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第二章 トカゲの尻尾

09. 同居人の目的

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 翌日、蒼と朔は再び渋谷を訪れていた。
 しかし今回は昼間、それも昨日とは違い歓楽街から少し離れたところにある寂れた公園だ。
 ここは数年前に別の公園から追い出された者達も集まり、かなりの数のホームレス達が暮らしていた。

「……駄目だ、頭がガンガンする」
「いい加減煙草吸いてぇんだけど」
「駄目です吐きます」

 平日の昼間の長閑のどかな時間帯。公園のベンチに座った男女は、一人は顔面蒼白で下を向き、もう一人はだるそうに背もたれにもたれかかって空を見ていた。
 それぞれの心境は別として、遠目に見れば仲の良いカップルの公園デートにも見える。だが実際の二人の関係はカップルではなく、知り合ってたった数日の同居人だった。

「いつまでこうしてんの?」
「すみません、まだ無理です」

 蒼の言葉に朔は小さく溜息を吐いた。
 朝からずっと我慢している煙草を吸いたかったが、そのためには一旦蒼の傍を離れなければならない。普段なら気にしないが、彼女が今まともに動けない理由に自分も少しばかり関わっているため、こんな状態の蒼を置いて煙草を吸いにどこかに行くというのは憚られたのだ。

 一方、蒼は断続的に襲ってくる吐き気と頭の痛みに苦しんでいた。
 それは原因不明のものではなく、前夜に飲んだ酒のせいだということは分かりきっていた。
 一杯目の時点で何やら酔いのまわりが早いと思ったものの、それを朔に「ガキ」と挑発され二杯目を頼んだところまでは蒼の記憶に残っている。
 朔によればこの二杯しか飲んでいないとのことなので、総量としては普段のほろ酔い程度の量だった。しかし数日前に大量に血を失ったばかりの身体は当たり前だが回復しきっておらず、そのほろ酔い程度の量であっという間に酩酊状態になってしまったのである。
 さらにそんな体調では二日酔いも酷いらしく、蒼は二十六年間の人生で最悪と言っていい程の二日酔いに苦しめられていた。

「納得できません……」
「あ?」
「なんで強いお酒がぶ飲みしてた人がケロッとして、飲みすぎたわけでもない私がこんな苦しまなきゃいけないんですか……」
「……ガキだから?」
「貴方が今朝コーヒーにお砂糖をたくさん入れていたのは知ってるんですよ?」

 家で蒼が煙草を我慢してもらう代わりに淹れたコーヒーに、朔は悩むことなくスティックシュガーを三本分入れていた。煙草の匂いがなくとも、その光景だけで胸焼けしそうになったことは記憶に新しい。

 蒼がじっとりと朔を睨みつければ、「そのままだと不味いだろ」と当たり前のように返される。

「カルーア飲むの馬鹿にしてたくせに、自分の方がよっぽどお子様舌じゃないですか」
「あれは酒じゃねぇだろ」
「ならこの二日酔いはなんですかね」
「喋れてるんだから気の所為じゃねぇの?」
「気を紛らわさないと吐きそうなんですよ」

 蒼の告白に、朔は嫌そうに顔を顰めた。「吐くならどっか向けよ」と付け足された言葉は、明らかに優しさからのものではない。

 ――誰のせいでお酒を飲む羽目になったと……私か。

 クラブに連れて行かれたのは朔のせいと言えるが、酒を飲むと決めたのは自分なのだ。
 そう自覚があったからこそ、蒼は会社に終日外で取材と連絡し、こうして朔と振礼島の生き残りの手がかりを求めて目撃情報のあった公園に来ていた。自分の体調のせいで折角朔が集めた情報が古くなってしまっては困るのだ。

 しかし電車に揺られること二十分。外出しようと思える程度だった症状は渋谷の人混みに揉まれたことにより悪化の一途を辿り、なんとか公園に辿り着く頃にはこうして動けなくなってしまっていたのだ。

「朔さんって二日酔いは治せないんですか」
「無理だろうな」
「くっ、使えない……」
「おいコラ、今何て言った」

 蒼の暴言に彼女を睨みつけながらも、少し前よりは顔色が良くなったと朔は胸を撫で下ろした。
 このままずっとこうしていたって意味がない。本当なら蒼を引き摺ってでも調査を実施したかったが、吐き気を催している人間を無理に動かすとどうなるかくらいは朔も知っていた。
 最悪自分が被害を被る可能性があるのだ、ここは安全のため回復を待ったほうがいい。そう自分を納得させ、初秋の涼しくなってきた風を味わうことにした。

 それから一時間程経った頃、いつの間にかうたた寝していた朔は目を覚ました。大きな欠伸をしながら隣を見ると、相変わらず蒼が顔を下に向けているのが目に留まる。

 ――まだ治ってないのか。

 今日は出直すことも考え始めた時、隣から寝息が聞こえてくることに気付く。朔は眉を顰めると、苛つきを抑えながら蒼の頭を小突いた。

「おい、寝てんな」
「んあ……?」
「お前、俺が言うのもなんだけど不用心過ぎだろ……」

 自分も寝ていたことは告げず、朔は蒼に苦言を呈す。
 彼が不用心と言ったのは外での昼寝だけではなく、まだ出会って間もない人間に無防備な姿を晒したことに対しての方が大きかった。朔は自分の腕っぷしに自信があったため堂々と寝たが、どう見ても自衛できるだけの力を持っているとは思えない蒼までも同じような行動を取ったことに心配すら覚えたのだ。
 目覚めた蒼は目をしばたかせ、状況を把握するように辺りを見渡す。そうして自分が寝ていたことに気が付いたのか、頬を掻きながら隣に座る朔を見上げた。

「すみません、つい……」
「吐きそうなのは治ったのか?」
「えーっと……うん、まだ気持ち悪いけど、吐くのは大丈夫そうです」

 その言葉に朔は「少し待ってろ」というと、ベンチから立ち上がり少し離れたところで煙草を吸い始めた。久々に肺を満たす煙に、その表情がほんの少しだけ緩む。何時間も煙草を我慢させられ、彼なりに苛ついていたようだ。

 煙草を吸い終わると、朔は蒼を立ち上がらせ公園内の聞き込み調査を始めた。


 § § §

「――ここですかね?」
「らしいけどな」

 ホームレス達への聞き込みにより分かった、最近白人男性が住み始めたというダンボールとビニールシートで作られた小屋の前に、二人は立っていた。

 蒼は朔の様子を横目で窺うと、上着のポケットに忍ばせたボイスレコーダーのスイッチを入れた。
 職業柄取材時は録音することにしているが、大抵の場合は不要なトラブルを避けるため、取材相手に申し出た上で録音する。今回の場合の取材相手とは、この手作りの小屋の中にいるであろう人物だ。
 通常であればその人物に録音の許可を取るべきな上に、今蒼がここにいる理由は仕事の取材ではないから録音する必要もない。さらには朔に隠す必要すらなかったのだが、蒼は何故かそうしなければと思ったのだ。

 それは隣に立つ朔の発する雰囲気が、ミハイルという男の存在に近付くにつれて、どことなく剣呑さを帯び始めてきていたからかもしれない。
 表情はいつもと変わらないのに、チクチクと尖ったものが首筋を撫でるかのような感覚が、蒼に纏わりついていた。

 蒼はもう一度、今度は不安げな目で朔を見上げた。真っ直ぐに小屋の中に視線を向ける彼がそれに気付く気配はない。
 朔は自分を落ち着かせるかのような深い呼吸をすると、入り口となっていたブルーシートを一気に広げ中へと押し入った。

Здравствуйтеズドラーストヴィチェ 、Михаилミハイル Ивановичイヴァーナヴィチ!」

 乱暴に入り口を開けながら、朔は大声でそう言い放った。
 蒼にはその意味は分からなかったが、ミハイルという名を口にしていたことから挨拶の類だろうと聞き返すことはしなかった。

 それよりも、蒼の思考を占めていたのはその視線の先にある異様な光景だ。
 他のホームレス達にも聞き込んだ情報の通り、畳一畳たたみいちじょう程の小さな小屋の中には大柄な白人男性がいた。
 しかし男はその恵まれた体躯に似合わず、膝を折りたたみ背中を丸め、小さく縮こまりながらガタガタと震えている。顔は朔の方を向いてはいたが、男はどこか焦点の合わない目で彼を見ながらブツブツと小さく何かを繰り返し呟いていた。

Убейウビェイ меняミニャー……убейウビェイ……убей ウビェイ меняミニャー пожалуйстаパジャールスタ……」
「彼は、なんて?」
「『殺してくれ』だとさ」
「なんで……」

 予想していなかった言葉に蒼の瞳が揺れた。
 蒼は朔と男を交互に見やると、足元に小さく座り込む哀れな男を観察し始める。青いビニールシートから透ける程度の明かりしか無いこの場所では、はっきりとした色合いまでは確認することはできない。それでも目の前の男が、ブロンドと呼べる程明るい色の髪を持っていることは見て取れた。

「この方がミハイルさんですかね?」
「俺が知ってる奴と同じ顔ではあるな」
「なんですか、その曖昧な言い方」
「目印がないんだよ」

 朔の言葉に一瞬怪訝な表情を浮かべた蒼だったが、すぐに何のことを言っているのか思い付き、慌てて男の腕を見た。
 薄暗く青い室内のせいですぐに分からなかったが、よく見てみると半袖のシャツで顕になっている男の左腕には、大きな火傷のような傷がある。十分な明かりがなくとも乾いていないと分かるその傷に、蒼は思わず顔を顰めた。

「……最近の傷ですね。彼がミハイルさんなら、あそこにはトカゲのタトゥーがあったはずです」
「お前、そのタトゥーの意味知ってるか?」
「それを聞くってことは、ファッションってわけじゃありませんね?」
「知らないならいい」
「え、なんですかその勿体ぶる感じ。そこまで言ったなら教えて下さいよ」

 抗議する蒼の声を無視し、朔は一歩前に踏み出ると、未だ同じ事を呟き続けるミハイルに問いかけるような口調で話しかけた。

Гдеグヂェ Святойスビトイ Граальグラーリ?」

 朔の言葉にミハイルはやっと視線を上げる。
 かと思えば首を左右に振りながら、狼狽えたようにその身体の震えを激しくした。しかしながら変化はそれだけで、その口からは相変わらず同じ言葉が発せられている。

 そんなミハイルの姿に朔は明らかに苛ついた様子で、ダンッ、と思い切り彼の腹を足で蹴りつけた。
 その衝撃でミハイルが後ろに倒れ込んでも足をどかすことはせず、逃さないとばかりに腹を強く踏みつける。

「ちょっと朔さん!」
Отвечайアトヴィチャイ на вопросヴァプロス! Гдеグヂェ Святойスビトイ Граальグラーリ!?」
「グッ……!」
「やめてください! 怪我人ですよ!?」

 蒼の制止も虚しく、朔はミハイルの腹を踏み続ける。彼の口からは呟きは消え、代わりに呻き声が漏れ出ていた。

「朔さん! 本当に死んじゃいます!」
「うるせぇな、死にたいっつってんだから殺しゃあいいだろ!」
「なんてことをっ……!」

 ――このままじゃ本気で殺しかねない……!

 蒼は朔を押さえようとその腕に手を伸ばした。しかし、触れる直前で彼女の手が止まる。

「ひっ……!」

 近寄る蒼を振り払おうと振り返った朔の顔が、醜く焼けただれていたのだ。
 ミハイルの腕の火傷とは程度が全く異なり、毒々しい真っ赤な肉が見え、ところどころ焦げ付き、血が滲んでいる。
 突然現れたそのむごたらしい傷に蒼は言葉を失った。震えているのか、その口からは「ヒュッ……ヒュッ……」という細かい呼吸音が漏れている。

「チッ……」

 朔は舌打ちして自分の顔を手で押さえると、大きな呼吸を繰り返した。すると彼の顔を覆っていた火傷のような傷はじわじわと引いていき、蒼の見慣れた顔に戻っていく。

「朔さん、今のは……」
「クソッ」
「待ってくださ――……っ!」

 朔に突き飛ばされ、蒼はその場に倒れ込む。
 それを全く気にすることなく、朔はそのままどこかへと走り去っていった。

 取り残された蒼は目の前で起きた出来事に呆然としながら、ただその後ろ姿を見届けることしかできなかった。
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