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旧校舎の近くに業者のものと思われる軽ワゴン車が止まっているのを見て、大倉はふうと溜息を吐いた。
ここは壊してはいけないと石山に言ってあるにも拘わらず、現役を退いた彼の影響力が年々弱まっているせいでこうして時折解体業者が来てしまうのだ。しかもその石山も少し前に亡くなってしまったため、これからはその頻度は高くなるだろう。
「――あの、すみません」
大倉は顔に笑顔を貼り付け、車から出てきた男に話しかけた。
「もしかしてこの校舎、とうとう壊すんですか?」
「ええ、そうです。今日は下見だけなんですけどね。――もしかして近隣の方でしょうか? 時期はまだ決まっていないのですが、その時は騒音などご迷惑をおかけしてしまうかもしれず……」
「いえいえ、いいんですよ。ここはよく若い子たちが肝試しに入っているみたいなのですけど、いい加減危ないなぁといつも思っていたので」
業者の男は突然話しかけてきた大倉に少し驚いたような顔をしたものの、よくあることなのかすぐに愛想の良い笑顔を浮かべた。実際の解体作業に入った時のことを考えると、近隣の人間とはなるべく揉め事は起こしたくないのだろう。
「そういえばご存知です? ここ、地元では結構有名な怪談の舞台なんですよ」
「怪談ですか?」
「ええ。ここでかくれんぼをすると、少女の霊がいつの間にか参加しているっていう話なんですが」
世間話を始めた大倉に、男は少し迷惑そうな表情を浮かべた。さっさと仕事を始めたいのに、厄介な人間に捕まってしまったとでも思っているのかもしれない。だが今後のことを考えると無下にあしらうこともできないようで、最初よりもぎこちなくなった愛想笑いで「かくれんぼですか」と言葉を返した。
「なら僕は大丈夫ですね。ここには仕事に来ているので」
「いえ、そうとは限らないですよ。下見ということは、奥まった場所に入るかもしれませんよね? それがその霊にかくれんぼをしていると見なされてしまうんです。そうしたら『もういいかい?』と聞かれるので、ちゃんと対応してあげないと大変なことに……」
「大変なこと、ですか?」
男が興味を持ったのを見て、大倉は笑みを深めた。怪談や都市伝説を信じていない人間でも、自分の身の安全に関わることだと少しでも思えば自然と話を聞きたくなるものだ。
「ええ……『もういいかい?』と聞かれたら、『もういいよ』と答えてあげてください。そうしないと少女は怒って、あなたをここに閉じ込めてしまうんですよ」
「へえ……」
男は半信半疑そうに見えたが、大倉はこれで十分だと思った。それほど怖がっていないからこそ、興味本位で答えることもあるだろう。答えた方が良いという情報もその行為を後押しするはずだ。
それにこの男が自分の言ったとおりにしてくれれば楽なのは勿論だが、そうでなくてもまだチャンスはある。だからこそこれまでこの旧校舎は壊されずに残っているのだ。
「まあ、あくまで怪談ですから。実際に聞かれることはないと思うんですけどね」
大倉はそう言って微笑みかけると、「そうですよね」と愛想笑いを返す男に別れを告げて歩き出した。
§ § §
(――あそこを壊そうとする方が悪い)
公園をのんびりと歩きながら、大倉は眉間に力を入れた。
あの場所にはまだ初音がいる。生前の娘にはきつく当たってしまった分、自分の生きている限りはあの子のための行動をしてやりたい――大倉は当時の自分の状況を思い返した。
初音は変わった子だった。常に何かを見透かしたような目をしていて、それでいて親の言うことには一切異を唱えない。それがどこか馬鹿にされているような印象を与えるからか、夫は娘を嫌って自分の元を去ってしまった。
娘のせいで夫を失った。さらに慰謝料も養育費もなく、仕事を掛け持ちしても娘と二人、なんとか生きていける程度の金しか稼げない。そんな苛立ちをすべて娘にぶつけてしまっていた自覚は当時からあった。それでも初音が文句を言わないから、許されていると思っていた。
だが娘の死後、あの旧校舎を訪れて分かった。初音は自分をまだ許していない。許しているのであれば、あんなところに留まりはしない――だからこそ自分は、あの子を満たしてあげなければならないのだ。
それなのに周りはあの旧校舎を壊そうとばかりする。『あそこにはお前の孫がいるぞ』とどうにか石山に信じ込ませてこちら側に取り込んだが、今後はもう少しやり方を考えないと取り壊されるのも時間の問題となるだろう。
(次はどうしようか……)
大倉が考えるように顔を上げると、前方から見覚えのある少年が歩いてくるのが見えた。少年もまた大倉に気付いたようで、「こんにちは」と言いながら近付いてくる。
「こんにちは。買い物帰り?」
「ええ、そうです。アイスが急に食べたくなって」
そう言って少年ははにかみながら、手に持ったコンビニのビニール袋を掲げた。
「まだまだ暑いものね。暦上は秋のはずなのに……」
「温暖化ってやつですかね。今年は台風も多いですし」
「嫌ねぇ……。――そうだ、最近変わりはない?」
大倉が尋ねると、少年は「変わりですか……」と考えるように視線を落とした。
「特にはないですね……友達の友達が家出したってくらいですけど、まあよくあることらしいですし。そういえばあの旧校舎、また行ったほうがいいですか? 初音ちゃんもそろそろ寂しいんじゃ……」
「もう行かなくていいわ。不思議なことは何度も体験するものじゃないでしょ?」
にっこりと笑って言えば、少年も「そうですね」と笑みを零す。
やはりこの子に頼んで正解だった――大倉は少し前の自分の判断を思い出した。三年ぶりに再会したこの少年は、昔から優しく、ルールを守る良い子だった。自分の言いつけどおり余計なこともしていないから、あの場所で一切怖い思いはしなかったのだろう。
(あの場所で怖い思いをするのは、悪い子だけでいい)
歪みそうになる顔を誤魔化すように大倉が「アイス溶けちゃうわね」と笑うと、少年は思い出したように手に持ったビニール袋に視線を移した。この少年の性格ならば自分からは言わないだろうが、恐らく早く帰らなければならないと思っているはずだ。
大倉は「長く引き止めちゃ駄目ね」と言いながら、少年の顔を見つめた。
「じゃあ、またね。正人君」
大倉が笑顔で言えば、少年もまた「はい、失礼します」と笑みを返す。
「また今度面白い怪談があれば教えて下さい、玲子先生」
【 ルール・完 】
ここは壊してはいけないと石山に言ってあるにも拘わらず、現役を退いた彼の影響力が年々弱まっているせいでこうして時折解体業者が来てしまうのだ。しかもその石山も少し前に亡くなってしまったため、これからはその頻度は高くなるだろう。
「――あの、すみません」
大倉は顔に笑顔を貼り付け、車から出てきた男に話しかけた。
「もしかしてこの校舎、とうとう壊すんですか?」
「ええ、そうです。今日は下見だけなんですけどね。――もしかして近隣の方でしょうか? 時期はまだ決まっていないのですが、その時は騒音などご迷惑をおかけしてしまうかもしれず……」
「いえいえ、いいんですよ。ここはよく若い子たちが肝試しに入っているみたいなのですけど、いい加減危ないなぁといつも思っていたので」
業者の男は突然話しかけてきた大倉に少し驚いたような顔をしたものの、よくあることなのかすぐに愛想の良い笑顔を浮かべた。実際の解体作業に入った時のことを考えると、近隣の人間とはなるべく揉め事は起こしたくないのだろう。
「そういえばご存知です? ここ、地元では結構有名な怪談の舞台なんですよ」
「怪談ですか?」
「ええ。ここでかくれんぼをすると、少女の霊がいつの間にか参加しているっていう話なんですが」
世間話を始めた大倉に、男は少し迷惑そうな表情を浮かべた。さっさと仕事を始めたいのに、厄介な人間に捕まってしまったとでも思っているのかもしれない。だが今後のことを考えると無下にあしらうこともできないようで、最初よりもぎこちなくなった愛想笑いで「かくれんぼですか」と言葉を返した。
「なら僕は大丈夫ですね。ここには仕事に来ているので」
「いえ、そうとは限らないですよ。下見ということは、奥まった場所に入るかもしれませんよね? それがその霊にかくれんぼをしていると見なされてしまうんです。そうしたら『もういいかい?』と聞かれるので、ちゃんと対応してあげないと大変なことに……」
「大変なこと、ですか?」
男が興味を持ったのを見て、大倉は笑みを深めた。怪談や都市伝説を信じていない人間でも、自分の身の安全に関わることだと少しでも思えば自然と話を聞きたくなるものだ。
「ええ……『もういいかい?』と聞かれたら、『もういいよ』と答えてあげてください。そうしないと少女は怒って、あなたをここに閉じ込めてしまうんですよ」
「へえ……」
男は半信半疑そうに見えたが、大倉はこれで十分だと思った。それほど怖がっていないからこそ、興味本位で答えることもあるだろう。答えた方が良いという情報もその行為を後押しするはずだ。
それにこの男が自分の言ったとおりにしてくれれば楽なのは勿論だが、そうでなくてもまだチャンスはある。だからこそこれまでこの旧校舎は壊されずに残っているのだ。
「まあ、あくまで怪談ですから。実際に聞かれることはないと思うんですけどね」
大倉はそう言って微笑みかけると、「そうですよね」と愛想笑いを返す男に別れを告げて歩き出した。
§ § §
(――あそこを壊そうとする方が悪い)
公園をのんびりと歩きながら、大倉は眉間に力を入れた。
あの場所にはまだ初音がいる。生前の娘にはきつく当たってしまった分、自分の生きている限りはあの子のための行動をしてやりたい――大倉は当時の自分の状況を思い返した。
初音は変わった子だった。常に何かを見透かしたような目をしていて、それでいて親の言うことには一切異を唱えない。それがどこか馬鹿にされているような印象を与えるからか、夫は娘を嫌って自分の元を去ってしまった。
娘のせいで夫を失った。さらに慰謝料も養育費もなく、仕事を掛け持ちしても娘と二人、なんとか生きていける程度の金しか稼げない。そんな苛立ちをすべて娘にぶつけてしまっていた自覚は当時からあった。それでも初音が文句を言わないから、許されていると思っていた。
だが娘の死後、あの旧校舎を訪れて分かった。初音は自分をまだ許していない。許しているのであれば、あんなところに留まりはしない――だからこそ自分は、あの子を満たしてあげなければならないのだ。
それなのに周りはあの旧校舎を壊そうとばかりする。『あそこにはお前の孫がいるぞ』とどうにか石山に信じ込ませてこちら側に取り込んだが、今後はもう少しやり方を考えないと取り壊されるのも時間の問題となるだろう。
(次はどうしようか……)
大倉が考えるように顔を上げると、前方から見覚えのある少年が歩いてくるのが見えた。少年もまた大倉に気付いたようで、「こんにちは」と言いながら近付いてくる。
「こんにちは。買い物帰り?」
「ええ、そうです。アイスが急に食べたくなって」
そう言って少年ははにかみながら、手に持ったコンビニのビニール袋を掲げた。
「まだまだ暑いものね。暦上は秋のはずなのに……」
「温暖化ってやつですかね。今年は台風も多いですし」
「嫌ねぇ……。――そうだ、最近変わりはない?」
大倉が尋ねると、少年は「変わりですか……」と考えるように視線を落とした。
「特にはないですね……友達の友達が家出したってくらいですけど、まあよくあることらしいですし。そういえばあの旧校舎、また行ったほうがいいですか? 初音ちゃんもそろそろ寂しいんじゃ……」
「もう行かなくていいわ。不思議なことは何度も体験するものじゃないでしょ?」
にっこりと笑って言えば、少年も「そうですね」と笑みを零す。
やはりこの子に頼んで正解だった――大倉は少し前の自分の判断を思い出した。三年ぶりに再会したこの少年は、昔から優しく、ルールを守る良い子だった。自分の言いつけどおり余計なこともしていないから、あの場所で一切怖い思いはしなかったのだろう。
(あの場所で怖い思いをするのは、悪い子だけでいい)
歪みそうになる顔を誤魔化すように大倉が「アイス溶けちゃうわね」と笑うと、少年は思い出したように手に持ったビニール袋に視線を移した。この少年の性格ならば自分からは言わないだろうが、恐らく早く帰らなければならないと思っているはずだ。
大倉は「長く引き止めちゃ駄目ね」と言いながら、少年の顔を見つめた。
「じゃあ、またね。正人君」
大倉が笑顔で言えば、少年もまた「はい、失礼します」と笑みを返す。
「また今度面白い怪談があれば教えて下さい、玲子先生」
【 ルール・完 】
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