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旧校舎の怪談

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 桜の木が立ち並ぶ川沿いの道を、都築つづき正人まさとはのんびりと歩いていた。
 花の季節は少し前に終わり、今は葉桜が正人の頭上に覆いかぶさるようにして茂っている。しかしまだ暑さを感じるほどではなく、特に今のような夕方は制服のブレザーを着た状態で丁度良い。正人は高校から帰宅した後すぐに着替えることが多かったが、今日はダイニングテーブルの上に拙い字で「りっちゃんとゆうなちゃんちにいます。ゆきより」と書き置きがあったため、通学鞄だけ置いて再び家を出たのだ。

(いつも〝りっちゃん〟か〝ゆうなちゃん〟の家で遊ばせるのも悪いよなぁ。向こうのお母さんたちは気にしなくていいって言ってくれてるけど……)

 正人の母は三年前に幼い妹を残して他界している。幸い経済的には余裕のある家だったようで、週に二、三回ハウスキーパーを雇って家のことはやってもらっているが、今年小学生になったばかりの妹の世話は正人が率先してやるようにしていた。
 とはいえ、高校生の正人と小学一年生の有希ゆきでは学校の授業の終わる時間が違うのだ。有希の友人の母親たちは都築家の事情を理解してくれているが、いつもそれに甘えてしまうのはなんだか申し訳なかった。

(習い事とかさせれば気が紛れる? でもまだ本人がやりたいって言ったことないしなぁ)

 どうしたものかと考えながら正人が歩いていると、前方から見覚えのある女性がこちらに歩いてくるのが見えた。

(あの人誰だっけ……――ああ、そうだ)

 すぐに思い出せなかったのは、最後に会ったのが三年も前だからだろう。相手はまだ自分に気付いていないようだったが、正人は近くまで来ると女性と目を合わせるようにして視線を向けた。

「お久しぶりです、玲子れいこ先生」

 そう正人に声をかけられた女性は、きょとんとした表情を浮かべながらその場に立ち止まった。「えぇっと……」と考え込む相手を見て、正人は無理もないか、と苦笑いを浮かべる。

「都築正人です。三年前まで書道教室で先生のお世話になっていました」
「都築……ああ、正人君! ごめんなさいね、私ったら。最近すっかり年で」

 恥ずかしがるように白髪の交じる長い髪を耳にかけ直しながら、玲子は「ちょっと見ない間に随分立派になって」と正人に笑顔を向けた。

「心配してたのよ。妹さんとの時間を大切にしたいって言ってたけど、正人君だってお母様が亡くなられたばかりだったのにって」
「その節は急に辞めることになってすみません。でもお陰で妹とも仲良くやれています」

 玲子の言うとおり、母親の死後、正人は妹との時間を作るために自分のしていた習い事をすべて辞めていた。小学生の頃から続けていた習い事を突然辞めることには抵抗があったが、今ではそれでよかったのだと思えている。

「なら妹さんにとっては正人君がお母さんみたいなものね。ああ、そうだ……余計なお世話かもしれないんだけど、ちゃんとあのこと教えてあげてる?」
「あのこと?」
「ほら、『旧校舎に一人で隠れちゃいけません』っていうあれよ。妹さんもあの小学校なんでしょう?」
「……ああ! そうだ、忘れてた……うち、父さんはここらへんの人じゃないから……。思い出させてくれてありがとうございます、玲子先生」

 正人が慌てて言うと、玲子は「いいのよ」と優しく微笑んだ。
 このあたりの子供たちは、大人に「一人で旧校舎に隠れてはいけない」と教えられる。正人も地元出身の母親に教えられたが、妹にそれを伝えるのをすっかり忘れていたのだ。

「でも、これって何なんでしょうね? どこの家でも教えられるみたいですけど、誰も理由は分からないって」

 子供たちは皆「一人で旧校舎に隠れてはいけない」ではなく「一人で旧校舎に入ってはいけない」と解釈していたが、どういうわけか人に伝える時は必ず〝隠れてはいけない〟とするのは暗黙の了解となっていた。
 旧校舎の中に入ったことのない正人は今まで忘れていたが、改めて考えてみてもよく分からない。だからどうせ大人ですら知らないだろうと思いながら発した疑問だったが、玲子は神妙な面持ちで「そうね……」と正人に視線を合わせた。

「正人君になら、教えてあげてもいいかも」
「先生、知ってるんですか?」

 思ってもみなかった玲子の返答に、正人の声が上ずった。

「ええ。正人君、ちゃんと約束は守れる?」
「約束、ですか? 内容にもよりますけど、一応守る主義です」
「そんな身構えなくていいのよ。ただ、これを誰かに話す時はちゃんと先生が話したとおりに伝えて欲しいだけだから」

 そんなことか、と正人は肩の力が抜けるのを感じた。子供の頃から気になっていたことというのは思いの外自分に緊張感を与えるらしい。それをやっと知ることができると少し胸を踊らせながら、正人は玲子の言葉の続きを待った。

「あの旧校舎で昔、初音はつねちゃんっていう女の子が亡くなったのは知っているでしょう?」

 例の旧校舎で起こった事件については正人も知っていた。大人たちはあまり話したがらないが、図書館に行けば当時の新聞だって読めてしまう。あの場所で大きな事件があったという情報さえあれば、行動力のある子供たちだけでもある程度の情報を入手することは可能なのだ。

(まぁ、俺はそれを教えてもらう側だったけど……)

 誰かが新しい情報を入手すると、それは子供たちの間で瞬く間に広がる。そういえば自分では調べたことはなかったなと思いながら、正人は小さく頷いてみせた。

「あの子は今も、あそこでかくれんぼをしているのよ」

 続いた玲子の言葉に、正人は眉を顰める。

「それって……霊的な話ですか?」
「そうね、信じられないなら信じなくてもいいわ。ただ……きっと寂しいのね。誰かが旧校舎に入ってくると、一緒にかくれんぼしようとしちゃうみたい。『もういいかい?』って聞いちゃうそうなのよ」

 正人の知る限り、玲子は悪質な冗談を言うタイプではない。突然心霊現象の話をされ戸惑ったが、正人は彼女の話を最後まで聞いてみることにした。

「……答えたらどうなるんですか?」
「その子とかくれんぼするだけよ。鬼になってその子を見つけられれば終わり――彼女も満足してくれる」

 そう言って微笑む玲子に、正人は肩透かしを食らった。てっきりもっと恐ろしい話が続くと予想していたのに、なんとも平和な内容ではないか。

「あんまり怖くないですね」
「ええ、怖くないわ。だってあの子は寂しいだけなんだから」
「じゃあ『一人で隠れるな』っていうのは……?」

 今の話では「一人で旧校舎に隠れてはいけない」という教えの説明になっていない。正人がそう込めて玲子を見ると、困ったような表情を返された。

「あの子は誰かと一緒に隠れるのが好きなの。だから最低でもこちらに二人はいないとかくれんぼが成立しないでしょ?」
「ああ、そういうことか。でも……なんか寂しいですね。今も一人でかくれんぼの相手を待ってるって……」
「そうなの。だからもし正人君さえ良ければ、信用できる人と一緒に旧校舎へ行ってかくれんぼしてあげてくれる? 勿論、一人では絶対に隠れずに」

 思いがけない玲子の発言に正人は目を丸めた。
 あの旧校舎は現在立ち入り禁止なのだ。時折肝試しと称して忍び込む若者はいるようだが、まさかそれを大人からやれと言われるとは思わなかったのだ。

(玲子先生ってそういう人だったっけ……? もしかして冗談……?)

 正人の中で玲子は悪さとは無縁なイメージだったが、冗談なら有り得なくもない。そう思って彼女の顔を窺ったが、そこには真剣な表情があるだけで冗談で言っているようには思えなかった。

(本気……なら、断るのも悪い……のかな?)

 どういう反応をすればいいのか正人には分からなかった。だが玲子が本気で言っているのであれば、自分が冗談として取り合うのは良くないだろう。
 かつて世話になった人間の頼みであれば、少しくらい立入禁止の場所に入るという悪さをしてもいいかもしれない。それに正人の知る玲子という人物は、本当に危険なことなら他人にさせようとはしないはずだ。

「ええっと……昼間でもいいですか?」
「そうね。古くて危ないから、明るい時間の方がいいでしょう」

 自分の問いに答える玲子はやはり至って真面目な様子で、これは信じても良さそうだ、と正人は自分が彼女の頼みを聞くことに前向きになってきたのを感じた。

「じゃあ有希は危ないからやめた方がいいか……もし同級生で行ってもいいって奴がいたら誘って行ってみますね。誰もいなかったら、ちょっと申し訳ないんですけど……」
「ええ、その時は行かなくていいわ。正人君が一人だけになってしまうから」

 その答えに正人は胸を撫で下ろした。誰かしら捕まるはずだが、そうでなかった場合に約束を果たせなくなってしまうのは後ろめたさがあったのだ。

「それで、行くだけでいいんですか? その……かくれんぼを始める方法って」

 旧校舎に入れば『もういいかい?』と声をかけられると言っていたはずだ――玲子の言葉を思い出しながら正人が尋ねると、玲子は「実はちょっと違うの」と口を開いた。

「まずはお友達と一緒にどこかに隠れるのよ。そうすると向こうから『もういいかい?』って聞いてくるから、『もういいよ』って答えてあげて。そうしてかくれんぼを始めて、正人君たちの誰かが鬼になってあの子を見つけたらそこでおしまい。もう帰って大丈夫よ」
「普通に帰っていいんですか? 手を合わせたりとか……」
「いらないわ。ただ――」

 玲子の声が少し低くなる。

「――今言った以外のことはしちゃ駄目よ」
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