虚像のゆりかご

新菜いに

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最終章 虚像

〈六〉崩れた虚像

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 ゴンッと、大きな音がした。同時に台所へと続くガラス戸がガシャンと震えながら叫び声を上げて、僕は眠りから引き起こされた。
 何か大きなものが倒れたというのはなんとなく分かった。でもその正体には思い当たるものがなくて、重たい瞼を擦りながら薄明かりの漏れるガラス戸の方へと視線を向けた。

「……明香さん?」

 あの明かりの付き方は、明香さんが夜中にお風呂に入る時のものだ。ダイニングの明かりを付けると僕を起こしてしまうからと、明香さんは風呂場の電気しか付けない。
 大きな音の後に全く物音がしないから、僕はのそりと布団から這い出した。ガラガラと音の鳴るガラス戸を開け風呂場に目をやれば、その扉が開いているのが見えて慌てて目を背ける。

「明香さん、いるの?」

 裸だったらまずいから、声をかけて確認する。すると小さく呻き声が聞こえた気がして、僕はゆっくりと風呂場に近付いた。

「あき、ちゃ……」

 あきちゃん――僕を呼ぶ明香さんは、全裸のまま浴槽にもたれかかるようにして倒れていた。頭の方からは真っ赤な血がどくどくと流れ出ていて、怪我をしているのだと考えなくても分かる。
 おびただしい血の量に、明香さんが死んでしまうかもしれないと直感した。助けなきゃ――その考えは一瞬だけ浮かんで、けれどすぐに消えていった。

「きゅ……きゅう、しゃ……」

 明香さんはか細い声でそれだけ言うと、そのまま意識を失った。僕はそれを見ても何も思わなかった。
 ただ、彼女を眺めていた。今朝のやりとりが頭の中に残っていたから。

『あきちゃん、これ何……?』

 不気味なものを見るような目で僕に問いかけてきた明香さんの手には、キッチンペーパーに包まれた何か。一体なんだろうと思ってよく見てみれば、そこにあったのは小鳥の死骸だと分かった。

『ッうわ、何それ……!』
『聞きたいのはこっちだよ! なんでこんなものがうちのゴミ箱の中にあるの!?』
『うちに……? そんなの僕が知るわけないじゃん!』

 突然見せられた気持ちの悪いものに思わず顔が歪む。何故明香さんはこれを僕に見せるのだろうと彼女の方を見ると、僕よりももっと強張った顔が目に入った。

『じゃあ、一緒に捨ててあったあきちゃんのシャツが汚れてるのはどうして……?』
『知らないってば! なんでそんなこと聞くの?』
『……ごめんね、ちょっと気になっちゃって』

 明香さんはぎこちない笑みで僕に謝ったけれど、それが取り繕った謝罪だということは嫌でも分かる。ムカムカとしたものを感じながら明香さんを睨みつければ、彼女は何度か深呼吸のような深い呼吸を繰り返して、ゆっくりと僕の目を見つめてきた。

『……明後日、土曜日で朝時間があるから……その時にちゃんと話そう? 私もう仕事に行かなくちゃ』

 少し震える声で明香さんはそう言うと、逃げるようにして仕事へと出かけていった。

「――なんで僕のことあんな目で見るの?」

 思えば父さんもそうだった。血まみれの黒猫を抱えながら、父さんは涙を流しながら僕に謝っていた。

『ごめん、ごめんなぁ……。父さんがしっかりしてないから……』

 謝っているのに、父さんの目はどこか僕を恐れるようで。それが、酷く不快だった。


 § § §


『……さっきから誰と話してるんですか?』

 尾城の言葉を聞いた瞬間、頭の中が掻き毟られるような感覚がした。ガリガリと引っかかれて破れた何かの隙間から、僕の知らない僕の記憶が滲み出る。
 こんなの知らないと言いたいのに、そういえばそうだった、と言いたいような感覚もあって。なんでそう感じるのか考えたかったけれど、それよりももっと気になることがあったせいでそれどころじゃなかった。

「何言ってるんですか……? 僕は椿と話してるんですよ……?」

 誰と話しているかだなんて、尾城の問いはおかしいのだ。
 それなのに僕が答えると、尾城は眉間の皺を深めて言葉を失ったように口をぽかんと開けた。まるで僕がおかしいとでも言いたげなその表情が気に入らない。お前の方が意味の分からないことを言っているんだと流石に文句を言おうと思ったら、尾城の隣にいた河野が一歩前に出た。
 彼がちらりと尾城を一瞥したのは、後輩の馬鹿げた言葉に何かを感じているからかもしれない。だからこの後河野が発するのは尾城への叱責か僕への謝罪だと思ったのに、彼は厳しい顔で「彼女はどこにいますか?」だなんてよく分からないことを聞いてきた。

「河野さんまで何言ってるんですか? どこって、椿はここにいるじゃないですか」

 示したのは僕の隣、椿の立っているところ。けれどそこを見た河野は、何故か少し憐れむような目をした。

「誰もいませんよ」
「……は?」
「そこには誰もいません。我々には先程から、八尾さんが一人で話していたようにしか見えていません」
「何言って……!」

 慌てて椿の方を見れば、彼女はいつもどおり薄い笑みを浮かべながらそこにいる。

「ほら、ここにいるでしょう!? そんな嘘吐いて僕を嵌めようとして――」
「違うと思うよ」

 カラカラと楽しげな椿の声が僕の言葉を止めた。
 でも何を言われているのかが分からない。だって河野達は椿の存在を否定しているのに、それに反論する僕の言葉が違うだなんて――しかも椿がそう言うだなんて意味が分からない。

「何度も言っているだろう? 君の見ているものは正しいとは限らないって」

 聞き慣れたその台詞を聞いた瞬間、何故か僕の心臓がドキリと跳ねた。初めてのことに驚く間もなく、跳ねた分落ちていくように、ザアッと音を立てて頭から一気に血の気が引いていく。それなのに体温はいやに高くて、でも氷の中にいるかのように身体中が寒気に包まれて。胸から飛び出そうなくらいドクドクと激しく鼓動する心臓が僕の視界を揺らしていた。
 僕の見ているものは正しいとは限らない――何度も聞いた、椿の言葉。今まではそれを聞いても意味の分からないことを言われたという苛立ちしかなかったはずなのに、その苛立ちはどれだけ探しても僕の中に見つからなかった。
 代わりにあるのは、得体の知れない感覚だけ。恐怖とも焦燥感とも異なる、気味の悪い感覚。胃が捻られたかのように気持ち悪い。込み上げた中身を吐き出せれば楽になるかもしれないのに、喉元で突っかえてそれ以上は出てこない。まるで拷問のように僕の身体の中を巡る吐き気と一緒に、椿の言葉が何度も何度も僕の頭の中を這いずり回っていった。

 僕の見ているものは、正しいとは限らない。

 唐突に理解してしまったその意味が、僕の身体を内側から削り取っていく。

「嘘だ……だってそんな……そんなことって……」

 東海林卓のことも、その妹の美亜のことも、それからここで話した本物の橘椿のことも、全部、全部。なんだったら今見えているものまで――

 僕の記憶は、現実とは異なるのだ。

「違う……違う違う違う!!」

 自分の記憶が間違っているのならば、一体何が正しいのだろう。唯一信じられた僕の記憶が正しくないのであれば、僕は何を信じればいいのだろう――内側から削られていった身体は薄っぺらくなって、パラパラと少しずつ崩れようとしていた。
 僕は僕で、僕自身が僕という人間像を作ってきたと思ってきた。それなのに僕の皮の中に詰まっていたのは現実じゃなくて、自分に都合の良いただの妄想だっただなんて……。

 冤罪で父さんと同じような人間だと思われるのが嫌?
 見ず知らずの誰かに、勝手な憶測で僕という人間が塗り替えられたくない?

 違うじゃないか。冤罪でもなければ、適当な憶測でもない。
 みんなちゃんと真実が分かっている。分かっていないのは、嘘に包まった僕だけ。

 さっき見たあの光景の方が事実だったのなら、僕は間違いなく人殺しだ。僕が最も嫌だと思っていた行為をした父さんと同じ。彼のやったことは許せないと思いながら、僕自身だって彼と同じことをしていたということになる。
 周りはずっと僕が人殺しだと分かっていた。僕は彼らを現実を正しく評価できない馬鹿だと思っていつもどこか見下していたのに、本当に現実を見られていないのは他でもない僕だったのだ。
 妄想を現実と思い込み、現実を周りの妄言だと決めつけていた。でもその妄想現実が虚像だと分かってしまった今、僕の中身にはもう何も残っていない。
 僕が作ってきた僕という人間は、何の価値もないハリボテだったのだ。

 ――そんなことないさ。

 頭の中で、あの声が響く。自分の声だと思っていたけれど、声と同時に椿の口が動いているのが見えた。

「君のやったことは変わらない。今まで目を逸らしてきたのなら、これからはちゃんと向かい合えばいい。向かい合って、全部受け入れれば悩む必要もないだろう?」
「受け入れる……」

 空っぽになった身体に、椿の言葉が染み込んでいく。思わず彼女の顔を見つめれば、椿は満足そうに笑みを深めた。

「そう、受け入れるんだ。自分の記憶がおかしかったことも、四人を殺したことも、全部ね」

 東海林美亜に、橘椿。そして東海林卓――椿の言葉を聞きながら脳裏を過ぎっていった彼らの死に様。でもそれは途中でぷつりと切れた。

「……?」

 僕が聞き返せば、椿は「おっと」と驚いたような顔をした。

「そういえばまだ思い出してなかったか。君が直接殺したのは四人だよ。あの里中って男も殺したよね」
「里中を……僕が……?」

 そんなはずはない、と僕は慌てて記憶を辿った。里中というのは新宿で会った男だ。彼は東海林卓が死の直前に僕を見ていたと言って、それを思い出したから警察に行こうとしていた。そしてその背中を僕は見送ったのだ。

『すみません』

 でも途中で彼を僕は呼び止めた。そうしなきゃいけないと思ったから。
 僕は彼を呼び止めて――どうした?

「八尾さん、どうして今里中の名前を出したんですか?」

 真っ白な記憶に、河野の厳しい声が割り込んでくる。

「どうしてって……椿が……」
「彼女がなんと?」

 そう僕に尋ねる河野は、さっきまでとは違っていた。少し前までは僕が椿の存在について嘘を吐いているという態度だったのに、今はもう彼からは疑念を抱いているような雰囲気は感じられない。
 ほら見ろ、椿のことが見えているじゃないか。見えているから河野は椿の言葉を聞こうとしているんだ。間違っていたのは記憶だけで、今見ているものはちゃんと合ってる――そう思うと、里中のことを思い出せないのが大したことではないように思えた。

「聞いていたでしょう? 椿は僕が里中って男を殺したって言うんです。そんなはずないのに!」
「里中を?」
「そうです。でもどうせデタラメですよ、人がそんなしょっちゅう死ぬわけないですし。しかも一週間前に会ったばかりなんですよ? 尚更有り得ない!」
「八尾さんは里中に会ったことがあるんですか?」

 河野は珍しく驚いたような顔をしていた。そういえばどうして彼は里中の名前を知っているのだろうと思ったけれど、なんてことはない。里中は東海林の件で警察に行ったことがあると言っていた。ならばその時に応対していたのがこの河野でもおかしくはないのだ。
 だから彼が驚いているのも僕と同じような理由だろう。知り合いとは思っていなかった人間同士に面識がある――そういうなんてことのない驚きのはずなのに、河野の顔はみるみる険しくなっていった。

「里中は殺されましたよ。一週間前に、新宿で」
「殺された……?」

 楽になり始めていた気分が、すっと冷えていく。どうにか状況を理解しようとしていると、横から椿が「ほら、言ったじゃないか」と囁いてきた。

「まだ思い出してないだけで、君は里中を殺してるんだよ」
「そんな……」

 そんなの嘘だ、僕が里中を殺す理由なんていない。しかも他の三人のように何も思い出さないのに、椿の話を信じられるはずがなかった。

「信じる信じないの話じゃなくて、それが現実なんだよ。証拠もそのうち警察が見つけてくれるんじゃない? そうしたらきっと思い出せると思うよ」
「ッじゃあまだ証拠はないってことだろ!? なのになんでお前が知ってるんだよ! 僕だって思い出せないのに……お前はなんなんだ!?」

 僕が思い切り叫ぶと、椿はニタリと笑みを深めた。「知っているだろう?」、そう言う口調は軽やかなのに、まるで全身を這い回るようにして僕の身体の自由を奪う。

「私は、君だよ」
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