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第二章 橘椿
〈一〉最期の夜道
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七月二十五日――
橘椿は夜道を歩いていた。荒川の土手に作られた、コンクリート舗装の歩きやすい歩道だ。もう少し早い時間帯であればジョギングをする人々がいるが、既に終電が最寄り駅を通り過ぎたこの時間ではそういった人影はまばらになっている。日中はランナーの邪魔にならないよう気を付けて歩かなければならないが、今は十分に一人すれ違うかどうかだ。
人通りの少ない道ではあったが、一人で歩いていてもそれほど不気味さはなかった。この道はランナーが多いためか街灯がしっかりと整備されている上、住宅街にも隣接しているのだ。人通りのなくなった夜明け前の繁華街の方が嫌な印象を受ける者は多いだろう。
実のところ、椿が最寄り駅から自宅に帰るためにこの道を通る必要はなかった。むしろ大幅な遠回りとなるため、一刻も早く帰宅したい身としては無駄な時間を過ごしているとすら感じさせられる。それでも椿がわざわざそんな無駄なことをするのは、すぐには帰れない事情があったからだ。
ここのところ毎日のようにいるのだ――自宅近くに、見覚えのある男が。
椿は最初、相手は自分に用があるのかと思った。だから一応声をかけてみたが、椿に声をかけられた男はそそくさと逃げるようにしてその場を後にするだけだった。
ならばもう来ないかと思えば、そういうわけでもなかった。男は翌日も来たのだ。しかし今度は隠れるようにしていたから、もしかしたら用があるのは自分じゃないかもしれないと思い直して、椿は気付いていないふりをしながら自宅の中に入った。けれど窓からこっそりと覗き見た男は、椿の方を見ていた。
きっと偶然だろう――別の誰かに用があったのだとしても、顔見知りである自分が帰宅するところを見ていれば目で追ってしまうこともあるかもしれない。その時はそう自身に言い聞かせたが、男はその後も毎日毎日マンション近くに現れて、椿が帰宅後に窓から見ると顔を彼女の方に向けていた。流石に偶然とは思えなくなった頃には、椿は薄気味悪さを感じるようになっていた。
ただこちらを見ているだけで何もしないのだから、害はないのかもしれない。それでもまるで帰宅を待ち構えるかのようにされるのは気持ち悪く、椿は体力に余裕があればこうして遠回りするようになった。あまりに遅い時間まで帰宅しなければ、男が諦めて帰ると偶然知ったからだ。
だから椿がこうして遠回りするのは自衛のためだった。仕事でどうしても帰宅が遅い時間になってしまうから、人通りの多い賑やかな通りというのはそもそも近所にはない。
この道は椿が知る限りでは一番明るく、安全そうに見える場所だ。念の為いつでも助けを求められるよう手にはスマートフォンを持ったまま、川の流れる音や虫の声を聞きながら夜の散歩に勤しむ。折角なら季節の変化を楽しみたかったが、事情が事情なだけに中々そういう気分にはなれなかった。
「……そろそろいいかな」
街灯の下で立ち止まって、椿は左腕に付けた腕時計で時間を確認した。手に持ったスマートフォンで見てもいいが、学生の頃からずっと付けている腕時計で時間を見るのが癖になっていた。実用性ではなくデザイン性重視のものだから暗い夜道では見づらいが、それでも使いたくなるくらい気に入っているものだ。
すぐ近くに見える橋を目印に、椿は自分の位置を頭の中に思い浮かべた。時計の針は一時三十二分を示しているから、これから自宅に向かえば到着する頃には午前二時近くになっているだろう。元々二時半までに就寝できれば支障のない生活をしていたため、帰宅後すぐにシャワーを浴びて寝れば翌日に差し障ることはない。
それでも以前のように家でゆっくりとする時間が取れなくなってしまったのは不満だった。不満だったが、気味の悪い思いをするよりはずっといい――少し考え事をしていた椿は、背後の気配に気付いていなかった。
橘椿は夜道を歩いていた。荒川の土手に作られた、コンクリート舗装の歩きやすい歩道だ。もう少し早い時間帯であればジョギングをする人々がいるが、既に終電が最寄り駅を通り過ぎたこの時間ではそういった人影はまばらになっている。日中はランナーの邪魔にならないよう気を付けて歩かなければならないが、今は十分に一人すれ違うかどうかだ。
人通りの少ない道ではあったが、一人で歩いていてもそれほど不気味さはなかった。この道はランナーが多いためか街灯がしっかりと整備されている上、住宅街にも隣接しているのだ。人通りのなくなった夜明け前の繁華街の方が嫌な印象を受ける者は多いだろう。
実のところ、椿が最寄り駅から自宅に帰るためにこの道を通る必要はなかった。むしろ大幅な遠回りとなるため、一刻も早く帰宅したい身としては無駄な時間を過ごしているとすら感じさせられる。それでも椿がわざわざそんな無駄なことをするのは、すぐには帰れない事情があったからだ。
ここのところ毎日のようにいるのだ――自宅近くに、見覚えのある男が。
椿は最初、相手は自分に用があるのかと思った。だから一応声をかけてみたが、椿に声をかけられた男はそそくさと逃げるようにしてその場を後にするだけだった。
ならばもう来ないかと思えば、そういうわけでもなかった。男は翌日も来たのだ。しかし今度は隠れるようにしていたから、もしかしたら用があるのは自分じゃないかもしれないと思い直して、椿は気付いていないふりをしながら自宅の中に入った。けれど窓からこっそりと覗き見た男は、椿の方を見ていた。
きっと偶然だろう――別の誰かに用があったのだとしても、顔見知りである自分が帰宅するところを見ていれば目で追ってしまうこともあるかもしれない。その時はそう自身に言い聞かせたが、男はその後も毎日毎日マンション近くに現れて、椿が帰宅後に窓から見ると顔を彼女の方に向けていた。流石に偶然とは思えなくなった頃には、椿は薄気味悪さを感じるようになっていた。
ただこちらを見ているだけで何もしないのだから、害はないのかもしれない。それでもまるで帰宅を待ち構えるかのようにされるのは気持ち悪く、椿は体力に余裕があればこうして遠回りするようになった。あまりに遅い時間まで帰宅しなければ、男が諦めて帰ると偶然知ったからだ。
だから椿がこうして遠回りするのは自衛のためだった。仕事でどうしても帰宅が遅い時間になってしまうから、人通りの多い賑やかな通りというのはそもそも近所にはない。
この道は椿が知る限りでは一番明るく、安全そうに見える場所だ。念の為いつでも助けを求められるよう手にはスマートフォンを持ったまま、川の流れる音や虫の声を聞きながら夜の散歩に勤しむ。折角なら季節の変化を楽しみたかったが、事情が事情なだけに中々そういう気分にはなれなかった。
「……そろそろいいかな」
街灯の下で立ち止まって、椿は左腕に付けた腕時計で時間を確認した。手に持ったスマートフォンで見てもいいが、学生の頃からずっと付けている腕時計で時間を見るのが癖になっていた。実用性ではなくデザイン性重視のものだから暗い夜道では見づらいが、それでも使いたくなるくらい気に入っているものだ。
すぐ近くに見える橋を目印に、椿は自分の位置を頭の中に思い浮かべた。時計の針は一時三十二分を示しているから、これから自宅に向かえば到着する頃には午前二時近くになっているだろう。元々二時半までに就寝できれば支障のない生活をしていたため、帰宅後すぐにシャワーを浴びて寝れば翌日に差し障ることはない。
それでも以前のように家でゆっくりとする時間が取れなくなってしまったのは不満だった。不満だったが、気味の悪い思いをするよりはずっといい――少し考え事をしていた椿は、背後の気配に気付いていなかった。
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