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第九章 謀の上に思い出を

36. 望みのために

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 前日の雨はすっかりと上がり、秋晴れと言っていいほどのさわやかな青空が広がっていた。
 からっとした空気はつい最近までの夏の名残を殆ど含んでおらず、目の前に佇む廃工場は以前蒼が訪れた時よりも些か不気味さが軽減されている。

 それでも前回ここに来た時の記憶が蘇り、蒼は思わず腹部を撫ぜた。

 ――まさかこんなことになるなんて……。

 初めてこの廃工場に来た時、蒼はまだ何も知らなかった。
 一晩で島が滅びたにも拘らず、誰もその真相を知らない――その事実に惹かれ、蒼は振礼島を調べることに決めた。かつての父の面影を追って、新卒で入社した大手出版社からゴシップ誌を扱う現在の会社に転職までしたのに、そこでの仕事に全くやりがいを感じなかったというのも大きかった。
 真実を隠蔽された島――それに出会った時、これだと思った。自分の仕事はこれなのだ、と。

 しかし蓋を開けてみれば、蒼が当初思い描いていたような“政府の陰謀”のようなものとは全く異なり、それどころか常識外のことばかりが繰り広げられていた。
 さらには自分の父親の死にも関係があるかもしれないと分かり、蒼は複雑な想いでこの場所に立っていた。

 ――しかも、あれだけ怖いと思った人を頼りにしているなんて……。

 蒼はちらりと隣を見上げた。かつて意地の悪そうな笑みを浮かべて自分を痛めつけるように傷の手当てをした男は、暫く共に過ごすうちに随分と雰囲気が柔らかくなったように感じる。
 しかし今日はどこかピリピリとしていて、電車を降りてからずっと隣から漂ってくる煙草の煙が、それが気の所為ではないことを表していた。

「今どき二十三区は路上喫煙を禁止していないところの方が珍しいんですから、気を付けてくださいね」

 蒼の苦言にむっとした表情を返すと、朔は「さっさと行くぞ」と話を打ち切るようにして先を促した。
 そんな子供のようなやり方に思わず笑みが零れ、蒼の中にあった緊張がいくらか和らいでいく。

 蒼は以前入る時に使った柵の隙間にするりと身を滑り込ませると、後ろを振り返って朔を待った。
 彼女の身体の大きさでなんとか通れる程度のこの隙間から、体格の良い朔は入れない。だから前回の帰りもそうだったように、今回も当然柵をすり抜けるだろうと考えられた。
 正面から見るとどうなっているのだろうという好奇心を胸に、蒼は朔の行動を見守る。

 朔は咥えていた煙草を蒼に持たされた携帯灰皿に捨てると、二、三歩後ろに下がり、軽く助走を付けて高く飛び上がった。
 勢い良く両手を柵の上部にかければ、ガシャンと大きな音が響く。朔はそのまま軽々と身体を持ち上げると、すとんと軽やかに蒼の前に着地した。
 いとも簡単に自分が諦めた手段で侵入を成功させた朔に、蒼は呆気に取られる。しかしすぐさま納得がいかないという表情を浮かべると、涼しい顔をしている朔を睨みつけた。

「こんな高いとこ、なんでそんな簡単に……!」
「背が全然違うだろ」
「そうですけど! でも前に来た時はすり抜けたじゃないですか!」
人気ひとけがあったからな」

 柵に大きな力を加えると大きな音が鳴るというのは、たった今証明された。
 前回蒼達がここから帰る時は夕暮れ時で、住宅街であるこの辺りには学校や勤務先から帰宅する人々の行き来があったのだ。工場内部の音はそこまで聞こえないだろうが、外側であれば十分人々の耳に届くだろう。着替えていたとはいえ、あの日は中には入れば蒼の流した血液が広がっていた。
 朔が人を避けるため、音がしない方法を取るのは当然だった。

 しかし今は休日の昼食時、人気は殆どない。
 至ってまともな朔の言い分にぐっと言葉を詰まらせると、蒼は「さっさと行きますよ!」と少し前に自分が子供っぽいと称した行動でもってこの話題を打ち切った。


 § § §

「父が殺されたかもしれないんです」

 涼介の話を終えて暫くの沈黙の後、蒼は徐に口を開いた。
 理由がどうであれ、朔が涼介のことを含め、振礼島で起きた出来事についてやっと話してくれたのだ。それは彼にとって簡単なことではなかっただろうと思うと、蒼は自分も朔に誠意を見せるべきだと感じていた。

 朔本人は知らないことだが、蒼は父親の死に関して一度彼のことを疑っている。そのことに後ろめたさを感じているし、実際に変な態度を取ってしまったという自覚もあった蒼は、彼が求めているかは別として話しておきたいと思ったのだ。

 蒼のそんな考えを知らない朔は、突然の話題に「何だよ、いきなり」と片眉を上げて彼女に視線を向けた。

「私の父は五年前に亡くなりました。酔って、都内の歩道橋から足を踏み外したんだろうと聞いています」

 未だ蒼の意図が読めない朔は、不思議そうな表情で耳を傾けている。
 しかし聞く気はあるのか、話を遮るような素振りは見せなかった。

「でも、父の友人だった人が言っていたんです。それはおかしいって。父はあの日、北海道にいたんだって」

 そこまで言うと、蒼は大きく深呼吸をした。ここから先は証拠など何もない、ただの憶測が入ってくる。振礼島に関わったせいで殺された――それは、その振礼島出身の朔にとっては気分のいい話ではないかもしれない。

「振礼島のことを調べていたんだそうです」

 それだけ言って、ごくりと唾を飲み込んだ。そっと朔の様子を窺うと、意外にも納得がいったというような表情で自分を見ている彼と目が合う。

「だからこないだ聞いてきたのか。人を殺すかって」

 朔は煙草を取り出すと、数時間ぶりに火を付けた。蒼が無意識のうちに換気扇をちらりと一瞥すれば、肩を竦めてスイッチを入れるために席を立つ。

 朔が再び椅子に座るのを見届けてから、蒼は話を再開した。

「――はい。北海道にいたはずの父が死体で都内で発見された、しかも振礼島のことを調べていた。それを聞いて疑わない方が難しいです」

 少し遠慮がちに言う蒼を横目で見ながら、朔は「ま、当然だな」と煙を吐き出す。

「でもよ、その日のうちに東京に戻って来てたって可能性はないのか?」
「あ……」
「お前な、それは確認しとけよ」

 朔の大きな溜息を聞きながら、蒼は菊池から詳しく聞いていないことを思い出し気まずそうに目を背けた。しかし、もし父親が自分の足で戻ってきていた可能性があるのであれば、菊池ならそう言うはずだと思い直す。第一酒を辞めたはずの父親が酔っていたという状況も不自然なのだ。

「動揺してて……。朔さん、もし父の写真見せたら島で見たことあるか分かりますか?」
「無理だろ、そんなん。島の奴ら全員顔見知りってわけでもねぇし、五年前のことなんてそうそう覚えてねぇよ」
「ですよね……」

 当然の反応に蒼は肩を落とした。自分でも仕事で出会った人間ならともかく、路上ですれ違っただけの相手のことなど一日も覚えていられない。そもそもよっぽど印象に残る何かが無い限り覚えることすらしないだろう。

「……まぁ別に、写真見るくらいだったらいいけど」

 落ち込む蒼を見かねたのか、朔が小さく呟く。それを聞き逃さなかった蒼はぱっと顔を上げると、「持ってきますね!」と自室へと走った。

 少ししてダイニングに戻ってくると、蒼は小さな古びた写真を朔に手渡した。
 朔は暫く写真を見つめていたが、首を横に振って蒼に返した。

「知らねぇな。つーかこの写真古くねぇか? この変な髪型のガキ、お前だろ」

 変な髪型というのは、写真に写る少女のお団子頭のことだ。当時流行っていたアニメのキャラクターの髪型で、高めのツインテールの位置にそのまま髪をまとめたような形だ。

 蒼は「可愛いじゃないですか、小さい私」と口を尖らせながら写真を受け取った。

「二十年前の写真なんですよ、全然残ってなくて。これも父の財布から出てきたものなんです」
「そりゃ無理だろ、二十年経ってりゃ見た目相当変わるぞ?」

 手元の写真を見つめ、蒼は葬儀で見た父親の顔を思い出していた。確かに仕事人間だった二十年前と、堕落を一度経験した後とでは全く顔つきが異なっていたと眉根を寄せる。蒼にとって父親の姿はこの写真の中の男性のイメージが強いのだが、最期の数年の彼とは、街中ですれ違っても気付けなかったかもしれない。

「……じゃあ、前見たっていう人は?」

 以前朔が振礼島で見たと言っていた、外部から来た人間について尋ねる。彼がその人物と会ったのがいつかは分からないが、可能性は全くのゼロではないと思ったのだ。
 正直期待は全くできなかったが、気付けば口からその質問が出ていた。

「それこそ違うだろ。こんなまともそうな人間じゃなかったし。あとは、そうだな……俺が見た奴は眉のとこに傷跡があったな。妙に印象的だったからそれくらいしか覚えてねぇよ」

 朔のその言葉に、蒼の中にある記憶が蘇った。葬儀で見た父親の顔にあった、覚えのない古い傷跡。確かあれは──記憶を辿りながら朔に質問を投げかける。

「眉毛のところに傷? それって左ですか?」
「あー……多分」
「傷跡の先端がちょうど額のホクロと被りかけてる?」
「……あぁ、それで気になったのは覚えてる。お前──」

 朔は何か言いたげに蒼を見たが、その表情に思わず口を噤んだ。明らかに強張っていると分かるその顔は、朔の中に浮かんだ考えを肯定するものだった。

「多分、それ父です。いつですか? いつ見たんですか!?」

 蒼は勢いよくテーブルに身を乗り出すと、驚いた様子の朔に詰め寄った。
 殆ど期待していなかった偶然が起きていたかもしれないのだ。全くないと思っていた手がかりを前に、彼女が自分の気持ちを抑えきれないのは当然のことだった。

 朔はそっと煙草を灰皿ごと蒼から遠ざけると、「とりあえず少し落ち着け」と言いながら彼女の肩を押し返した。
 火の付いた煙草が蒼に当たり、それに驚いた彼女が近くの灰皿をひっくり返す――もう少し反応が遅れていたら起こっていたであろう出来事を回避できたことに安堵しつつも、少しでも危険は減らしておきたいとばかりに蒼を宥める。

「五年前かどうかは分かんねぇよ」
「思い出してください!」
「思い出せるわけねぇだろ、傷跡くらしか覚えてないんだぞ」
「う……でも、もし朔さんが見た人と同一人物だったら、父は振礼島に行っていたってことですよね」
「まだそうと決まったわけじゃないだろ」
「そうです。そうですけど、その前提で考えてみて、それでどうしても説明の出来ない矛盾があれば、諦めがつきます」

 ――考えるだけなら、まぁ……。

 あまりに必死な蒼の様子に、朔はそれ以上の否定の言葉を飲み込んだ。自分が数年前に出会った人間と、蒼の父親が同一人物である可能性など殆どない。
 確かに同じ特徴を持っているかもしれないが、自分の記憶違いということもあるかもしれない――全くの別人だったという結果を考えるとあまり期待させたくはなかったが、本人がそうしたいのなら止めることはできないと思ったのだ。

「――あと、涼介さんにも聞いてみないと」
「……は?」

 予想外の言葉に朔の口から間抜けな声が漏れた。

「朔さんが知らないことでも、涼介さんが知ってるってことあるかもしれないですよね? どう考えても人付き合いは朔さんよりもたくさんしてそうだし、だからこそレオニードにも出会っていたんだろうし」
「否定はしねぇが……」
「本当はエレナさんにも聞いてみたいんですけどね。でも連絡先も分からないから……」
「アイツ、ロシア人だろ? だったら住んでる場所が違う。俺が見た奴と会ってる可能性は低いだろうな」

 以前エレナが名乗った名前はロシア人のものだった。そのため朔は彼女が振礼島の北側にあるロシア人の街出身だろうと推測したのだが、エレナの国籍はともかく振礼島の仕組みを全く知らない蒼は、朔の言葉の意味が分からず首を傾げた。

「なんですかそれ、初耳なんですけど」
「別にいいだろ」
「ここまで話したんですから、もう勿体ぶるのやめてくださいよ!」
「……北と南で大雑把に分かれてるんだよ。北がロシア人で南が日本人」

 説明が足りないと言わんばかりに不服そうな表情を浮かべる蒼に、朔は渋々振礼島の居住地について説明した。白線と呼ばれる東西を横断する大通りを境に、北側と南側で人種によって住む場所や生活圏が分かれている――その説明を聞くと、再び蒼は不思議そうに首を捻った。

「それだと、涼介さんはどうやってロシア人のレオニードと知り合ったんですか?」
「大雑把にって言っただろ。そんな厳密なものじゃねぇよ。俺だって何回も北側に行ったことあるし」
「ふうん……」

 蒼は煮え切らない様子で眉を寄せたが、朔の言う通り大雑把な分け方でなければ、彼やエレナのような混血は生まれないのかもしれないと考え至った。

 一方で朔は、外部の人間である蒼に聞かれたことで、少し引っかかるものを感じていた。

 ――そういやなんでリョウの奴、あれだけロシア語喋れるんだ……?

 振礼島という島に住んでいると、少なからず互いの言語に触れる機会がある。白線上に住んでいる人間なら尚更だ。しかしどちらの言語も流暢に話せるという人間は少ない。それはそこまで完璧に話せなくとも、相手も同程度の知識があるため会話が成立するからだ。

 朔はどちらかと言えばロシア語を話せない方だったが、振礼島に住まう日本人は彼のような言語レベルが一般的なのだ。
 その中で、涼介の存在は異質だった。両親とも日本人であると聞いている涼介がロシア語に深く触れる機会などそうないはずなのに、朔から見て彼は日本語と同じくらいロシア語を話すことができる。

 ――ま、本人から聞くか……。

 朔が自分と涼介ではこなしてきた仕事の量が違うと納得すると同時に、目の前の蒼から「いつ涼介さんに会いますか?」と思わぬ声がかかった。驚きのあまり完全にそちらに気を取られた朔は、それ以上そのことについて考えることはなかった。


 § § §

「お前は本当、時々意味分かんねぇ行動するよな」

 前夜の会話を思い返し、朔は呆れた表情で蒼を見下ろした。しんと静まり返った廃工場は、前回来たときよりも幾分か涼しい。そろそろ上着が必要かと考えながら、朔は適当な場所に落ち着くと、新しい煙草に火を付けた。

「何がです?」
「リョウだよ。昨日の今日でよく会おうと思えるな」

 自分でさえまだ躊躇う気持ちがあるのに――そう思ったが、その言葉は口に出さなかった。

 蒼は結局、昨夜の話の流れでそのまま涼介と会う約束を取り付けたのだ。しかも翌日、つまり今日に。

 自宅で会おうとする蒼を何とか朔が止め、飲食店などでする話でもないだろうと提案したのがこの廃工場だ。
 蒼の住所は涼介に知られているかもしれないが、弱味を握られて従っているという涼介自身が、レオニード達から疑われていないとも限らない。彼を自宅に呼ぶことで敵に蒼の住所が知られてしまう可能性を考えると、全く関係のない場所にする必要があったのだ。

 安全性を考えれば人目のある場所の方がいいが、自分たちの体質を考えると何かあった時に人目に触れるのは困る――そう考えて、朔は仕方なくここを再会場所に選んだ。

 そんな朔の心配を知ってか知らずか、蒼は自分が落ちた天井を見上げながら顔を顰めていた。

「思うところはありますけど、もう起こっちゃったことはしょうがないかなって」

 視線を朔に向けながら、蒼が質問に答える。

「今私にとって重要なのは、父の死の手がかりを得ることです。涼介さんがレオニード側の人間で、でも不本意な状態でそれをやっているなら……いつ会えなくなるか分かりませんよね? だったら、聞ける時に聞いておきたいです」

 「朔さんにこんなこと言うのは申し訳ないですけど」と付け加えた蒼は、気まずいのかそっと視線を上に戻した。

 ――“こんなこと”っていうのは、リョウが殺されるかもしれないってことか? それとも……。

 朔が自分の中に浮かんだ、不安にも似た疑問をうまく言葉にできないでいると、彼らが入って来たのとは別の方から落ち着いた足音が聞こえてきた。
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