虚像のゆりかご

新菜いに

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第三章 虚実

〈二〉裏切り

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 机と椅子だけの、他には何もない部屋。僕は今、警察署にいた。新宿に記憶を探しに行ってから数日経って、先日来た刑事達が再び僕を尋ねてきたのだ。
 任意で警察署に来てくれという言葉に最初はまだ無実の証拠を掴んでいないから断ろうとしたものの、前回とは違う彼らの鋭い視線を見てその考えは捨てた。僕を連れて行きたい理由を聞けば、別の事件でも僕の名前が浮上したらしい。なんだそれはと頭が真っ白になったけれど、同時に納得してしまったのも事実だ。
 僕を東海林卓殺しの犯人に仕立て上げようとしている真犯人ならやりかねない――〝別の事件〟とやらの概要すらまだ聞いていなかったが、どうせ僕が犯人に見えるような形で証拠が残されているのだろう。
 最近起きた別の事件といえば、東海林卓の遺体発見現場近くで別の遺体が見つかった件だろうか。確か死後相当な時間が経っているとニュースで言っていた。身元はまだ分かっていないのだと思っていたが、ここ二日はバイトが忙しくてろくに情報を追えていないことを思い出した。本当なら合間を縫ってでも色々と調べるべきなのだろうが、四日前に自分の行動を追ったのに何も得られなかったせいでやる気が失せていたのは否めない。
 だから東海林の件とは違い、今度は被害者の名前すら分からなかった。事件が起きた時期だって遺体が発見された日とはだいぶ異なるだろう。そんなもの、どうやって無実の証拠を探せばいいかだなんて分かるはずもない。
 そもそも警察は僕を疑っているのだ。ならばいくら任意とはいえここで協力を拒めば、僕の立場が悪くなるのは明白。だからこの件に関しては正直に話して、僕が犯人だなんて有り得ないと警察が判断してくれるのを信じるしかなかった。

「――ご協力ありがとうございます」

 僕の前に座った若い刑事が言う。確か名前は尾城だっただろうか。彼はまだそこまで怖くないが、その隣に立っている歳のいった刑事の方には嫌な凄みがあった。

「ご自宅でお話ししたとおり、先日お伺いしたのとは別の事件でも八尾さんの名前が浮上しました。わざわざご足労いただいたのはそのためです」
「ええ、それは承知しています。でも……別の事件って何のことですか? 最近あんまりニュース見れていなくて……」

 僕が尋ねると、尾城はほんの少しだけ眉を顰めた。

「二日前に荒川で女性の遺体が発見された件はご存知ですか?」
「だいぶ腐敗が進んでいたっていう、あれですか?」
「そうです。こちらの件に関しては、少なくとも八尾さんと被害者に面識があったことが分かっています」

 ああ、だからか――僕は尾城の態度が以前と少し変わっていた理由を悟った。
 僕は勿論その事件とは関係ないけれど、尾城達警察からしたら僕は容疑者なのだろう。それも面識があったということは、かなり疑いは強いのだ。それなのにその僕が事件のことを知らないと言うから、とぼけているように見えているのかもしれない。
 だが、そう思われても僕にはどうしようもなかった。実際に知らないのだから、彼らに教えてもらわなければ話についていくことすらできない。

「あの、被害者って……?」

 だから大人しく質問を重ねると、尾城が机の上に写真を出した。

「こちらの女性に見覚えは?」

 写真を見た瞬間に、僕はこの女性を知っていると思った。でもすぐに思い出せない。
 一体誰だっただろうか――少し考えて答えが浮かんだと同時に、だから自分が呼ばれたのだと理解した。
 何故ならその写真に写った女性は、僕が少し前までよく行っていた居酒屋の店員だからだ。彼女が被害者なのであれば、居酒屋の防犯カメラに僕が映っていることもあるだろう。
 でも、それだけだ。数え切れないほどいるであろう客の中から、どうして僕が怪しまれているのか分からなかった。

「この人、居酒屋の店員さんですよね? 駅の西口の方の……」
「ご存知なんですね」
「当然です。彼女、仕事が早いし丁寧だから……僕も居酒屋で働くことが多いから凄いなぁと思っていたので」
「それ以外の感情は?」
「は?」
「〝よく行く店の店員〟という以外に、この女性に対して何か思ったりはしていませんか?」

 何を言っているのだろう、と僕は尾城の顔を確認した。けれど彼は至って真面目な表情で、慌てて窺ったもう一人の刑事――河野もまた厳しい顔で僕を見つめていた。

「あの、質問の意味がよく分かりません。確かにこの人のことは覚えていますが、あの店の店員さんだなってこと以外は何も……だって名札すら見た記憶がないんですよ? 一体何を聞きたいんですか?」
「彼女の名前は知らないと?」

 それまで黙っていた河野が僕を睨みながら問いかけてきた。その迫力に思わず肩が揺れてしまったけれど、そんなふうに睨まれたところで知らないものは知らないのだ。

「知りません。しかもここしばらくは僕自身仕事が忙しかったので、あの店に行ってもいません」

 これは事実だ。今の時期は居酒屋に限らず飲食店は客の入りが悪い。この間ヘルプで呼ばれた時のように突然団体客が入ることもあるけれど、それ以外では満席になることなんて殆どない。
 となると当然シフトが減らされて収入も心もとなくなるから、僕は清掃など別のバイトを掛け持っていた。それらは基本的に昼間のシフトになるようにしているから、単純に労働時間が長いというだけでなく、夜は早く寝るためにバイト以外で出かけるのを控えていたのだ。
 そんな細かい事情までは勿論説明しなかったが、女性の名前を知らないという僕の答えに河野は深い溜息を吐いた。それは僕の答えに納得したもののようには感じられなくて、その証拠にゆっくりとこちらに視線を合わせた彼の目はそれまでよりも更に鋭くなっていた。

「橘椿さんですよ」
「は?」
「この女性の名前です。橘椿さんといいます」

 そう言う河野の顔は冗談を言っているようには見えなかった。だけど僕には冗談としか思えない。だって、この人は椿じゃない。

「何言ってるんですか? 椿はこんな顔じゃないです。確かに雰囲気は結構似てますけど、椿はもっとこう、キリッとした顔で……」
「先日八尾さんが一緒にいた女性とは別人だと?」
「そうです」

 そういえば前回この刑事達が来た時、僕は椿と一緒にいたことを話したのだ。その時に僕の姿が映っていたコンビニの防犯カメラに彼女の姿もあるはずだと言ったし、なんだったら彼女の家も教えたはず――以前のやりとりを鮮明に思い出して、僕は思わず身を乗り出した。

「あの防犯カメラに椿の姿が映っていたでしょう? だったら別人と分かるはずです。それに家だって……!」

 僕が言うと、今度は尾城が「防犯カメラは確認しました」と口を開いた。

「あの防犯カメラには、同じ時間帯に八尾さん以外の姿は映っていませんでした」
「それは少し離れて歩いてたから……!」
「前後一時間は何度も確認しています。それ以上空くほど離れていたんですか?」
「そんな……だって、僕は椿の後を追って歩いていたんです。彼女の姿が見えなくなるほどなんて……」

 そんなこと有り得ない。椿の後を追って歩いていたから、僕はあの家に辿り着いたのだ。

「一度も目を離していない?」
「それは……正直微妙です。あの時は気まずくて、確かあちこち見て誤魔化してましたから……でも見失ってはないです」
「なら防犯カメラの件に関しては、八尾さんがちょうど目を離していた時にその女性が道路の反対側にいたということも考えられるでしょう。そうでなくとも車道まで出てしまえばカメラからは死角になりますしね」
「なんで……」

 何故椿はそんなことをしたのだろう。意図的にやったのだとしたら、彼女は自分がカメラに映らないようにした可能性もある。
 椿がそんなことをする理由なんて一つしかない――ふと浮かんだ考えに目を背けたくなった時、河野の厳しい声が僕の意識を引き戻した。

「問題は、橘椿さんの自宅の方です」

 どういうことか分からなくて、僕はただ河野を見上げることしかできなかった。

「八尾さんのお話を伺った後、教えていただいた住所を元にあなたが橘椿だと言う女性の家に向かいました。結局留守でしたが……まあ、それはいいんです。事前連絡なしで行ってますから、そういうことはよくあります」
「……でも、さっき問題って」

 僕が続きを急かすと、河野は意味の分からないことを言い出した。

「この写真の女性――正真正銘の橘椿さんですが、彼女の自宅があなたに教えられたものと同じだったんです」
「え……?」

 理解が追いつかない。椿の名前のこともそうだけれど、家まで同じだと言われたら何の話をされているのかすら分からなくなりそうだった。

「……いや、待ってくださいよ。だってあの日僕は椿の家に入ってます。椿が家の鍵を開けたのだって見ているんですよ?」
「その鍵はどこから出しましたか?」
「どこからって……」

 そんなの荷物からだろう、と考えずに言いそうになって、僕は口を噤んだ。あの日の椿は何も荷物なんて持っていなかったし、そういえば僕は見ていたのだ――椿が消火栓の扉の中から鍵を取り出すところを。随分不用心だと思った記憶があるからそれは間違いない。

「玄関横の、消火栓……」
「その女性は鍵を失くしたと言っていましたか?」
「いえ、何も……というか僕が何も聞かなかったんです。不用心だとは思ったんですけど、あの時はさっきも言ったように少し彼女と気まずくて……」

 心臓がうるさかった。河野の問いに答えるごとに、分からなかった何かが明確になっていったから。そしてそれは、考えてもみなかったことだから。

 僕が橘椿だと思っていた女は、まるっきり別人だったかもしれないのだ。

「橘さんの部屋では傷の手当てをしたんですよね?」
「ええ、そうです。椿が救急箱を出してくれて……」
「何か飲みました?」
「コーヒーを。これも椿が淹れてくれたので、まさか他人の家だとは……」

 僕が続きの言葉を見失った時、ちょうど取調室のドアをノックする音が響いた。席を立とうとした尾城を止めて、河野が部屋の外に出る。そして少しして戻ってきた河野は、僕を睨みつけるようにしながら話を再開した。

「先程採取したあなたの指紋が、橘さんの室内に残されていたものと一致しました」
「っ……それはそうでしょう? だって僕はあの部屋で過ごしたんですから。その、偽物の椿と……」
「本当に?」
「え?」

 河野は持っていた書類をめくりながら僕を見る。部屋の外に出る前には持っていなかったから、外でもらってきたのだろう。何が書いてあるのかは僕には検討も付かないはずなのに、どういうわけか凄く嫌な予感がした。

「橘さんの部屋で見つかった指紋――特に救急箱とマグカップですが……あなたのもの以外では、橘さんの指紋しか検出されていないんですよ」

 一瞬当たり前だろうと思ったが、それはおかしいのだ。ここで言う〝橘さん〟とは本物の橘椿のことを指していて、僕が一緒に過ごした椿ではない。〝橘さん〟と僕と、椿の指紋が付着していなければならない。

「……拭き取ったってことですか?」
「その形跡もありません。それに消火栓の中にあった鍵にもあなたの指紋が付いていました」
「ッそんなの有り得ないですよ! だって他のものはともかく僕は鍵になんて触ってないんです!」

 そうだ、あの家の鍵は椿が開けた。僕はただ彼女の開いたドアを出入りしただけ。それなのに鍵に僕の指紋なんて付くはずがない。
 可能性があるとすれば僕が眠っている時だ。あの時であれば椿は鍵に僕の指紋をつけることができる。できるけれど、その考えを肯定するにはさっき否定した彼女に対する考えを受け入れなければならない。
 僕が黙り込んでいる間にも、河野はお構いなしとばかりに言葉を続けた。

「あなたにも言い分はあるでしょうが、実際に残っている証拠はそれを否定してるんですよ。つまり八尾さん、私が聞きたいのはね――」

 嫌な予感が全身を包み込む。腹の底から悲鳴が上がる。この後に続く言葉はきっと、僕が考えてもいなかったものだろうから。

「――あなた、一人であの部屋に行ったんじゃないですか?」

 その瞬間、頭から一気に血の気が引いた。僕が一人であの部屋に行っただなんて、そんなことあるはずがない。だから絶対に有り得ないと否定したかったのに、僕の口はぴくりともしなかった。だって、警察の手元にある証拠は確かにそう示していると僕にだって分かってしまったから。事実とは違う証拠しか、ここには存在していないのだ。
 一体何故そんなことになっているのかなんて、もはや考えるまでもなかった。

 ああ、やはり椿も真犯人の仲間だったのだ――数分前に浮かんで受け入れなかった考えが、僕の頭を殴りつけた。
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