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第八章 誘い

32. 束の間の休日

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 コンコン――珍しく自室のドアをノックする音に気付き、朔は目を覚ました。

ってぇ……」

 ノック音を無視しようとしたのだろう、布団を被ろうとして動かした右手に鋭い痛みが走る。
 眠りを完全に妨げられた朔は左手で乱暴に目元を擦ると、重たい瞼に寝不足を感じながらのそのそと布団から這い出してドアを開けた。

「……何?」
「うわ、びっくりした! 服着てくださいよ!」
「あー……わり……」

 下着姿でぼんやりとしたままそう言うと、朔は緩慢な動きで室内に戻り脱ぎ散らかしたスウェットを着始めた。
 元々寝間着を着る習慣がなかったのか、下着姿で平然と家の中を歩き回る彼に蒼が苦言を呈したことで用意されたものだ。まだ新しい習慣が身に付いていなかったらしく、寝ぼけているせいで着忘れたらしい。

 完全に気の抜けている朔の様子に蒼は珍しい物を見たと面白さを感じたが、同時にそれだけ疲れているのだろうと少し俯いた。

 ――やっぱり眠れなかったのかな……。

 前日の出来事を考えると、気持ち良くぐっすりと眠ることなどできなくて当然だ。
 しかし自分のせいで朔に眠れなくなるようなことをさせてしまったと申し訳なさを感じる反面、彼がそういった感覚を持っていたことに安堵していた。いくらもう朔のことを疑う気持ちがないとはいえ、やはり自分と感覚が近いということは安心するのだ。

 そして蒼自身はどうなのかというと、彼女もまた昨夜はよく眠れなかった。だが睡眠が足りていないにも拘らず、その心境は自分でも意外な程落ち着いていた。
 それは朔が自分に責任はないと、身を持って示してくれたからかどうかは分からない。ふとした時に両手にはあのおぞましい感覚が蘇るし、目を閉じれば自分を襲った男が苦痛に目を見開く顔が浮かぶ。

 それでも蒼は、その恐怖に耐えることができていた。

 ――もう何があっても、きっと……。

「……で、その格好はどうした」

 蒼が思考に耽っていると、ドアの前に戻ってきていた朔から声がかけられた。大きな欠伸をしてはいるが、すっかり目を覚ましているということはその声色から判断できる。

「ちょっと出かけようかと」
「一人で?」
「一人で」
「……馬鹿より馬鹿って何て言うんだろうな」

 とんでもないものを見たとでも言いたげな表情に、蒼はそっと目を逸らした。自分でも朔の言わんとしていることが分かったからだ。

 朔の言う“その格好”とは、蒼が既に身支度を済ませていることではなく、いつもよりも所謂をしていることに対して発せられたのだろう。普段は動きやすさ重視でパンツスタイルの蒼だが、この時はロング丈のプリーツスカートを履いていた。
 あまり蒼の服装に興味を持っていない朔でも、いつもと違うことは分かったようだ。怪訝な表情で彼女のつま先から頭まで視線を滑らせ、眉間の皺を深くした。

「一応聞くけど、自分の状況分かってるよな?」
「それはもう重々承知してます」
「それで一人で出かけるって、どういうことかは?」
「……とんでもない、大馬鹿者のすることかな、と……」
「分かってんじゃねぇか」

 上から呆れと怒りの籠もった目で見下され、蒼は縮こまった。

 ――壁に寄りかかってるのに何でこんなにデカいんだ……。

 まるで壁に責めたてられているかのような錯覚を覚え、冷や汗が流れる。

「前から約束してて……」
「仕事で?」
「いえ、プライベートで」
「なら断りゃいいだろ」
「でもっ……!」

 蒼は語気を強め朔を見上げた。しかしすぐに俯き、言いづらそうにぽつぽつと言葉を零す。

「普通のことを、したくて……」

 その発言に否定の言葉を発しかけた朔だったが、声に出す直前で蒼の真意に気付き表情を曇らせた。

 蒼なりに気を紛らわせようとしているのだ。前日に命を狙われたどころか、恐らく初めて人を凶器で傷つけてしまったのだから当然だろう。もっと塞ぎ込むかと思っていた蒼が意外にもいつもと変わらない様子だったため油断していたが、彼女の性格からして何も感じていないはずがないということくらいは朔にも理解できた。

 理解できたからこそ朔は頭を悩ませていた。蒼の言う“普通のこと”というのは、間違いなく今の彼女にとって必要なことだと分かったからだ。
 しかし当然、危険もある。いくらナイフを回収して来たとは言え、銀製の刃物を持っているという時点でミハイルの元からそれを持ち出した蒼が疑われる可能性は十分あるのだ。

「……場所は?」

 だから朔にできるのは、蒼の身に危険が及ばないよう彼女の周りを見張ることくらいだった。

「付いてくるんですか……?」
「そりゃそうだろ、お前が出歩きゃレオニードの仲間が寄ってくるかもしれねぇんだから」
「そうですよね……。でも、ちょっとそれは困るというか……」
「あ?」

 何を言っているんだと言いたげな表情で朔が蒼を見下ろす。蒼はどこかもじもじとしながら何かを言っているが、あまりに小さい声で聞き取れず「何だよ?」と朔は思わず不機嫌な声で聞き返した。

「だから、デートなんです!」
「……は?」

 その朔の表情を見た瞬間、蒼は気まずそうに顔を背けた。
 心底理解できないという気持ちを全く隠そうともせず、むしろそんな馬鹿な理由なら協力しないとでも言いたげな姿は、蒼の背中をヒヤリとさせた。

「何言ってんだ……?」
「……だからデートです、デート。男女が親交を深めるあれですよ」
「そりゃ分かるけどよ。何お前、本当に馬鹿なの?」
「馬鹿で結構です! むしろ馬鹿にならなきゃやってられないっていうか! ていうかそういうことなので、付いてこられても凄く困るというか!」
「俺はお前の馬鹿さ加減に困ってるよ」

 そう言って朔は大きな溜息を吐いた。“普通のこと”で何故デートなんだと疑問に思ったが、同時に蒼にそういった相手がいることも意外に思っていた。彼女の家に住み始めてから約二週間、今まで一度もそんな気配を感じなかったからだ。

 ――いや、そもそもコイツの私生活とか全然気にしたことなかったか……。

 朔は思案する表情を浮かべながら、これが蒼にとって気が紛れる方法であるならば行かせてやった方がいいかと考え始めていた。相手がどこの誰かは分からないが、蒼が振礼島を調べ始める前から親交があるのであれば、レオニードの仲間である可能性など殆どないだろう。

 仕方ないか――朔は再び大きな溜息を吐くと、面倒臭そうに蒼に向き直った。

「最寄りは?」
「え?」
「付いてかねぇから最寄り駅教えろ。んで移動するなら都度言え」
「遠くから見てるってことですか?」
「見ねぇよ、そんなつまんねぇもん。けど一応何かあればどうにかできる場所にはいる」
「……それってなんか凄く申し訳ない気が」
「間違いなく申し訳ないんだよ、お前が馬鹿だから」
「うぅ……」

 ぐうの音も出ないとはこのことか――蒼は言い返す言葉が思い浮かばない状況に首を引っ込めたが、すぐに閃くものがあり勢い良く朔を見上げた。

「GPSはどうですか?」
「GPS?」
「朔さんのスマホから、私のスマホの位置情報を追えるようにします。移動する場合は連絡入れるので、連絡なしに移動し始めたら何かあったと思っていただければ。多分その方が見張るのも少し楽かなぁと」
「……そういう提案が浮かぶなら、もっと他に気を遣えよ」

 力なく零れた朔の呟きは、まるで一仕事したかのような満足感に満ちている蒼には届かなかった。


 § § §

「――十一時二十分……よし、十分前」

 目の前にそびえ立つ東京スカイツリーを見上げながら、蒼はそっと髪に手櫛を通した。

 蒼が利用した押上駅から今回の待ち合わせ場所である商業施設は直結しており、本来であれば外に出る必要はない。にも拘らず彼女がこの巨大な建造物を見上げられる場所にいるのは、近くの喫茶店に朔を案内していたからだ。

 そこは蒼も仕事で何度か利用したことのある喫茶店で、喫煙可能な上に長時間居座っても文句の一つも言われないどころか、むしろ居座ってくれと言わんばかりに新聞や漫画の単行本が揃っている店だった。
 朔がスマートフォンを電話として以外に使わないことを知っている蒼は、彼が時間を潰しやすいようそこに決めたのだ。

 最初は蒼のタブレット端末や文庫本を貸そうとしていた。そうすればゆっくりと落ち着ける場所さえ見つければいくらでも時間は潰せる。
 しかし朔は荷物が増えるのを嫌がり、それらを受け取らなかった。文庫本に至っては「文字が多い」とパラパラと捲りながら顔を顰めてすぐに蒼に突き返した。
 それに漸く朔が文字を読むことを苦手としているどころか、むしろ嫌ってさえいると気付いた蒼は、漫画なら読めるだろうとその喫茶店の存在を思い出したのだ。

 そうして無事朔を待機場所に送り届け、蒼は待ち合わせ場所へと向かっていた。

 何度か近くを通りかかったことはあるものの、実際に入るのはこの日が初めての蒼はキラキラとした目で上空を見上げた。東京に住んでいると言っても、開業直後に連日話題になっていたような混雑具合を知っていると、近くで働いていない限り中々一人でふらっと立ち寄ろうとは思えない場所だ。

 一人ではなく友人や恋人と一緒なら来る可能性もあっただろうが、蒼が気軽に誘える友人は総じて人混みを嫌うタイプだ。恋人がいた時期もあったが、仕事優先で休日を丸ごと使って会うようなことはしなかったため、結局誰も誘えないまま何年も過ぎてしまっていた。

 だが実際のところ、蒼自身は是非とも一度は来たいと思っていた。だからこそ今日は彼女にとって念願叶った日とも言える。そんな彼女が憧れの場所を目の前にして目を輝かせるのは当然だろう。
 しかしスカイツリーについて説明した時の朔の言葉を思い出し、蒼は悔しげに眉間に皺を寄せた。

 ――この展望台ってやつは行くなよ。

 一番の醍醐味ではないかと反論したくなったが、その後に続けられた理由に蒼は閉口するしかなかった。展望台は混んでいるのだ。しかも登るためにはチケットを購入しなければならない。それも購入すればすぐに登れるというわけではなく、混雑状態によっては一時間以上待たなければならなかった。

 そんなところでもし何かあったとしても、すぐに駆けつけられるはずがない。それを理由に朔は蒼の行動範囲に制限を設けた。
 そもそも一人で出掛けられること自体朔が相当譲ってくれていると理解していた蒼は、渋々ながらもそれに従うことにしたのだ。

 ――展望台行けなくても水族館とかあるみたいだし、十分楽しめるよね。

 心残りはあったが、すぐに気持ちを切り替えて待ち合わせ場所へと急ぐ。待ち合わせ時間まではあと十分。

 意気揚々とした足取りで蒼が待ち合わせ場所に着くと、すでにそこに居た相手――涼介が笑顔で手を上げた。
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