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第十一章 不審と誘惑
43. 掌の上
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――数日前
ダンッ、と音を立てて床から顔に振動が伝わった。しかし予想していた痛みや苦しみはなく、エレナはいつの間にかぎゅっと瞑っていた目をゆっくりと開いた。
「殺されると思ったか?」
開けた視界に赤く光るものが映るのと、上から愉快そうな声が降ってくるのはほぼ同時だった。
鼻先僅か数センチ程のところに突き立てられたナイフには自分が映っている。その顔が歪んでいるのは、刃が纏う血液のせいだけではないだろう。バクバクと激しく脈打つ心臓の鼓動は床を通して全身に伝わり、床に接した耳から頭に中に直接響いてくるようだった。呼吸が小刻みに震えるのは、その振動のせいなのか。
エレナはやっと襲ってきた恐怖に目から涙が溢れるのを必死に堪えながら、クツクツと厭らしくも楽しげな声を漏らすレオニードを睨みつけた。
「こ、殺せば……いい、じゃない」
震える声でも強気な発言を絞り出すエレナに、レオニードが笑みを深める。「お前達は本当に似てないな」、しみじみとした声色のその言葉が自分と姉を比較してのものだとエレナが気が付いたのは、レオニードが視線を彼女から逸らした後だった。
「お前を殺してもいいが、そうするとあいつが死ぬぞ?」
「え……?」
何を――エレナがその意味を理解しようとしている時、レオニードが気だるそうに彼女の上から自身の身体を退かした。
自分の動きを制限するものが無くなると同時に、エレナは考えるよりも先に“あいつ”――輪島の元へと動き出していた。比較的汚れの少ない背中に傷はここではないと無意識のうちに判断すると、うつ伏せの輪島の身体を仰向けに直し、真っ赤に染まった腹部に押さえるべき傷を探した。しかし――。
――傷が、ない……?
衣服を捲くり上げてみても、そこに跡こそあれ、肝心の傷が見当たらない。もしやこれは全て血糊なのでは――そう希望を持って輪島の顔に視線を移すが、その顔には全くと言っていいほど生気がなかった。そもそもこの赤が本物の血であるということは、部屋の中に充満する鉄臭さが証明している。再びエレナが絶望に引き込まれそうになった時、捲くった衣服が僅かに動いた。
「勇太!?」
エレナは咄嗟に輪島の名を呼んだ。身体を揺すって、何度も何度も呼びかけた。しかし、輪島は全く動かない。
「さっさと手当てしないと死ぬぞ?」
その声に振り返れば、面白いものを見ているかのような表情でレオニードがエレナを見下ろしていた。
――手当て……? 傷もないのに……?
「勇太に、何をしたの?」
「見たとおり」
「傷なんてないじゃない! なのにこんなに血まみれで……目も開けなくて……!」
悲鳴のようなエレナの声が狭い室内に響き渡る。レオニードはそんな彼女を冷たく一瞥すると、「そう、死にかけだ」とニヤリと笑みを浮かべた。
「お前が俺の言うとおりに動くなら、そいつのことを助けてやってもいい」
「何を――」
「なんで死にかけてるかすら分からないだろ? そんな奴、普通の病院に連れて行って助けられると思うか?」
「それは……」
反論する言葉が思い浮かばず、エレナはぎゅっと唇を噛み締めた。
この時、エレナは知らなかった。エレナ達のような振礼島の生き残りが、他人の怪我を治せることを。
だから思い至らなかった。輪島の状態は確かに危険であったものの、それは血液を失ったことが原因で引き起こされたものだと。
そして知っていた。目の前の男が、非現実的な方法で振礼島を崩壊に導いたことを。
だからエレナには、選択肢などあるはずもなかった。
§ § §
とある部屋の片隅で、エレナは膝を抱えて座っていた。近くには椅子があったが、今はただの置物と化している。
椅子の側にはベッドがあり、そこには輪島が眠っていた。時折聞こえてくる規則正しい寝息が、唯一彼女の心を安らげた。
未だにエレナは、輪島の身に何が起こったのか分かっていない。
レオニードの言葉に頷いた直後、エレナは気を失ってしまったのだ。それが自然なものではなく彼の手によるものだということは、目覚めた時に首に残っていた痣で判断できた。
そして輪島が助かったということも、隣の部屋に眠っていた彼の顔色を見れば明らかだった。
あれから数日、輪島はよく眠っているが、何度か目を覚ましエレナと会話を交わしている。彼自身も自分の身に何が起こったかよく覚えていないようで、しかし腹部を刺された気がする、と傷跡だけが残された腹を撫でながら首を傾げていた。
――傷を、治した……?
そんなことができるのだろうか。しかし、レオニードであれば可能なのかもしれない。
エレナの知る限り、例の聖杯はレオニードが持っているはずだった。それを使えば十分に可能だろう。エレナが自身の持ちうる情報で考えられるのは、それだけだった。だからまだ何か、輪島の身に自分の理解を超えるようなことが起きていたのだとしても不思議ではない。
そう思って、エレナはそこを脱出することができなかった。
エレナと輪島にあてがわれた二部屋は、廊下に出ずとも内部の扉で繋がっている。そして、窓がなかった。部屋の大きさに見合わず妙に音が反響するのは、そこが地下だからだろうか。
何度かエレナだけルカに連れられこの部屋を出ることがあったが、屋敷の構造は複雑で、見張られている状態では正確に把握することができなかった。自力で確かめられればよかったが、エレナにはその術がなかった。
一度ルカの目を盗んで廊下に出ようと試みたことがあるが、その時、エレナは自分が閉じ込められているのだと理解した。
恐らく銀製なのだろう、ドアノブを触った途端、指先に忘れかけていた火傷が戻った。ルカは触れていたのに、どうして──そう疑問に思ったが、すぐに彼が外側からしかドアを開けていないことを思い出した。
ドアノブを避ければ部屋を出ることはできる。しかし、エレナだけだ。輪島も連れていくためには、ドアを開けなければならない。
部屋に鍵がかけられていることは、何度かの出入りの際にその音で分かっていた。鍵が手元に無い以上、エレナが開けるしかない。だが鍵内部まで銀製だった場合、それは不可能だ。
──勇太と一緒に通り抜ける……? できるかもしれないけど、彼にどんな影響があるか……。
エレナ自身だけでなく、触れている物も一緒に通り抜けられることは経験上分かっていた。しかし彼女はまだ、生き物でそれを試したことがない。自分と違って普通の人間である輪島に、何も影響がないと言える自信がなかった。更に彼は現在弱っており、仮に普段なら平気だとしても、今の状態であれば致命的な事態を引き起こすかもしれない。
そう思うと、少しだけ試すというのも憚られた。あの日見た血まみれの輪島の姿が、エレナを臆病にさせていた。
§ § §
朔が異常に気付いたのは、蒼の言っていた帰宅時間を一時間近く過ぎてからだった。
最初は多少遅れることもあるだろうとあまり気にしないようにしていた。大の大人が自分の意思で出掛けたのだ、気にしすぎるのもおかしい――朔は最近の自分の行動を思い返し、異常な状況のせいで過剰に反応しすぎていたと頭を振った。
しかし五分、十分、と時間が過ぎていくにつれて、朔の中には少しずつ言い知れぬ気持ち悪さが積み重なっていく。試しにかけてみた電話は呼び出し音が虚しく響くばかりで、蒼の声が聞こえてくることはなかった。
――アイツが時間を守らないタイプか……?
蒼とはそう何度も待ち合わせをしたことはないが、朔の知る彼女の性格はきっちりとしていて、時間を守らないということはなさそうだった。
遅れるのであればそれが分かったタイミングで連絡をしてきそうな蒼の真面目さを思うと、それすらないのは何か別のことに集中していて時間の経過に気付かないのでは、と無理矢理自分を納得させる。
しかし、それにも限度があった。
蒼が家を出てから二時間近く経った頃、朔はさすがにおかしい、と重い腰を上げた。何かに気を取られていたにせよ、一時間も気が付かないことなどあるだろうか。
朔は家から出ると、蒼の言っていた看板を目指して周囲に気を配りながら歩みを進めた。店ではなく、道中で何かあったのかもしれないと思ったのだ。
しかしそれらしいものが見つかることもなく、店にはあっさりと到着してしまった。仕方なく朔は店に入ったが、予想していたよりも遥かに広い店内に思わず閉口する。
――ここから探すのか……?
振礼島では見ることのなかった光景に唖然としながら店内を見渡すと、レジの近くに数卓のテーブルが置かれたイートインスペースを見つけた。朔はそこが何なのかは分からなかったが、座って食事をしている人間もいることから、休憩場所のようなものと判断して蒼の姿を探す。しかし、そこに彼女の姿は無かった。
「クソッ……!」
朔は悪態を吐くと広い店内を走って蒼を探した。すれ違うことなどを考えると効率が悪かったが、仕方がない。
だが店内を一周しても、蒼の姿を見つけることはできなかった。いつの間にか朔の中で鳴り始めていた警鐘が、その音を大きくしていた。
――アイツの家は知られていないはず……けどリョウは、レオニードの仲間に疑われてる……。
まさか、と朔は自分の中に浮かんだ考えに顔を歪めた。涼介は蒼をレオニードから逃がすつもりで、彼女に関する情報をレオニード達に伏せている。つまり、レオニードを欺こうとしているということだ。
しかし涼介は、レオニードの仲間に疑われているかもしれないと言っていた。それが“かもしれない”ではなく、既に疑われていたとしたら。
――リョウは、アイツの家を隠せていると思わされていただけ……?
レオニードを欺いているつもりが、逆に欺かれている――もしそうなのだとしたら、今ここに蒼がいないのは全てレオニードの企みなのではないか。
蒼がこのタイミングで出かけることは予測不能だとしても、警戒心を緩めることはできる。涼介の“蒼の自宅は知られていない”という言葉なら、それが可能なのだ。レオニードは蒼の行動に干渉できないかもしれないが、直接話す機会があるであろう涼介相手ならば、言葉巧みにその行動を操ることができてもおかしくはない。
――リョウが家の周りは安全だと言わなければ、俺はきっとアイツを追いかけてた……。
涼介が朔に電話をかけてきたのは、レオニードが自分で蒼を攫うために動き出しそうだと彼が感じたからだ。蒼を逃がそうとしている人間であれば、すぐにでも何かしら行動を起こすのは当然だろう。
「嵌められた、のか……?」
朔はポケットからスマートフォンを取り出し、涼介の番号を表示した。
そして、考える。この推測が正しければ涼介の立場も危ういため、すぐにでも知らせる必要があるだろう。だが、それすらも仕組まれているとしたらどうだろうか。
考えれば考えるほど、全てが疑わしくなってくる。
それでも、朔はスマートフォンの通話ボタンを押した。もし蒼がレオニードに連れ去られたのだとしたら、その場所を知りうるのは涼介しかいないのだ。ここで一人考え込んだところで状況は何一つ変わらない。ならば危険でも動くしか無い。
少しのコール音の後、不自然にその音が止まった。相手が電話に出たのだ。
「リョウ……?」
少し警戒した声色で朔が声をかける。ここで涼介以外の声がすれば、それは――。
「どうした?」
聞こえてきた声に、朔の身体から力が抜けた。大きく一呼吸置くと、声のトーンを落として「無事か?」と尋ねる。
「何かあったのか?」
「アイツが消えた」
「アイツって蒼ちゃん?」
「あぁ」
朔が状況を説明すると、電話の向こうで涼介が舌打ちするのが聞こえた。「やられた」、そう小さく呟いた声は、朔の先程の推測が正しいことを表していた。
「そうか、だから昨日あんなタイミングで突然……珍しく朝まで酒に付き合わされたのも、夜のうちに朔達に連絡させないためかも……」
「夜だろうが朝だろうが、結果は同じだろ? アイツが出かけることまで予測できるわけじゃねぇし」
「蒼ちゃんが出掛けたのは偶然で、本当はあの子一人だけを家から引っ張り出す用意があったんだとしたら? それなら予測する必要なんてないだろ」
「どうやって引っ張り出すんだよ」
「それは分からないけど、そう考えると昨日のレオニードの行動に説明がつく」
どういうことだ――そう聞き返そうとした朔だったが、涼介の「とにかく――」という声に遮られた。
「今蒼ちゃんちか、近くにいるだろ? すぐ行くからちょっと待ってて」
「来てどうすんだ、アイツを探しに行く方が先だろ」
「いきなりレオニードのところに乗り込むのか? これでレオニードと関係なかったら、お前アイツに目をつけられるだけで終わるぞ? 最悪、蒼ちゃんを探しに行けなくなるかもしれない」
「それは――」
「今ならまだお前の存在はレオニードに知られていないはずなんだ。いや、この状況じゃ微妙だけど、それでもお前が振礼島の人間だって知られていない可能性が残ってる。だからまずは蒼ちゃんが本当にレオニードに連れ去られたのか確かめよう」
朔が反論の言葉を発するよりも早く、涼介により電話が切られた。
ダンッ、と音を立てて床から顔に振動が伝わった。しかし予想していた痛みや苦しみはなく、エレナはいつの間にかぎゅっと瞑っていた目をゆっくりと開いた。
「殺されると思ったか?」
開けた視界に赤く光るものが映るのと、上から愉快そうな声が降ってくるのはほぼ同時だった。
鼻先僅か数センチ程のところに突き立てられたナイフには自分が映っている。その顔が歪んでいるのは、刃が纏う血液のせいだけではないだろう。バクバクと激しく脈打つ心臓の鼓動は床を通して全身に伝わり、床に接した耳から頭に中に直接響いてくるようだった。呼吸が小刻みに震えるのは、その振動のせいなのか。
エレナはやっと襲ってきた恐怖に目から涙が溢れるのを必死に堪えながら、クツクツと厭らしくも楽しげな声を漏らすレオニードを睨みつけた。
「こ、殺せば……いい、じゃない」
震える声でも強気な発言を絞り出すエレナに、レオニードが笑みを深める。「お前達は本当に似てないな」、しみじみとした声色のその言葉が自分と姉を比較してのものだとエレナが気が付いたのは、レオニードが視線を彼女から逸らした後だった。
「お前を殺してもいいが、そうするとあいつが死ぬぞ?」
「え……?」
何を――エレナがその意味を理解しようとしている時、レオニードが気だるそうに彼女の上から自身の身体を退かした。
自分の動きを制限するものが無くなると同時に、エレナは考えるよりも先に“あいつ”――輪島の元へと動き出していた。比較的汚れの少ない背中に傷はここではないと無意識のうちに判断すると、うつ伏せの輪島の身体を仰向けに直し、真っ赤に染まった腹部に押さえるべき傷を探した。しかし――。
――傷が、ない……?
衣服を捲くり上げてみても、そこに跡こそあれ、肝心の傷が見当たらない。もしやこれは全て血糊なのでは――そう希望を持って輪島の顔に視線を移すが、その顔には全くと言っていいほど生気がなかった。そもそもこの赤が本物の血であるということは、部屋の中に充満する鉄臭さが証明している。再びエレナが絶望に引き込まれそうになった時、捲くった衣服が僅かに動いた。
「勇太!?」
エレナは咄嗟に輪島の名を呼んだ。身体を揺すって、何度も何度も呼びかけた。しかし、輪島は全く動かない。
「さっさと手当てしないと死ぬぞ?」
その声に振り返れば、面白いものを見ているかのような表情でレオニードがエレナを見下ろしていた。
――手当て……? 傷もないのに……?
「勇太に、何をしたの?」
「見たとおり」
「傷なんてないじゃない! なのにこんなに血まみれで……目も開けなくて……!」
悲鳴のようなエレナの声が狭い室内に響き渡る。レオニードはそんな彼女を冷たく一瞥すると、「そう、死にかけだ」とニヤリと笑みを浮かべた。
「お前が俺の言うとおりに動くなら、そいつのことを助けてやってもいい」
「何を――」
「なんで死にかけてるかすら分からないだろ? そんな奴、普通の病院に連れて行って助けられると思うか?」
「それは……」
反論する言葉が思い浮かばず、エレナはぎゅっと唇を噛み締めた。
この時、エレナは知らなかった。エレナ達のような振礼島の生き残りが、他人の怪我を治せることを。
だから思い至らなかった。輪島の状態は確かに危険であったものの、それは血液を失ったことが原因で引き起こされたものだと。
そして知っていた。目の前の男が、非現実的な方法で振礼島を崩壊に導いたことを。
だからエレナには、選択肢などあるはずもなかった。
§ § §
とある部屋の片隅で、エレナは膝を抱えて座っていた。近くには椅子があったが、今はただの置物と化している。
椅子の側にはベッドがあり、そこには輪島が眠っていた。時折聞こえてくる規則正しい寝息が、唯一彼女の心を安らげた。
未だにエレナは、輪島の身に何が起こったのか分かっていない。
レオニードの言葉に頷いた直後、エレナは気を失ってしまったのだ。それが自然なものではなく彼の手によるものだということは、目覚めた時に首に残っていた痣で判断できた。
そして輪島が助かったということも、隣の部屋に眠っていた彼の顔色を見れば明らかだった。
あれから数日、輪島はよく眠っているが、何度か目を覚ましエレナと会話を交わしている。彼自身も自分の身に何が起こったかよく覚えていないようで、しかし腹部を刺された気がする、と傷跡だけが残された腹を撫でながら首を傾げていた。
――傷を、治した……?
そんなことができるのだろうか。しかし、レオニードであれば可能なのかもしれない。
エレナの知る限り、例の聖杯はレオニードが持っているはずだった。それを使えば十分に可能だろう。エレナが自身の持ちうる情報で考えられるのは、それだけだった。だからまだ何か、輪島の身に自分の理解を超えるようなことが起きていたのだとしても不思議ではない。
そう思って、エレナはそこを脱出することができなかった。
エレナと輪島にあてがわれた二部屋は、廊下に出ずとも内部の扉で繋がっている。そして、窓がなかった。部屋の大きさに見合わず妙に音が反響するのは、そこが地下だからだろうか。
何度かエレナだけルカに連れられこの部屋を出ることがあったが、屋敷の構造は複雑で、見張られている状態では正確に把握することができなかった。自力で確かめられればよかったが、エレナにはその術がなかった。
一度ルカの目を盗んで廊下に出ようと試みたことがあるが、その時、エレナは自分が閉じ込められているのだと理解した。
恐らく銀製なのだろう、ドアノブを触った途端、指先に忘れかけていた火傷が戻った。ルカは触れていたのに、どうして──そう疑問に思ったが、すぐに彼が外側からしかドアを開けていないことを思い出した。
ドアノブを避ければ部屋を出ることはできる。しかし、エレナだけだ。輪島も連れていくためには、ドアを開けなければならない。
部屋に鍵がかけられていることは、何度かの出入りの際にその音で分かっていた。鍵が手元に無い以上、エレナが開けるしかない。だが鍵内部まで銀製だった場合、それは不可能だ。
──勇太と一緒に通り抜ける……? できるかもしれないけど、彼にどんな影響があるか……。
エレナ自身だけでなく、触れている物も一緒に通り抜けられることは経験上分かっていた。しかし彼女はまだ、生き物でそれを試したことがない。自分と違って普通の人間である輪島に、何も影響がないと言える自信がなかった。更に彼は現在弱っており、仮に普段なら平気だとしても、今の状態であれば致命的な事態を引き起こすかもしれない。
そう思うと、少しだけ試すというのも憚られた。あの日見た血まみれの輪島の姿が、エレナを臆病にさせていた。
§ § §
朔が異常に気付いたのは、蒼の言っていた帰宅時間を一時間近く過ぎてからだった。
最初は多少遅れることもあるだろうとあまり気にしないようにしていた。大の大人が自分の意思で出掛けたのだ、気にしすぎるのもおかしい――朔は最近の自分の行動を思い返し、異常な状況のせいで過剰に反応しすぎていたと頭を振った。
しかし五分、十分、と時間が過ぎていくにつれて、朔の中には少しずつ言い知れぬ気持ち悪さが積み重なっていく。試しにかけてみた電話は呼び出し音が虚しく響くばかりで、蒼の声が聞こえてくることはなかった。
――アイツが時間を守らないタイプか……?
蒼とはそう何度も待ち合わせをしたことはないが、朔の知る彼女の性格はきっちりとしていて、時間を守らないということはなさそうだった。
遅れるのであればそれが分かったタイミングで連絡をしてきそうな蒼の真面目さを思うと、それすらないのは何か別のことに集中していて時間の経過に気付かないのでは、と無理矢理自分を納得させる。
しかし、それにも限度があった。
蒼が家を出てから二時間近く経った頃、朔はさすがにおかしい、と重い腰を上げた。何かに気を取られていたにせよ、一時間も気が付かないことなどあるだろうか。
朔は家から出ると、蒼の言っていた看板を目指して周囲に気を配りながら歩みを進めた。店ではなく、道中で何かあったのかもしれないと思ったのだ。
しかしそれらしいものが見つかることもなく、店にはあっさりと到着してしまった。仕方なく朔は店に入ったが、予想していたよりも遥かに広い店内に思わず閉口する。
――ここから探すのか……?
振礼島では見ることのなかった光景に唖然としながら店内を見渡すと、レジの近くに数卓のテーブルが置かれたイートインスペースを見つけた。朔はそこが何なのかは分からなかったが、座って食事をしている人間もいることから、休憩場所のようなものと判断して蒼の姿を探す。しかし、そこに彼女の姿は無かった。
「クソッ……!」
朔は悪態を吐くと広い店内を走って蒼を探した。すれ違うことなどを考えると効率が悪かったが、仕方がない。
だが店内を一周しても、蒼の姿を見つけることはできなかった。いつの間にか朔の中で鳴り始めていた警鐘が、その音を大きくしていた。
――アイツの家は知られていないはず……けどリョウは、レオニードの仲間に疑われてる……。
まさか、と朔は自分の中に浮かんだ考えに顔を歪めた。涼介は蒼をレオニードから逃がすつもりで、彼女に関する情報をレオニード達に伏せている。つまり、レオニードを欺こうとしているということだ。
しかし涼介は、レオニードの仲間に疑われているかもしれないと言っていた。それが“かもしれない”ではなく、既に疑われていたとしたら。
――リョウは、アイツの家を隠せていると思わされていただけ……?
レオニードを欺いているつもりが、逆に欺かれている――もしそうなのだとしたら、今ここに蒼がいないのは全てレオニードの企みなのではないか。
蒼がこのタイミングで出かけることは予測不能だとしても、警戒心を緩めることはできる。涼介の“蒼の自宅は知られていない”という言葉なら、それが可能なのだ。レオニードは蒼の行動に干渉できないかもしれないが、直接話す機会があるであろう涼介相手ならば、言葉巧みにその行動を操ることができてもおかしくはない。
――リョウが家の周りは安全だと言わなければ、俺はきっとアイツを追いかけてた……。
涼介が朔に電話をかけてきたのは、レオニードが自分で蒼を攫うために動き出しそうだと彼が感じたからだ。蒼を逃がそうとしている人間であれば、すぐにでも何かしら行動を起こすのは当然だろう。
「嵌められた、のか……?」
朔はポケットからスマートフォンを取り出し、涼介の番号を表示した。
そして、考える。この推測が正しければ涼介の立場も危ういため、すぐにでも知らせる必要があるだろう。だが、それすらも仕組まれているとしたらどうだろうか。
考えれば考えるほど、全てが疑わしくなってくる。
それでも、朔はスマートフォンの通話ボタンを押した。もし蒼がレオニードに連れ去られたのだとしたら、その場所を知りうるのは涼介しかいないのだ。ここで一人考え込んだところで状況は何一つ変わらない。ならば危険でも動くしか無い。
少しのコール音の後、不自然にその音が止まった。相手が電話に出たのだ。
「リョウ……?」
少し警戒した声色で朔が声をかける。ここで涼介以外の声がすれば、それは――。
「どうした?」
聞こえてきた声に、朔の身体から力が抜けた。大きく一呼吸置くと、声のトーンを落として「無事か?」と尋ねる。
「何かあったのか?」
「アイツが消えた」
「アイツって蒼ちゃん?」
「あぁ」
朔が状況を説明すると、電話の向こうで涼介が舌打ちするのが聞こえた。「やられた」、そう小さく呟いた声は、朔の先程の推測が正しいことを表していた。
「そうか、だから昨日あんなタイミングで突然……珍しく朝まで酒に付き合わされたのも、夜のうちに朔達に連絡させないためかも……」
「夜だろうが朝だろうが、結果は同じだろ? アイツが出かけることまで予測できるわけじゃねぇし」
「蒼ちゃんが出掛けたのは偶然で、本当はあの子一人だけを家から引っ張り出す用意があったんだとしたら? それなら予測する必要なんてないだろ」
「どうやって引っ張り出すんだよ」
「それは分からないけど、そう考えると昨日のレオニードの行動に説明がつく」
どういうことだ――そう聞き返そうとした朔だったが、涼介の「とにかく――」という声に遮られた。
「今蒼ちゃんちか、近くにいるだろ? すぐ行くからちょっと待ってて」
「来てどうすんだ、アイツを探しに行く方が先だろ」
「いきなりレオニードのところに乗り込むのか? これでレオニードと関係なかったら、お前アイツに目をつけられるだけで終わるぞ? 最悪、蒼ちゃんを探しに行けなくなるかもしれない」
「それは――」
「今ならまだお前の存在はレオニードに知られていないはずなんだ。いや、この状況じゃ微妙だけど、それでもお前が振礼島の人間だって知られていない可能性が残ってる。だからまずは蒼ちゃんが本当にレオニードに連れ去られたのか確かめよう」
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