いな自分の一面が、涼介の言葉通りならば全てなかったことになる。エレナが迷っていると、後ろにいた輪島から強い語気で声が掛けられた。

「エレナちゃん、駄目だ。正直今の状況は俺に理解できているとは思わないけど、全部なかったことにしてやり直すのは駄目だよ」

 自分を射抜く強い視線に、エレナは思わずたじろいだ。

 ――やり直すのは、きっといけないこと。でも……。

 輪島の言葉が、エレナの胸に突き刺さる。頭では分かっているのだ、それがやってはいけないことだと。だが、エレナは輪島の目を見返すことができなかった。いけないことをいけないと真っ直ぐ言えるような人間と自分が、一緒にいてもいいのか分からなかった。

「そんなこと言っても……! そうしなきゃ、私は――」
「そりゃやり直したいことだってたくさんあるかもしれないよ? でもそうやって後悔するから、今度はこうしようって次に活かせるんだよ」

 綺麗事だと思った。確かに後悔は次に活かせる。だがそれは、その後悔の重さによるのだ。エレナは下唇を強く噛みながら、溢れ出しそうになる涙を必死にこらえた。

 そんなエレナの手に、輪島がそっと触れた。エレナ自身も気付かないうちにきつく握りしめていた拳の指を一本一本解きながら、輪島は困ったようにエレナに笑いかける。

「もし過去をやり直したら、俺みたいなのがまたエレナちゃんに出会えるとは思えないしさ」

 そう言ってすぐに輪島は目を逸らすと、「偉そうなこと言ってあれだけど、こっちが本音なんだよね」と気まずそうに頬を掻いた。

 ――やり直したら、私が島を出るきっかけはなくなる……?

 涼介が振礼島を壊してしまったことをなかったことにしたいと願っているのであれば、島が壊れたことで本土に行かざるを得なくなった自分は、島の外に出ないまま一生を終えるのかもしれない。そう気が付いた時には既に、エレナは輪島の手を握り返していた。

「それは……嫌よ」
「え? あ、あぁごめん、いきなり手触ったら嫌だったよね? ほんとごめ――」
「離したら駄目」

 自分の言葉に困惑を浮かべる輪島を見ながら、エレナはゆっくりと深呼吸をした。危うく涼介の甘言に惑わされるところだったと自分を叱咤すると、そっと輪島から手を離す。そうして彼ににっこりと笑いかけると、蒼に向き直った。

 どこか放心状態にも見える蒼に心配を覚えつつも、彼女が悪魔と契約して涼介の願いを叶えようというのであれば止めなければならない。そう思って、エレナが口を開こうとした時だった。

「私、契約します」

 蒼のその一言が、空気を震わせた。
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