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第一章 作られた始まり、追憶の出会い
02. 動き出す者
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古びたシャワールームに水の流れる音が反響し、室内は湯気で満たされていた。庵朔は目を閉じて、頭から降り注ぐ温水の心地良さに身を委ねる。
故郷のものとは違い、東京で使うシャワーはどれも安定した水圧と温度を保っていた。急に熱湯が出る心配もなく、安心して使っていられる。
そのまま暫く身体を温めると、朔はゆっくりと目を開けた。長い睫毛の下から現れたのは、透き通った蒼色の瞳。日本人には滅多にいないその色は、彼に異国の血が混じっていることを表わしていた。
備え付けのシャンプーを手に取り、ガシガシと乱雑に頭を洗う。上を向いて顔からシャワーの温水をかぶれば、泡が一気に流れ落ちていった。流し残しがないよう頭をすすぐ両腕は窮屈そうに縮こまり、長身で体格の良い彼にとってこのシャワールームが手狭であることが見て取れる。
全て洗い流し終わると、朔は蛇口を捻ってシャワーを止め、髪を絞った。水気を含んだ短い髪は、濡れていても分かるくらいに色素が薄い。それは茶色というよりもグレーに近かったが、加齢によるものとは明らかに異なる色合いをしていた。
朔は身体を拭き、腰にタオルを巻きつけただけの格好でシャワールームを後にした。
彼が歩く道は屋内だが、板で仕切られただけの簡素なものだ。あちらこちらから人の気配が感じられるその場所は、ネットカフェだった。
薄暗い店内はお世辞にも綺麗とは言えない。掃除はされているようだが、大手チェーン店のような清潔感はなく、人がいるであろうブースからは鬱々とした湿っぽい雰囲気が漂っている。
新宿歌舞伎町の奥に位置するこの店は、場所柄もあってか住所不定の者たちの仮宿となっており、明るい生活を送る人々とは無縁の世界だった。
そんな店内の、ある意味では公共の場であるブースを区切る通路を、朔は裸も同然で堂々と歩いていく。大抵の店では嫌厭されるその行為を咎める者など、ここには誰もいないのだ。
自分のブースに辿り着いた朔は、中に入ると同時にフラットシートにドカッと腰を下ろした。ブランケットや脱いだ服がいくつも散らばっていることから、彼もまた長期間この場所を寝床にしていることが分かる。
朔はPCの電源を入れ、スリープ状態から復帰するのを待ちながらブースの隅にあるビニール袋を手探りで漁った。そして中から黒いTシャツを取り出すと、軽く匂いを嗅いで洗ったものかを確かめてからそれを身につける。
「……カズ?」
自動でウェブブラウザが立ち上がった画面から自身のフリーメールを開くと、新着メッセージが届いていることに気が付いた。送り主は朔にとって友人という程の間柄ではないが、東京に出る際に世話になった人物だ。
「『島のことを調べている記者がいる。アネクドートで張れ』ね。つーか“張れ”ってなんだよ。頑張れってことか? ――……あぁ、“張れ”か。難しい漢字使うんじゃねぇよクソが」
意味の分からなかった漢字を検索し、読み方が分かると朔は悪態を吐いた。流暢に話す日本語とは裏腹に、読むことは少し苦手なようだ。
メールにあったアネクドートの場所を思い出しながら、朔はやっと事態が動きそうな兆しが見え気持ちが高鳴るのを感じていた。
故郷が滅び北海道を転々とした後、最近やってきた東京。思いの外今の自分にとっては居心地が良く、ここに移動したことは正解だと思ってはいた。
しかし肝心の移動した理由に対する成果がなく、完全に手詰まりになっていたのだ。
記者であれば土地勘もツテもない自分よりも出来ることが多いはず――そんな期待に胸を膨らませながら、同時にメールに添付されていた写真に写る酔狂な女記者に同情した。
何が目的で島のことを調べているのか朔には見当もつかなかったが、どんな目的にせよ知ったら後悔すると分かりきっていたからだ。
「ま、こんだけ隠されてるのに首突っ込む方が悪いわな」
ニヤリと意地の悪い笑みを浮かべて、朔は残りの身支度を整え始めた。髪は濡れたままだが気にする様子はない。
人前に出られるだけの服を着ると、朔はブースを出てネットカフェを後にした。
§ § §
庵朔がシャワーを浴び始めるより少し前、小鳥遊蒼は羽田空港に到着していた。事前に目的地への行き方を調べていた蒼は、迷う事なく京急線電車に乗り込み、空いていた座席に腰を下ろす。
「品川で山手線に乗り換えか」
向かうは新宿にあるロシア料理店。東京ですぐに動き出せるよう、札幌にいる間に知人の記者や情報屋に、ロシア側の情報を集めるにはどうしたらいいか尋ねておいたのだ。
「お腹空いたなぁ……。このブリヌイってなんだろ、軽食っぽいけど」
グルメサイトで目的地を確認すると、クレープのような料理の写真に目が止まった。サイトのレビューによると、トマトやタマネギなどの生野菜を包んで食べる物のようだ。サーモンやイクラが入っている写真もあることから、包む物はなんでもいいのかもしれない。
暫くの間、蒼は本来の目的も忘れて高評価のレビューが並ぶその店のメニューに見入っていた。
料理に対する説明はあまりなく、メニューにはおそらくロシア語の名称をそのままカタカナ表記にしただけであろう見慣れぬ言葉が並ぶ。そのため一つ一つ自分で調べながら確認していたのだが、スマートフォンの画面に表示される写真に写る料理はどれも、空腹の蒼の食欲をそそるものだった。
「先に聞き込みしちゃったら食べる前に追い出されるかな……」
やるべきこととやりたいこと、どちらを優先するべきかという蒼の葛藤は、電車が品川駅に到着するまで続いた。
故郷のものとは違い、東京で使うシャワーはどれも安定した水圧と温度を保っていた。急に熱湯が出る心配もなく、安心して使っていられる。
そのまま暫く身体を温めると、朔はゆっくりと目を開けた。長い睫毛の下から現れたのは、透き通った蒼色の瞳。日本人には滅多にいないその色は、彼に異国の血が混じっていることを表わしていた。
備え付けのシャンプーを手に取り、ガシガシと乱雑に頭を洗う。上を向いて顔からシャワーの温水をかぶれば、泡が一気に流れ落ちていった。流し残しがないよう頭をすすぐ両腕は窮屈そうに縮こまり、長身で体格の良い彼にとってこのシャワールームが手狭であることが見て取れる。
全て洗い流し終わると、朔は蛇口を捻ってシャワーを止め、髪を絞った。水気を含んだ短い髪は、濡れていても分かるくらいに色素が薄い。それは茶色というよりもグレーに近かったが、加齢によるものとは明らかに異なる色合いをしていた。
朔は身体を拭き、腰にタオルを巻きつけただけの格好でシャワールームを後にした。
彼が歩く道は屋内だが、板で仕切られただけの簡素なものだ。あちらこちらから人の気配が感じられるその場所は、ネットカフェだった。
薄暗い店内はお世辞にも綺麗とは言えない。掃除はされているようだが、大手チェーン店のような清潔感はなく、人がいるであろうブースからは鬱々とした湿っぽい雰囲気が漂っている。
新宿歌舞伎町の奥に位置するこの店は、場所柄もあってか住所不定の者たちの仮宿となっており、明るい生活を送る人々とは無縁の世界だった。
そんな店内の、ある意味では公共の場であるブースを区切る通路を、朔は裸も同然で堂々と歩いていく。大抵の店では嫌厭されるその行為を咎める者など、ここには誰もいないのだ。
自分のブースに辿り着いた朔は、中に入ると同時にフラットシートにドカッと腰を下ろした。ブランケットや脱いだ服がいくつも散らばっていることから、彼もまた長期間この場所を寝床にしていることが分かる。
朔はPCの電源を入れ、スリープ状態から復帰するのを待ちながらブースの隅にあるビニール袋を手探りで漁った。そして中から黒いTシャツを取り出すと、軽く匂いを嗅いで洗ったものかを確かめてからそれを身につける。
「……カズ?」
自動でウェブブラウザが立ち上がった画面から自身のフリーメールを開くと、新着メッセージが届いていることに気が付いた。送り主は朔にとって友人という程の間柄ではないが、東京に出る際に世話になった人物だ。
「『島のことを調べている記者がいる。アネクドートで張れ』ね。つーか“張れ”ってなんだよ。頑張れってことか? ――……あぁ、“張れ”か。難しい漢字使うんじゃねぇよクソが」
意味の分からなかった漢字を検索し、読み方が分かると朔は悪態を吐いた。流暢に話す日本語とは裏腹に、読むことは少し苦手なようだ。
メールにあったアネクドートの場所を思い出しながら、朔はやっと事態が動きそうな兆しが見え気持ちが高鳴るのを感じていた。
故郷が滅び北海道を転々とした後、最近やってきた東京。思いの外今の自分にとっては居心地が良く、ここに移動したことは正解だと思ってはいた。
しかし肝心の移動した理由に対する成果がなく、完全に手詰まりになっていたのだ。
記者であれば土地勘もツテもない自分よりも出来ることが多いはず――そんな期待に胸を膨らませながら、同時にメールに添付されていた写真に写る酔狂な女記者に同情した。
何が目的で島のことを調べているのか朔には見当もつかなかったが、どんな目的にせよ知ったら後悔すると分かりきっていたからだ。
「ま、こんだけ隠されてるのに首突っ込む方が悪いわな」
ニヤリと意地の悪い笑みを浮かべて、朔は残りの身支度を整え始めた。髪は濡れたままだが気にする様子はない。
人前に出られるだけの服を着ると、朔はブースを出てネットカフェを後にした。
§ § §
庵朔がシャワーを浴び始めるより少し前、小鳥遊蒼は羽田空港に到着していた。事前に目的地への行き方を調べていた蒼は、迷う事なく京急線電車に乗り込み、空いていた座席に腰を下ろす。
「品川で山手線に乗り換えか」
向かうは新宿にあるロシア料理店。東京ですぐに動き出せるよう、札幌にいる間に知人の記者や情報屋に、ロシア側の情報を集めるにはどうしたらいいか尋ねておいたのだ。
「お腹空いたなぁ……。このブリヌイってなんだろ、軽食っぽいけど」
グルメサイトで目的地を確認すると、クレープのような料理の写真に目が止まった。サイトのレビューによると、トマトやタマネギなどの生野菜を包んで食べる物のようだ。サーモンやイクラが入っている写真もあることから、包む物はなんでもいいのかもしれない。
暫くの間、蒼は本来の目的も忘れて高評価のレビューが並ぶその店のメニューに見入っていた。
料理に対する説明はあまりなく、メニューにはおそらくロシア語の名称をそのままカタカナ表記にしただけであろう見慣れぬ言葉が並ぶ。そのため一つ一つ自分で調べながら確認していたのだが、スマートフォンの画面に表示される写真に写る料理はどれも、空腹の蒼の食欲をそそるものだった。
「先に聞き込みしちゃったら食べる前に追い出されるかな……」
やるべきこととやりたいこと、どちらを優先するべきかという蒼の葛藤は、電車が品川駅に到着するまで続いた。
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