虚像のゆりかご

新菜いに/丹㑚仁戻

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第四章 東海林美亜

〈三〉不気味な行動

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「――だから、八尾が美亜を殺したと思ったんです」

 テーブルの向こう側で目を吊り上げながら、女性は忌々しそうに口にした。その声が本人にも存外大きくなってしまったようで、慌てたように手で口元を押さえる。千葉県の主要駅から離れた街とは言っても、それなりに人気ひとけはあるのだ。今尾城達がいるこのチェーンの喫茶店もそうで、まばらとは言い難い人の入りがあった。

「ですが今の話だと、告白の後しばらくは何もなかったんですよね? それだとちょっと飛躍しすぎているような……」

 尾城が問うと、目の前に座る女性――越野こしの優香ゆうかは「それは……」と顔を俯かせた。
 越野は東海林美亜の母親が連絡先を教えてくれた、彼女の親友だった女性だ。本人曰く、東海林美亜が自殺ではないと最初に言い出したのがこの越野らしい。
 彼女の話では、東海林美亜は死の一週間ほど前に八尾から告白されたのだそうだ。ある日の放課後、突然帰宅途中に声を掛けられてそのまま想いを告げられたらしい。
 越野は翌日東海林美亜本人からその話を聞いた時、色めき立つよりも先にただただ薄気味悪く思った。何故なら彼女は普段越野と一緒に登下校をしていたからだ。告白された日は偶然越野が風邪で学校を休んでいたせいで、東海林美亜は一人で帰っていたという。
 そして越野の記憶ではそれはとても珍しいことで、一年生の頃を含めてもそれまでに二、三回程度しかなかったらしい。だから越野は、もしかしたら八尾はかなり長い期間親友の後をつけていて、密かに告白のチャンスを狙っていたのではないかと思った――と、その時の気持ちを思い出したのか、越野は顔を歪めながら語った。

 だが越野の話を聞いた尾城には、彼女の語る八尾の行動は大して問題ないように感じられた。自分達には東海林美亜のことをよく知らないと言っていたくせに、実際は告白していたというのは問題だが、それはまた別の話だ。
 越野の話のように、告白のために相手と二人きりになれそうなタイミングを狙うのはそう珍しくもない。聞けば越野は学校でもずっと東海林美亜と一緒にいたらしく、告白の機会を窺うのは相当難しかっただろう。
 八尾が言うには、彼は東海林美亜とほとんど話したことがなかったらしい。それが本当であれば告白のために相手を呼び出せるような間柄でもなかったはずだ。となればやはり八尾は自然と東海林美亜が一人になるのを待つしかなく、当時の八尾がそれほどおかしいことをしたとは思えない。これで八尾がもっとストーカーまがいの行動をしていれば別だが、越野の話ではそれもなさそうだった。

「でも美亜は八尾と話したこともなかったんですよ? それなのに告白っておかしくないですか?」
「一目惚れという言葉もありますし……友人から始めたいと思って告白することもあるかと……」

 この女性は思い込みの激しいタイプなのだろうか――尾城はこっそりと隣に座る河野に視線で助けを求めた。
 河野は若い女性の相手をするのは苦手だ。前回の金森は例外だったが、越野のように感情でものを言うタイプの女性は接し方に困るのだろう。彼は肩を竦めるだけで、助け舟を出そうとはしなかった。

「だけどおかしいんです! あいついつも一人だったし、誰とも目を合わせようとしなかったし、何よりなんかちょっと怖くて……。ていうかあいつが誰かと話してるところなんか見たこともないのに、なんで突然美亜に告白するんですか? 大体、告白された後の美亜は『友達のままがいい』って断ったから気を遣って話しかけてたのに、あの子が死んだ後あいつ美亜とはろくに話したこともないって言ったんですよ!?」
「気まずかったとか……」
「それで美亜の気遣いまで否定します? そもそも美亜だって気味悪がってたんです。告白を断った後からあいつの視線を感じるようになったって!」
「告白した相手を見てしまうのはそう変なことでもないと思いますが……ただ、東海林さんが気味悪がるほど、というのは気になりますね」
「そうでしょう! だから美亜は自分から話しかけて関係を改善しようとしてたのに……!」

 感情的になる越野に尾城は疲れを感じていた。この女性の話を聞く限り、八尾は東海林美亜の死への関与を疑われるほどのことはしていない。他の生徒よりも少し、彼女に気味悪がられていただけだ。越野は鼻息荒く八尾を批判しているが、東海林美亜自身は相手に話しかけることができたことから、それほど深刻なものでもなかったように思える。
 何をどう言えばいいのかと尾城が考えていると、それまで黙っていた河野が口を開く気配がした。

「東海林さんの死後、八尾彰さんが彼女の死に関与していると噂になりましたね? それはあなたが今話してくださったようなことを周りに言ったからですか?」
「そうですよ。それが何か?」
「警察には言わなかったんですか?」
「言いましたよ! 言いましたけど、相手にされませんでした。だから八尾本人を問い詰めたんです」
「人前で?」

 これは越野の前に話を聞いた、別の東海林美亜の友人から聞いた話だ。彼女の死から数日後、急に越野がクラスメイトのいる教室で八尾を糾弾したらしい。その友人の話では、八尾の東海林美亜の死への関与にまつわる噂は恐らくそれが発端となっているのではないかとのことだった。

「だって怖いじゃないですか。普通にしてたって不気味なのに、美亜を殺したかもしれないんですよ? そんな奴と二人きりとか……」

 越野の話を聞きながら、尾城は思わず顰めてしまいそうになる眉に力を入れて表情を保とうとした。この女性の行動はあまりに良くない。親友を思っての行動なのかもしれないが、自分のことしか考えていないのだ。
 ただ八尾を疑うのと、それを声高に人前で主張するのとではわけが違う。本人は自分の安全のためにやったことだと思っているようだが、学校という閉ざされた空間でするそれは相手の存在そのものを否定することに等しい場合もある。

「お話は分かりました。今日のところはこれくらいにしておきましょう」

 河野の妙に落ち着いた声に、尾城は彼もまた同じように考えているのだと悟った。


 § § §


 東京方面に車を走らせながら、尾城は運転席の窓を少し開けた。途端に真夏のムワッとした空気が流れ込んできたが、ほんの僅かにそれまで感じていた息苦しさが和らいだ気がする。
 と言っても息苦しいのは実際に車内の空気が悪いせいではなく、自分の心情的な問題だとは分かっていた。尾城は数回深い呼吸を繰り返すと、エアコンの冷気を逃してしまう窓を閉めた。

「あれは流石に八尾が気の毒だな」

 おもむろに河野が溜息混じりで言ったその言葉は、尾城が考えていたことに同調するような内容だった。どうやら今の一連の行動で自分の心の内が筒抜けになってしまったらしい――尾城は気まずいものを感じたが、先輩刑事の気遣いに甘えることにした。

「自分の思い込みで周りを巻き込んでますもんねぇ……結構他の生徒も越野の味方をしたみたいですから、八尾の高校生活は針のむしろになったでしょうし」

 越野と会う前後、東海林美亜の両親が連絡先を教えてくれた他の同級生とも尾城達は会っていた。簡単に話を聞いた程度だが、彼らはみんな越野の言い分を信じて乗っただけだったらしい。今にして思えば馬鹿なことをしたと悔いている者もいたことから、やはり越野の話には何も証拠はなかったのだろう。

「ただ、東海林美亜は事故の可能性もあるのに自殺に落ち着いたっていうのがな。飯岡先生の話じゃあ、当時の屋上のフェンスは胸元くらいの高さしかなかったかららしいが……」

 〝当時〟という言葉がつくのは、既にそのフェンスは新しいものに交換されているからだ。それまでは通常のメンテナンスや耐震補強目的以外では、校舎の設備は建てられた当時――昭和中期のもののままだったらしい。
 写真を見せながら教えてくれた飯岡の記憶では、当時のフェンスは女性でも肘を置いて寄りかかれる程度の高さしかなく、その上出入りも禁止されていなかったそうだ。それほど綺麗な場所ではないから他校のものほど生徒達が好んで行くことはなかったが、それでも東海林美亜の件まで事故もなかったのがむしろ不思議なくらいだったという。

「県警にいる友人にも確認してもらったんですけど、残されていた指紋の状態から自力でフェンスを乗り越えたっていう結論になったみたいですね。フェンスって言っても柵と表現した方がいいような物で、人間の力じゃ滅多に歪みもしないからそれくらいしか判断材料がなかったみたいです」

 河野に答えながら、尾城は頭の中に川の欄干を思い浮かべた。自分の常識では屋上のフェンスと言えば人間の背丈を越えて網状になっているもののイメージが強いが、以前あの高校の屋上にあったものは川への転落防止用の欄干に近かったのだろう。いくつかの写真に小さく写っていたものも、多少太さは足りないがそれによく似ていた。

「なら乗り越えなくても、ふざけて身を乗り出して落ちた、っていう状況も有り得るってことか?」
「ええ。東海林美亜の性格から考えてそういうおふざけはしないっていうのが、事故が否定された要因ですね」
「だったら自殺もだろ。実際はどうにしろ、周りの話じゃふざけないってのと同じくらい東海林美亜は自殺なんてしないって意見が多かったんじゃないのか?」
「それは周りの影響ですよ。ほら、この当時って結構あちこちで中高生の飛び降り自殺が起こって報道されまくってた時期じゃないですか。東海林美亜は感受性豊かだったという周りの評価もあって、そういった自殺の報道に影響された可能性が高いって判断されたみたいですよ」
「……本当にそうなら東海林美亜を殺したのは八尾じゃなくて大人だな」

 確かにそうだ、と尾城は忌々しげに言う河野の言葉に同感した。東海林美亜が本当に自殺なのであれば、大人達がテレビで自殺を取り上げすぎたせいで彼女は気持ちが引っ張られてしまったのだろう。今ではそういった報道を控えるように厚生労働省が通達を出しているが、この頃はそれほどでもなかったと記憶している。
 尾城は暗くなった空気を切り替えるように、別の話題を頭の中から引っ張り出した。

「それより俺は東海林卓と八尾の関係の方が気になりますけどね。兄の方が妹の自殺にまつわる噂を信じ込んでいたなら、八尾とトラブルになりかねません」

 八尾が東海林美亜の死に関わっている可能性は低く思えたが、越野のような人間もいる。特に東海林卓は美亜の実の兄だ。仮に普段は冷静な性格でも、妹の自殺を信じたくなければ別の人間に責任の所在を求めることもあるだろう。

「だったら東海林卓を知らないって八尾の話も信じきれないな」
「ええ、その場合は少なくとも顔か名前くらいは知っていそうなものかと」

 これはあくまで東海林卓が越野の言い分を信じていればの話だ。信じていなければ東海林は八尾と接点を持とうとはしないだろうし、もし信じていたとしても、彼に自制心があれば正面から八尾に向かっていくこともないだろう。

「まあ、学校内での噂が東海林の耳に入ったかは怪しいとこですけどね。確か彼は妹とは違う高校ですし、地元を離れていたならそういう噂があったと知った時にはもう噂自体が風化した後だったかもしれません」

 そこまで言うと、尾城は口を閉じて前を見つめた。運転に集中してずっと頭の中をちらついているものを無視しようと試みたが、どれだけ追い払ってもまた戻ってくる。今河野と話をしている時だって、それは尾城の意識を一部奪っていた。これは別に話す必要はないだろう――そう何度自分に言い聞かせても、頭の中から消えそうもない。

「……それよりも――」

 やっぱり駄目だ、と尾城は観念してそれを口にすることにした。得体の知れない不気味さを感じるためずっと話題に出すことを避けていたが、避ければ避けるほどそれは鮮明になって尾城の意識を支配しようとしてくるのだ――写真で見た、東海林美亜と橘椿の容姿が。

「――俺が気になるのは、東海林美亜の容姿です。橘とあれだけ似ているのは偶然とは思えません。さっき写真を見せてもらった時、正直ぞっとしましたよ。八尾は橘をただの店員だと言っていますが、かつての想い人と似ているのであれば同じような行動をしていたのかも。東海林美亜への告白を黙っていた件もありますし」
「今度は橘に告白する機会を窺って後を付ける、か」
「そうです。それが橘にストーカーだと思われたのかもしれません」
「筋は通るな」

 越野の話が本当であれば、八尾は告白するために相手の後を付けるタイプの可能性がある。越野がそれを気味悪く思ったように、橘もまた嫌な想いをしたかもしれない。特に彼女の場合は仕事で帰宅が夜遅くになるため、その分恐怖も増すだろう。
 尾城が八尾の行動について考えながら車を走らせていると、隣から「まあ」と声が聞こえてきた。

「何にしろ、この後八尾と一緒に奴の家の捜査だ。何か分かることもあるかもしれない」

 そう言って、河野はそれきり黙り込んだ。
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