虚像のゆりかご

新菜いに

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第一章 虚夢

〈三〉悲観の決意

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《今月二十日に江戸川区の私有地で発見された遺体は、東海林しょうじすぐるさん二十五歳と判明しました。東海林さんの知人らによると、東海林さんが最後に目撃されたのは遺体発見前夜で――》

 聞き飽きたニュースの内容に僕はテレビの電源を消した。
 椿の家から帰ってきてから二日。最初は身元不明だった遺体には名前がつき、彼の死の直前の行動がだんだんと明らかになってきている。だが結局あの死体――東海林卓が何故あそこにいたのかは分からないままだ。
 東海林の人となりとか、最期の行動とか、そういうのは正直どうでもいい。もしかしたら彼だって僕と同じように攫われてあそこにいたかもしれないのだ、それ以前の出来事なんて何の役にも立たない。僕が知りたいのはその後――彼が誰にあそこで殺されて、何故僕がその罪を着せられそうになったのかだけ。
 それなのにニュースからは一向に彼が拉致されたとか、誰かとトラブルを抱えていたとか、僕が知りたいことに繋がるような情報は流れない。

「そろそろ多少はそういう話が出てきてもいいんじゃないの……?」

 僕は深い溜息を吐き出しながら天井を見上げた。物が散らかった床とは違って照明器具以外に何もないそこを見ていると、それだけで頭の中のまとまらない思考が綺麗に片付いていくように感じられる。お陰で暗い気分が少し楽になった気がしたけれど、すぐにそんなことも言っていられないと思い出して顔を顰めた。
 警察がここ二日捜査しているはずなのに、東海林が何故あそこにいたのか分かっていないのは嫌な感じだ。真犯人が僕を貶めるために周到な準備していたように、警察の捜査も見越して何かしらの対策をしていたということだろうか。だがそうなってしまうと、誰が僕をあそこに連れ去ったのか明らかにならない可能性が高くなる。それに――

「――もしかしたら、僕も殺されるかもしれない」

 口にして、背筋にぞっと怖気が走った。
 僕を連れ去ったのが誰なのかも分からないけれど、そもそも何のために連れ去られたのかもはっきりしたことは分かっていないのだ。状況から見て僕に殺人の濡れ衣を着せることが目的だと考えていたものの、いくら証拠が捏造されていても僕自身が無実を訴え続ければそう簡単に有罪にはされないだろう。
 犯人の認否以上に証拠が重視されるかもしれないが、後から本当に冤罪だったと分かる方が面倒なのだ。僕の主張がただの妄言だと断じるために、より慎重な判断が必要になるはず。
 そう考えると、真犯人にとって僕が生きているのは不都合でしかない。東海林を殺したのが僕であるという証拠を固めるだけでなく、その証拠の信憑性を揺るがしかねない僕の口を封じる――それが、僕に濡れ衣を着せるのであればより都合が良いのは明らかだった。

「死人に口なしは嫌だなぁ……」

 死んだ後のことにはそこまで興味はない。だけどやっていないことをやったと言われるのは――特に他者の命を奪ったとされるのは心底嫌だった。
 だってもしそうなってしまえば、かつて野良猫を殺していた僕の父さんのことが引き合いに出されるだろう。事件を取り上げるワイドショーで〝この親にしてこの子あり〟だとか、〝蛙の子は蛙〟だとか、好き勝手なことを言われるに決まっている。
 しかも真犯人は僕の死を自殺に見せかけるかもしれない。そうなると実際に縊死した父さんと最期まで重なってしまうから、テレビとしては面白おかしく取り扱うに違いないのだ。
 罪を犯した父さんと同じ血が流れていると考えるだけでも心がかき乱されるのに、まるで同類だとでも言わんばかりのことを報じられるかと思うと、その時既に自分が死んでいるだなんて問題がどうでもよくなる。僕は僕で、僕自身が僕という人間像を作ってきたのに、最後の最後でそれを見ず知らずの人間に掻っ攫われて塗り替えられてしまうだなんて、考えただけでも気がおかしくなりそうだった。

「一体誰があんなことしたんだよ……」

 文字通り頭を抱えて必死に思考を巡らせるも、それらしい人物は思い浮かばなかった。当然だ、僕に親しい人間などいないのだから。
 僕はコミュニケーション能力があまり高くない。友達もいないし、嫌われるほど誰かと距離を詰めることもない。お陰で二十二年間彼女なしだったけれど、父さんのこともあって一生一人で生きていくと決めていたから何も問題はなかった。
 そう、問題なんてなかった。なかったはずなのに、どうして誰かに嵌められなければならないのか――何度目か分からない思考の行き詰まりに顔を顰める。行き詰まりを解消するため、新たな情報を求めて当てにならないテレビをまた付けようとした時、ピンポーン、とインターホンから聞き慣れた間抜けな音がした。

「――……はい」

 少しの間考えた僕は、立ち上がって受話器を取った。我が家のインターホンにはモニターがない。だから相手が誰だか分からないし、変な勧誘が来ても嫌だから無視しようとしたものの、警察かもしれないと思って出ることにしたのだ。
 だって警察がここに来るということは僕を疑っているからだろうけれど、何も悪いことなんてしていないのだから怖気づくことはない。むしろ僕まで辿り着いたということは捜査が進展していることを意味するのだから、情報を得るためにも従順な市民でいた方がいいのだ。

「お休み中のところ申し訳ありません。江戸川西警察署の者ですが、八尾やおあきらさんはご在宅でしょうか? この近所で起きた事件のことでお伺いしたいことが――」

 やっぱり警察だ、と僕は飛び跳ねた心臓を落ち着かせるためこっそりと深呼吸をした。しかも彼らはもう僕の名前まで分かっている――相手が警察のつもりで応対したのに、本当に警察だったというだけで全身からどっと冷や汗が吹き出す自分の弱さが嫌になった。

「……結構かかりますか? 出かけるまであまり時間がないんですが」

 嘘だ。でもこう言っておけば相手の反応で僕をどこまで疑っているか分かるかもしれないし、何よりいざとなったら時間を気にするふりで逃げられるだろう。

「そんなにお時間は取らせません。詳しくお聞きしたいことが出てくれば別ですが、そうでなければ五分十分程度かと。よろしければ玄関先での対応をお願いできますか?」
「五分……それくらいなら、まあ分かりました。今そちらに行きます」

 ガチャリと受話器を置いて、今度は大きく深呼吸をする。
 話しているうちに冷や汗は止まった。ドクドクと落ち着かなかった心臓もだいぶ静かになった。それに何より、受話器越しの相手の声から僕に対する敵意のようなものは感じ取れなかった。生い立ちのせいで相手の自分に対する嫌な感情には敏感になってしまっていたが、今日ほどそれに感謝したことはない。
 僕は再び大きく深呼吸すると、ゆっくり玄関へと向かった。と言っても狭い我が家に廊下なんてあってないようなもの、すぐに視界には玄関が飛び込んでくる。
 散らばった靴を片付けた方がいいか一瞬迷ったものの、どうせ中までは見ないだろうと思って目を逸らした。昨日履いていたスニーカーを蹴飛ばして、その下にあったサンダルを履けばもう逃げられない。
 最後にまた一つ深呼吸すると、僕は意を決してドアを開いた。

「――お忙しいところすみません」

 むわっとした熱気が開けたドアから一気に入ってきた。
 その先にいたのは年の離れていそうな二人の男だった。年配の方が河野こうの、若い方が尾城おじろを名乗り、警部補だかなんだか、いまいちよく分からない自己紹介をされた。
 正直言って、彼らの肩書きなんてどうでもいい。あの事件を担当している刑事であること――それだけが僕にとっては重要なことなのだ。
 二人は僕の全身にさっと目を配ると、若い方の刑事が口を開いた。

「先日荒川近くの私有地で起きた事件をご存知ですか? 最近ニュースで取り上げられていると思うのですが」
「男の人が殺されてたってやつですか? あ、これだとよく分からないか……えっと、若い男の人で、使われてない建物の中で見つかったとかなんとか……」

 東海林という名前は覚えていたものの、何故覚えているんだと聞かれたら困るからなるべくなら口に出したくない。そう思ってぼかして聞き返したけれど、あの事件と特定できない言葉を選んでしまったと気付いてどうにか情報を付け足した。
 ちゃんと報道されていた内容だけを選ぼうとすると口から出すまでに時間がかかってしまったが特に怪しまれなかったらしい。刑事は「ああ、それで合っていると思います」と話を続けた。

「今は現場周辺の防犯カメラに映っていた方にお話を聞いて回っているんです。一昨日の深夜二時頃にあなたと思われる人物がコンビニの駐車場に設置されたカメラに映ってまして――何をしていたか教えていただけますか?」

 深夜二時といえば、恐らく椿の家に向かうところだろう。コンビニの前を通った記憶もある。
 内心で記憶のない時間帯のことでなくてよかったと思いながら、僕は不安そうな表情を作った。

「……それって、僕が疑われてます?」
「いえ、そういうわけではありません。時間が時間ですから人通りがそもそも少ないんですよ。それで映像から身元の確認が取れた方々に何か気付いたことはないか聞いて回ってまして」
「映像だけで僕だって分かるんですか?」
「分かるようにするのが我々の仕事ですから」

 怪訝な顔をした僕をプライバシーについて考えていると思ったのか、刑事は小さく「地道な聞き込みですよ。顔写真だけで分かれば楽なんですけどね」と苦笑を零した。

「なるほど、大変な仕事ですね。あの辺りを通った理由ですが……友人の家に向かっていたんです」
「そのご友人のお名前は?」

 これに答えたら椿のところにも確認に行くのだろうか――一瞬だけ考えて、別にいいかという結論に至った。
 彼女の性格なら嘘を吐かない保証はないが、それをして困るのはどうせ椿だけだ。僕を巻き込むような嘘だったら最悪だけど、嘘はいずれバレるもの。結局損をするのは彼女だろう。それに正直に答えたところで椿には何の問題もないはずだ。何より突然警察が来ることで、あの澄ました顔を少しでも崩せるのかと思うと気分も良い。

「橘椿です。多分彼女もカメラに映ってると思いますよ」
「一緒にいたんですか?」
「ええ。と言ってもその、揉めていたので……少し距離を空けて歩いていたんですけど」
「揉めていた原因というのは、その怪我に関係ありますか?」
「え?」

 急に問われて、そういえば顔にも怪我をしているんだったと思い出した。もう痛みはほとんど残っていないけれど、打撲の後はしばらく黄色く残る。今日はまだちゃんと確認していなかったと思い出して、「あー……まあ、そうです」と歯切れの悪い返事しか返せなかった。

「額ってことは、殴られたわけではないですか?」
「彼女に? まさか! 相手は女性ですよ? これはその、ちょっと転んでしまったんです」

 殴られた原因は分からないままだけど、流石に女の人にこっぴどくやられたと思われるのは嫌だった。だから思わず驚いてしまったものの、ちゃんと予め警察が来たら使おうと思っていた言い訳は口にできたのでまあいいだろう。

「病院には?」

 安心したのも束の間、今度はそれまで黙っていた年配の刑事が尋ねてきたせいで心臓が小さく跳ねた。急なことに驚いたのもあるけれど、若い方の刑事と違って低く重みのある声は、聞いているだけでどことなく緊張する気がした。

「病院は行ってないです。大した怪我じゃなかったですし、お金ももったいないですし」
「あのコンビニ付近を歩いていたのはこの怪我の後ですか?」
「そうです。椿の……橘さんの家に手当てをしにいくところで」

 僕が答えると、年配の刑事は「そうですか」と言って半歩後ろに下がった。それが二人の間での合図だったのか、交代するように若い刑事が再び僕の方へと顔を向ける。

「その時、周囲で何か気付いたことはありますか? 誰かを見かけたとか、いつもと違う何かがあったとか」
「いえ、特には何もなかったと思います」

 なかったよな、と念の為もう一度記憶を辿る。警察に僕の見た全部を話す気はないけれど、必要な情報なら出し渋るつもりはない。彼らが真犯人を見つけてくれないと困るのは僕なのだ。僕が犯人だと示すようなものでなければちゃんと話すべきだろう。
 それでも、やっぱり思い当たるものは何もなかった。そろそろ話は終わりだろうかと思って刑事に目を向けると、若い彼は「ならあともう一点だけ」と言ってそれまでよりも少し視線を鋭くした。

「東海林卓さんという名前は、事件以前に聞いたことはありますか?」

 なるほど、これが聞きたかったのか――若い刑事の奥で、年配の刑事もまた観察するように僕を見ている。
 でも僕には心当たりなんてないから無駄だ。どんなに注意深く見たところで何も得られるものなんてないだろう。

「ないですよ」

 僕が答えると若い刑事は一瞬だけ玄関に視線を落としたが、すぐに「そうですか」と愛想笑いを浮かべた。

「あの、もういいですか? 流石に支度しないといけなくて……」

 これ以上は何も得られないような気がして時間を気にする振りをして言えば、若い刑事は思い出したように「ああ、すみません」と姿勢を正した。

「ご協力ありがとうございました。今日のところはこれで以上になります。後から何かお聞きしたいことが出てきたらまた伺うかもしれませんが」

 そう話を締めくくると、刑事達は呆気なく去っていった。
 彼らの背中がアパートの外階段の方に向かうのを確認し、ゆっくりとドアを閉める。そしてガチャリと鍵をかけた後、僕はドアを背にずるずるとその場に座り込んだ。

「無能じゃないか、日本の警察……」

 僕が彼らとの会話を通して知りたかったのは、誰が僕をあの場に連れ去ったということだ。それなのに僕の元に来たのは単に近くの防犯カメラに映っていたからだなんてふざけている。
 確かにカメラの映像だけで僕の名前まで分かっているのは凄いなと思ったけれど、結局まだ何も情報を得られていないのと同じだ。こちらから真犯人に辿り着けなければ、僕はただただ濡れ衣を着せられるのを待つしかないのに。

 僕が犯人だと思われる証拠が出ればもう終わりだ。いくら僕が冤罪を主張したところで、あんな奴らに冤罪を証明できるものを見つけられる気がしない――それまで警察に抱いていた期待は今のやり取りで消え失せていた。

「……自分で動かないと」

 死んだ男の名前は分かっている。真犯人が僕に罪を被せようとしたということは、僕とその男には何かしらの繋がりがあるはずだ。警察がまだそれに気付いていないのであれば僕が自分で探すしかない。

 何もしないで殺されるくらいなら、多少難しくとも自分でなんとかしよう――そう決意した僕は、静かに腰を上げた。
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