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第五章 近付いたのは、敵か味方か
22. 敵と味方
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前を歩く朔の後ろを、少し空けて蒼が続く。いつもなら話しかけてくるはずの蒼が静かなことに朔は首を傾げたが、かと言って自分から話しかける言葉も浮かばず、ただ無言で歩き続けていた。
「――なぁ」
「…………」
「……無視かよ」
沈黙に耐えきれなかった朔は仕方なく声をかけた。だが、返ってくる言葉はない。
――意味分かんねぇ……。
蒼の態度の理由が分かればまだしも、朔には心当たりがなかった。
少し前、エレナと別れるまでは確かにちゃんと話をしていたのだ。それなのに自分と二人きりになった途端に黙り込んで、陰惨な空気を纏いながら後ろをついてくる。
とうとうこの雰囲気に耐えかねた朔は立ち止まり、くるりと後ろを振り返った。
「名前のこと怒ってんのか?」
「……別に……まあ、怒ってますけど」
――どっちだよ……。
自分の問いかけにはっきりとした答えを返さない蒼に、僅かながら苛立ちを覚える。彼女が距離を保ったまま立ち止まり、目を合わせもしないことも余計に朔の感情を逆撫でしていた。
「じゃあ何だよ」
「……本当は、エレナさんと一緒に帰った方がいいんじゃないですか」
「はぁ?」
予想外の言葉に、朔は思わず素っ頓狂な声を上げた。何がどうしてそうなった、と全くもって思考回路の読めない発言に頭を抱えたくなる。
「だってほら、同郷ですし」
「だから何だよ」
「……同じ過去を共有する者同士として近くに居たいんじゃないかと」
「何でだよ。つーかあの女、余計なことに巻き込むなって言ってたろ? 邪魔はしないから放っといてくれって」
「そうですけど、やっぱりほら、体質とか同じじゃないですか」
「そんなんどうでもいいだろ」
「……どうでもよくないです」
――ダメだ、全然分かんねぇ……。
何を言っても納得しない蒼に困り果てた朔は天を仰いだ。
過去だの体質だのと言われても、それが同じことに特に価値を感じていない朔にとっては、蒼が何をそんなに気にしているのか皆目検討もつかなかった。
エレナに関して言えば、彼女自身が自分たちと関わることを拒絶しているのだ。もう二度とレオニードと関わりたくないから、邪魔をしない代わりに巻き込まないでくれ――思いつく限り自身の持つ情報を出し切った彼女からそう頼まれている。
面倒な身体にはなってしまったが、閉鎖された環境で育った自分にはこれから先これくらいの武器が必要なのだと、だからすべて受け入れるとエレナは言っていた。その意味を誰よりも分かる朔は彼女の頼みを飲んだのだ。
それを蒼は見ていたし、おそらく彼女なりにエレナがどういう気持ちで言っているかは察しているだろう。
短い付き合いだが、朔は蒼が感受性の強い人間だということを知っていた。自分にさえ共感して涙を流し、多少突き放しても食い下がるような人間なのだ。だからこそ何かしら他にも感じていることがあるのかもしれないが、朔には全く思いつくものがなかった。
「あー、くそ! はっきり言わねぇと分かんねぇんだけど」
「……せん」
「あ?」
「私だって分かりません!」
「はぁ!?」
逆ギレかよ――そう言いかけたが、声を張り上げながらやっと頭を上げた蒼の顔を見て咄嗟に言い留まった。
今まで朔が見た中で一番怒っているように見えたのだ。先程まで彼女が放っていた陰鬱な空気にてっきり落ち込んでいるのかと思っていたが、今目の前にいるのはそれとは全く違う感情を纏った女だった。
――マジで意味分かんねぇんだけど……。
蒼の態度に困惑しながらも何故そうなったのか、朔は必死で記憶の中に答えを探した。
§ § §
意外と落ち着いている――それが、自分の復讐相手がはっきりした時の朔の感想だった。
事前にその可能性に気付いていたのが大きかったのかもしれないし、前日の失敗を反省し常に冷静でいようと努めたのが功を奏したのかもしれない。だがそれらを差し引いても、レオニードがあの夜のことを引き起こしたと知った時の朔は自分でも驚くくらい落ち着いていた。
落ち着いていたと言っても、何も感じなかったわけではない。レオニードのしたことに対して、朔は自身の腹の底からどす黒い感情が湧き上がってくるのを感じていた。
ただ、それを抑えきれただけだ。これは今外に出すものではない――近くで自分の様子を窺う蒼の気配に、自分でも何故だか分からないが、彼女が傍にいる時に感情を顕にするのは避けたいという気持ちを感じていた。
――ああ、また泣かれるからか。
自分が取り乱せばきっとまた蒼が泣くのだろうという後ろめたさがそう思わせているのだと気付くと、思わず苦笑が零れた。この状況でよく笑っていられると余計におかしくなり、気付けば暗いところからこちらを喰らわんと様子を窺っていた黒い感情は自分の住処へと帰っていた。
朔は一つ呼吸を置くと、目を開けてちらりと蒼を一瞥する。てっきり自分のことを凝視しているかと思っていた彼女は珍しくその視線を下に向けており、朔が見ているのにも気付く気配がない。
そのことに少しだけ疑問を感じたが、どうせまた変に共感し暗くなっているのだろうと自己完結するとエレナへと向き直った。彼女にはまだ聞かなければならないことがあるのだ。
「――生き残りがあと何人いるか知ってるか?」
朔にとってこれはできるだけ早く知っておきたい情報だった。エレナの話では今のレオニードには生き残りしか仲間がいない。つまり生き残りの人数が、レオニードの仲間の最大人数になるのだ。
「確かなのは、遠目に見ただけだけどもう一人はいると思うわ。あと家の中にまだ何人かいたから、もしかしたら彼らもそうかも」
「……それじゃあんま参考にならねぇな。結局あと十五人はいてもおかしくないのか」
「何言ってるの?」
「何って、生き残るための代償は百人だろ? 島の人口は二千人なんだから生き残れたのは二十人じゃねぇか。そこから分かってる分を――」
「そうじゃないわ。百人の代償はあくまで私達があの状況で生き残るためよ」
エレナの言葉に朔は顔を顰めた。あの状況で生き残るため――自分もさっきからそう言っているのに、彼女が何を言おうとしているのか分からなかったからだ。
「アナタも炎に焼かれたんでしょ? あれ自体が別の願いの代償として命を取られそうになっていたのよ」
「……なんだと?」
「別の願いっていうのがレオニードの最初の願いで、内容は島を壊す事。その代償が千の命だったの」
「なんでお前がそんなこと知ってんだよ」
「アナタも生き残る時に声を聞いたんじゃない? あの声、レオニードの願いの時も聞こえたのよ。多分近くで最初から見てたからだと思うけど……。――アナタも私も、レオニードのその願いの代償として支払われるはずだったの。だから生き残れたのは最大十人……って、ちょっと落ち着きなさいよ」
そう言ってエレナが自身の顔を指差すのを見て、朔は初めて自分が取り乱していることに気が付いた。右頬を襲う焼け付くような痛みはそういうことだ。
予想していなかったエレナの話に結局自分が冷静さを失っている事に気が付くと、眉間に皺を寄せて蒼を見やった。いつの間にか朔の方を見ていたらしい蒼はどこかぼんやりとしていたが、すぐに彼の異変に気付くと慌てたように何か言いたげな表情を浮かべる。てっきり小言でも言われるかと思っていた朔は肩透かしをくらい、やはりどこか変だと訝しげに蒼を見ながら自身を落ち着けた。
痛みごと気持ちが落ち着いてきたのを感じると、朔は改めてエレナの言葉を反芻した。
彼女の話では自分があの時炎に焼かれたのはレオニードの願いの代償だと言う。ということはその前の時点で起こっていたことが彼の願いの結果だろう。考えるまでもなく、それは島を突然襲った天変地異のことだと分かった。
正直、朔にとってそれはもはやどうでもよかった。問題だったのはその願いの代償だ。勿論レオニードの自分勝手のせいで千人の命が奪われたというのには怒りを覚える。だが今はそれよりも、あの時自分が彼の願いの代償に選ばれていたという事実が朔の胸を抉っていた。
――俺が死を受け入れていれば、他の人間は助かったのかもしれない。
自分が生き残るために引き換えにした百の命、それから自分の代わりとしてレオニードの願いの代償となった命――その中に自分にとって大切な人間が含まれていたのかもしれないと思うと、身体中にあの痛みが襲ってくるようだった。
「朔さん」
自分の名前を呼ぶ声に、はっと我に返る。声のした方を見れば、蒼が見慣れた悲痛な面持ちで自分を見ているのが目に入った。
――これが見慣れるって最悪だな。
朔は少しだけ自嘲するように笑うと、大丈夫だと言うように蒼に軽く頷いてみせた。
「つまり、レオニードの仲間は奴を入れて最大でも七人ってことか」
「そうなるわね」
「遠目で見たって奴は誰だか分からないのか?」
「あの状況で分かると思う?」
じっとりとした目で睨むエレナに、朔は肩を竦めた。それを見たエレナは表情を戻すと、思い出すようにどこかを見つめながら言葉を続けた。
「まあ、あんなとこ歩いてたくらいだからレオニードと合流しようとしてたのかもね。それに残りの五人分は、少なくともあの小さい家に大人がそう何人も入れたとは思わないわ」
「……それってもしかして北側の外れにある一軒家か?」
「そうよ。何、アナタあの近くにいたの?」
「近くっつーか、明かりが見える範囲にはいたな」
そう言いながら朔はあの夜のことを思い返した。確かロシア側の土地の外れに、一軒だけ取り残されたかのような家が建っていたのだ。生活に不便そうなその場所は、住むには不向きに感じられたので印象に残っている。
「あんなところに住んでたのか?」
「姉だけね。私はたまたま姉の家に遊びに行くところで、窓の外から中の様子見ちゃったのよ」
そう言いながらエレナはおどけた表情で指で首を切る仕草をした。自分の姉が殺されたのに呑気なものだと思いながらも、朔はそれには触れず話を続ける。
「レオニードには気付かれなかったのか?」
「彼はちょうど窓に背を向けてたからね。でもミハイルとは目が合っちゃって。それで私に対して後ろめたさがあったのかも」
何でもないことのように言いながらエレナは肩を竦めた。
話が終わったのかその場に沈黙が訪れると、今まで黙り込んでいた蒼が徐に口を開いた。
「……エレナさんはレオニードが憎くないんですか?」
蒼の問いにエレナは困ったように微笑む。儚げなその表情に、ゴクリ、と蒼は思わず息を飲んだ。
「島で暮らしてたらレオニードの悪名は有名よ。それでも姉はアイツと一緒にいたんだから自業自得。私も散々注意したんだけどね」
そんな簡単に割り切れるものだろうか、と蒼は視線を落とした。
もし自分の大切な人間が誰かに殺されたら――想像しようとしてもうまくできない。だが朔の様子を見る限り、それはとても苦しく辛いものなのだろうということは理解できた。抑えきれなくなった激情が身体を蝕む程に――もしそうなったら、自分は彼のようにその感情の波を宥められるだろうか。
思考に耽る蒼の様子を、朔は横目で見ていた。朔には蒼の考えていることは相変わらず分からなかったが、きっとよく分からない同情をしているのだろうと思った。
だがやはり少しだけ、どこかいつもと違う気がした。
§ § §
少し前の出来事を思い返しても、やはり朔には蒼が怒る理由が分からなかった。確かにエレナとだけ話を進めて、その説明を蒼に行っていない自覚はある。
だがそれはいつものことだし、いくら成り行きで蒼がいる場で話したとは言え、既に彼女には振礼島にこれ以上関わるなとは言っているので今更怒ることでもないだろう。
「何を怒ってるんだよ」
「……怒ってません」
「怒ってるだろ」
朔がもう一度言うと、蒼は再び視線を地面に落とした。また黙るのかと思った朔だったが、よく見ると先程までとは違って言葉を探していそうな蒼の様子に気付き、続く言葉を待ってみることにした。
「――……レオニードを殺すんですか?」
暫くして顔を上げた蒼は不安げな表情でそう尋ねた。聖杯を持つ人間を場合によっては殺すつもりで探している――朔からそう聞いていた蒼が、彼とエレナの会話を聞く中でその疑問を抱くのは当然だった。
「そうなるな」
朔が一言答えると、蒼は再び顔を下に向けた。
――やっと関わらない方がいいと気付いたのか。
朔は蒼の態度の原因はこれだと当たりをつけると、これからどうしようかと思案を巡らせた。
蒼が振礼島と関わらないと決めたのであれば、自分はさっさと彼女の家を出ていくべきだろう。今この場で別れるのがタイミングとしては丁度いいが、そうすると後から荷物を取りに行かなければならない。今の彼女にとってどうするのが一番いいのか、朔なりに気を遣おうとしていた。
一方で、蒼はやりきれない気持ちを抱えていた。朔が人を殺そうとしている――その背景が何であれ、数日同じ時を過ごした人間がそのようなことをするのを止めたいという気持ちが強かった。
しかし、それは同時に朔の気持ちを無視し、自分の価値観を押し付けることになる。自分が彼の気持ちに寄り添えれば違ったのかもしれないが、彼らが振礼島で体験したことなど想像もできない自分が何を言おうと所詮他人事なのだ。そんな自分に朔を止める権利があるとは到底思えなかった。
――いい歳して何拗ねてるんだ……。
蒼は頭のどこかでは自分はただいじけているだけだと気付いていたが、それでも一度感じた劣等感を振り払うことはできなかった。
――そうか、劣等感か……。
朔がレオニードを殺そうとするかもしれないということは、ホテルにいる間に分かっていた。その時から自分は朔が法を犯そうとしていることよりも、自分が部外者であるという事実が受け入れられていなかったことを思い出した。なんて馬鹿なんだと蒼は頭を振ると、ゆっくりと朔を見上げた。
「――すみませんでした」
「あ?」
蒼は自身の情けなさに辟易し、それに朔を巻き込んでしまったことを謝った。謝られた本人は蒼の感情の動きなど知るはずもなく、突然の謝罪に怪訝そうに片眉を上げている。
「ちょっと不貞腐れてたみたいです。変な態度しちゃってすみません」
「不貞腐れてたって……島に関わるの止めるんじゃねぇのか?」
「なんでそうなるんです?」
心底分からないと言った表情で首を傾げた蒼に、朔は目を瞬かせた。てっきり蒼は振礼島に関わることを止めようとしていると思っていたのだ。それを微塵も感じさせない彼女の言葉に、状況が全く理解できなかった。
「振礼島のことは調べますよ。自分が始めたことですから、最後まできっちりやるつもりです」
「でもお前、俺はレオニードを殺そうとしてるんだぞ?」
「それは一旦置いときましょう」
「は?」
ぽかんとした表情を浮かべる朔の顔を、蒼は強い眼差しで見つめた。
「正直そのことは、まだちょっとどうすればいいか分かりません。でも朔さんが振礼島の情報を持っているのは事実ですし、ここまで知ってしまったので今更引き下がることはできません。っていうか、そろそろ変に伏せるの止めてもらえません? これだけ知ってしまったし、そもそもエレナさんに会えたのだって私のお陰でもありますよね? もう洗いざらい全部話してください!」
段々と語気を強めながら一気に捲し立てた蒼に気圧され、朔は目を丸めた。
――なんでコイツいきなり元気になってんの……?
戸惑いを感じ変なものを見るかのように眉を顰めつつも、それがどこか可笑しく感じられて思わず口端が緩む。
――どう誤魔化すか……。
自分を睨みつけるように見つめてくる蒼は、今までのように簡単に引き下がってくれるとは思えない。
しかしそれにどこか楽しさを感じながら、朔はこの場をやりきる方法に考えを巡らせた。
「――なぁ」
「…………」
「……無視かよ」
沈黙に耐えきれなかった朔は仕方なく声をかけた。だが、返ってくる言葉はない。
――意味分かんねぇ……。
蒼の態度の理由が分かればまだしも、朔には心当たりがなかった。
少し前、エレナと別れるまでは確かにちゃんと話をしていたのだ。それなのに自分と二人きりになった途端に黙り込んで、陰惨な空気を纏いながら後ろをついてくる。
とうとうこの雰囲気に耐えかねた朔は立ち止まり、くるりと後ろを振り返った。
「名前のこと怒ってんのか?」
「……別に……まあ、怒ってますけど」
――どっちだよ……。
自分の問いかけにはっきりとした答えを返さない蒼に、僅かながら苛立ちを覚える。彼女が距離を保ったまま立ち止まり、目を合わせもしないことも余計に朔の感情を逆撫でしていた。
「じゃあ何だよ」
「……本当は、エレナさんと一緒に帰った方がいいんじゃないですか」
「はぁ?」
予想外の言葉に、朔は思わず素っ頓狂な声を上げた。何がどうしてそうなった、と全くもって思考回路の読めない発言に頭を抱えたくなる。
「だってほら、同郷ですし」
「だから何だよ」
「……同じ過去を共有する者同士として近くに居たいんじゃないかと」
「何でだよ。つーかあの女、余計なことに巻き込むなって言ってたろ? 邪魔はしないから放っといてくれって」
「そうですけど、やっぱりほら、体質とか同じじゃないですか」
「そんなんどうでもいいだろ」
「……どうでもよくないです」
――ダメだ、全然分かんねぇ……。
何を言っても納得しない蒼に困り果てた朔は天を仰いだ。
過去だの体質だのと言われても、それが同じことに特に価値を感じていない朔にとっては、蒼が何をそんなに気にしているのか皆目検討もつかなかった。
エレナに関して言えば、彼女自身が自分たちと関わることを拒絶しているのだ。もう二度とレオニードと関わりたくないから、邪魔をしない代わりに巻き込まないでくれ――思いつく限り自身の持つ情報を出し切った彼女からそう頼まれている。
面倒な身体にはなってしまったが、閉鎖された環境で育った自分にはこれから先これくらいの武器が必要なのだと、だからすべて受け入れるとエレナは言っていた。その意味を誰よりも分かる朔は彼女の頼みを飲んだのだ。
それを蒼は見ていたし、おそらく彼女なりにエレナがどういう気持ちで言っているかは察しているだろう。
短い付き合いだが、朔は蒼が感受性の強い人間だということを知っていた。自分にさえ共感して涙を流し、多少突き放しても食い下がるような人間なのだ。だからこそ何かしら他にも感じていることがあるのかもしれないが、朔には全く思いつくものがなかった。
「あー、くそ! はっきり言わねぇと分かんねぇんだけど」
「……せん」
「あ?」
「私だって分かりません!」
「はぁ!?」
逆ギレかよ――そう言いかけたが、声を張り上げながらやっと頭を上げた蒼の顔を見て咄嗟に言い留まった。
今まで朔が見た中で一番怒っているように見えたのだ。先程まで彼女が放っていた陰鬱な空気にてっきり落ち込んでいるのかと思っていたが、今目の前にいるのはそれとは全く違う感情を纏った女だった。
――マジで意味分かんねぇんだけど……。
蒼の態度に困惑しながらも何故そうなったのか、朔は必死で記憶の中に答えを探した。
§ § §
意外と落ち着いている――それが、自分の復讐相手がはっきりした時の朔の感想だった。
事前にその可能性に気付いていたのが大きかったのかもしれないし、前日の失敗を反省し常に冷静でいようと努めたのが功を奏したのかもしれない。だがそれらを差し引いても、レオニードがあの夜のことを引き起こしたと知った時の朔は自分でも驚くくらい落ち着いていた。
落ち着いていたと言っても、何も感じなかったわけではない。レオニードのしたことに対して、朔は自身の腹の底からどす黒い感情が湧き上がってくるのを感じていた。
ただ、それを抑えきれただけだ。これは今外に出すものではない――近くで自分の様子を窺う蒼の気配に、自分でも何故だか分からないが、彼女が傍にいる時に感情を顕にするのは避けたいという気持ちを感じていた。
――ああ、また泣かれるからか。
自分が取り乱せばきっとまた蒼が泣くのだろうという後ろめたさがそう思わせているのだと気付くと、思わず苦笑が零れた。この状況でよく笑っていられると余計におかしくなり、気付けば暗いところからこちらを喰らわんと様子を窺っていた黒い感情は自分の住処へと帰っていた。
朔は一つ呼吸を置くと、目を開けてちらりと蒼を一瞥する。てっきり自分のことを凝視しているかと思っていた彼女は珍しくその視線を下に向けており、朔が見ているのにも気付く気配がない。
そのことに少しだけ疑問を感じたが、どうせまた変に共感し暗くなっているのだろうと自己完結するとエレナへと向き直った。彼女にはまだ聞かなければならないことがあるのだ。
「――生き残りがあと何人いるか知ってるか?」
朔にとってこれはできるだけ早く知っておきたい情報だった。エレナの話では今のレオニードには生き残りしか仲間がいない。つまり生き残りの人数が、レオニードの仲間の最大人数になるのだ。
「確かなのは、遠目に見ただけだけどもう一人はいると思うわ。あと家の中にまだ何人かいたから、もしかしたら彼らもそうかも」
「……それじゃあんま参考にならねぇな。結局あと十五人はいてもおかしくないのか」
「何言ってるの?」
「何って、生き残るための代償は百人だろ? 島の人口は二千人なんだから生き残れたのは二十人じゃねぇか。そこから分かってる分を――」
「そうじゃないわ。百人の代償はあくまで私達があの状況で生き残るためよ」
エレナの言葉に朔は顔を顰めた。あの状況で生き残るため――自分もさっきからそう言っているのに、彼女が何を言おうとしているのか分からなかったからだ。
「アナタも炎に焼かれたんでしょ? あれ自体が別の願いの代償として命を取られそうになっていたのよ」
「……なんだと?」
「別の願いっていうのがレオニードの最初の願いで、内容は島を壊す事。その代償が千の命だったの」
「なんでお前がそんなこと知ってんだよ」
「アナタも生き残る時に声を聞いたんじゃない? あの声、レオニードの願いの時も聞こえたのよ。多分近くで最初から見てたからだと思うけど……。――アナタも私も、レオニードのその願いの代償として支払われるはずだったの。だから生き残れたのは最大十人……って、ちょっと落ち着きなさいよ」
そう言ってエレナが自身の顔を指差すのを見て、朔は初めて自分が取り乱していることに気が付いた。右頬を襲う焼け付くような痛みはそういうことだ。
予想していなかったエレナの話に結局自分が冷静さを失っている事に気が付くと、眉間に皺を寄せて蒼を見やった。いつの間にか朔の方を見ていたらしい蒼はどこかぼんやりとしていたが、すぐに彼の異変に気付くと慌てたように何か言いたげな表情を浮かべる。てっきり小言でも言われるかと思っていた朔は肩透かしをくらい、やはりどこか変だと訝しげに蒼を見ながら自身を落ち着けた。
痛みごと気持ちが落ち着いてきたのを感じると、朔は改めてエレナの言葉を反芻した。
彼女の話では自分があの時炎に焼かれたのはレオニードの願いの代償だと言う。ということはその前の時点で起こっていたことが彼の願いの結果だろう。考えるまでもなく、それは島を突然襲った天変地異のことだと分かった。
正直、朔にとってそれはもはやどうでもよかった。問題だったのはその願いの代償だ。勿論レオニードの自分勝手のせいで千人の命が奪われたというのには怒りを覚える。だが今はそれよりも、あの時自分が彼の願いの代償に選ばれていたという事実が朔の胸を抉っていた。
――俺が死を受け入れていれば、他の人間は助かったのかもしれない。
自分が生き残るために引き換えにした百の命、それから自分の代わりとしてレオニードの願いの代償となった命――その中に自分にとって大切な人間が含まれていたのかもしれないと思うと、身体中にあの痛みが襲ってくるようだった。
「朔さん」
自分の名前を呼ぶ声に、はっと我に返る。声のした方を見れば、蒼が見慣れた悲痛な面持ちで自分を見ているのが目に入った。
――これが見慣れるって最悪だな。
朔は少しだけ自嘲するように笑うと、大丈夫だと言うように蒼に軽く頷いてみせた。
「つまり、レオニードの仲間は奴を入れて最大でも七人ってことか」
「そうなるわね」
「遠目で見たって奴は誰だか分からないのか?」
「あの状況で分かると思う?」
じっとりとした目で睨むエレナに、朔は肩を竦めた。それを見たエレナは表情を戻すと、思い出すようにどこかを見つめながら言葉を続けた。
「まあ、あんなとこ歩いてたくらいだからレオニードと合流しようとしてたのかもね。それに残りの五人分は、少なくともあの小さい家に大人がそう何人も入れたとは思わないわ」
「……それってもしかして北側の外れにある一軒家か?」
「そうよ。何、アナタあの近くにいたの?」
「近くっつーか、明かりが見える範囲にはいたな」
そう言いながら朔はあの夜のことを思い返した。確かロシア側の土地の外れに、一軒だけ取り残されたかのような家が建っていたのだ。生活に不便そうなその場所は、住むには不向きに感じられたので印象に残っている。
「あんなところに住んでたのか?」
「姉だけね。私はたまたま姉の家に遊びに行くところで、窓の外から中の様子見ちゃったのよ」
そう言いながらエレナはおどけた表情で指で首を切る仕草をした。自分の姉が殺されたのに呑気なものだと思いながらも、朔はそれには触れず話を続ける。
「レオニードには気付かれなかったのか?」
「彼はちょうど窓に背を向けてたからね。でもミハイルとは目が合っちゃって。それで私に対して後ろめたさがあったのかも」
何でもないことのように言いながらエレナは肩を竦めた。
話が終わったのかその場に沈黙が訪れると、今まで黙り込んでいた蒼が徐に口を開いた。
「……エレナさんはレオニードが憎くないんですか?」
蒼の問いにエレナは困ったように微笑む。儚げなその表情に、ゴクリ、と蒼は思わず息を飲んだ。
「島で暮らしてたらレオニードの悪名は有名よ。それでも姉はアイツと一緒にいたんだから自業自得。私も散々注意したんだけどね」
そんな簡単に割り切れるものだろうか、と蒼は視線を落とした。
もし自分の大切な人間が誰かに殺されたら――想像しようとしてもうまくできない。だが朔の様子を見る限り、それはとても苦しく辛いものなのだろうということは理解できた。抑えきれなくなった激情が身体を蝕む程に――もしそうなったら、自分は彼のようにその感情の波を宥められるだろうか。
思考に耽る蒼の様子を、朔は横目で見ていた。朔には蒼の考えていることは相変わらず分からなかったが、きっとよく分からない同情をしているのだろうと思った。
だがやはり少しだけ、どこかいつもと違う気がした。
§ § §
少し前の出来事を思い返しても、やはり朔には蒼が怒る理由が分からなかった。確かにエレナとだけ話を進めて、その説明を蒼に行っていない自覚はある。
だがそれはいつものことだし、いくら成り行きで蒼がいる場で話したとは言え、既に彼女には振礼島にこれ以上関わるなとは言っているので今更怒ることでもないだろう。
「何を怒ってるんだよ」
「……怒ってません」
「怒ってるだろ」
朔がもう一度言うと、蒼は再び視線を地面に落とした。また黙るのかと思った朔だったが、よく見ると先程までとは違って言葉を探していそうな蒼の様子に気付き、続く言葉を待ってみることにした。
「――……レオニードを殺すんですか?」
暫くして顔を上げた蒼は不安げな表情でそう尋ねた。聖杯を持つ人間を場合によっては殺すつもりで探している――朔からそう聞いていた蒼が、彼とエレナの会話を聞く中でその疑問を抱くのは当然だった。
「そうなるな」
朔が一言答えると、蒼は再び顔を下に向けた。
――やっと関わらない方がいいと気付いたのか。
朔は蒼の態度の原因はこれだと当たりをつけると、これからどうしようかと思案を巡らせた。
蒼が振礼島と関わらないと決めたのであれば、自分はさっさと彼女の家を出ていくべきだろう。今この場で別れるのがタイミングとしては丁度いいが、そうすると後から荷物を取りに行かなければならない。今の彼女にとってどうするのが一番いいのか、朔なりに気を遣おうとしていた。
一方で、蒼はやりきれない気持ちを抱えていた。朔が人を殺そうとしている――その背景が何であれ、数日同じ時を過ごした人間がそのようなことをするのを止めたいという気持ちが強かった。
しかし、それは同時に朔の気持ちを無視し、自分の価値観を押し付けることになる。自分が彼の気持ちに寄り添えれば違ったのかもしれないが、彼らが振礼島で体験したことなど想像もできない自分が何を言おうと所詮他人事なのだ。そんな自分に朔を止める権利があるとは到底思えなかった。
――いい歳して何拗ねてるんだ……。
蒼は頭のどこかでは自分はただいじけているだけだと気付いていたが、それでも一度感じた劣等感を振り払うことはできなかった。
――そうか、劣等感か……。
朔がレオニードを殺そうとするかもしれないということは、ホテルにいる間に分かっていた。その時から自分は朔が法を犯そうとしていることよりも、自分が部外者であるという事実が受け入れられていなかったことを思い出した。なんて馬鹿なんだと蒼は頭を振ると、ゆっくりと朔を見上げた。
「――すみませんでした」
「あ?」
蒼は自身の情けなさに辟易し、それに朔を巻き込んでしまったことを謝った。謝られた本人は蒼の感情の動きなど知るはずもなく、突然の謝罪に怪訝そうに片眉を上げている。
「ちょっと不貞腐れてたみたいです。変な態度しちゃってすみません」
「不貞腐れてたって……島に関わるの止めるんじゃねぇのか?」
「なんでそうなるんです?」
心底分からないと言った表情で首を傾げた蒼に、朔は目を瞬かせた。てっきり蒼は振礼島に関わることを止めようとしていると思っていたのだ。それを微塵も感じさせない彼女の言葉に、状況が全く理解できなかった。
「振礼島のことは調べますよ。自分が始めたことですから、最後まできっちりやるつもりです」
「でもお前、俺はレオニードを殺そうとしてるんだぞ?」
「それは一旦置いときましょう」
「は?」
ぽかんとした表情を浮かべる朔の顔を、蒼は強い眼差しで見つめた。
「正直そのことは、まだちょっとどうすればいいか分かりません。でも朔さんが振礼島の情報を持っているのは事実ですし、ここまで知ってしまったので今更引き下がることはできません。っていうか、そろそろ変に伏せるの止めてもらえません? これだけ知ってしまったし、そもそもエレナさんに会えたのだって私のお陰でもありますよね? もう洗いざらい全部話してください!」
段々と語気を強めながら一気に捲し立てた蒼に気圧され、朔は目を丸めた。
――なんでコイツいきなり元気になってんの……?
戸惑いを感じ変なものを見るかのように眉を顰めつつも、それがどこか可笑しく感じられて思わず口端が緩む。
――どう誤魔化すか……。
自分を睨みつけるように見つめてくる蒼は、今までのように簡単に引き下がってくれるとは思えない。
しかしそれにどこか楽しさを感じながら、朔はこの場をやりきる方法に考えを巡らせた。
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秦野幸子…絶世の美女にして名探偵。百歳だが、ほとんど老化しておらず、今も若い頃の美しさを保っている。
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無限の迷路
葉羽
ミステリー
豪華なパーティーが開催された大邸宅で、一人の招待客が密室の中で死亡して発見される。部屋は内側から完全に施錠されており、窓も塞がれている。調査を進める中、次々と現れる証拠品や証言が事件をますます複雑にしていく。
パラダイス・ロスト
真波馨
ミステリー
架空都市K県でスーツケースに詰められた男の遺体が発見される。殺された男は、県警公安課のエスだった――K県警公安第三課に所属する公安警察官・新宮時也を主人公とした警察小説の第一作目。
※旧作『パラダイス・ロスト』を加筆修正した作品です。大幅な内容の変更はなく、一部設定が変更されています。旧作版は〈小説家になろう〉〈カクヨム〉にのみ掲載しています。
授業
高木解緒 (たかぎ ときお)
ミステリー
2020年に投稿した折、すべて投稿して完結したつもりでおりましたが、最終章とその前の章を投稿し忘れていたことに2024年10月になってやっと気が付きました。覗いてくださった皆様、誠に申し訳ありませんでした。
中学校に入学したその日〝私〟は最高の先生に出会った――、はずだった。学校を舞台に綴る小編ミステリ。
※ この物語はAmazonKDPで販売している作品を投稿用に改稿したものです。
※ この作品はセンシティブなテーマを扱っています。これは作品の主題が実社会における問題に即しているためです。作品内の事象は全て実際の人物、組織、国家等になんら関りはなく、また断じて非法行為、反倫理、人権侵害を推奨するものではありません。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
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失せ物探し・一ノ瀬至遠のカノウ性~謎解きアイテムはインスタント付喪神~
わいとえぬ
ミステリー
「君の声を聴かせて」――異能の失せ物探しが、今日も依頼人たちの謎を解く。依頼された失せ物も、本人すら意識していない隠された謎も全部、全部。
カノウコウコは焦っていた。推しの動画配信者のファングッズ購入に必要なパスワードが分からないからだ。落ち着ける場所としてお気に入りのカフェへ向かうも、そこは一ノ瀬相談事務所という場所に様変わりしていた。
カノウは、そこで失せ物探しを営む白髪の美青年・一ノ瀬至遠(いちのせ・しおん)と出会う。至遠は無機物の意識を励起し、インスタント付喪神とすることで無機物たちの声を聴く異能を持つという。カノウは半信半疑ながらも、その場でスマートフォンに至遠の異能をかけてもらいパスワードを解いてもらう。が、至遠たちは一年ほど前から付喪神たちが謎を仕掛けてくる現象に悩まされており、依頼が謎解き形式となっていた。カノウはサポートの百目鬼悠玄(どうめき・ゆうげん)すすめのもと、至遠の助手となる流れになり……?
どんでん返し、あります。
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