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呼応
〈三〉二人の世界
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暗闇の中、生ぬるい風が頬を撫でる。暑さから逃れようと肌にまとわりつくシャツを摘んで扇げば、自分でも分かるくらいの汗臭さが鼻をついた。
「遅くなったな……」
だがその悪臭はいつものことだ、と亮太はそんなことお構いなしに時間ばかりを気にしていた。
今日は日勤だったが、時間が延びて帰る頃には二十一時を回ってしまった。今回の現場も長く働いたところで残業代など出ないのに、なかなか解放されないのだからたまったものじゃない。
以前まではそれを気にすることはなかった。いくら長引こうが仕事があるだけマシなのだ。だが今の亮太には、早い時間に仕事が終わる場合はその後に用事がある。
「流石にいるわけないか……」
通り道にある公園を見渡して、大きく溜息を吐いた。
日中は元気に遊ぶ子供たちで賑わう公園だが、今は夜の闇に溶け込むようにひっそりと佇んでいる。
あの日から亮太は、はつねの行動を見守るようになっていた。見守るだけで特に何をするでもないが、なんとなく、あの少女がまだ理不尽な世界にいるか確認したくなるのだ。だから公園で友達相手に見せる彼女の、普通の少女らしさの影に紛れた絶望とか虚無とか、そういう自分と同じような雰囲気を感じ取っては満足する――それが亮太の最近の楽しみだった。
だが今日は、やはりもう帰ってしまったらしい。普通の家の子供は日が暮れる頃が門限のことが多いから当然だ。亮太の見ていた限りでは十八時にははつねの同級生たちは全員撤収してしまうようで、その時間になるといつも彼女は一人で公園に取り残されていた。
『なんではつねちゃんはすぐに帰らないの?』
以前はつねに尋ねたことを思い出す。亮太の知る限り、昼間仕事に出かけたはつねの母親は十九時から遅くとも二十時には一度家に帰ってくる。仕事を掛け持ちしているのかその後すぐに出かけているようだが、それでも母親の帰宅時にはつねが在宅していないのはまずいだろう。
自分が子供の頃は、確か門限を守っていると証明するために親より早く帰宅するよう気を付けていたはずだ――亮太は遠い日の記憶を辿りながら、それとは異なるはつねの行動に疑問を持った。
『お母さんがかぎ持ってるから』
なるほど、そういうことか――亮太の中で合点がいった。はつねは母親に自宅の鍵を持たされていないのだ。だからあまり彼女には似つかわしくない外遊びを毎日していて、夜は行き場を失ったように母親が帰ってくるまでここで時間を潰しているのだろう。
普通であれば子供が遅い時間に一人でうろつくのを心配しない親はいない。だから彼らは門限を設定して子供たちに家の鍵を持たせる。そうでなくても学童保育や信頼できる知人の家に預けるなど、子供の安全を確保するための策を講じるのだ。
それなのに、はつねはそのどれにも当てはまらなかった。あの母親では亮太にとって意外でもなんでもなかったが、彼女の置かれた状況に酷く安堵したのを覚えている。はつねは非力な子供なのに母親に守られていない――そう実感することができたからだ。
とはいえ、今はもう二十一時を回っている。いくらはつねでももうとっくに帰っていなければならない時間だ。でなければ母親と入れ違いになり、次に彼女が帰ってくるまで家に入ることができなくなってしまう。
亮太は予定外に楽しみを見られなくなったことに落ち込みながら、しかしまだ家があると自分を奮い立たせた。今日はあの母親の八つ当たりに遭っただろうか。折角なら一人寂しくベランダにいてくれると、一日の疲れが吹き飛ぶ気がする。
そう思いながら歩き始めようとした時、「りょうた君」、植え込みの陰から小さな声が聞こえてきた。
「は、はつねちゃん!?」
予想だにしていなかったせいで大袈裟に驚く亮太の一方で、暗闇から現れたはつねはいつもの無表情でコクリと頷いた。
「こんな時間にどうしたの?」
「りょうた君を待ってた」
「俺を?」
思いがけない言葉に固まっていると、はつねは亮太の手を引いて公園の奥へと向かって歩き出した。
「手伝ってほしいの」
「何を?」
「かくれんぼ」
(どういうことだ? かくれんぼしたいけど、一人だとできないから俺を待っていた……?)
亮太はあの日以来はつねと少しずつ話をするようになってはいたが、この少女はどうにも言葉が少ないと感じていた。単純な内容なら問題なく理解できるが、今回のように背景が分からないことに関しては想像するのも難しいのだ。
(でも……理解したい)
自分にとっては唯一と言っていい仲間なのだ、何か伝えたいことがあるならば理解したい。それに誰かが理解できることなのであれば、他でもない自分が理解できるべきだ――そんな子供じみた独占欲のような感情を抱きながら、亮太ははつねの後をついていく。
「みほちゃんが、だれにも見つかりたくないんだって」
「みほちゃんが?」
亮太はその名前をはつねから聞いて知っていた。みほというのは、彼女がよく一緒に遊んでいる少女だ。友達がたくさんいるタイプで、はつねと仲が良いというよりは誰とでも遊ぼうとする性格だという印象を亮太は持っていた。だから基本的に一人でいることの多いはつねを見ていると、必然的によく一緒にいるところを見かけるのはこのみほということになる。
だがこのみほという少女は、亮太の見る限りかくれんぼが下手だった。大方すぐ見つかってしまうことに悩んで、いつも最後まで見つからないはつねに隠れ方を聞いたのだろう、と当たりをつける。
(ああ、理解できた。きっとはつねちゃんの母親だって今の会話だけでは分からないだろうな)
亮太が満足感に頬を緩めていると、はつねが公園の奥にあったツツジの植え込みを指差した。
「小さくすれば、見つからないと思ったんだけど」
また理解のできない発言に戸惑いながらも、亮太は指された場所を覗き込んだ。暗くてよく見えないが、はつねと同じくらいの大きさの人間がツツジの根元に横たわっているというのはかろうじて分かる。
ここに隠れようとしているのだろうか。しゃがむのではなくうつ伏せになるのは確かに遠くから見つけづらくなるだろうが、折角そこまでするならもっと隠れる場所を変えた方がいいだろう――頭の中でアドバイスを用意しながら亮太は口を開いた。
「寝そべるなら、もうちょっと周りから見えにくいところに――っ!?」
周りから見えにくいところに隠れた方がいい――そう言おうとした亮太は、次の瞬間には咄嗟に手で口を塞いでいた。
「なっ……!?」
よく見えないのは暗さのせいだけではなかった。そこにいた人間――みほの身体が赤黒い血で染まっていたのだ。
亮太がそれに気付いたのは、僅かな明かりに何かが反射して彼女の身体が濡れていると分かったからだった。そして何より、噎せ返るような鉄の匂いが呼吸を妨げたからだ。
そこまで分かってしまえば人間の脳というのはよくできていて、目の前に横たわるみほが血まみれなのだと勝手に推測していた。その推測が間違っている可能性もあったが、亮太は正しいと確信していた。何故なら、隣にいるはつねが視界に入ったからだ。
「これじゃうまく切れないの」
そう言ってはつねが亮太に見せたのは、刀身の半分が黒く染まった包丁だった。目を凝らすと、それが黒ではなく赤黒い血であることは亮太にはすぐに分かった。はつねの発言も合わせれば何があったのか知ることなどそう難しくはない。
(はつねちゃんは、みほちゃんを小さくしようとしたんだ……)
ドッドッドッ……と早鐘を打つ心臓を手で押さえるようにしながら、亮太は次に発するべき言葉を考えていた。もしこれで悲鳴なんて上げようものなら終わってしまうのだ――自分とはつねとの間にある何かが、ぷつりと切れてしまう。
それを考えただけでも、亮太は頭から冷や水を浴びせられたような気分になった。足元に広がる惨状なんて目ではない。自分とはつねの関係性が終わってしまうことの方が亮太にとっては恐ろしく、悲劇的で、受け入れがたいことだった。
そこまで分かれば、亮太のすべきことはもう明らかだった――受け入れるしかないのだ。目の前で起こっているのは明らかに法や倫理に反することでも、自分はすべてを受け入れなければならない。
喉を熱するものをごくりと飲み下して、亮太は平静を装った。はつねが自分を待っていたのは、これを手伝って欲しかったからだろう。子供の自分ではうまくできなかったから、大人の自分に頼ろうとしたのだ。
(はつねちゃんには、俺が必要なんだ)
その事実が亮太に冷静さを取り戻させる。なんとか取り繕っていたはずの落ち着いた振る舞いは、いつの間にか自然なものへと変わっていた。
「確かに子供の力じゃ無理かもな」
いつもどおりの声色で亮太が言えば、はつねがしゅんとして俯く。
「どうやればいい……?」
不安げな問いかけは、亮太に対して答えを求めている。つまりここでみほを小さくしてみせろということなのだろうと分かったが、それに応えるためにはまだ自分の中の常識が邪魔をしているのを亮太は感じていた。
「もう遅いから、俺がやっとくよ」
だからそう言って、はつねの目から逃げるしかなかった。
§ § §
考えたことがなかったわけではない。自分を虐げる者たちに凶器を振りかざして、その赤黒い中身を引きずり出し踏み潰したいと、考えたことがなかったわけではない。
むしろ想像の中では何度も殺したことがある。何度も頭を叩き潰して、何度も腹を切り裂いて、時には串刺し、時には炎に投げ込んで。そうやって何度も何度も想像の中ではやってきたが、実際にやったことはなかった。やろうと思ったこともなかった。
亮太を押し留めていたのは常識や倫理といったもので、亮太自身もそれを自覚していた。そのことを疑問に思ったこともなかった。
だが今回はつねに頼られたことで、自分を理不尽に扱う者たちの住まう世界のルールに縛られている自分もまた、その世界の一部でしかなかったということに気が付いた。はつねと二人、他の〝馬鹿ども〟とは違う世界にいると思っていたのに、そこにいたのははつねだけで、自分はまだそこに行けていなかったのだ。
――ごり、ごり、と軟骨に包丁を突き立てる。一心不乱に関節を切り離そうと力を込める。
この数時間、ずっと亮太の胸を焼き続きていた吐き気はもう治まっていた。胃の内容物とともにこれまで自分を縛っていた常識を吐き出せた気がして、むしろ清々しくさえ感じられる。
一歩ずつ着実に、自分は自分の望む世界へと進めているのだ。きっとこの小さな身体がパズルのようにバラバラになった時、自分ははつねと同じ世界にいるのだろう――そう思うと、身体の疲れなど全く気にならなかった。
「もっと……もっと……」
憎い者たちの顔を思い浮かべると、力が漲る気がした。何度も自分を蝕んだ狂気は正気に、妄想は現実に。曖昧だった自分自身の姿が実体を得るような感覚が、とても気持ち良かった。
真っ赤に全身が染まっていく。カビだらけだった風呂場のタイルが赤に彩られる。吸い込む空気は身体の中までも真っ赤に染めていくようで、背筋を興奮が優しく撫で付け恍惚に沈む。
(でも、あまり時間をかけすぎちゃ駄目だ)
朝になれば昨夜先に自宅に帰したはつねが起きる。彼女はみほが小さくなることを期待しているため、いずれこの家にやってくるだろう。
学校に行ってから来るのか、それとも学校よりも先に自分のところに来るのかは亮太にも分からなかった。だからどちらでも間に合うように終わらせなければならないし、ついでに公園の血ももっと綺麗にしておかなければならないだろう。みほを連れてくる時に汚れた土はある程度一緒に布に包んだつもりだ。だが夜の闇では見落としがある可能性が高い。そんなくだらないことで、自分たちの世界に水を差されたらたまったものじゃなかった。
全部完璧にこなさなければ――亮太ははつねの喜ぶ顔を頭に思い描きながら、作業の続きを行った。
§ § §
「――小さくなったね」
夜明け過ぎ、なんとか亮太が公園の片付けまで済ませた後に彼の家へとやって来たはつねは、小さくなったみほを見るなり満足そうに微笑った。
思っていたよりも早い彼女の来訪に戸惑っていた亮太だったが、その一言ですべてが報われるように感じられる。まるで「こちら側へようこそ」と言われたかのようで、受け入れられたと実感できるのだ。
「どこでかくれんぼするの?」
亮太が問いかければ、はつねはううんと考えるように首を捻った。
「旧校舎かな」
(旧校舎? ……ああ、そういえば近所の小学校が最近校舎を建て替えたんだっけか)
おぼろげな記憶を辿ると、市が新しい住民の呼び込みのためにそんな事業をしていたことを思い出した。小学校など関係ない亮太まで知っているのは、街中の至るところに張り紙があったからだ。
(〝街が変わる〟だったか……本当に変わってたのか。ちゃんと仕事してたんだな、石なんとか市長)
少し前に見た石山市長の胡散臭い笑顔が亮太の頭に浮かぶ。彼の仕事は自分には全く関係ないと思っていたが、はつねの通う小学校に金を使っていたのだと考えるとほんの少しだけ「よくやった」と言いたくなる。古い校舎に難があったとは限らないが、新築の校舎ならはつねはさぞ快適だろう。
そんなことを考えながらはつねに何故旧校舎にするのかと聞いてみれば、今度友達と一緒に旧校舎でかくれんぼをする約束をしていたからとのことだった。
「でもみほちゃん小さくなっちゃったから、大人が騒ぐかもな」
亮太の言葉に、はつねはきょとんとした顔で首を傾げる。
「大人はな、一晩子供が帰ってこないといろいろ騒ぐ人が多いんだよ」
「かくれんぼしてるだけなのに?」
「そう、自分たちが理解できないから。それで悪くない人にまで八つ当たりする。だからみほちゃんが小さくなったことは、誰にも言っちゃ駄目だぞ? じゃないとはつねちゃんが危ないかもしれない」
「わかった」
それから少し話をして、はつねは母親が起きる前にと自宅に戻った。残された亮太は万が一みほを探しに誰かがはつねを訪ねることを考慮して、臭いが漏れ出ないように小さくなったみほをビニール袋にしまい込む。
子供が行方不明になったと地域が騒がしくなったのは、翌日のことだった。
「遅くなったな……」
だがその悪臭はいつものことだ、と亮太はそんなことお構いなしに時間ばかりを気にしていた。
今日は日勤だったが、時間が延びて帰る頃には二十一時を回ってしまった。今回の現場も長く働いたところで残業代など出ないのに、なかなか解放されないのだからたまったものじゃない。
以前まではそれを気にすることはなかった。いくら長引こうが仕事があるだけマシなのだ。だが今の亮太には、早い時間に仕事が終わる場合はその後に用事がある。
「流石にいるわけないか……」
通り道にある公園を見渡して、大きく溜息を吐いた。
日中は元気に遊ぶ子供たちで賑わう公園だが、今は夜の闇に溶け込むようにひっそりと佇んでいる。
あの日から亮太は、はつねの行動を見守るようになっていた。見守るだけで特に何をするでもないが、なんとなく、あの少女がまだ理不尽な世界にいるか確認したくなるのだ。だから公園で友達相手に見せる彼女の、普通の少女らしさの影に紛れた絶望とか虚無とか、そういう自分と同じような雰囲気を感じ取っては満足する――それが亮太の最近の楽しみだった。
だが今日は、やはりもう帰ってしまったらしい。普通の家の子供は日が暮れる頃が門限のことが多いから当然だ。亮太の見ていた限りでは十八時にははつねの同級生たちは全員撤収してしまうようで、その時間になるといつも彼女は一人で公園に取り残されていた。
『なんではつねちゃんはすぐに帰らないの?』
以前はつねに尋ねたことを思い出す。亮太の知る限り、昼間仕事に出かけたはつねの母親は十九時から遅くとも二十時には一度家に帰ってくる。仕事を掛け持ちしているのかその後すぐに出かけているようだが、それでも母親の帰宅時にはつねが在宅していないのはまずいだろう。
自分が子供の頃は、確か門限を守っていると証明するために親より早く帰宅するよう気を付けていたはずだ――亮太は遠い日の記憶を辿りながら、それとは異なるはつねの行動に疑問を持った。
『お母さんがかぎ持ってるから』
なるほど、そういうことか――亮太の中で合点がいった。はつねは母親に自宅の鍵を持たされていないのだ。だからあまり彼女には似つかわしくない外遊びを毎日していて、夜は行き場を失ったように母親が帰ってくるまでここで時間を潰しているのだろう。
普通であれば子供が遅い時間に一人でうろつくのを心配しない親はいない。だから彼らは門限を設定して子供たちに家の鍵を持たせる。そうでなくても学童保育や信頼できる知人の家に預けるなど、子供の安全を確保するための策を講じるのだ。
それなのに、はつねはそのどれにも当てはまらなかった。あの母親では亮太にとって意外でもなんでもなかったが、彼女の置かれた状況に酷く安堵したのを覚えている。はつねは非力な子供なのに母親に守られていない――そう実感することができたからだ。
とはいえ、今はもう二十一時を回っている。いくらはつねでももうとっくに帰っていなければならない時間だ。でなければ母親と入れ違いになり、次に彼女が帰ってくるまで家に入ることができなくなってしまう。
亮太は予定外に楽しみを見られなくなったことに落ち込みながら、しかしまだ家があると自分を奮い立たせた。今日はあの母親の八つ当たりに遭っただろうか。折角なら一人寂しくベランダにいてくれると、一日の疲れが吹き飛ぶ気がする。
そう思いながら歩き始めようとした時、「りょうた君」、植え込みの陰から小さな声が聞こえてきた。
「は、はつねちゃん!?」
予想だにしていなかったせいで大袈裟に驚く亮太の一方で、暗闇から現れたはつねはいつもの無表情でコクリと頷いた。
「こんな時間にどうしたの?」
「りょうた君を待ってた」
「俺を?」
思いがけない言葉に固まっていると、はつねは亮太の手を引いて公園の奥へと向かって歩き出した。
「手伝ってほしいの」
「何を?」
「かくれんぼ」
(どういうことだ? かくれんぼしたいけど、一人だとできないから俺を待っていた……?)
亮太はあの日以来はつねと少しずつ話をするようになってはいたが、この少女はどうにも言葉が少ないと感じていた。単純な内容なら問題なく理解できるが、今回のように背景が分からないことに関しては想像するのも難しいのだ。
(でも……理解したい)
自分にとっては唯一と言っていい仲間なのだ、何か伝えたいことがあるならば理解したい。それに誰かが理解できることなのであれば、他でもない自分が理解できるべきだ――そんな子供じみた独占欲のような感情を抱きながら、亮太ははつねの後をついていく。
「みほちゃんが、だれにも見つかりたくないんだって」
「みほちゃんが?」
亮太はその名前をはつねから聞いて知っていた。みほというのは、彼女がよく一緒に遊んでいる少女だ。友達がたくさんいるタイプで、はつねと仲が良いというよりは誰とでも遊ぼうとする性格だという印象を亮太は持っていた。だから基本的に一人でいることの多いはつねを見ていると、必然的によく一緒にいるところを見かけるのはこのみほということになる。
だがこのみほという少女は、亮太の見る限りかくれんぼが下手だった。大方すぐ見つかってしまうことに悩んで、いつも最後まで見つからないはつねに隠れ方を聞いたのだろう、と当たりをつける。
(ああ、理解できた。きっとはつねちゃんの母親だって今の会話だけでは分からないだろうな)
亮太が満足感に頬を緩めていると、はつねが公園の奥にあったツツジの植え込みを指差した。
「小さくすれば、見つからないと思ったんだけど」
また理解のできない発言に戸惑いながらも、亮太は指された場所を覗き込んだ。暗くてよく見えないが、はつねと同じくらいの大きさの人間がツツジの根元に横たわっているというのはかろうじて分かる。
ここに隠れようとしているのだろうか。しゃがむのではなくうつ伏せになるのは確かに遠くから見つけづらくなるだろうが、折角そこまでするならもっと隠れる場所を変えた方がいいだろう――頭の中でアドバイスを用意しながら亮太は口を開いた。
「寝そべるなら、もうちょっと周りから見えにくいところに――っ!?」
周りから見えにくいところに隠れた方がいい――そう言おうとした亮太は、次の瞬間には咄嗟に手で口を塞いでいた。
「なっ……!?」
よく見えないのは暗さのせいだけではなかった。そこにいた人間――みほの身体が赤黒い血で染まっていたのだ。
亮太がそれに気付いたのは、僅かな明かりに何かが反射して彼女の身体が濡れていると分かったからだった。そして何より、噎せ返るような鉄の匂いが呼吸を妨げたからだ。
そこまで分かってしまえば人間の脳というのはよくできていて、目の前に横たわるみほが血まみれなのだと勝手に推測していた。その推測が間違っている可能性もあったが、亮太は正しいと確信していた。何故なら、隣にいるはつねが視界に入ったからだ。
「これじゃうまく切れないの」
そう言ってはつねが亮太に見せたのは、刀身の半分が黒く染まった包丁だった。目を凝らすと、それが黒ではなく赤黒い血であることは亮太にはすぐに分かった。はつねの発言も合わせれば何があったのか知ることなどそう難しくはない。
(はつねちゃんは、みほちゃんを小さくしようとしたんだ……)
ドッドッドッ……と早鐘を打つ心臓を手で押さえるようにしながら、亮太は次に発するべき言葉を考えていた。もしこれで悲鳴なんて上げようものなら終わってしまうのだ――自分とはつねとの間にある何かが、ぷつりと切れてしまう。
それを考えただけでも、亮太は頭から冷や水を浴びせられたような気分になった。足元に広がる惨状なんて目ではない。自分とはつねの関係性が終わってしまうことの方が亮太にとっては恐ろしく、悲劇的で、受け入れがたいことだった。
そこまで分かれば、亮太のすべきことはもう明らかだった――受け入れるしかないのだ。目の前で起こっているのは明らかに法や倫理に反することでも、自分はすべてを受け入れなければならない。
喉を熱するものをごくりと飲み下して、亮太は平静を装った。はつねが自分を待っていたのは、これを手伝って欲しかったからだろう。子供の自分ではうまくできなかったから、大人の自分に頼ろうとしたのだ。
(はつねちゃんには、俺が必要なんだ)
その事実が亮太に冷静さを取り戻させる。なんとか取り繕っていたはずの落ち着いた振る舞いは、いつの間にか自然なものへと変わっていた。
「確かに子供の力じゃ無理かもな」
いつもどおりの声色で亮太が言えば、はつねがしゅんとして俯く。
「どうやればいい……?」
不安げな問いかけは、亮太に対して答えを求めている。つまりここでみほを小さくしてみせろということなのだろうと分かったが、それに応えるためにはまだ自分の中の常識が邪魔をしているのを亮太は感じていた。
「もう遅いから、俺がやっとくよ」
だからそう言って、はつねの目から逃げるしかなかった。
§ § §
考えたことがなかったわけではない。自分を虐げる者たちに凶器を振りかざして、その赤黒い中身を引きずり出し踏み潰したいと、考えたことがなかったわけではない。
むしろ想像の中では何度も殺したことがある。何度も頭を叩き潰して、何度も腹を切り裂いて、時には串刺し、時には炎に投げ込んで。そうやって何度も何度も想像の中ではやってきたが、実際にやったことはなかった。やろうと思ったこともなかった。
亮太を押し留めていたのは常識や倫理といったもので、亮太自身もそれを自覚していた。そのことを疑問に思ったこともなかった。
だが今回はつねに頼られたことで、自分を理不尽に扱う者たちの住まう世界のルールに縛られている自分もまた、その世界の一部でしかなかったということに気が付いた。はつねと二人、他の〝馬鹿ども〟とは違う世界にいると思っていたのに、そこにいたのははつねだけで、自分はまだそこに行けていなかったのだ。
――ごり、ごり、と軟骨に包丁を突き立てる。一心不乱に関節を切り離そうと力を込める。
この数時間、ずっと亮太の胸を焼き続きていた吐き気はもう治まっていた。胃の内容物とともにこれまで自分を縛っていた常識を吐き出せた気がして、むしろ清々しくさえ感じられる。
一歩ずつ着実に、自分は自分の望む世界へと進めているのだ。きっとこの小さな身体がパズルのようにバラバラになった時、自分ははつねと同じ世界にいるのだろう――そう思うと、身体の疲れなど全く気にならなかった。
「もっと……もっと……」
憎い者たちの顔を思い浮かべると、力が漲る気がした。何度も自分を蝕んだ狂気は正気に、妄想は現実に。曖昧だった自分自身の姿が実体を得るような感覚が、とても気持ち良かった。
真っ赤に全身が染まっていく。カビだらけだった風呂場のタイルが赤に彩られる。吸い込む空気は身体の中までも真っ赤に染めていくようで、背筋を興奮が優しく撫で付け恍惚に沈む。
(でも、あまり時間をかけすぎちゃ駄目だ)
朝になれば昨夜先に自宅に帰したはつねが起きる。彼女はみほが小さくなることを期待しているため、いずれこの家にやってくるだろう。
学校に行ってから来るのか、それとも学校よりも先に自分のところに来るのかは亮太にも分からなかった。だからどちらでも間に合うように終わらせなければならないし、ついでに公園の血ももっと綺麗にしておかなければならないだろう。みほを連れてくる時に汚れた土はある程度一緒に布に包んだつもりだ。だが夜の闇では見落としがある可能性が高い。そんなくだらないことで、自分たちの世界に水を差されたらたまったものじゃなかった。
全部完璧にこなさなければ――亮太ははつねの喜ぶ顔を頭に思い描きながら、作業の続きを行った。
§ § §
「――小さくなったね」
夜明け過ぎ、なんとか亮太が公園の片付けまで済ませた後に彼の家へとやって来たはつねは、小さくなったみほを見るなり満足そうに微笑った。
思っていたよりも早い彼女の来訪に戸惑っていた亮太だったが、その一言ですべてが報われるように感じられる。まるで「こちら側へようこそ」と言われたかのようで、受け入れられたと実感できるのだ。
「どこでかくれんぼするの?」
亮太が問いかければ、はつねはううんと考えるように首を捻った。
「旧校舎かな」
(旧校舎? ……ああ、そういえば近所の小学校が最近校舎を建て替えたんだっけか)
おぼろげな記憶を辿ると、市が新しい住民の呼び込みのためにそんな事業をしていたことを思い出した。小学校など関係ない亮太まで知っているのは、街中の至るところに張り紙があったからだ。
(〝街が変わる〟だったか……本当に変わってたのか。ちゃんと仕事してたんだな、石なんとか市長)
少し前に見た石山市長の胡散臭い笑顔が亮太の頭に浮かぶ。彼の仕事は自分には全く関係ないと思っていたが、はつねの通う小学校に金を使っていたのだと考えるとほんの少しだけ「よくやった」と言いたくなる。古い校舎に難があったとは限らないが、新築の校舎ならはつねはさぞ快適だろう。
そんなことを考えながらはつねに何故旧校舎にするのかと聞いてみれば、今度友達と一緒に旧校舎でかくれんぼをする約束をしていたからとのことだった。
「でもみほちゃん小さくなっちゃったから、大人が騒ぐかもな」
亮太の言葉に、はつねはきょとんとした顔で首を傾げる。
「大人はな、一晩子供が帰ってこないといろいろ騒ぐ人が多いんだよ」
「かくれんぼしてるだけなのに?」
「そう、自分たちが理解できないから。それで悪くない人にまで八つ当たりする。だからみほちゃんが小さくなったことは、誰にも言っちゃ駄目だぞ? じゃないとはつねちゃんが危ないかもしれない」
「わかった」
それから少し話をして、はつねは母親が起きる前にと自宅に戻った。残された亮太は万が一みほを探しに誰かがはつねを訪ねることを考慮して、臭いが漏れ出ないように小さくなったみほをビニール袋にしまい込む。
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