25 / 28
孤立
〈二〉もう一人の鬼
しおりを挟む
『――蓮兄!』
(佳織……!!)
鬼から隠れている中、その声で佳織が鬼の方へ駆け出してしまったのだと亜美は悟った。彼女が何故そうしたのかも、直前に聞こえてきた『もういいかい?』という声を思えば考えるまでもない。
(佳織の従兄弟が鬼なの……?)
亜美は佳織の従兄弟の存在を今日初めて聞いた。だから今の男の声が佳織の求めるものなのか判断できなかったが、他でもない佳織自身が飛び出したのだからきっと間違いないのだろう――そう思おうとした時、不快な音が亜美の鼓膜を震わせた。
(何……?)
湿った音だった。聞いたことのない、だがどことなくその光景がイメージできる音。ドラマや映画では何度か聞いた作り物の音が、亜美の記憶の中では一番近かった。
だから亜美の脳裏には一瞬にしてその音が使われるシーンが浮かんだが、まさか、と慌てて振り払う。
何故ならそんな音、現実には有り得ないからだ。そんな――人の身体を斬りつける音は。
(じゃあ……他に何が……――ッ!)
ゴトンッと大きな音がしたかと思うと、亜美の身体が小さく揺れた。動いたわけでもないのに何故――頭の中に浮かんだ想像から目を逸らすように、佳織の出て行ったであろう教室の出入り口を覗き込む。だが亜美のいる位置からは扉自体は辛うじて見えても、その先を見ることができない。
自分よりも扉の近くにいるたまに教えてもらおうとしたが、彼女は教卓の裏に隠れてしまっている。向こうから出てきてくれなければ、亜美からはその姿を捉えることはできなかった。
(何が起こってるの……?)
ぐちゃり、ぐちゃり、断続的に響く音。それに混ざって、時折ぼとっと何かが落ちるような音も聞こえてくる。この落ちる音が、亜美に先程の考えを振り払わせるのを妨げていた。
音だけだったらまだよかった。だが音と同時に床を伝ってくる振動が、確かに何かが落ちたのだと亜美に伝えてくる。最初に身体を揺らした大きな音も、きっと何かが落ちた時のものだったのだろう。そしてそれは今、床を揺らしている何かよりもずっと重さのあるものだ。
その大きな音が一度しか聞こえなかったというのも、不気味さを駆り立てるようだった。何度も何度も大きな音が響けばその音だけに恐怖することができるのに、じわじわと頭の中に染み込んでくるような大きさの音しか聞こえないせいで、あらゆるものに意識がいってしまう。
だから分かるのだ。床を伝ってくる振動は、自分の全身を揺らすほどではないと。揺れているように感じるのは震えているせいだと。
そしてそれは音だけでなく、空気と共に肺に吸い込まれる鉄臭さのせいでもある――亜美が無意識のうちに自分の身体を抱き締めた時、「嫌ぁああああぁああああ!」とつんざくような悲鳴が辺りに響き渡った。
(ッ――たま……?)
はっとしてたまの方へと視線を移すと、教卓の裏から飛び出していく彼女の姿が見えた。
もしかしたらたまは何かを見たのかもしれない――ふと、亜美はそう思った。自分の位置からは廊下の様子は見えないが、たまの隠れていた場所からならきっと見えたはずだ。
(何を見たの……?)
亜美が考えようとする間にも、たまは悲鳴のような声を上げながら元いた場所から教室の後方へと走っていく。そのまま目で追おうとすれば自分の隠れている机の死角に入ってしまい、亜美は慌てて反対側から教室の後方を覗き込んだ。
(どこに行くの……!?)
亜美が再びたまの姿を視界に捉えた時、彼女はちょうど教室の後ろの扉から廊下へと飛び出そうとしているところだった。
「もういいかい?」
「ッ嫌ぁ!!」
(たまっ――……え?)
廊下に飛び出したたまが、下に沈む。そして同時に響いたのは、ゴトンッという大きな音。佳織が出て行った時に聞いたものと同じその音の正体が、今、亜美の目に映っていた。
(人が……倒れる音……?)
目の前で倒れたたまも、そして先程の佳織も。自らの意思で腰を下ろしたのではなく、糸が切れたかのように床に倒れ込んだのだ――音の原因は分かったのに、理解することができない。
自分たちは今かくれんぼをしているのだ。「もういいかい?」と聞かれて見つけられることはあっても、あんなふうに倒れるだなんてことは普通に考えて有り得ない。
亜美が混乱していると、また同じ音が響き始めた。ぐちゃぐちゃと湿った音、ぼとりと何かが落ちる音――人からは、しないはずの音。
「ッ……!?」
今度ははっきりと見てしまったその光景に、亜美の喉を一気に熱が灼いた。咄嗟に口に手を当てどうにか堪えたが、喉の熱は一向に治まらない。
ぼとりという音と共に、腕が床に落ちてきたのだ。それも、有り得ない軌道を描いて。
(腕は……あんなふうに動かな――!?)
無意識のうちに自分が見たものを確認しようとしたのか、亜美の視線は再び廊下の方へと向いていた。
そして、目が合った――大きく目を見開いたたまの顔と。
(ッ何あれ何あれ何あれ……!!)
咄嗟に顔を背けたが、今見たものが頭に焼き付いて離れない。
あれは確かにたまだった。だがそれはおかしい。たまと目が合うはずがないのだ。
廊下の先へと走り去ろうとしたたまは教室を出てすぐに倒れた。だから亜美の位置からはたまの腰あたりまでの下半身しか見えていない。それなのにたまの顔が見えるはずがない。
思えば腕もおかしかった。軌道の違和感にばかり気を取られていたが、人の腕は腰の下まで届くほど長くはない。上体を曲げていれば別だが、自分に見えている限りではたまはずっとうつ伏せに倒れたままなのだ。
たまの腕も、頭も、本来の場所にないのでは――その瞬間、亜美の脳裏には残りの音の正体が浮かんだ。
ぐちゃぐちゃという音は、身体を切り刻む音だ。
(たまが……鬼に殺されたってこと……?)
あんな状態では人は到底生きてはいられないだろう。先程見たたまの空虚な目も、もう光を映してはいなかった。
(どうして……かくれんぼなら、ただ見つかるだけじゃ……)
見たものを信じたくなかった。それなのにあの音も、臭いも、全てが事実だと亜美の頭に叩きつける。
(じゃあ……佳織も……?)
そう考えた時、再び亜美の腹の奥から勢い良く熱いものが上がってきた。反射的にそれを堪えたが、「ぐっ……」と嗚咽のような声が漏れる。しゃくりあげる喉が背中に接した机を静かに軋ませる。
亜美がどうにかそれを落ち着かせようと深呼吸を繰り返していると、視界の端で顔を青ざめさせた菜月と紗季が手を振っているのが見えた。
二人は口に手を当てながら首を振り、何かを伝えようとしている。
(音を立てるなってこと……?)
確信はなかったが、亜美はそれまでよりも自分の立てる音に気を配りながら呼吸を整えた。そうして彼女たちに視線を戻せば、それが正しいと言わんばかりに何度も首肯を返される。
すると紗季が、何かに気付いたように廊下へと目を向けた。彼女の位置では廊下の様子は見えないだろうが、耳をそばだてているのが亜美にも分かる。
(何を聞こうとして……ッ)
紗季が何を気にしているかはすぐに分かった。菜月も気付いたようで、一気に表情を固めている。
(鬼が……近くにいる……)
ギシ、ギシ、と廊下から静かな足音が響く。床から僅かに振動が伝わる。
これが佳織かたまであれば――亜美は恐怖の中で知らず識らずのうちにそう願っていた。自分が見たものは何かの間違いで、本当は二人共死んでなどいないのではないか。
もしくは二人の悪戯でもいい。自分を怖がらせようとして、こんな手の込んだ芝居をしているに違いない――しかしそんな現実逃避は、頭の中ではっきりとした絵になる前に崩れていく。
この経験したことのない恐怖は、噎せ返しそうになるほどの血の臭いは、紛れもなく実際に起こっていることなのだ。
(この鬼に見つかったら……私も……)
来るな、来るな、と心の中で何度も言いながら亜美は息を止めた。身体が震えるせいで呼吸の音が大きいのだ。どうにか音を立てないように空気を吸い込もうとしても、ヒュッ、ヒュッという音が漏れてしまう。実際には大した音ではないのかもしれないが、亜美の耳にはやけに大きく聞こえた。
だが、長く息を止めることはできない。鼓動が激しいためかいつもよりも苦しくなるのが早い気もする。
そうして亜美が口に手を当てて呼吸を我慢していると、ギシ、という足音が少し離れた気がした。
酸欠で耳がおかしくなったのだろうか――今すぐ大きく息を吸い込みたいという衝動を必死に抑えながら、廊下の方の音を探る。するとやはり足音はゆっくりと小さくなっていって、やがて聞こえなくなった。
(もう……大丈夫……?)
横目で紗季の方を見れば、彼女の緊張も先程よりも緩んでいるように見えた。それが現実なのか自分の希望なのかと考える前に、亜美の肺がとうとう限界を迎えた。
「はあっ……はっ……はあ……」
できるだけ音を抑え込もうとしたが、それでも呼吸音が空気を揺らした。紗季がはっとしたように自分の方を見てきたことから、彼女にも聞こえるくらいの大きさだったのだろう。紗季は再び緊張した様子で廊下の方へと意識を向けたかと思うと、少しして亜美に視線を戻し、小さく頷いてみせた。
(鬼にバレなかったのか……)
紗季に申し訳なさを感じながらも、呼吸の落ち着いてきた亜美はふうと大きく息を吐き出した。
恐らく見つかったら殺されてしまうのだ。まだそれは受け入れ難かったが、受け入れるしかない。そう考えて動かないと、自分だって――亜美は自分の身体を抱き締めた。
佳織とたまは鬼に殺された。理由は分からないが、それが起こったことだ。
これが本当にかくれんぼなのかと疑問を持ったが、直前に鬼が「もういいかい?」と尋ねていたことから、やはりかくれんぼなのだろう。通常はこのあと「もういいよ」と返すべきだが、二人共答えていないのに殺されてしまった。
(それとも……『もういいよ』って言わなかったから、殺された……?)
かくれんぼのルールを守らずに見つかってしまったから、二人は殺されてしまったのだろうか――そこまで考えて、いや、と亜美は首を振った。
佳織は鬼に「もういいかい?」と問いかけられた後に自ら姿を見せた。だがたまは違う。たまが鬼に問いかけられたのは教室から飛び出した後だ。鬼の姿を見ていないからはっきりしたことは言えないが、たまは問いかけられる前にその姿を鬼に見られていたと考えた方がいい。
(あの問いかけ自体に意味はない……? だとすると、見つかっただけで殺される……でも、紗季はどうして生きてるの?)
紗季もここでかくれんぼをしていたはずだ。しかも最初に彼女が見つかったところから初音とのかくれんぼが始まっている。見つかっただけで殺されるのであれば、紗季が生きているのはおかしい。
(紗季のしていたかくれんぼとは違う……?)
「どういうこと?」――口の動きだけで紗季に尋ねると、紗季は「分からない」と唇を動かしながら首を横に振った。その表情はすっかり疲れ切っていて、紗季にも思い当たるものがないのだと、それ以上聞かなくても分かるようだった。
続けて菜月に視線を移せば、紗季とのやり取りを見ていたらしい彼女もまた首を振って返した。
(誰も分からないなんて……。それにあの声……)
あれは確かに男の声だった。佳織が出て行ったことからここでかくれんぼをしているという彼女の従兄弟のものかと思ったが、もしそうなのであれば佳織が殺されるのはおかしい。
(ならあれは誰……? 〝初音ちゃん〟は関係ないの?)
だが紗季は初音に次のかくれんぼが始まると言われていたはずだ――亜美が考えるように視線を正面に戻すと、視界の端に人影が映った。
(佳織……!!)
鬼から隠れている中、その声で佳織が鬼の方へ駆け出してしまったのだと亜美は悟った。彼女が何故そうしたのかも、直前に聞こえてきた『もういいかい?』という声を思えば考えるまでもない。
(佳織の従兄弟が鬼なの……?)
亜美は佳織の従兄弟の存在を今日初めて聞いた。だから今の男の声が佳織の求めるものなのか判断できなかったが、他でもない佳織自身が飛び出したのだからきっと間違いないのだろう――そう思おうとした時、不快な音が亜美の鼓膜を震わせた。
(何……?)
湿った音だった。聞いたことのない、だがどことなくその光景がイメージできる音。ドラマや映画では何度か聞いた作り物の音が、亜美の記憶の中では一番近かった。
だから亜美の脳裏には一瞬にしてその音が使われるシーンが浮かんだが、まさか、と慌てて振り払う。
何故ならそんな音、現実には有り得ないからだ。そんな――人の身体を斬りつける音は。
(じゃあ……他に何が……――ッ!)
ゴトンッと大きな音がしたかと思うと、亜美の身体が小さく揺れた。動いたわけでもないのに何故――頭の中に浮かんだ想像から目を逸らすように、佳織の出て行ったであろう教室の出入り口を覗き込む。だが亜美のいる位置からは扉自体は辛うじて見えても、その先を見ることができない。
自分よりも扉の近くにいるたまに教えてもらおうとしたが、彼女は教卓の裏に隠れてしまっている。向こうから出てきてくれなければ、亜美からはその姿を捉えることはできなかった。
(何が起こってるの……?)
ぐちゃり、ぐちゃり、断続的に響く音。それに混ざって、時折ぼとっと何かが落ちるような音も聞こえてくる。この落ちる音が、亜美に先程の考えを振り払わせるのを妨げていた。
音だけだったらまだよかった。だが音と同時に床を伝ってくる振動が、確かに何かが落ちたのだと亜美に伝えてくる。最初に身体を揺らした大きな音も、きっと何かが落ちた時のものだったのだろう。そしてそれは今、床を揺らしている何かよりもずっと重さのあるものだ。
その大きな音が一度しか聞こえなかったというのも、不気味さを駆り立てるようだった。何度も何度も大きな音が響けばその音だけに恐怖することができるのに、じわじわと頭の中に染み込んでくるような大きさの音しか聞こえないせいで、あらゆるものに意識がいってしまう。
だから分かるのだ。床を伝ってくる振動は、自分の全身を揺らすほどではないと。揺れているように感じるのは震えているせいだと。
そしてそれは音だけでなく、空気と共に肺に吸い込まれる鉄臭さのせいでもある――亜美が無意識のうちに自分の身体を抱き締めた時、「嫌ぁああああぁああああ!」とつんざくような悲鳴が辺りに響き渡った。
(ッ――たま……?)
はっとしてたまの方へと視線を移すと、教卓の裏から飛び出していく彼女の姿が見えた。
もしかしたらたまは何かを見たのかもしれない――ふと、亜美はそう思った。自分の位置からは廊下の様子は見えないが、たまの隠れていた場所からならきっと見えたはずだ。
(何を見たの……?)
亜美が考えようとする間にも、たまは悲鳴のような声を上げながら元いた場所から教室の後方へと走っていく。そのまま目で追おうとすれば自分の隠れている机の死角に入ってしまい、亜美は慌てて反対側から教室の後方を覗き込んだ。
(どこに行くの……!?)
亜美が再びたまの姿を視界に捉えた時、彼女はちょうど教室の後ろの扉から廊下へと飛び出そうとしているところだった。
「もういいかい?」
「ッ嫌ぁ!!」
(たまっ――……え?)
廊下に飛び出したたまが、下に沈む。そして同時に響いたのは、ゴトンッという大きな音。佳織が出て行った時に聞いたものと同じその音の正体が、今、亜美の目に映っていた。
(人が……倒れる音……?)
目の前で倒れたたまも、そして先程の佳織も。自らの意思で腰を下ろしたのではなく、糸が切れたかのように床に倒れ込んだのだ――音の原因は分かったのに、理解することができない。
自分たちは今かくれんぼをしているのだ。「もういいかい?」と聞かれて見つけられることはあっても、あんなふうに倒れるだなんてことは普通に考えて有り得ない。
亜美が混乱していると、また同じ音が響き始めた。ぐちゃぐちゃと湿った音、ぼとりと何かが落ちる音――人からは、しないはずの音。
「ッ……!?」
今度ははっきりと見てしまったその光景に、亜美の喉を一気に熱が灼いた。咄嗟に口に手を当てどうにか堪えたが、喉の熱は一向に治まらない。
ぼとりという音と共に、腕が床に落ちてきたのだ。それも、有り得ない軌道を描いて。
(腕は……あんなふうに動かな――!?)
無意識のうちに自分が見たものを確認しようとしたのか、亜美の視線は再び廊下の方へと向いていた。
そして、目が合った――大きく目を見開いたたまの顔と。
(ッ何あれ何あれ何あれ……!!)
咄嗟に顔を背けたが、今見たものが頭に焼き付いて離れない。
あれは確かにたまだった。だがそれはおかしい。たまと目が合うはずがないのだ。
廊下の先へと走り去ろうとしたたまは教室を出てすぐに倒れた。だから亜美の位置からはたまの腰あたりまでの下半身しか見えていない。それなのにたまの顔が見えるはずがない。
思えば腕もおかしかった。軌道の違和感にばかり気を取られていたが、人の腕は腰の下まで届くほど長くはない。上体を曲げていれば別だが、自分に見えている限りではたまはずっとうつ伏せに倒れたままなのだ。
たまの腕も、頭も、本来の場所にないのでは――その瞬間、亜美の脳裏には残りの音の正体が浮かんだ。
ぐちゃぐちゃという音は、身体を切り刻む音だ。
(たまが……鬼に殺されたってこと……?)
あんな状態では人は到底生きてはいられないだろう。先程見たたまの空虚な目も、もう光を映してはいなかった。
(どうして……かくれんぼなら、ただ見つかるだけじゃ……)
見たものを信じたくなかった。それなのにあの音も、臭いも、全てが事実だと亜美の頭に叩きつける。
(じゃあ……佳織も……?)
そう考えた時、再び亜美の腹の奥から勢い良く熱いものが上がってきた。反射的にそれを堪えたが、「ぐっ……」と嗚咽のような声が漏れる。しゃくりあげる喉が背中に接した机を静かに軋ませる。
亜美がどうにかそれを落ち着かせようと深呼吸を繰り返していると、視界の端で顔を青ざめさせた菜月と紗季が手を振っているのが見えた。
二人は口に手を当てながら首を振り、何かを伝えようとしている。
(音を立てるなってこと……?)
確信はなかったが、亜美はそれまでよりも自分の立てる音に気を配りながら呼吸を整えた。そうして彼女たちに視線を戻せば、それが正しいと言わんばかりに何度も首肯を返される。
すると紗季が、何かに気付いたように廊下へと目を向けた。彼女の位置では廊下の様子は見えないだろうが、耳をそばだてているのが亜美にも分かる。
(何を聞こうとして……ッ)
紗季が何を気にしているかはすぐに分かった。菜月も気付いたようで、一気に表情を固めている。
(鬼が……近くにいる……)
ギシ、ギシ、と廊下から静かな足音が響く。床から僅かに振動が伝わる。
これが佳織かたまであれば――亜美は恐怖の中で知らず識らずのうちにそう願っていた。自分が見たものは何かの間違いで、本当は二人共死んでなどいないのではないか。
もしくは二人の悪戯でもいい。自分を怖がらせようとして、こんな手の込んだ芝居をしているに違いない――しかしそんな現実逃避は、頭の中ではっきりとした絵になる前に崩れていく。
この経験したことのない恐怖は、噎せ返しそうになるほどの血の臭いは、紛れもなく実際に起こっていることなのだ。
(この鬼に見つかったら……私も……)
来るな、来るな、と心の中で何度も言いながら亜美は息を止めた。身体が震えるせいで呼吸の音が大きいのだ。どうにか音を立てないように空気を吸い込もうとしても、ヒュッ、ヒュッという音が漏れてしまう。実際には大した音ではないのかもしれないが、亜美の耳にはやけに大きく聞こえた。
だが、長く息を止めることはできない。鼓動が激しいためかいつもよりも苦しくなるのが早い気もする。
そうして亜美が口に手を当てて呼吸を我慢していると、ギシ、という足音が少し離れた気がした。
酸欠で耳がおかしくなったのだろうか――今すぐ大きく息を吸い込みたいという衝動を必死に抑えながら、廊下の方の音を探る。するとやはり足音はゆっくりと小さくなっていって、やがて聞こえなくなった。
(もう……大丈夫……?)
横目で紗季の方を見れば、彼女の緊張も先程よりも緩んでいるように見えた。それが現実なのか自分の希望なのかと考える前に、亜美の肺がとうとう限界を迎えた。
「はあっ……はっ……はあ……」
できるだけ音を抑え込もうとしたが、それでも呼吸音が空気を揺らした。紗季がはっとしたように自分の方を見てきたことから、彼女にも聞こえるくらいの大きさだったのだろう。紗季は再び緊張した様子で廊下の方へと意識を向けたかと思うと、少しして亜美に視線を戻し、小さく頷いてみせた。
(鬼にバレなかったのか……)
紗季に申し訳なさを感じながらも、呼吸の落ち着いてきた亜美はふうと大きく息を吐き出した。
恐らく見つかったら殺されてしまうのだ。まだそれは受け入れ難かったが、受け入れるしかない。そう考えて動かないと、自分だって――亜美は自分の身体を抱き締めた。
佳織とたまは鬼に殺された。理由は分からないが、それが起こったことだ。
これが本当にかくれんぼなのかと疑問を持ったが、直前に鬼が「もういいかい?」と尋ねていたことから、やはりかくれんぼなのだろう。通常はこのあと「もういいよ」と返すべきだが、二人共答えていないのに殺されてしまった。
(それとも……『もういいよ』って言わなかったから、殺された……?)
かくれんぼのルールを守らずに見つかってしまったから、二人は殺されてしまったのだろうか――そこまで考えて、いや、と亜美は首を振った。
佳織は鬼に「もういいかい?」と問いかけられた後に自ら姿を見せた。だがたまは違う。たまが鬼に問いかけられたのは教室から飛び出した後だ。鬼の姿を見ていないからはっきりしたことは言えないが、たまは問いかけられる前にその姿を鬼に見られていたと考えた方がいい。
(あの問いかけ自体に意味はない……? だとすると、見つかっただけで殺される……でも、紗季はどうして生きてるの?)
紗季もここでかくれんぼをしていたはずだ。しかも最初に彼女が見つかったところから初音とのかくれんぼが始まっている。見つかっただけで殺されるのであれば、紗季が生きているのはおかしい。
(紗季のしていたかくれんぼとは違う……?)
「どういうこと?」――口の動きだけで紗季に尋ねると、紗季は「分からない」と唇を動かしながら首を横に振った。その表情はすっかり疲れ切っていて、紗季にも思い当たるものがないのだと、それ以上聞かなくても分かるようだった。
続けて菜月に視線を移せば、紗季とのやり取りを見ていたらしい彼女もまた首を振って返した。
(誰も分からないなんて……。それにあの声……)
あれは確かに男の声だった。佳織が出て行ったことからここでかくれんぼをしているという彼女の従兄弟のものかと思ったが、もしそうなのであれば佳織が殺されるのはおかしい。
(ならあれは誰……? 〝初音ちゃん〟は関係ないの?)
だが紗季は初音に次のかくれんぼが始まると言われていたはずだ――亜美が考えるように視線を正面に戻すと、視界の端に人影が映った。
0
お気に入りに追加
3
あなたにおすすめの小説
最終死発電車
真霜ナオ
ホラー
バイト帰りの大学生・清瀬蒼真は、いつものように終電へと乗り込む。
直後、車体に大きな衝撃が走り、車内の様子は一変していた。
外に出ようとした乗客の一人は身体が溶け出し、おぞましい化け物まで現れる。
生き残るためには、先頭車両を目指すしかないと知る。
「第6回ホラー・ミステリー小説大賞」奨励賞をいただきました!
追っかけ
山吹
ホラー
小説を書いてみよう!という流れになって友達にどんなジャンルにしたらいいか聞いたらホラーがいいと言われたので生まれた作品です。ご愛読ありがとうございました。先生の次回作にご期待ください。
Dark Night Princess
べるんご
ホラー
古より、闇の隣人は常に在る
かつての神話、現代の都市伝説、彼らは時に人々へ牙をむき、時には人々によって滅ぶ
突如現れた怪異、鬼によって瀕死の重傷を負わされた少女は、ふらりと現れた美しい吸血鬼によって救われた末に、治癒不能な傷の苦しみから解放され、同じ吸血鬼として蘇生する
ヒトであったころの繋がりを全て失い、怪異の世界で生きることとなった少女は、その未知の世界に何を見るのか
現代を舞台に繰り広げられる、吸血鬼や人狼を始めとする、古今東西様々な怪異と人間の恐ろしく、血生臭くも美しい物語
ホラー大賞エントリー作品です
Mパーキングの幽霊
色白ゆうじろう
ホラー
怪異調査ものです。
グロなし
とある高速道路上で頻発する死亡事故
「Mパーキングエリア」というパーキングエリアにおいて、どこからか現れる「頭の小さな男」と会話をした後、必ず事故死をするという噂が広まる。
その「頭の小さな男」をドライバーたちは『Mパーキングの幽霊』と呼んだ。
あまりの死亡事故の連続性に、怪異調査エージェントと助っ人のオカルト作家が調査に乗り出すが…
AstiMaitrise
椎奈ゆい
ホラー
少女が立ち向かうのは呪いか、大衆か、支配者か______
”学校の西門を通った者は祟りに遭う”
20年前の事件をきっかけに始まった祟りの噂。壇ノ浦学園では西門を通るのを固く禁じる”掟”の元、生徒会が厳しく取り締まっていた。
そんな中、転校生の平等院霊否は偶然にも掟を破ってしまう。
祟りの真相と学園の謎を解き明かすべく、霊否たちの戦いが始まる———!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる