アザー・ハーフ

新菜いに

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第一章 作られた始まり、追憶の出会い

01. 閉ざされた島

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 自分の腹から金属の棒。腹部から天へと向かって伸びるそれを見つめながら、女は地面に接した自分の背にじわじわと温かいものが広がっていくのを感じていた。
 十月初旬、まだ昼間は夏日の気温を観測する日もあるこの季節は、風通しの悪い場所であればたとえ夕方でも昼間の暑さを残し汗が滲む。だが女は、今自分の額を流れていった汗が、暑さによるものではないと理解していた。

 暑さではなく、痛みですらなく、彼女が最も強く感じていたのは恐怖。その原因は女の脚を跨ぐようにして立つ長身の男。
 男は女の腹部を貫く冷たい棒を手に持ち、グリグリと乱暴に動かしている。逆光で女から男の顔は殆ど見えなかったが、意地の悪い笑みをたたえているであろうことは、彼の纏う雰囲気から想像に難くなかった。

「ぐっ……やめ……やめてっ……」

 蚊の鳴くような声で発せられる女の懇願は男に届いていないのか、彼は気だるそうに首を傾げるだけで、その手を止める素振りすら見せない。

「協力すんの? 死ぬの?」

 そんなの答えなんて決まっている――女は苦悶の表情を浮かべながら、この状況に陥った自分の浅はかさを呪った。


 § § §

――三日前

「なんでこの企画がダメなんですか!」

 小鳥遊たかなしあおは手に持った書類を目の前のデスクに叩きつけ、面倒臭いという気持ちを隠しもしない態度の上司に詰め寄った。無残にも散らばったA4用紙には、“振礼島ふれとうの陰謀、その衝撃の真実!”と大々的に印刷されている。

 しんと静まり返ったオフィスには、蒼の荒々しい鼻息が響くようだった。
 だがそれも束の間のこと。オフィスはすぐにいつもの調子を取り戻し、あちらこちらから鳴り響く電話のコール音と、それに従業員が対応していく声に埋め尽くされていく。

「だーかーら、振礼島はダメなんだって」

 蒼の方を見ることもせず、上司である菊池きくちはそう言い放った。爪に何か挟まったのか、目線はずっとパチパチと音を鳴らす自身の指先を向いている。
 それが彼の取り合う気がない時の癖だと、蒼は知っていた。

 蒼はこの上司の下で約二年間、週刊真相という雑誌のライターとして働いている。
 雑誌が扱う傾向としては、主に芸能人や政治家といった有名人の異性関係や、大手企業の不祥事に関する推測塗れのゴシップ記事だ。さすがに根も葉もない噂をでっち上げることまではしないが、一人でもネタになりそうな発言をする人間を見つければ、何十人という人数からその情報を得たとして掲載するような雑誌だ。

 週刊真相がもはや世間でどう思われているかは言うまでもない。毎年右肩下がりを続ける入社希望者数がそれを如実に表わしている。
 たとえ入社したとしても、真っ当な記事に携わりたいと考える者は早々に退職していくのだ。そんな出版社にも拘わらず蒼が仕事を辞めないのは、彼女がゴシップ好きだからではなかった。

「でももう八ヶ月ですよ!? 事件発生時にちょろっとニュースで報道されたくらいで、その後どんなに待っても詳細どころか島の映像すら流れない。国が情報統制していることくらい明らかでしょう!?」
「事件じゃなくてな」
「これは事件ですよ! 小さな離島が一晩で滅んだのにどこも報道しない。ネットじゃ日本が核実験を始めただとか、宇宙人に攻撃されただなんて話も出るくらいです!」
「ほう、そりゃ一大事だな」
「一大事だからこそ! この企画をやらせてください!」

 鼻息荒く蒼は散らばった企画書をかき集め、再び菊池の目の前に突き出した。適当に集められたことで順番が変わり、一番上には“生存者ゼロ! 果たして住民はどこへ消えたのか――”という見出しが書かれたページが来ている。

「うちはそういう雑誌じゃないの」
「そういう雑誌でしょう!? 今はともかく、昔は真実に切り込んでいく雑誌だったはずです!」
「親父さんの頃はな。でももう時代が違う。それにさっき自分で言ったろ? 『国が情報統制している』って。だったらうちみたいな弱小週刊誌の出る幕なんてないの。NHKすら報道しないんだから」

 そう言うと菊池はシッシッと蒼を手で追い払う仕草をした。
 蒼はその様子に顔を般若のように歪ませ、手に持った企画書をバサッと落とす。「分かりました」と小さく呟く声に、菊池が今日初めて蒼の方を向いた。

「今から有給取ります。次出社するのは月曜です」
「は? お前まさか自費で取材する気か?」
「いいえ、北海道旅行です。今決めました。蟹をたらふく食べてきます」

 言い切らないうちに蒼はくるりと踵を返し、オフィスの出口へと歩き出していた。カツカツと鳴るヒールの音はいつもよりも大きく、猫背気味の背筋もピンと伸ばされている。

「後から請求してきても経費出ないぞ!」

 バタンと音を立てて閉まる扉に、菊池の怒声が虚しくかき消された。


 § § §

「――意外と近かったな」

 東京から約四時間、羽田空港を出発し女満別めまんべつ空港に降り立つと、バスに乗って網走あばしり駅前に到着した。
 午後に東京を発ったため、既に時刻は夕方六時。
 蒼はこの日の取材は諦め、事前に予約しておいたビジネスホテルで、改めて振礼島に関する情報をまとめることにした。

 振礼島は、北海道は網走沖に浮かぶ小さな離島である。樺太からふと国後島くなしりとうの間、網走から北へ百キロ程の距離に位置し、人口は約千人を数えていた。
 だが、この人口はあくまで日本の自治体へ住民登録されている数であり、実際は位置関係によるものか、同数程度のロシア人が暮らしていたとされる。
 振礼島の名前の由来となった“フレ”という言葉はアイヌ語で“赤”を意味し、“フレシサム”となれば“赤い和人”、つまりロシア人のことを表す。それくらい振礼島にロシア人が暮らしているというのは、昔から当たり前の事だったのだ。

 しかし今年二月、この小さな島は突然無人島へと変貌した。

 国の発表では当日、最大震度七の大地震と台風並の暴風雨が観測されたとのことだった。
 通常であればそんな災害が発生すれば報道ヘリが飛ぶが、地震による地割れで有毒ガスが発生したとの情報があり、災害から八ヶ月経った今でも接近が禁止されている。

 それだけではない。後日政府から正式に、振礼島における今回の災害での生存者はゼロという衝撃的な事実が発表されたのだ。この発表によりネット上は大いにざわついたが、テレビや新聞などの報道は蛋白なもので、事実を淡々と述べるに留まった。

「近隣住民の話すら出ないなんておかしすぎる……」

 一つの島を滅ぼす程の大災害が起きれば、たとえ多少距離が離れていようと何らかの異変は感じ取れていたはずだ。特に地震ともなれば、それなりの大きさの揺れが北海道本土に届いていてもおかしくはない。
 それにも拘わらず、蒼が調べた限りではどこにもそんな情報が上がっていなかった。さらには島の住民と関わりのあった人間の発言すら見つからないのだ。

 ホテルの窓から双眼鏡で沖を覗くと、小さい島を見て取ることができた。それが振礼島なのかは蒼には分からない。
 蒼は眉間に皺を寄せると、再び自身のまとめた情報に目を通し始めた。


 § § §

 二日後、蒼は途方に暮れていた。
 網走市内をいくら歩き回っても、振礼島に関する有力な情報が得られなかったからだ。声をかけたのは第一町人まちびとどころか既に第百町人くらいまで数えていそうだが、誰一人として有用な情報を持っていないのだ。
 分かったのは、北海道本土から振礼島へ行く者が滅多にいなかったということだけだった。

 振礼島との間に、船や飛行機の定期便は存在しないという。郵便を含む物資は振礼島から一週間程度の間隔でやって来る担当者がすべて手配するため、その担当者以外の島民を見たことすらないらしい。

「誰も振礼島の人とは関わっていなかったってわけか……」

 グラスの氷を指でかき混ぜながら、蒼は溜息を吐いた。
 振礼島は自分が思っていたよりも世間から隔絶されていたのかもしれない。この二日間文字通り足を棒にして取材を試みたにも関わらず、何も得るものがなかった。
 得たとすれば網走の歴史と蟹と、少しキツくなったウエストだけである。

 さらに悪いことに、現在本州を台風が縦断中だった。休暇最終日である日曜日の夜まで網走での取材を続けようとしていた蒼だったが、日曜日の早朝に北海道を発たなければ月曜日に出社できなくなってしまう。
 そのため蒼は土曜日のうちに網走からより便数の多い札幌へと移動し、本当にただの北海道観光となってしまった今回の旅を一人バーで嘆いていた。

「――振礼島を調べているんですか?」

 蒼の独り言が聞こえたのか、カウンターごしにマスターが彼女に尋ねてきた。
 彼は土曜の夕方から一人で暗い雰囲気を滲ませ、酒に浸る蒼を心配したのかもしれない。声をかけながら水の入ったグラスをそっと蒼の前に置いた。

「そうなんです。私東京から取材に来たんですけど、網走で聞きまわっても誰も振礼島のことよく知らなくて……」
「あそこは確かに道民でも近寄りませんね。ロシアで取材すれば違うのかもしれませんが」
「ロシア……さすがにそこまで行く時間もお金もない……。そういえば振礼島ってロシア人が住んでたんですよね。なのにロシアは今の日本の対応に何も言ってこないんでしょうか?」
「そこまではちょっと……。ですが以前うちに来たお客さんがあそこは半分ロシアのようなものだと言っていたので、何かしらの対応はしているかもしれませんね」
「え、それってその人振礼島のこと詳しいってことですか!?」

 突然ガバッと身を乗り出した蒼にマスターが一瞬たじろぐ。
 その様子を見て蒼は「あ、すみません」と恥ずかしそうに謝ると、椅子に座り直して背筋を正した。

「えっと、そのお話詳しく聞かせていただけますか?」
「取材ですね?」
「取材です」

 蒼の言葉にマスターはニッコリと愛想良く笑った。
 それを見て了承と受け取った蒼は急いでバッグからメモ帳を取り出すと、マスターの方へと向き直る。

「何年か前のことなので、参考になるかは分かりませんが」
「大丈夫です、なんでも良いです。その人は振礼島について他に何か言っていましたか?」
「ええと……振礼島は普通の日本の町並みとはちょっと違っていたそうですよ。日本人に見える人もいたし日本語も聞こえてきたそうですが、顔立ちが結構日本人っぽくない人も多かったらしいです。日本語の看板に紛れて当然のようにロシア語もあったと言っていましたね」

 なるほど、と相槌を打ちながら蒼はメモを取った。予想以上に振礼島はロシアの文化が混ざっていたのかもしれない。

「その人はどうして振礼島へ?」
「さあ……人に会いに行ったとは言っていましたが、本当かは怪しいですね」
「どうしてそう思うんですか?」
「その話をしたとき、なんというか凄く思いつめたような、怯えすら感じているような雰囲気だったんです。今だからそう思うのかもしれませんが――」

 マスターはそこで一度言葉を切った。そして先程までの朗らかな表情とは打って変わり、真剣な面持ちで声を落とす。

「――その人、翌日ホテルで遺体で発見されたそうですよ」
「え……それは確かなんですか?」
「ええ、この店にも彼の足取りを追った警察の方が来ましたから」

 あわよくばその人物に取材を申し入れようと思っていた蒼は、予想していなかった展開に言葉を失った。マスターがニュースで見ただけならば見間違いということも考えられたが、警察が来たというのであれば彼の話は確かなのだろう。
 そんなことを考えている蒼の様子を次の言葉を待っていると受け取ったのか、マスターはそのまま話し続けた。

「でも彼が振礼島帰りだと言ったら、『ああ……』って……納得した感じというよりは、『またか』のような、諦めにも似た感じでした」
「それはどういう……?」

 話の中の警察の反応が理解できない。蒼は思わず怪訝な表情を浮かべ、マスターを見上げた。

「後でこっそり知り合いの警察関係者に聞いてみたんです。そうしたら、振礼島関連の事件はいつの間にか道警の手を離れてしまうそうですよ。それ以上は教えてくれた人も知らないようでしたが」

 それは振礼島に関する情報を漏らさまいとする動きが、災害発生以前からあったことを意味していた。

 ――一体、どうして……?

 外界から隔絶された環境に、閉ざされた情報。
 知れば知るほど異様な雰囲気を醸し出す振礼島の実態に、蒼は自分の中の何かが騒ぎ出すのを感じていた。
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