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最終章 虚像
〈四〉認識の相違
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帰りの車内の空気は重かった。靴に関する嘘が分かり、八尾のこれまでの供述の信憑性が一気に下がったからだ。
だが、それだけだった。八尾が履いていた靴が本人の証言と違うというだけでは弱すぎる、と尾城は眉間に皺を寄せた。念の為署に連絡してもっと彼の履いていた靴のデザインが分かる画像がないか探してもらっているが、自分達の持っていたあの場面の画像が一番彼の姿をはっきりと捉えていたものだということを考えると、あれ以上のものは中々出てこないだろう。
だから結局八尾の話は信じるに値しないかもしれないということだけが、あの画像から得られたものだった。
それにあの町で聞いた話も嫌な感じだ――尾城は先程聞いた内容を思い返した。幼少期の八尾が住んでいた町で新しい話はそれほど得られなかったが、数少ない得られた情報がどうにも不穏なものばかりなのが気になっていた。
八尾の周りでは死が多すぎるのだ。人間だけならまだ不幸な偶然だと思えただろう。尾城は多くの人間にとって、命を奪う対象として一番ハードルが高いのが同じ人間だと思っている。だからたとえ連続した死が発生していたとしても、そうと明確に示すものがなければ誰かの意図が関与しているとはあまり考えられない。
それが子供の身の回りで起こったことならば尚更だ。幼い子供が故意に他者の命を奪うだなんて、現代日本ではまず考えられない。だから彼らの周りで近しい大人の死が続いたとしても、それは単なる偶然でしかないのだ。
しかし八尾を取り巻く死が人間以外――野良猫にまで及んでいたというのは、そんな尾城の常識を内側から爪でカリカリと引っ掻いてくるような気持ち悪さがあった。人間以外の生物の死には、時に人間が関わっていることもあるからだ。
そしてそれを〝八尾の周りの死〟として括ってしまえば――そこまで考えて、尾城は慌てて頭の中に浮かんだものを振り払った。全ての死に八尾本人が関わっているだなんてことは有り得ない。今の彼ならまだしも子供の八尾にそんなことができるはずがないのだ。だから全ての死を八尾と結びつけるのは無意味だと分かっているのに、それを避けようとすると途端に気持ち悪さが尾城の胸に広がっていく。
河野はどう考えているのだろうか、と尾城は横目で助手席の様子を窺った。自分の中にあるこのおかしな考えを、河野の冷静な意見を聞いて紛らわしたい。それなのに東京に戻れと自分に言って黙り込んでしまった先輩刑事は、出発してすぐにかかってきた電話の件もあり難しい顔でどこかを睨みつけていた。
「鮫島貴子が亡くなっていたなら、八尾の見た女は何者なんでしょう」
河野の考え事を邪魔しないように、尾城は話題を選んで話しかけた。彼の意見を聞きたいのは確かだが、そうでなくても何か適当な会話で気分を変えるだけでもいい。だから尾城が自然と口にしたのは、河野にかかってきた電話の内容を受けてのものだ。
鮫島貴子は二十年以上前に亡くなっている――それが、電話口の向こうからもたらされた情報だった。
「それを今から確かめに行くんだよ」
「じゃあ八尾のところに向かうんですか?」
「ああ」
河野のぶっきらぼうな返事を聞きながら、尾城の頭にはふと疑問が浮かんだ。
「……八尾は、あの写真を見たことがあったんでしょうか」
尾城が独り言のように言うと、「さあな」と静かな声が返される。
「父親の死後回収された物ってことは、八尾が一緒に住んでた家にあったはずだ。なら八尾が見れてもおかしくはない」
「もしあれを見たなら八尾はどう思ったんでしょう。母親の顔も知らなかったのであれば、父親と二人きりで写真に写る鮫島を母親だと勘違いしてもおかしくなさそうですが」
「確かにな。でもまあ、そんなの本人に聞かなきゃ分かんねぇだろ」
「そりゃそうですけど」
自分だったらどう思うだろうか、と尾城は想像してみた。頑なに詳細を隠されていた母親の写真を見つけたとしたら――さぞ嬉しいことだろう。しかも写真に写っているのはあんなに美人なのだ。顔を知ることができたという喜びもそうだが、それ以上の感情も持つかもしれない。
「でももし本当に見れてたなら、今までの彼の話は全部嘘ってことになりますね」
「信憑性が低くなるってだけだ、丸っきり嘘とは限らない」
「さっきはまるで八尾が嘘吐いているみたいなこと言ってたじゃないですか」
新城家で写真を見た直後の彼の様子を指して言えば、河野からは「俺だって動揺してたんだよ」と溜息と共に返された。
「まさかあんなところで似顔絵の女が出てくるだなんて思わないだろ? だからまあ、あの時は八尾が意図的に嘘を吐いてると思ったのは確かだ。でも冷静に考えれば小学校に上がる前の記憶なんて普通はそんな残ってないだろうし、もし残っていたとしても、例えば偽の橘を庇うために容姿だけ他人のものを言ったとかっていう可能性もあるだろ。ま、それも嘘吐いてるってことには変わりないが」
「そうか、そういうこともあるんですね」
自分が考えつかなかった河野の考えに尾城は感心したが、それを話した河野本人の表情がどこか浮かないのにも気付いていた。
視野を狭めないために可能性を一つに絞らないよう話すのは河野の優れた部分の一つだと思っているが、今はどうにもわざと核心を避けようとしているようにも感じられる。だが尾城にはいくら考えても河野の避けたがっている考えが思いつかなかった。
「八尾は今どこに?」
「聞くから待ってろ」
八尾の居場所は見張りがついているため簡単に分かる。湾岸線から東京に入ってすぐ河野が確認の電話をかけると、彼は今荒川方面に向かって歩いていることが分かった。
「なんでそんなところに……」
河野から聞いた尾城は前を向いたまま顔を顰める。荒川沿いで起きた二つの事件への関与が疑われている彼にとって、そこはあまり近付きたくない場所のはずだ。
「八尾の目的が何にしろ、そこならここから十五分もあれば着くだろ」
河野が意識して軽く聞こえるように言ったことは、尾城は気付かなかったふりをした。
§ § §
八尾のいる場所に着いた尾城達は、見張りの警官に交代を告げて彼を観察し始めた。荒川方面に歩いていた八尾の目的地は川にかかる大きな橋の下だったらしく、人気のないそこで時折誰かと話すような仕草を見せている。
自分達の死角になる場所に相手がいるのかと思ったが、彼の周りは半径二メートル程度はよく見えていた。それ以上離れた位置にいる人間と声を張り上げて話すのは考えにくいため、イヤホンを使って通話でもしているのだろう。
一通り八尾の観察を終えた尾城は、しかし、と周りに目をやった。そこは橘の遺体発見現場が見えるほど近く、八尾がわざわざ来る理由が分からない。
「行くぞ」
河野に促され、尾城は彼と共に橋に向かって歩き始めた。一歩整備された歩道を逸れれば真夏の雑草は相変わらず足元を覆い隠すほど生い茂り、それを踏みつけるたびに小さな虫達が慌てたように空中を舞う。横目でちらりと川を見れば、ここ数日の雨不足のせいで以前見た時よりも水かさが減っているのが分かった。
これならたとえ人を抱えていてもあの島まで行けるだろう――尾城が無意識のうちにそう考えてしまったのは、近隣住民の話でしか知らなかった川の状態を直接見たからだろうか。遠目に見える橘の遺体発見現場は、もはや本来の岸辺から陸続きとなっていた。
――ジャリ、ジャリ、といつの間にか自分の足元から聞こえる音が変わっていたことに気が付いて、尾城は慌てて意識を八尾に戻した。
雑草の茂った道はとうに抜けて、今は川のすぐ横の石だらけの道を歩いている。見たところここは時期によっては川の中ということもあるのだろう。
その道を足音も隠さず河野と歩いて行ったが、自分達に背を向けている八尾がそれに気付く気配はない。
「……の話……」
自分達とは反対方向に向かって、八尾が声を発しているのが聞こえる。尾城は聞き耳を立てようとしたが、ちょうど通話相手が話しているのか、彼はすぐに黙ってしまった。
「――八尾さん」
八尾のすぐ傍まで来ると、河野が静かに声をかけた。途端、彼は弾かれたように振り返り、更に自分達の姿を見て心底驚いたと言わんばかりに目を見開いた。
「刑事さん……どうしてここに?」
「少し確認したいことがありまして。今大丈夫ですか?」
河野がそう聞いたのは八尾の通話相手のことを考えてのことだろう。だが八尾は電話を切る素振りもなく、「ええ」と頷いてみせた。
「電話してたんじゃ?」
河野が今度ははっきりと確認する。
「電話? いえ、してませんけど」
独り言だったのだろうか――尾城は八尾の返事を聞いて彼の耳元を見てみたが、正面から見える範囲では確かにイヤホンのようなものは見当たらない。
もし独り言なのであれば、あまり何度も電話かと聞くのも気が引ける。本人が意識してやっていればいいが、大抵は無意識なのだ。それを指摘されるのはあまり気分のいいものではないだろう。
「それより確認したいことって、もしかして何か分かったんですか?」
河野も八尾が通話していたわけではないと結論づけたらしい。「ええ」と声を零すと、気を取り直すように背筋を正した。
「偽の橘椿と思われる人物の写真を見つけたんですが、ご確認いただけますか?」
その瞬間、八尾ははっとしたように後ろを向いた。けれど何もなかったのか、すぐに身体の向きを前に戻す。
不思議な行動だったが、虫でもいたのだろう、と尾城は気にしなかった。否、それ以上に視線を奪うものがあったせいで、尾城は八尾の行動を意識の外に追い出したのだ。
尾城の視線を縫い付けていたのは八尾の表情だった。後ろから向き直った時は怪訝そうに顔を顰めていたが、思い出したように河野の方を見た顔には色めきだったような表情を浮かべていたのだ。それは自分の嘘がバレた人間の顔ではなく、単純に知りたいことが分かった時のような表情にしか尾城には見えなかった。
どういうことだ――尾城は八尾の顔を見ながら頭の中が混乱するのを感じていた。これではまるで、八尾が本当のことしか話していないように見えてしまう。
鮫島は既に死んでいると確認が取れている。更に彼女は一人っ子だった上、娘もいなかったそうだ。身内に鮫島とよく似た人間がいるのかもしれないと思っていた尾城でも、もうその可能性はほとんどないだろうと思っていた。
だから内心では確信していたのだ、八尾は嘘を吐いていると。河野には諌められたが、ここまで判断材料が揃っているのだから尾城にその考えを変えることはできなかった。それなのに八尾の反応が自分の考えとは全く違ったものだったせいで、尾城はすぐに他のことを考えることができなかった。
「こちらです」
尾城が八尾の思考を探ろうとしている間にも、河野は彼に鮫島の写真を差し出していた。隣に写る人物を指で隠しているのは八尾の反応を探るためだろう。尾城はこれなら流石に相手は狼狽えるだろうと思っていたが、その期待に反し八尾は「この人です!」と声を強めた。
「間違いありませんか?」
「ええ、絶対にそうです。こんな美人間違えるはずありません。性格は……あれですけど」
「彼女に最後に会ったのはいつですか?」
「今日ですよ。っていうか今さっきまでここにいたんです」
「今……?」
八尾の言葉に、河野が訝しむような顔で尾城に目配せをした。その意図を悟った尾城も思い当たることがないとばかりに目線で訴える。
「ここで話していたんですか?」
「そうです。ちょうどこのへんに立っていて……本当に声をかけられる直前まではいたんで、刑事さん達も見たんじゃありません?」
何かがおかしい――尾城は今度ははっきりと河野の方を見た。河野もいつもの顰めっ面を更に力ませて自分と目を合わせている。だがすぐに視線を前に戻すと、静かに口を開いた。
「……一体、何の話をしていたんです?」
その河野の問いで今は彼が橘の存在に言及するつもりがないと悟った尾城は、自分も同じように八尾へと顔を向けた。
「いつものふざけた話ですよ。あいつはこれを僕が知ってるって言うんです」
そう言って自分達の方へと突き出してきた八尾の手の中にあったのは、ひと目見ただけで酷く汚れていると分かる金属製の鎖のようなものだった。しかしよく見ればそれは鎖だなんて無骨な表現ではなく、アクセサリーと言った方が正しい形状をしている。
きっと女物のブレスレットだろう――そう思い至った瞬間、尾城は頭が一気に冷えていくのを感じた。
「これ、どうしたんですか?」
「そこで拾ったんです。椿に面白いものがあるから見てみろって言われて」
河野と話す八尾の言葉を聞きながら、尾城は叫びだしたくてたまらなくなっていた。
八尾が持っているブレスレットは見たことがある。本物の橘が身に付けていたはずの時計だ。金森の話では遺留品から消えてしまっていた、彼女がとても大切にしていた品――それがこんなところに落ちている理由など一つしかない。
橘椿は、ここで殺されたのだ。
事故で橋から落ちたのかもしれないという考えは、もう尾城の中から消えていた。彼女の死が事故であれば今八尾の手にあの腕時計があるのはおかしい。橘の死の瞬間を目撃した人間もいないのに、一ヶ月以上ここに放置されていたであろう彼女の落とし物を、他でもない八尾が見つけるだなんて偶然あるはずがない。
橘は今まさに自分達が立っているこの場所で命を落とした――もう、そうとしか考えられなくなっていた。
頭の中ではあくまで一つの可能性に過ぎないことは理解しているのに、尾城の脳裏にはここで襲われる橘の姿がありありと浮かんできていた。
何者かに襲われ、逃げようとする長身の女性。決死の抵抗の中で、腕時計が彼女の腕からすり抜ける。そしてどうにか犯人の手から逃れた橘は、安全な場所まで逃げるために土手道に出ようとした。だが、途中で彼女の身体は宙に投げ出された。何らかの理由で川の方へと転んでしまったのだ。
不安定な体勢で転べば頭から地面に接地してしまうこともあるだろう。そこに少し高さが、そう、この土手くらいの高さがあれば、転落死に近い状態で命を落とすことだって十分に有り得る。そうして橘は命を落としたのだ――一気に脳へと叩き込まれた映像に、尾城は思わず手を握り締めていた。
これは自分の想像だ。状況から勝手に連想しただけで証拠すらない。だからこれ以上憶測で考えるなと自分に言い聞かせたいのに、勝手に浮かんだこの映像は橘の遺体の状態とも合致してしまうせいで尾城には他の可能性が考えられなくなっていた。
土手から投げ出された橘の身体は、鈍い音を立てて地面へと落ちただろう。そして動かなくなった彼女を犯人は遺体発見現場まで移動したのだ。理由は分からないが、事件の発覚を恐れたのかもしれない。土手から陸続きの場所ではなく周りを水に囲まれたところへと移したのは、少しでも遺体の発見を遅らせるためだと考えればそこまで的外れとは思えなかった。彼女の死亡時期であれば今のように川の水位は下がっていたはずだから、いくら遺体を抱えていたとしてもよほどの体格差がない限りあそこまで行くことはできるだろう。
自分にこんな残酷な光景を思い起こさせた橘の腕時計を指して、面白いものなどと言う八尾に激しい怒りが湧く。彼の話では別人がそう言ったように聞こえるが、実際は違う。自分はここで八尾以外の人間を見ていない。彼の示した偽の橘が立っていた場所は、ここに着いてからずっと視界に入っていた。八尾は、ずっと一人だったのだ。
この男は平気な顔をして適当な嘘を吐いている――そう結論付けると、尾城は怒りのままに八尾を睨みつけた。
「八尾さん」
だがそんな尾城を制するように、河野の静かな声が彼の耳朶を震わせる。尾城の中の激情は一瞬だけその勢いを止め、河野の言葉に耳を傾けさせた。
「嘘はやめましょう」
「……嘘?」
諭すような声色の河野に八尾が未だとぼけたような顔を返すのを見て、勢いを止めたはずの尾城の怒りはまた沸々と熱を上げ始めた。
ここまではっきり言っているのにまだ認めないだなんて――ギリ、と奥歯を噛み締める。同時に尾城の頭に浮かんだのは、八尾が自分達に語った設定だった。
八尾は自称記憶喪失だ。もしかしたらこれもその演技の一つで、これから河野が何を言おうと〝記憶にない〟と言い張るつもりなのかもしれない。そう考えるとふざけるなと言いたくなったが、彼と話している河野が落ち着いているせいで尾城はその感情を自分の中に押し込めるしかなかった。
「この写真の女性――あなたが橘椿だと思っていた人物ですが、名前を鮫島貴子と言います」
「鮫島貴子……そこまで分かったんですね」
まるでよくやったとでも言わんばかりの八尾の様子に、尾城の頭の中の血は沸騰しそうなほど熱くなっていく。
「それから一緒に写っている男性……こちらに、見覚えはありませんか?」
写真を隠していた指をどけながら、河野は静かにそう尋ねた。いつもの粗野な口調からすればだいぶ彼らしくないものだったが、穏やかな言い方のはずのそれには怒りが滲んでいるように感じられる。
お陰で幾分か冷静さを取り戻した尾城は自分の至らなさを反省しながら、河野と同じように八尾を注意深く見始めた。どんな小さな反応だって見逃してたまるかと意気込んで、不信感を隠しもせず鋭い視線を八尾へと向ける。
さあ、どうとぼける――言い逃れを失って狼狽するはずの八尾は、しかし尾城の前で呆然と目を見開いていた。
だが、それだけだった。八尾が履いていた靴が本人の証言と違うというだけでは弱すぎる、と尾城は眉間に皺を寄せた。念の為署に連絡してもっと彼の履いていた靴のデザインが分かる画像がないか探してもらっているが、自分達の持っていたあの場面の画像が一番彼の姿をはっきりと捉えていたものだということを考えると、あれ以上のものは中々出てこないだろう。
だから結局八尾の話は信じるに値しないかもしれないということだけが、あの画像から得られたものだった。
それにあの町で聞いた話も嫌な感じだ――尾城は先程聞いた内容を思い返した。幼少期の八尾が住んでいた町で新しい話はそれほど得られなかったが、数少ない得られた情報がどうにも不穏なものばかりなのが気になっていた。
八尾の周りでは死が多すぎるのだ。人間だけならまだ不幸な偶然だと思えただろう。尾城は多くの人間にとって、命を奪う対象として一番ハードルが高いのが同じ人間だと思っている。だからたとえ連続した死が発生していたとしても、そうと明確に示すものがなければ誰かの意図が関与しているとはあまり考えられない。
それが子供の身の回りで起こったことならば尚更だ。幼い子供が故意に他者の命を奪うだなんて、現代日本ではまず考えられない。だから彼らの周りで近しい大人の死が続いたとしても、それは単なる偶然でしかないのだ。
しかし八尾を取り巻く死が人間以外――野良猫にまで及んでいたというのは、そんな尾城の常識を内側から爪でカリカリと引っ掻いてくるような気持ち悪さがあった。人間以外の生物の死には、時に人間が関わっていることもあるからだ。
そしてそれを〝八尾の周りの死〟として括ってしまえば――そこまで考えて、尾城は慌てて頭の中に浮かんだものを振り払った。全ての死に八尾本人が関わっているだなんてことは有り得ない。今の彼ならまだしも子供の八尾にそんなことができるはずがないのだ。だから全ての死を八尾と結びつけるのは無意味だと分かっているのに、それを避けようとすると途端に気持ち悪さが尾城の胸に広がっていく。
河野はどう考えているのだろうか、と尾城は横目で助手席の様子を窺った。自分の中にあるこのおかしな考えを、河野の冷静な意見を聞いて紛らわしたい。それなのに東京に戻れと自分に言って黙り込んでしまった先輩刑事は、出発してすぐにかかってきた電話の件もあり難しい顔でどこかを睨みつけていた。
「鮫島貴子が亡くなっていたなら、八尾の見た女は何者なんでしょう」
河野の考え事を邪魔しないように、尾城は話題を選んで話しかけた。彼の意見を聞きたいのは確かだが、そうでなくても何か適当な会話で気分を変えるだけでもいい。だから尾城が自然と口にしたのは、河野にかかってきた電話の内容を受けてのものだ。
鮫島貴子は二十年以上前に亡くなっている――それが、電話口の向こうからもたらされた情報だった。
「それを今から確かめに行くんだよ」
「じゃあ八尾のところに向かうんですか?」
「ああ」
河野のぶっきらぼうな返事を聞きながら、尾城の頭にはふと疑問が浮かんだ。
「……八尾は、あの写真を見たことがあったんでしょうか」
尾城が独り言のように言うと、「さあな」と静かな声が返される。
「父親の死後回収された物ってことは、八尾が一緒に住んでた家にあったはずだ。なら八尾が見れてもおかしくはない」
「もしあれを見たなら八尾はどう思ったんでしょう。母親の顔も知らなかったのであれば、父親と二人きりで写真に写る鮫島を母親だと勘違いしてもおかしくなさそうですが」
「確かにな。でもまあ、そんなの本人に聞かなきゃ分かんねぇだろ」
「そりゃそうですけど」
自分だったらどう思うだろうか、と尾城は想像してみた。頑なに詳細を隠されていた母親の写真を見つけたとしたら――さぞ嬉しいことだろう。しかも写真に写っているのはあんなに美人なのだ。顔を知ることができたという喜びもそうだが、それ以上の感情も持つかもしれない。
「でももし本当に見れてたなら、今までの彼の話は全部嘘ってことになりますね」
「信憑性が低くなるってだけだ、丸っきり嘘とは限らない」
「さっきはまるで八尾が嘘吐いているみたいなこと言ってたじゃないですか」
新城家で写真を見た直後の彼の様子を指して言えば、河野からは「俺だって動揺してたんだよ」と溜息と共に返された。
「まさかあんなところで似顔絵の女が出てくるだなんて思わないだろ? だからまあ、あの時は八尾が意図的に嘘を吐いてると思ったのは確かだ。でも冷静に考えれば小学校に上がる前の記憶なんて普通はそんな残ってないだろうし、もし残っていたとしても、例えば偽の橘を庇うために容姿だけ他人のものを言ったとかっていう可能性もあるだろ。ま、それも嘘吐いてるってことには変わりないが」
「そうか、そういうこともあるんですね」
自分が考えつかなかった河野の考えに尾城は感心したが、それを話した河野本人の表情がどこか浮かないのにも気付いていた。
視野を狭めないために可能性を一つに絞らないよう話すのは河野の優れた部分の一つだと思っているが、今はどうにもわざと核心を避けようとしているようにも感じられる。だが尾城にはいくら考えても河野の避けたがっている考えが思いつかなかった。
「八尾は今どこに?」
「聞くから待ってろ」
八尾の居場所は見張りがついているため簡単に分かる。湾岸線から東京に入ってすぐ河野が確認の電話をかけると、彼は今荒川方面に向かって歩いていることが分かった。
「なんでそんなところに……」
河野から聞いた尾城は前を向いたまま顔を顰める。荒川沿いで起きた二つの事件への関与が疑われている彼にとって、そこはあまり近付きたくない場所のはずだ。
「八尾の目的が何にしろ、そこならここから十五分もあれば着くだろ」
河野が意識して軽く聞こえるように言ったことは、尾城は気付かなかったふりをした。
§ § §
八尾のいる場所に着いた尾城達は、見張りの警官に交代を告げて彼を観察し始めた。荒川方面に歩いていた八尾の目的地は川にかかる大きな橋の下だったらしく、人気のないそこで時折誰かと話すような仕草を見せている。
自分達の死角になる場所に相手がいるのかと思ったが、彼の周りは半径二メートル程度はよく見えていた。それ以上離れた位置にいる人間と声を張り上げて話すのは考えにくいため、イヤホンを使って通話でもしているのだろう。
一通り八尾の観察を終えた尾城は、しかし、と周りに目をやった。そこは橘の遺体発見現場が見えるほど近く、八尾がわざわざ来る理由が分からない。
「行くぞ」
河野に促され、尾城は彼と共に橋に向かって歩き始めた。一歩整備された歩道を逸れれば真夏の雑草は相変わらず足元を覆い隠すほど生い茂り、それを踏みつけるたびに小さな虫達が慌てたように空中を舞う。横目でちらりと川を見れば、ここ数日の雨不足のせいで以前見た時よりも水かさが減っているのが分かった。
これならたとえ人を抱えていてもあの島まで行けるだろう――尾城が無意識のうちにそう考えてしまったのは、近隣住民の話でしか知らなかった川の状態を直接見たからだろうか。遠目に見える橘の遺体発見現場は、もはや本来の岸辺から陸続きとなっていた。
――ジャリ、ジャリ、といつの間にか自分の足元から聞こえる音が変わっていたことに気が付いて、尾城は慌てて意識を八尾に戻した。
雑草の茂った道はとうに抜けて、今は川のすぐ横の石だらけの道を歩いている。見たところここは時期によっては川の中ということもあるのだろう。
その道を足音も隠さず河野と歩いて行ったが、自分達に背を向けている八尾がそれに気付く気配はない。
「……の話……」
自分達とは反対方向に向かって、八尾が声を発しているのが聞こえる。尾城は聞き耳を立てようとしたが、ちょうど通話相手が話しているのか、彼はすぐに黙ってしまった。
「――八尾さん」
八尾のすぐ傍まで来ると、河野が静かに声をかけた。途端、彼は弾かれたように振り返り、更に自分達の姿を見て心底驚いたと言わんばかりに目を見開いた。
「刑事さん……どうしてここに?」
「少し確認したいことがありまして。今大丈夫ですか?」
河野がそう聞いたのは八尾の通話相手のことを考えてのことだろう。だが八尾は電話を切る素振りもなく、「ええ」と頷いてみせた。
「電話してたんじゃ?」
河野が今度ははっきりと確認する。
「電話? いえ、してませんけど」
独り言だったのだろうか――尾城は八尾の返事を聞いて彼の耳元を見てみたが、正面から見える範囲では確かにイヤホンのようなものは見当たらない。
もし独り言なのであれば、あまり何度も電話かと聞くのも気が引ける。本人が意識してやっていればいいが、大抵は無意識なのだ。それを指摘されるのはあまり気分のいいものではないだろう。
「それより確認したいことって、もしかして何か分かったんですか?」
河野も八尾が通話していたわけではないと結論づけたらしい。「ええ」と声を零すと、気を取り直すように背筋を正した。
「偽の橘椿と思われる人物の写真を見つけたんですが、ご確認いただけますか?」
その瞬間、八尾ははっとしたように後ろを向いた。けれど何もなかったのか、すぐに身体の向きを前に戻す。
不思議な行動だったが、虫でもいたのだろう、と尾城は気にしなかった。否、それ以上に視線を奪うものがあったせいで、尾城は八尾の行動を意識の外に追い出したのだ。
尾城の視線を縫い付けていたのは八尾の表情だった。後ろから向き直った時は怪訝そうに顔を顰めていたが、思い出したように河野の方を見た顔には色めきだったような表情を浮かべていたのだ。それは自分の嘘がバレた人間の顔ではなく、単純に知りたいことが分かった時のような表情にしか尾城には見えなかった。
どういうことだ――尾城は八尾の顔を見ながら頭の中が混乱するのを感じていた。これではまるで、八尾が本当のことしか話していないように見えてしまう。
鮫島は既に死んでいると確認が取れている。更に彼女は一人っ子だった上、娘もいなかったそうだ。身内に鮫島とよく似た人間がいるのかもしれないと思っていた尾城でも、もうその可能性はほとんどないだろうと思っていた。
だから内心では確信していたのだ、八尾は嘘を吐いていると。河野には諌められたが、ここまで判断材料が揃っているのだから尾城にその考えを変えることはできなかった。それなのに八尾の反応が自分の考えとは全く違ったものだったせいで、尾城はすぐに他のことを考えることができなかった。
「こちらです」
尾城が八尾の思考を探ろうとしている間にも、河野は彼に鮫島の写真を差し出していた。隣に写る人物を指で隠しているのは八尾の反応を探るためだろう。尾城はこれなら流石に相手は狼狽えるだろうと思っていたが、その期待に反し八尾は「この人です!」と声を強めた。
「間違いありませんか?」
「ええ、絶対にそうです。こんな美人間違えるはずありません。性格は……あれですけど」
「彼女に最後に会ったのはいつですか?」
「今日ですよ。っていうか今さっきまでここにいたんです」
「今……?」
八尾の言葉に、河野が訝しむような顔で尾城に目配せをした。その意図を悟った尾城も思い当たることがないとばかりに目線で訴える。
「ここで話していたんですか?」
「そうです。ちょうどこのへんに立っていて……本当に声をかけられる直前まではいたんで、刑事さん達も見たんじゃありません?」
何かがおかしい――尾城は今度ははっきりと河野の方を見た。河野もいつもの顰めっ面を更に力ませて自分と目を合わせている。だがすぐに視線を前に戻すと、静かに口を開いた。
「……一体、何の話をしていたんです?」
その河野の問いで今は彼が橘の存在に言及するつもりがないと悟った尾城は、自分も同じように八尾へと顔を向けた。
「いつものふざけた話ですよ。あいつはこれを僕が知ってるって言うんです」
そう言って自分達の方へと突き出してきた八尾の手の中にあったのは、ひと目見ただけで酷く汚れていると分かる金属製の鎖のようなものだった。しかしよく見ればそれは鎖だなんて無骨な表現ではなく、アクセサリーと言った方が正しい形状をしている。
きっと女物のブレスレットだろう――そう思い至った瞬間、尾城は頭が一気に冷えていくのを感じた。
「これ、どうしたんですか?」
「そこで拾ったんです。椿に面白いものがあるから見てみろって言われて」
河野と話す八尾の言葉を聞きながら、尾城は叫びだしたくてたまらなくなっていた。
八尾が持っているブレスレットは見たことがある。本物の橘が身に付けていたはずの時計だ。金森の話では遺留品から消えてしまっていた、彼女がとても大切にしていた品――それがこんなところに落ちている理由など一つしかない。
橘椿は、ここで殺されたのだ。
事故で橋から落ちたのかもしれないという考えは、もう尾城の中から消えていた。彼女の死が事故であれば今八尾の手にあの腕時計があるのはおかしい。橘の死の瞬間を目撃した人間もいないのに、一ヶ月以上ここに放置されていたであろう彼女の落とし物を、他でもない八尾が見つけるだなんて偶然あるはずがない。
橘は今まさに自分達が立っているこの場所で命を落とした――もう、そうとしか考えられなくなっていた。
頭の中ではあくまで一つの可能性に過ぎないことは理解しているのに、尾城の脳裏にはここで襲われる橘の姿がありありと浮かんできていた。
何者かに襲われ、逃げようとする長身の女性。決死の抵抗の中で、腕時計が彼女の腕からすり抜ける。そしてどうにか犯人の手から逃れた橘は、安全な場所まで逃げるために土手道に出ようとした。だが、途中で彼女の身体は宙に投げ出された。何らかの理由で川の方へと転んでしまったのだ。
不安定な体勢で転べば頭から地面に接地してしまうこともあるだろう。そこに少し高さが、そう、この土手くらいの高さがあれば、転落死に近い状態で命を落とすことだって十分に有り得る。そうして橘は命を落としたのだ――一気に脳へと叩き込まれた映像に、尾城は思わず手を握り締めていた。
これは自分の想像だ。状況から勝手に連想しただけで証拠すらない。だからこれ以上憶測で考えるなと自分に言い聞かせたいのに、勝手に浮かんだこの映像は橘の遺体の状態とも合致してしまうせいで尾城には他の可能性が考えられなくなっていた。
土手から投げ出された橘の身体は、鈍い音を立てて地面へと落ちただろう。そして動かなくなった彼女を犯人は遺体発見現場まで移動したのだ。理由は分からないが、事件の発覚を恐れたのかもしれない。土手から陸続きの場所ではなく周りを水に囲まれたところへと移したのは、少しでも遺体の発見を遅らせるためだと考えればそこまで的外れとは思えなかった。彼女の死亡時期であれば今のように川の水位は下がっていたはずだから、いくら遺体を抱えていたとしてもよほどの体格差がない限りあそこまで行くことはできるだろう。
自分にこんな残酷な光景を思い起こさせた橘の腕時計を指して、面白いものなどと言う八尾に激しい怒りが湧く。彼の話では別人がそう言ったように聞こえるが、実際は違う。自分はここで八尾以外の人間を見ていない。彼の示した偽の橘が立っていた場所は、ここに着いてからずっと視界に入っていた。八尾は、ずっと一人だったのだ。
この男は平気な顔をして適当な嘘を吐いている――そう結論付けると、尾城は怒りのままに八尾を睨みつけた。
「八尾さん」
だがそんな尾城を制するように、河野の静かな声が彼の耳朶を震わせる。尾城の中の激情は一瞬だけその勢いを止め、河野の言葉に耳を傾けさせた。
「嘘はやめましょう」
「……嘘?」
諭すような声色の河野に八尾が未だとぼけたような顔を返すのを見て、勢いを止めたはずの尾城の怒りはまた沸々と熱を上げ始めた。
ここまではっきり言っているのにまだ認めないだなんて――ギリ、と奥歯を噛み締める。同時に尾城の頭に浮かんだのは、八尾が自分達に語った設定だった。
八尾は自称記憶喪失だ。もしかしたらこれもその演技の一つで、これから河野が何を言おうと〝記憶にない〟と言い張るつもりなのかもしれない。そう考えるとふざけるなと言いたくなったが、彼と話している河野が落ち着いているせいで尾城はその感情を自分の中に押し込めるしかなかった。
「この写真の女性――あなたが橘椿だと思っていた人物ですが、名前を鮫島貴子と言います」
「鮫島貴子……そこまで分かったんですね」
まるでよくやったとでも言わんばかりの八尾の様子に、尾城の頭の中の血は沸騰しそうなほど熱くなっていく。
「それから一緒に写っている男性……こちらに、見覚えはありませんか?」
写真を隠していた指をどけながら、河野は静かにそう尋ねた。いつもの粗野な口調からすればだいぶ彼らしくないものだったが、穏やかな言い方のはずのそれには怒りが滲んでいるように感じられる。
お陰で幾分か冷静さを取り戻した尾城は自分の至らなさを反省しながら、河野と同じように八尾を注意深く見始めた。どんな小さな反応だって見逃してたまるかと意気込んで、不信感を隠しもせず鋭い視線を八尾へと向ける。
さあ、どうとぼける――言い逃れを失って狼狽するはずの八尾は、しかし尾城の前で呆然と目を見開いていた。
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