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第一章 虚夢
〈四〉彼らの名前
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東海林卓――最近よく聞くその名前は、僕にとってはニュースで流れてきて初めて知ったものだ。年齢も二十五歳と、僕よりも三つ年上だから実は級友だったということもないだろう。
「バイト先……なら流石に覚えてるだろうし」
僕はアルバイトを転々としている、いわゆるフリーターというやつだ。今まで働いてきた場所は居酒屋が多く、そのどれもがチェーン店で、アルバイトの入れ替わりもそこそこ激しい。
それでも店内という閉ざされた空間で働くのだから、最低限他の従業員の名字くらいは毎回きちんと覚えているつもりだ。フルネームを覚えている自信はないけれど、名字だけなら流石に把握していると自負している。
第一、東海林なんて名字は結構珍しい。〝しょうじ〟という音はそうでもないけれど、東海林という漢字を名前に持つ人は少ない。しかも元の漢字と全く読み方が違うのだから、東海林と書いて漢字通りの読み方はしないという記憶は残っても、正しく音まで覚えるのは一度聞いただけでは難しい人も多いだろう。
それでも僕が簡単にこの名前を覚えられたのは、以前同じ名字の人に出会ったことがあるからだ。といってもその人一人しかこの名字の人を知らないから、もし彼の名前を以前聞いたことがあれば印象に残っているはず。
だからやはり、その名前を聞いてもピンとくるものがない僕は東海林卓を知らないのだ。知らないことを思い出そうとしたところで思い出せるわけがない。
記憶に手がかりがないのであれば、他のものを探さなければならないだろう。では何から始めようか――そう考え始めた時、ふと椿のことを思い出した。
「……本当に何も知らないのかな」
結局、椿が本当に関与していないのかは不明なままだ。のらりくらりと意味不明な返事しかしてくれないから、ふざけているのか真面目に答えているのかすら分からない。
でも考えれば考えるほど、彼女があそこにいたのはおかしい気がした。あの場所は周囲に街灯があまりないせいか、夜になると人通りがほとんどなくなる。真夜中となれば尚更だ――と、ニュースでリポーターが言っていた。暗くて怖いから、近所の人は避けて通るらしい。
そして、椿の家。最寄り駅とあの場所は彼女の家を挟んで正反対にあるから、帰りがけに偶然通りかかったということもないだろう。コンビニやスーパーだって駅側の方がたくさんある。確かにあの場所から椿の家までの間にコンビニはあるものの、距離的には駅側の方が明らかに近い。
「やっぱり、椿は偶然居合わせたんじゃない」
立地だけでなく、死体を見た時の彼女の反応だってそうだ。人が死んでいるのに全く動揺を見せないなんて有り得ない――僕はそう思い至ると、椿に話を聞くために玄関を飛び出した。
§ § §
「――っていうことなんだけど」
探るように言った僕に、椿が面白そうに微笑む。僕らがいるのは昼下がりの公園の片隅だ。なんてことのない場所のはずなのに、それが用意された舞台かのように思わせる椿の笑みに頭がくらくらした。
椿の家に向かった僕が外にいるのは、彼女と途中で会ったから。家まで行こうと思っていたから突然目の前に彼女が現れた時は心底驚いた。
一方で椿はそんな僕の姿を見て、『そろそろ来ると思っていたよ』と口端を上げた。そう言うということはやはり、彼女は東海林の死と無関係ではないのだろう。出かける前よりも大きくなった疑念は僕の中にあった彼女に対する気遣いを掻き消して、気付けば糾弾するような口調で僕は椿に自分の考えを叩きつけていた。
「君がそう思うなら、そうかもしれないね」
疑念を顕にする僕の口調を物ともせず、椿の調子は全く変わらない。
「いい加減真面目に答えろよ。お前はあそこで何をしていたんだ? 僕をあんな目に遭わせた奴とはどんな関係なんだよ!」
「おや、私が犯人だとは思わないのかい?」
椿はわざとらしく目を丸めながら僕を見た。こういう馬鹿にしたような態度を見ると前言撤回したくなるが、僕だって馬鹿じゃない。あの夜は自分の置かれた状況に混乱していたせいで彼女を疑ったが、よく考えると椿が僕を連れ去れるわけがないのだ。
「最初に会った時に『そんなことできない』って言ったのは椿だろ」
「それを信じるのか、という問いだよ」
「お前を信じてるわけじゃない。でも冷静になって考えてみれば現実的に不可能だ。お前は女の人で、僕は男なんだから。いくら僕より背が高いって言ったって、気絶した男をあんな場所まで連れて来れるわけないだろ」
「まあ、大抵の女性は無理だろうね」
まるで自分にはできるぞと言わんばかりの口振りだったが、どうせいつもの適当な軽口だろう。念の為彼女を観察してみれば、この間と同じ黒いワンピースを纏った身体は線が細く、腕もそれに見合った太さしかないのは明らかだった。
「だから椿はあの事件と関係はしていても実行犯じゃない。他にいるんだろ? 誰なんだよ」
僕が詰めるように問いかけると、椿は嘲るような笑みを零した。
「君は本当、便利な頭をしているね」
「は? 馬鹿にしてるのか?」
「いいや? それが君にとって必要なことなんだろうなって思っただけだよ」
椿の言うことはいつも難解だ。使う単語は簡単なのに、適当に相手を煽るようなニュアンスを込めるせいか何を言われているのか理解しづらい。
彼女の発言に大した意味がないことはもう分かっているのに、どうしても一瞬考えさせられてしまうのだ――『これはどういう意味だ?』と。
でも考えたところで答えなんて出るはずがなかった。なんてったって椿の発する言葉は万人に当てはまるような適当なものばかりなのだ。たとえ何か思い当たることがあったとしても、それを彼女が知っているとは思えなかった。
「……意味分かんないこと言って誤魔化そうとしたって無駄だぞ。僕はお前の口から犯人のことを聞くまで引き下がらないからな。それか東海林のことでもいい。何かしらは知ってるんだろ?」
「必要かな?」
「必要?」
想像していなかった返事に思わず鸚鵡返しになる。顔を顰めて椿を見てみれば、日中の公園という明るい場所のはずなのに、どこか影が差した気がした。
「それ、私が言う必要ある? だって――」
形の良い目が、僕を射抜く。
「――君の方が知ってると思うよ」
§ § §
僕は適当に入ったネットカフェでSNSを漁っていた。探す名前は東海林卓――漢字にすると珍しいが、音だけならそこまででもない。だからそこそこ苦労するかと思っていたけれど、探し始めて十分もしないうちに実名登録が推奨されているSNSで彼の名前を見つけることができた。
「何がお前の方が知ってるよ、だ」
公園で椿に言われたことを反芻しながら東海林のプロフィールを見ていく。けれどそこにめぼしいものはない。強いて言えば出身地が千葉県の同じ街だということは分かったが、それだけだ。
僕は仕方なく本人作成のプロフィール欄を離れて、彼宛の投稿を見始めた。最近のものはどれも東海林の死を知った友人らからの上っ面の悲しみや怒りを綴ったメッセージばかりであまり見ていたくなかったものの、もうこれ以外に手がかりがないのだから我慢するしかない。
そうしてしばらく同じようなメッセージを見ていくと、その中に気になるものを見つけた。
《みあちゃんのこともあったのに、親御さんが可哀相》
「みあちゃん……?」
そのメッセージには、他の友人らしき複数のアカウントから同意するような返信が付いていた。彼らの文面から察するに、どうやら〝みあちゃん〟というのは東海林の妹らしい。
メッセージを見る限りその〝みあちゃん〟という人物に何かあったことは明白だったが、僕が気になったのはそれが何かではなく、〝みあちゃん〟という名前の方だった。
「みあちゃん……東海林、美亜……?」
東海林美亜――その名前を口にした時、妙にしっくりと来た。
そしてその理由はすぐに分かった。僕はこの名前を知っているのだ。僕が東海林という名字を知るきっかけとなった名前――確か、高校時代のクラスメイトだ。
生憎当時から僕は人付き合いが得意ではなかったからあまり関わったことはなかったものの、彼女には何か付随する情報があった気がする。東海林という名前の珍しさ以上に、その名前を今でも思い出せるほどの理由が。
「……あ、そうか」
その瞬間、僕の頭の中に高校時代の記憶が一気に蘇った。
東海林美亜は僕のクラスメイトで、そして――
「――あの時自殺した子だ」
「バイト先……なら流石に覚えてるだろうし」
僕はアルバイトを転々としている、いわゆるフリーターというやつだ。今まで働いてきた場所は居酒屋が多く、そのどれもがチェーン店で、アルバイトの入れ替わりもそこそこ激しい。
それでも店内という閉ざされた空間で働くのだから、最低限他の従業員の名字くらいは毎回きちんと覚えているつもりだ。フルネームを覚えている自信はないけれど、名字だけなら流石に把握していると自負している。
第一、東海林なんて名字は結構珍しい。〝しょうじ〟という音はそうでもないけれど、東海林という漢字を名前に持つ人は少ない。しかも元の漢字と全く読み方が違うのだから、東海林と書いて漢字通りの読み方はしないという記憶は残っても、正しく音まで覚えるのは一度聞いただけでは難しい人も多いだろう。
それでも僕が簡単にこの名前を覚えられたのは、以前同じ名字の人に出会ったことがあるからだ。といってもその人一人しかこの名字の人を知らないから、もし彼の名前を以前聞いたことがあれば印象に残っているはず。
だからやはり、その名前を聞いてもピンとくるものがない僕は東海林卓を知らないのだ。知らないことを思い出そうとしたところで思い出せるわけがない。
記憶に手がかりがないのであれば、他のものを探さなければならないだろう。では何から始めようか――そう考え始めた時、ふと椿のことを思い出した。
「……本当に何も知らないのかな」
結局、椿が本当に関与していないのかは不明なままだ。のらりくらりと意味不明な返事しかしてくれないから、ふざけているのか真面目に答えているのかすら分からない。
でも考えれば考えるほど、彼女があそこにいたのはおかしい気がした。あの場所は周囲に街灯があまりないせいか、夜になると人通りがほとんどなくなる。真夜中となれば尚更だ――と、ニュースでリポーターが言っていた。暗くて怖いから、近所の人は避けて通るらしい。
そして、椿の家。最寄り駅とあの場所は彼女の家を挟んで正反対にあるから、帰りがけに偶然通りかかったということもないだろう。コンビニやスーパーだって駅側の方がたくさんある。確かにあの場所から椿の家までの間にコンビニはあるものの、距離的には駅側の方が明らかに近い。
「やっぱり、椿は偶然居合わせたんじゃない」
立地だけでなく、死体を見た時の彼女の反応だってそうだ。人が死んでいるのに全く動揺を見せないなんて有り得ない――僕はそう思い至ると、椿に話を聞くために玄関を飛び出した。
§ § §
「――っていうことなんだけど」
探るように言った僕に、椿が面白そうに微笑む。僕らがいるのは昼下がりの公園の片隅だ。なんてことのない場所のはずなのに、それが用意された舞台かのように思わせる椿の笑みに頭がくらくらした。
椿の家に向かった僕が外にいるのは、彼女と途中で会ったから。家まで行こうと思っていたから突然目の前に彼女が現れた時は心底驚いた。
一方で椿はそんな僕の姿を見て、『そろそろ来ると思っていたよ』と口端を上げた。そう言うということはやはり、彼女は東海林の死と無関係ではないのだろう。出かける前よりも大きくなった疑念は僕の中にあった彼女に対する気遣いを掻き消して、気付けば糾弾するような口調で僕は椿に自分の考えを叩きつけていた。
「君がそう思うなら、そうかもしれないね」
疑念を顕にする僕の口調を物ともせず、椿の調子は全く変わらない。
「いい加減真面目に答えろよ。お前はあそこで何をしていたんだ? 僕をあんな目に遭わせた奴とはどんな関係なんだよ!」
「おや、私が犯人だとは思わないのかい?」
椿はわざとらしく目を丸めながら僕を見た。こういう馬鹿にしたような態度を見ると前言撤回したくなるが、僕だって馬鹿じゃない。あの夜は自分の置かれた状況に混乱していたせいで彼女を疑ったが、よく考えると椿が僕を連れ去れるわけがないのだ。
「最初に会った時に『そんなことできない』って言ったのは椿だろ」
「それを信じるのか、という問いだよ」
「お前を信じてるわけじゃない。でも冷静になって考えてみれば現実的に不可能だ。お前は女の人で、僕は男なんだから。いくら僕より背が高いって言ったって、気絶した男をあんな場所まで連れて来れるわけないだろ」
「まあ、大抵の女性は無理だろうね」
まるで自分にはできるぞと言わんばかりの口振りだったが、どうせいつもの適当な軽口だろう。念の為彼女を観察してみれば、この間と同じ黒いワンピースを纏った身体は線が細く、腕もそれに見合った太さしかないのは明らかだった。
「だから椿はあの事件と関係はしていても実行犯じゃない。他にいるんだろ? 誰なんだよ」
僕が詰めるように問いかけると、椿は嘲るような笑みを零した。
「君は本当、便利な頭をしているね」
「は? 馬鹿にしてるのか?」
「いいや? それが君にとって必要なことなんだろうなって思っただけだよ」
椿の言うことはいつも難解だ。使う単語は簡単なのに、適当に相手を煽るようなニュアンスを込めるせいか何を言われているのか理解しづらい。
彼女の発言に大した意味がないことはもう分かっているのに、どうしても一瞬考えさせられてしまうのだ――『これはどういう意味だ?』と。
でも考えたところで答えなんて出るはずがなかった。なんてったって椿の発する言葉は万人に当てはまるような適当なものばかりなのだ。たとえ何か思い当たることがあったとしても、それを彼女が知っているとは思えなかった。
「……意味分かんないこと言って誤魔化そうとしたって無駄だぞ。僕はお前の口から犯人のことを聞くまで引き下がらないからな。それか東海林のことでもいい。何かしらは知ってるんだろ?」
「必要かな?」
「必要?」
想像していなかった返事に思わず鸚鵡返しになる。顔を顰めて椿を見てみれば、日中の公園という明るい場所のはずなのに、どこか影が差した気がした。
「それ、私が言う必要ある? だって――」
形の良い目が、僕を射抜く。
「――君の方が知ってると思うよ」
§ § §
僕は適当に入ったネットカフェでSNSを漁っていた。探す名前は東海林卓――漢字にすると珍しいが、音だけならそこまででもない。だからそこそこ苦労するかと思っていたけれど、探し始めて十分もしないうちに実名登録が推奨されているSNSで彼の名前を見つけることができた。
「何がお前の方が知ってるよ、だ」
公園で椿に言われたことを反芻しながら東海林のプロフィールを見ていく。けれどそこにめぼしいものはない。強いて言えば出身地が千葉県の同じ街だということは分かったが、それだけだ。
僕は仕方なく本人作成のプロフィール欄を離れて、彼宛の投稿を見始めた。最近のものはどれも東海林の死を知った友人らからの上っ面の悲しみや怒りを綴ったメッセージばかりであまり見ていたくなかったものの、もうこれ以外に手がかりがないのだから我慢するしかない。
そうしてしばらく同じようなメッセージを見ていくと、その中に気になるものを見つけた。
《みあちゃんのこともあったのに、親御さんが可哀相》
「みあちゃん……?」
そのメッセージには、他の友人らしき複数のアカウントから同意するような返信が付いていた。彼らの文面から察するに、どうやら〝みあちゃん〟というのは東海林の妹らしい。
メッセージを見る限りその〝みあちゃん〟という人物に何かあったことは明白だったが、僕が気になったのはそれが何かではなく、〝みあちゃん〟という名前の方だった。
「みあちゃん……東海林、美亜……?」
東海林美亜――その名前を口にした時、妙にしっくりと来た。
そしてその理由はすぐに分かった。僕はこの名前を知っているのだ。僕が東海林という名字を知るきっかけとなった名前――確か、高校時代のクラスメイトだ。
生憎当時から僕は人付き合いが得意ではなかったからあまり関わったことはなかったものの、彼女には何か付随する情報があった気がする。東海林という名前の珍しさ以上に、その名前を今でも思い出せるほどの理由が。
「……あ、そうか」
その瞬間、僕の頭の中に高校時代の記憶が一気に蘇った。
東海林美亜は僕のクラスメイトで、そして――
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