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第二章 トカゲの尻尾
06. 得体の知れない同居人
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「おい小鳥遊、お前あの態度で今日遅刻ってどういう――」
つもりだ――そう続けようとした菊池は思わず言葉を切った。自分の方を振り返った蒼の顔色が、彼の度肝を抜くほど真っ青だったからだ。
「一応聞くが、二日酔いではないよな……?」
「重度の貧血と全治二週間の打撲です」
「……お前何やったんだよ」
はあ、と溜息をつきながら菊池は自分の頭をかいた。先週北海道旅行という名目の振礼島調査に向かった部下が、どういうわけか満身創痍で帰ってきたのだ。
振礼島に行かなければそこまで危険はないと思い強く止めなかったが、予想を裏切る結果を持ってきた旧友の娘の姿に、菊池の脳裏を苦い記憶が過ぎる。だがそれも、蒼が「ちょっと二階から落ちまして」と答えたことで呆れに変わった。
「二階って、自分ちのか?」
「……そうですね」
菊池の問いに、ややあってから蒼は答えた。
実際は別の場所で落ちたのだが、その詳細を説明するとなると頭を打ったのではないかと病院送りにされる可能性がある。ならば菊池の勘違いに乗っておいた方が良いだろうと判断し、肯定の言葉を口にすることにしたのだ。出社前に立ち寄った病院でも同じ言い訳をしていたので、丁度いいと思ったこともある。
だが同時に、菊池には気を付けなければならないと蒼は思った。
菊池と蒼の父、染谷修平は旧知の仲だ。蒼も両親の離婚前、父親と住んでいた頃はよく自宅に来る菊池を目にしていた。その家は蒼の現在の住まいである父親から相続した一軒家で、菊池はその住所も間取りも知っているのだ。
だからあまり怪我の詳細を話すと、勘の良い菊池は自宅での怪我ではないと気付いてしまうかもしれない。
さらに今、蒼の自宅には厄介な男が住み着いている。
庵朔――自らを振礼島の生き残りと自称するこの男は、名前から出身地まで本物だと蒼に証明する手段は持っていなかった。しかし、少なくとも人間の常識を逸した存在であることは疑う余地がなかった。
§ § §
「――お前どっから入ってきたんだよ?」
放置された機械の影で血まみれの服を着替える蒼に、朔は面倒臭そうに尋ねた。
「どこって窓ですよ。あっちの部屋の窓が丁度開いていたんで、そこから失礼しました」
蒼はそう答えると、昨日着ていた服に袖を通した。
いくら自分が着ていたものとはいえ、洗濯していない服をまた着るのには抵抗があったが、今の状況ではむしろ感謝すべきだと思いながら着替えを進める。
旅行用に普段よりも沢山の荷物が入った大きなバッグには、着替えの他にも汗拭きシートが入っていたので、身体についた血も落とすことができた。再起不能となったシャツには未練があったが、他よりも値段の高いジャケットが無傷だっただけ良しとしよう、と自分を慰める。
さらに飲みかけだがペットボトルの緑茶も入っていたため、血の抜けてしまった身体に少しながら水分を補うこともできた。
「じゃあ、俺外で待ってるわ」
「え、ちょっと待ってください! むしろ朔さんがどこから入ってきたんですか!?」
蒼のその言葉は一人にするなという意味で発せられたのではない。朔が入ってきた場所の方が楽に通れるのではないかと思ったからだ。
確かに来た道から帰れるが、血の足りていない今の蒼では身体を持ち上げる必要のある窓は体力的に厳しいかもしれない。そのため朔がどこかしらの扉から入ってきたのであれば、是非そこから帰りたいと思ったのだ。
「どこでもいいだろ」
「よくないです! 私怪我人、いやもはや病人ですよ? ちょっと窓から帰るとか厳しいです」
「そりゃ大変だな」
「だから! 朔さんはどこから入ってきたんですか? 楽な出口なら私もそこがいいんですけど」
「俺しか通れねぇから無理だろ」
要領を得ない朔の答えに苛立ちを感じながらも、蒼は「とりあえずそこで待っててください!」と声をかけ大急ぎで着替えを終わらせる。
今までの朔とのやり取りから待っていないかもしれないと思いつつ機械の影を出た蒼だったが、意外なことに彼はだるそうにしながらも着替え前と同じ場所に立っていた。
――こうして見るとモデルみたいだな。
朔の服装は黒いTシャツにジーンズというシンプルなものだったが、蒼の目にはファッション雑誌のワンショットのようにも映った。先程見た朔の顔立ちといい、その大柄な体躯や長い手足といい、蒼の脳裏にある言葉が過ぎる。
「ひょっとして朔さんってハーフですか?」
言ってから、しまった、と蒼は少しだけ表情を固めた。
多くの日本人にとっては褒め言葉の意味合いが強いこの質問は、当人達からすれば嫌な気持ちにさせられるものだとどこかで聞いた気がしたのだ。
大丈夫だろうかと心配しながらその様子を窺い見れば、朔が一瞬片眉を上げたのが分かった。それは不快感によるものというよりは、単純に脈略のない質問に疑問を感じただけのように思えてそっと胸を撫で下ろす。
一方ですぐに表情を戻した朔は、「ああ」とだけ言うと自分の顎をクイッと動かして、出口に向かうよう促した。
「お前、今度あれ片付けとけよ」
「……やっぱそのままじゃ駄目ですかね?」
「事情聞かれたいんならそれでもいいんじゃねぇの?」
朔の言葉に蒼は「うぅ……」と声を漏らした。あれ――自分の血溜まりを見ながら、やはり掃除が必要かと肩を落とす。
警察に見つからなければそのままでもいいのだろうが、もし見つかってしまった場合にはこの出血量なら事件性を疑われ、DNA検査が行われる可能性もあるだろう。前歴のない蒼に辿り着くことはないかもしれないが、何かの拍子にバレてしまった場合、少なくとも不法侵入の罪には問われるかもしれない。
「拭けば大丈夫ですかね?」
「漂白剤くらい撒いとけよ」
なんですんなりそんな対処法が出てくるんだ――蒼は目の前の男を見上げてその素性を怪しんだが、そもそも彼は振礼島という怪しさ満載の島出身を自称していることを思い出して考えるのを止めた。
まだ朔が何者か詳細を聞けていないが、どことなく犯罪行為には関わっていそうな気がしたのだ。
「――ところで、ご両親のどちらかが外国の方なんですよね? 振礼島出身ってことは、やっぱりロシアですか?」
蒼は話題を変えるために朔の素性調査を兼ねた質問をした。人によっては嫌な顔をする可能性のある質問だったが、先程の彼の反応を見て聞いても良さそうだと判断したのだ。
朔は蒼を一瞥し、窓のある部屋に歩き出しながら興味なさそうに口を開いた。
「親父がロシア人」
「ああ、だからロシア語ペラペラなんですね」
「んなわけあるか。顔も見たことねぇのに」
朔の答えに蒼はドキリとすると、その表情を窺おうと横目で彼を見上げた。父親のことを聞くのはまずかったかと心配したのだ。
しかし朔の口からは「ロシア語なんて聞いたことがあるやつくらいしか分からねぇよ」と今までと全く変わらない調子で言葉が続く。その様子に聞いてはいけない質問ではなかったようだと蒼は安心して小さく息を吐いた。
第一印象とは違って、意外と話す時に緊張しなくてもいいのかもしれない。蒼は朔の印象を改めながら、やっと自分の肩から力が抜けるのを感じた。
単に興味がないだけかもしれないが、すぐに怒るような性格ではなさそうだ。不本意とはいえ同居するからには、沸点が低すぎる気性は困る。自分が唯一寛げる空間に、取り扱いが難しい人間がいるのはストレスでしかないだろう。
――……それか強者故の余裕ってやつ?
ふと、何かの創作物で見た表現を思い出した。
蒼には朔が何者か分からない。振礼島の生き残りというからには人間なのだろうが、先程の彼の行動を思い返すとそれも自信がなくなる。
自分が絶対的優位にいると分かっているから、蒼が何を言っても気にならないだけ――そう考えると、蒼の背筋に冷たいものが走った。
――ま、考えすぎか……。
非現実的な出来事のせいで、どうにも思考がファンタジーに寄りがちだ。朔が何者かは分からないままだが、見たとおり彼は人間で、蒼の言葉に怒らないのは単純に怒るような内容ではなかったからだろう。
そこまで考えた時、丁度来る際に使った窓が目に入る。蒼は窓の前に立つと、気を取り直すように「これ越えるとかしんどいんですけど」と朔に話しかけた。
「なんだよ、ガキだな。抱っこして欲しいのか?」
「んなっ!?」
ニヤリと意地悪く口端を上げた朔に、蒼は思わず奇声を発した。確かに長身で体格の良い朔からすれば、自称身長一六〇センチで華奢な体つきの蒼を持ち上げることは十分に可能だろう。
しかし大人の女性への態度としては如何なものか、と蒼は屈辱に顔を歪ませる。しかも自分の意図を全く汲み取らない発言に、蒼は苛立ちを感じながら少し前にしたものと同じ質問を繰り返した。
「朔さんは、どこから入ってきたんですか?」
怒気の混じった蒼の声に朔は肩を竦め、「知ってもしょうがない」と呟いた。それでも蒼が視線で問いかけ続けると、観念したかのように一つ溜息を吐いて、「うるせぇから叫ぶなよ?」と窓枠の横の壁に手をつく。
「……まじか」
そう小さく言ったのは、蒼だ。壁に置かれた朔の手は、そのままトプッと音を立てるように壁の中へと吸い込まれていったのだ。
そして手首まで入ったところで腕を引き抜くと、朔は「ほらな、無理だろ?」と蒼に向き直る。
「なっ……なっ……」
「今更だろ。さっきお前の腹に手ぇ突っ込んだじゃねぇか」
「それは、そう、ですけど……」
――やっぱり、人間じゃないかもしれない……。
冷静な状態で再び見た常識外れの出来事に、蒼は気が遠くなるのを感じた。
§ § §
つい昨日の出来事を思い返しながら、蒼は今更ながらとんでもないものに関わってしまったのかもしれないと少しだけ後悔していた。命を救ってもらったという恩はあるが、朔にはまるで自分の常識が通用しない。
振礼島だけでも大変そうだと言うのに、そこに朔という存在が加わるとなると自分のような若輩に捌き切れるのかという不安がこみ上げる。
――振礼島の人って、もしかして皆朔さんみたいな感じなの……?
ならば彼が何者なのかも暴かなければならないのだろうか。やれるものならやってみろと言わんばかりに意地悪く嘲笑う朔の顔が脳内に浮かび、また何かを失う気がする、と蒼は頭を抱えた。
「呆けてるとこ悪いが、仕事は溜まってんだよ」
バサッ、と蒼のデスクに書類が放り投げられる。しかしそれをした張本人の菊池はその行動とは裏腹に、「家でやってもいいけどな」ときまり悪そうに付け加えた。
「……そうします」
口は悪いが一応心配してくれているらしい上司の言葉に、蒼は内心感謝した。先週北海道へ行く前に月曜は来ると啖呵を切った手前、休むに休めなかったのだ。
「まあ、あれだ。明日休みたいなら休んでいいぞ。お前有給溜まってるしな」
それだけ言うと、菊池はそそくさと自席に戻っていった。
つもりだ――そう続けようとした菊池は思わず言葉を切った。自分の方を振り返った蒼の顔色が、彼の度肝を抜くほど真っ青だったからだ。
「一応聞くが、二日酔いではないよな……?」
「重度の貧血と全治二週間の打撲です」
「……お前何やったんだよ」
はあ、と溜息をつきながら菊池は自分の頭をかいた。先週北海道旅行という名目の振礼島調査に向かった部下が、どういうわけか満身創痍で帰ってきたのだ。
振礼島に行かなければそこまで危険はないと思い強く止めなかったが、予想を裏切る結果を持ってきた旧友の娘の姿に、菊池の脳裏を苦い記憶が過ぎる。だがそれも、蒼が「ちょっと二階から落ちまして」と答えたことで呆れに変わった。
「二階って、自分ちのか?」
「……そうですね」
菊池の問いに、ややあってから蒼は答えた。
実際は別の場所で落ちたのだが、その詳細を説明するとなると頭を打ったのではないかと病院送りにされる可能性がある。ならば菊池の勘違いに乗っておいた方が良いだろうと判断し、肯定の言葉を口にすることにしたのだ。出社前に立ち寄った病院でも同じ言い訳をしていたので、丁度いいと思ったこともある。
だが同時に、菊池には気を付けなければならないと蒼は思った。
菊池と蒼の父、染谷修平は旧知の仲だ。蒼も両親の離婚前、父親と住んでいた頃はよく自宅に来る菊池を目にしていた。その家は蒼の現在の住まいである父親から相続した一軒家で、菊池はその住所も間取りも知っているのだ。
だからあまり怪我の詳細を話すと、勘の良い菊池は自宅での怪我ではないと気付いてしまうかもしれない。
さらに今、蒼の自宅には厄介な男が住み着いている。
庵朔――自らを振礼島の生き残りと自称するこの男は、名前から出身地まで本物だと蒼に証明する手段は持っていなかった。しかし、少なくとも人間の常識を逸した存在であることは疑う余地がなかった。
§ § §
「――お前どっから入ってきたんだよ?」
放置された機械の影で血まみれの服を着替える蒼に、朔は面倒臭そうに尋ねた。
「どこって窓ですよ。あっちの部屋の窓が丁度開いていたんで、そこから失礼しました」
蒼はそう答えると、昨日着ていた服に袖を通した。
いくら自分が着ていたものとはいえ、洗濯していない服をまた着るのには抵抗があったが、今の状況ではむしろ感謝すべきだと思いながら着替えを進める。
旅行用に普段よりも沢山の荷物が入った大きなバッグには、着替えの他にも汗拭きシートが入っていたので、身体についた血も落とすことができた。再起不能となったシャツには未練があったが、他よりも値段の高いジャケットが無傷だっただけ良しとしよう、と自分を慰める。
さらに飲みかけだがペットボトルの緑茶も入っていたため、血の抜けてしまった身体に少しながら水分を補うこともできた。
「じゃあ、俺外で待ってるわ」
「え、ちょっと待ってください! むしろ朔さんがどこから入ってきたんですか!?」
蒼のその言葉は一人にするなという意味で発せられたのではない。朔が入ってきた場所の方が楽に通れるのではないかと思ったからだ。
確かに来た道から帰れるが、血の足りていない今の蒼では身体を持ち上げる必要のある窓は体力的に厳しいかもしれない。そのため朔がどこかしらの扉から入ってきたのであれば、是非そこから帰りたいと思ったのだ。
「どこでもいいだろ」
「よくないです! 私怪我人、いやもはや病人ですよ? ちょっと窓から帰るとか厳しいです」
「そりゃ大変だな」
「だから! 朔さんはどこから入ってきたんですか? 楽な出口なら私もそこがいいんですけど」
「俺しか通れねぇから無理だろ」
要領を得ない朔の答えに苛立ちを感じながらも、蒼は「とりあえずそこで待っててください!」と声をかけ大急ぎで着替えを終わらせる。
今までの朔とのやり取りから待っていないかもしれないと思いつつ機械の影を出た蒼だったが、意外なことに彼はだるそうにしながらも着替え前と同じ場所に立っていた。
――こうして見るとモデルみたいだな。
朔の服装は黒いTシャツにジーンズというシンプルなものだったが、蒼の目にはファッション雑誌のワンショットのようにも映った。先程見た朔の顔立ちといい、その大柄な体躯や長い手足といい、蒼の脳裏にある言葉が過ぎる。
「ひょっとして朔さんってハーフですか?」
言ってから、しまった、と蒼は少しだけ表情を固めた。
多くの日本人にとっては褒め言葉の意味合いが強いこの質問は、当人達からすれば嫌な気持ちにさせられるものだとどこかで聞いた気がしたのだ。
大丈夫だろうかと心配しながらその様子を窺い見れば、朔が一瞬片眉を上げたのが分かった。それは不快感によるものというよりは、単純に脈略のない質問に疑問を感じただけのように思えてそっと胸を撫で下ろす。
一方ですぐに表情を戻した朔は、「ああ」とだけ言うと自分の顎をクイッと動かして、出口に向かうよう促した。
「お前、今度あれ片付けとけよ」
「……やっぱそのままじゃ駄目ですかね?」
「事情聞かれたいんならそれでもいいんじゃねぇの?」
朔の言葉に蒼は「うぅ……」と声を漏らした。あれ――自分の血溜まりを見ながら、やはり掃除が必要かと肩を落とす。
警察に見つからなければそのままでもいいのだろうが、もし見つかってしまった場合にはこの出血量なら事件性を疑われ、DNA検査が行われる可能性もあるだろう。前歴のない蒼に辿り着くことはないかもしれないが、何かの拍子にバレてしまった場合、少なくとも不法侵入の罪には問われるかもしれない。
「拭けば大丈夫ですかね?」
「漂白剤くらい撒いとけよ」
なんですんなりそんな対処法が出てくるんだ――蒼は目の前の男を見上げてその素性を怪しんだが、そもそも彼は振礼島という怪しさ満載の島出身を自称していることを思い出して考えるのを止めた。
まだ朔が何者か詳細を聞けていないが、どことなく犯罪行為には関わっていそうな気がしたのだ。
「――ところで、ご両親のどちらかが外国の方なんですよね? 振礼島出身ってことは、やっぱりロシアですか?」
蒼は話題を変えるために朔の素性調査を兼ねた質問をした。人によっては嫌な顔をする可能性のある質問だったが、先程の彼の反応を見て聞いても良さそうだと判断したのだ。
朔は蒼を一瞥し、窓のある部屋に歩き出しながら興味なさそうに口を開いた。
「親父がロシア人」
「ああ、だからロシア語ペラペラなんですね」
「んなわけあるか。顔も見たことねぇのに」
朔の答えに蒼はドキリとすると、その表情を窺おうと横目で彼を見上げた。父親のことを聞くのはまずかったかと心配したのだ。
しかし朔の口からは「ロシア語なんて聞いたことがあるやつくらいしか分からねぇよ」と今までと全く変わらない調子で言葉が続く。その様子に聞いてはいけない質問ではなかったようだと蒼は安心して小さく息を吐いた。
第一印象とは違って、意外と話す時に緊張しなくてもいいのかもしれない。蒼は朔の印象を改めながら、やっと自分の肩から力が抜けるのを感じた。
単に興味がないだけかもしれないが、すぐに怒るような性格ではなさそうだ。不本意とはいえ同居するからには、沸点が低すぎる気性は困る。自分が唯一寛げる空間に、取り扱いが難しい人間がいるのはストレスでしかないだろう。
――……それか強者故の余裕ってやつ?
ふと、何かの創作物で見た表現を思い出した。
蒼には朔が何者か分からない。振礼島の生き残りというからには人間なのだろうが、先程の彼の行動を思い返すとそれも自信がなくなる。
自分が絶対的優位にいると分かっているから、蒼が何を言っても気にならないだけ――そう考えると、蒼の背筋に冷たいものが走った。
――ま、考えすぎか……。
非現実的な出来事のせいで、どうにも思考がファンタジーに寄りがちだ。朔が何者かは分からないままだが、見たとおり彼は人間で、蒼の言葉に怒らないのは単純に怒るような内容ではなかったからだろう。
そこまで考えた時、丁度来る際に使った窓が目に入る。蒼は窓の前に立つと、気を取り直すように「これ越えるとかしんどいんですけど」と朔に話しかけた。
「なんだよ、ガキだな。抱っこして欲しいのか?」
「んなっ!?」
ニヤリと意地悪く口端を上げた朔に、蒼は思わず奇声を発した。確かに長身で体格の良い朔からすれば、自称身長一六〇センチで華奢な体つきの蒼を持ち上げることは十分に可能だろう。
しかし大人の女性への態度としては如何なものか、と蒼は屈辱に顔を歪ませる。しかも自分の意図を全く汲み取らない発言に、蒼は苛立ちを感じながら少し前にしたものと同じ質問を繰り返した。
「朔さんは、どこから入ってきたんですか?」
怒気の混じった蒼の声に朔は肩を竦め、「知ってもしょうがない」と呟いた。それでも蒼が視線で問いかけ続けると、観念したかのように一つ溜息を吐いて、「うるせぇから叫ぶなよ?」と窓枠の横の壁に手をつく。
「……まじか」
そう小さく言ったのは、蒼だ。壁に置かれた朔の手は、そのままトプッと音を立てるように壁の中へと吸い込まれていったのだ。
そして手首まで入ったところで腕を引き抜くと、朔は「ほらな、無理だろ?」と蒼に向き直る。
「なっ……なっ……」
「今更だろ。さっきお前の腹に手ぇ突っ込んだじゃねぇか」
「それは、そう、ですけど……」
――やっぱり、人間じゃないかもしれない……。
冷静な状態で再び見た常識外れの出来事に、蒼は気が遠くなるのを感じた。
§ § §
つい昨日の出来事を思い返しながら、蒼は今更ながらとんでもないものに関わってしまったのかもしれないと少しだけ後悔していた。命を救ってもらったという恩はあるが、朔にはまるで自分の常識が通用しない。
振礼島だけでも大変そうだと言うのに、そこに朔という存在が加わるとなると自分のような若輩に捌き切れるのかという不安がこみ上げる。
――振礼島の人って、もしかして皆朔さんみたいな感じなの……?
ならば彼が何者なのかも暴かなければならないのだろうか。やれるものならやってみろと言わんばかりに意地悪く嘲笑う朔の顔が脳内に浮かび、また何かを失う気がする、と蒼は頭を抱えた。
「呆けてるとこ悪いが、仕事は溜まってんだよ」
バサッ、と蒼のデスクに書類が放り投げられる。しかしそれをした張本人の菊池はその行動とは裏腹に、「家でやってもいいけどな」ときまり悪そうに付け加えた。
「……そうします」
口は悪いが一応心配してくれているらしい上司の言葉に、蒼は内心感謝した。先週北海道へ行く前に月曜は来ると啖呵を切った手前、休むに休めなかったのだ。
「まあ、あれだ。明日休みたいなら休んでいいぞ。お前有給溜まってるしな」
それだけ言うと、菊池はそそくさと自席に戻っていった。
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