虚像のゆりかご

新菜いに

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第一章 虚夢

〈二〉浅い眠り

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「意外と不器用なんだな」

 右手に巻かれた不格好な包帯を眺めながら言うと、その女は真っ直ぐな長い髪を肩で折り込んだ。けれど艷やかな黒髪にはコシがあるのか、ある程度折られたものからはらりはらりと肩をなぞるように逃げて行く。残ったのは顎の下あたりで整えられた前髪だけで、真ん中の分け目の間からは馬鹿にしたような目が僕を覗いていた。

「君にだけは言われたくないよ」

 まるで僕のことをよく知っているかのような口振りだった。それに居心地の悪いものを感じながら、出されたインスタントコーヒーを口に含む。しかし気を紛らわそうとしたはずなのに、自宅のものとは少し違う飲み慣れない味が余計に居心地の悪さを呼び寄せた。
 そんな嫌な感覚から逃げ出そうとした僕の視線は、室内をあちらこちらと彷徨っている。特に見たいものがあるわけではないからなかなか落ち着かなかったが、やがて小さな白い紙袋を見つけてそこに縫い付けられた。
 たちばな椿つばき――処方箋薬の紙袋に書かれた、珍しい漢字二文字のフルネーム。まるで芸名だと思ったものの、同時にによく似合うと感じた。


 § § §


『――その怪我、どうにかした方がいいんじゃない?』

 そう至極真っ当なことを言った女は、つかつかと僕の方へと歩いてきた。ならば僕に用かと思えばそういうわけでもなく、男の死体のすぐ横を通って細長い光の差し込む方へと向かう。足を止めると同時に前へそっと出した手は光の横の暗闇に触れ、ギギギと嫌な音と共に光を招き入れた。
 広がった光は大して強くなくて、その中からはすぐに雑草が姿を現した。ああ、扉があったのか――彼女がわざわざ僕の方に来たのは、それが元いた位置から扉までの最短距離だったからだ。
 女は僕の方を振り返りもせずに扉をくぐり、夜の中へと進んでいく。僕はといえば女の突然の言葉と行動にすっかり動くことを忘れていたものの、このまま彼女を行かせたらまずいと思い出してその後を追いかけた。

『どこに行くんだ?』
『手当てしないとだろう? ついておいで』

 見知らぬ人間に付いて行くことには抵抗があったけれど、引き返そうという気は起きなかった。僕の身体が手当てを必要としているのは事実なのだ。たくさんの怪我をしたことで体力を消耗したのか、痛みもそうだけど疲れが酷い。それに何より、あの場所にいたくなかった。
 結局逃げるのか――内心で自分を嘲笑う。だから僕は仕方ないというふうを装って、女とその場を後にした。

 女の後ろを歩き始めると、そのすらりとした長身に居心地が悪くなった。髪と同じ真っ黒なワンピースに包まれた身体は、夜道の薄暗さにもかかわらず服の上からでも均整が取れていることが容易に分かる。その上街灯に照らされて一瞬だけはっきり見えた女の顔がびっくりするくらい綺麗だったものだから、僕は自分の容姿を思い出して恥ずかしくなった。男の中ではひょろっとしている僕は、猫背を伸ばしても彼女よりも目線が低い。しかも身体中の痛みから察するに、今はみそぼらしい格好をしているのだろう。
 あまり並んで歩きたくはないなと思って、意識的に少し距離を取る。それを誤魔化すように周囲に目を配ると、その言い訳は使いづらいことが分かった。見知らぬ土地だと思っていた場所は自分の知っている街だったのだ。そんなところを観察する理由も見つけられず、僕は仕方なく身体を擦る頻度を増やした。

 そうして少し歩いたところにある住宅街を行くと、やがて寂れたマンションに辿り着いた。当たり前のようにそこに入って行ったことから彼女の家があるのだろう。オートロックのないマンションは女性が住むには少しセキュリティ面に不安が残るものの、汚れた共用部分を見る限りこのあたりでは手頃な家賃なのかもしれないと勘ぐってしまう。

 階段を上って三階へ。そして廊下を端まで歩いたところにあるドアの前で彼女は止まった。
 表札に書かれた名前は橘。玄関の近くにある消火栓の扉を開けて中から取り出したのは鍵。まさかそこに常に置いているのだろうかという疑問を口に出せないまま、僕は彼女がその鍵を使って目の前のドアを開けるのを見届けた。

『さあ、遠慮しないで』

 促されるまま玄関に入ると、少しこもった匂いが僕を出迎えた。遠慮しないでと言われても、女性の家にすぐ入るのは気が引ける。
 幸いここ最近毎日のように履いている黒いスニーカーは足首まで覆うタイプのもので、脱ぐためには座り込まなければならない。わざと時間をかけようと紐をいつもより余分に解きながら心の準備を整える。
 それでも大した時間稼ぎにはならなくて、靴を脱ぎ終わった僕はいまいち緊張が消えきらないのを感じたままおずおずと家の中に足を踏み入れた。廊下にあるキッチンを横目にその先のドアを開ければ、女性の一人暮らしを思わせる小綺麗な部屋が広がってまた少し緊張感が強まった。

 六畳程度の部屋にはベッドとローテーブル、箪笥にテレビと、暮らしに必要なものがすべて揃っていた。奥に部屋があるようには見えないから、1Kの部屋なのだろう。このあたりでこの間取りなら家賃は七万円くらいだろうか。マンションの外観からして相当築年数が経っているが、それを考慮したとしても六万円を切ることはないだろう。となると彼女くらいの若さの女性なら妥当な部屋だと思えた。

『適当に座っててくれるかい?』

 言われるがままに床にあるクッションの上に座ろうとしたものの、自分はきっと汚い格好をしているのだろうと思い出してそっとフローリングに腰を下ろす。それを見ていた彼女は僅かに片眉を上げて、『へえ』と感心したような声を出した。

『そういう気は遣えるんだ』

 おかしそうに笑う声に思わずむっとしながら相手を見上げる。顔を見たと思ったのに、僕の目はそれより下の位置のものが気になってそこで止まってしまった。
 女が両手で抱えるのは綺麗なデザインの四角い箱。それが救急箱だと分かったのは、おしゃれな刺繍で十字マークが入っていたからだった。


 § § §


 怪我をした僕を嘲笑っていた女――椿には、どうやら人並みの優しさはあったらしい。そんなことを考えながら小さなローテーブルの上にマグカップを置けば、そこに描かれた猫と目が合う。彼女の不遜な性格に似合わない、可愛らしいテイストのイラストがなんだか気に入らない。僕はそっとカップを回転させると、更にそれを視界から追い出すようにして、その隣の鏡に映る絆創膏だらけの顔に目をやった。

「……もうちょっとやりようがあったんじゃないかな」

 椿にしてもらった手当てを指して言うと、彼女は馬鹿にしたような顔で肩を竦めた。

「自分のせいだろう?」
「ああ、そうだね。僕が殴られたせいだ」

 殴られた、というのは椿と傷を見ながら考えて出した結論だった。生憎僕にはその記憶がないのだ。気絶している間に殴られたのか、殴られたせいで記憶が飛んでいるのか、それすらも定かではない。ただ身体中に残る打撲の跡は殴る蹴るといった暴行を受けた時の怪我そのもので、誰かに殴られたということは疑いようもなかった。

 一体誰がこんなことを――そんな気持ちが滲んでふてくされたような声で言葉を返した僕を、「そういう意味じゃないけど」と椿が呆れたように笑う。じゃあ何か、殴られたせいではないのなら僕が弱いからだとでも言いたいのだろうか。
 折角椿の優しさに感心したところだったが、最初に感じた性格の悪さは気の所為ではなかったらしい。そんな相手に気を遣うのも馬鹿らしくなって、僕はその場にごろんと横になった。

「寝るの?」
「寝るよ。見たとおりボロボロだから凄く疲れてるんだ。女性の部屋に泊まるのは気が引けるけど、君が連れてきたんだからいいでしょ」
「まあ、そうだね。君が気にしないって言うなら私は止めないさ。好きなだけここにいるといいよ」
「……それもそれでどうかと思うけど」

 女性の一人暮らしの部屋によく初対面の男を泊める気になるなと思ったけれど、今は助かっているので口には出さないことにした。それにこの人なら、相手が誰かにボコボコにされるような情けない奴だから平気だとか考えていそうだ。
 流石にそれを言われたら嫌だなと思ったけれど、深く考えるより先に疲れ切っていたらしい身体は意識を手放していた。


 § § §


 床で寝るというのは身体に悪い。そんな当たり前のことを実感したのは、目覚めとともに身体のあちらこちらが悲鳴を上げたからだ。

「……最っ悪」
「それを私に言われてもね」

 声の方を見れば、寝る前と変わらず涼しい顔をした椿がこちらを見ていた。彼女がいるのはローテーブルを挟んで僕の向かい側で、寝起きという雰囲気は感じ取れない。

「今何時?」
「さあ? テレビでも見たら?」

 上体を起こしながら問えば、どうでもよさそうに言葉を返される。そこは付けてくれるわけじゃないんだと思いながら、僕はローテーブルの上にあったリモコンに手を伸ばした。

「……六時過ぎか……はや……」

 普段は八時過ぎに起きる僕にとっては随分早起きだ。怪我のせいもあって疲れていたはずなのにこんなにも早く起きてしまったのは、やはり床で寝ていたせいだろう。

「……君は寝てないの?」

 バツの悪さを感じながら僕は椿に問いかけた。
 彼女が寝起きに見えないということは、起床してから時間が経っているか、そもそも寝ていないかのどちらかだ。昨夜寝たのが何時かは覚えていないけれど、街の空気は結構深い時間のものだったように思う。となれば寝ていない可能性の方が濃厚で、それが僕という見ず知らずの男を泊めたがゆえの警戒によるものかもしれないと思うと流石に申し訳なさを感じた。

「必要ないからね」
「寝てないってこと?」
「そう言ってるじゃないか」

 その呆れたような言い方に、僕の眉間には無意識のうちに力が入っていた。

「『寝てないの?』って質問に『必要ないから』って答えはおかしいだろ。必要ないってのも意味分からないけど、せめてイエス・ノーで答えるべきだし。『必要ないから』っていうのは、ノーの後に僕が理由を尋ねた時に返す言葉だよ」
「君は面倒臭い人間だね、本当」

 椿に何か言い返そうとして、不毛だと気付いた僕はその口を噤んだ。きっと彼女は僕が何を言ってものらりくらりとした返事しかしないのだろう。僕のことをよく知っているとでも言いたげな言葉もその一つで、最初は不思議に思ったものの今なら適当に言っているだけだと分かる。何故なら椿の言い方は誰にでも当てはまるものばかりだからだ。
 そんな、適当にしか他人と話さない相手と真面目に話すのも馬鹿らしい。僕はさもテレビに集中しているというふうに姿勢を正すと、朝から元気なキャスターの言葉をぼんやりと聞き始めた。

《――ここで速報です。本日未明、江戸川区の私有地で他殺と見られる男性の遺体が発見されました。現場は人通りの少ない……》

 それまでの穏やかなものとは打って変わって急に聞こえてきた緊迫感のある声に、僕はテレビに釘付けになった。そこに映し出されていたのは他でもない、昨日僕が連れ去られていた場所だったからだ。

「おや、もうニュースになっているね。ランニング中の男性が発見だってさ。暑いからとはいえ、夜明け前からご苦労なことだと思わないかい?」
「ッそんなのどうでもいいだろ!? あそこは……だって……!!」
「まあまあ、今更焦ったところでしょうがないよ。この季節なんだから割とすぐ異臭で見つかってただろうし」
「……そうかもしれないけど」
「しかしもう少し私達があそこを出るのが遅かったらこの発見者と鉢合わせていたのかもしれないと思うとなかなか面白いね」
「面白くないよ。君がおかしいだけで、あんな状況じゃ普通僕が疑われるんだから」

 そして無実の証明ができなければ僕が殺人犯になってしまうのだ――そう考えると、怪我をしていないはずのお腹の中がキリキリと痛んだ。
 思い出すのは中学生の頃のことだ。幼い頃に自殺した父さんが実は生前に野良猫をたくさん殺していたと知って、僕は酷い嫌悪感を抱いた。確かに人を殺したわけではないかもしれない。だけど僕にとっては人殺しと同じくらいにそれは罪深いもので、だからこそそんな人の息子であることが嫌で嫌でたまらなくなったのだ。

 父さんのことは好きだったのに、自分の身に殺しをした人と同じ血が流れていることが苦しくてしょうがない。
 父さんが罪を犯した現場を直接見ていないから尚更だ。記憶の中の大好きな父さんと、野良猫を殺していた父さんが一致しない。まるで自分の中を見知らぬ悪人が這い回っているようで、僕はその不快感から逃れるために〝悪いこと〟とは距離を置いてきた。
 そうして何年もかけて少しずつこの感情と折り合いをつけてきたのだ。それなのに自分が人殺し扱いされるかもしれないと考えると、それがこちらにじわじわとにじり寄ってきているような気がして鳥肌が立った。

「……警察は、僕のところに来るのかな」
「来るかもね。どこかで誰かが見ていたかもしれないし、君の言うように君を嵌めるつもりならそういうタレコミが必要だろう?」
「なんでそんな冷静なの? 椿だってもう無関係とは言えないだろ?」

 僕の問いに椿は一瞬不思議そうな顔をしたものの、すぐに合点がいった様子で「ああ、私のことか」と口を開いた。

「君が気にしすぎなだけじゃないかな。どれだけ不安に思ったところで、疑われる時は疑われるものだからね」
「……大雑把だな」

 肝が座っているとでも言うのだろうか。見た目は繊細な人形のようなのに、中身はとんでもない適当さだ。その性格が滲み出ているのか、昨日彼女が僕の治療のために漁った室内はすっかり散らかっている。寝ていないのであれば少しでも片付ければよかったのに、そうしなかったということはそれだけ椿は雑な性格をしているのだろう。
 僕に対する発言といい、こういったところといい、椿を見ているとなんだか自分が本当に気にし過ぎなだけな気もしてくるから不思議だ。それでも彼女を基準にしたら負けのように感じられて、僕は必死に自分の感覚の方が正しいと頭の中で唱え続けた。

「ところで君はいつまでここにいるんだい? 今日は平日だし、そろそろ帰らないとまずいんじゃないの?」
「……帰って欲しいならはっきり言えばいいよ」

 これまでのやりとりで椿が他人を気遣えないだろうということは分かっている。だからこの無理矢理捻り出したような気遣いの言葉は〝帰れ〟という要求を意味していることは明らかだ。
 昨日は好きなだけいろと言ったくせにと思ったけれど、手当てしてもらった上に既に一晩泊まらせてもらった身としては流石に文句は言えない。しかも彼女は他人がいたせいで一睡もできなかったのだ。それを考えると尚更長居するわけにはいかなくて、僕は痛む身体に鞭打って帰り支度を始めた。
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