東雲を抱く 第一部

新菜いに

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第五章

〈六〉二人の狩人・弐

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 まるで全身が心臓になったかのように、昇陽は身体中が脈打つのを感じていた。その話はもう終わったと思っていたのに、白柊は納得などしていなかったのだ。
 自分はたった一つのことさえ成し遂げられないのか――情けなさが昇陽の胸に刺さる。しかし白柊は、そんな相手の反応を窺うことなく言葉を続けた。

「毒を選んだのは偶然か? 違う、昇陽殿は自分で否定した。先程の言葉を聞く限り、貴殿が自分で思い付いたのなら、毒殺などではなく真っ先にそれ以外の事故を装うと」
「それは……」

 口ごもる昇陽を置き去りに、白柊は呼吸を一つだけ置いて、すぐにまた口を開いた。

「さて、誰が貴殿に毒殺を唆したのか」
「ち、違います。私が一人で……」
「ならば何故日永殿は貴殿に協力した? これは先程否定しなかったな」

 そうだった、と昇陽は下唇を噛んだ。協力者の存在を否定するならば、白柊が日永の名を出した時点で否定していなければならなかったのだ。それなのに自分は、どうして茶会の場の出来事だけで彼が疑いを持ったのかという事の方が不思議で、すっかりそれを怠ってしまった。まさかわざと注意を逸らすような言い方をしたのではないだろうが、結果として白柊に確信を与えてしまったことは事実だ。
 全ての罪を被って死ぬ――それだけが、今の自分にもできる唯一のことだったのに。昇陽が己の愚かさを呪っていると、白柊は呆れたように「もし仮に否定していたとしても、何の意味もないがな」と付け足した。

「雪丸殿を排除したところで、昇陽殿には何の得もないだろう? 笑うのは日永殿……そして菖蒲殿の二人だけだ。そんなことを貴殿がやっている時点で、裏で手を引く者がいると考えるのは当然のこと」
「っ……!?」
「先程貴殿は事故の記録について、自分が菖蒲殿に頼んだのだと言ったがな。そういう事情も考えると、それは有り得ないとすぐに分かる。いい加減に気付いたらどうだ、昇陽殿。貴殿はあの二人に利用されているだけだと」
「ち、ちが……」
「ああ、気付いてはいるのか。認められないだけで」

 そう吐き捨てるように言った白柊の目は、これまでよりもずっと冷たく――いや、冷たさすらも感じられないほど、軽蔑を顕にした眼差しだった。
 その視線の意味を誰よりも実感している昇陽は、何も言い返すことができなかった。白柊の言う通り、母と兄に利用されていることなどとうに気付いている。自分に対しそんな扱いをしてくる相手の言うことなど聞かなくていいはずなのに、それでも昇陽は彼らを裏切ることはできなかった。心のどこかで縋っているのだ――彼らは自分のことを想ってくれている、と。

「知っているか? 此度の貴殿の隔離、誰も異を唱えなかったそうだ。それが意味するところは分かるだろう?」

 あの二人は自分を助けようともしていない――白柊に告げられた事実が、昇陽の胸を抉る。それでも彼の口からは、「違います……」と無意識のうちに言葉が零れていた。

「隔離に反対しなかったのは、母上達は何も知らないからです。本当に流行病であれば当然のこと。この件は全て、私が兄上――日永の助けになりたいと思いやったことです」
「くだらんな。そうまでして守る価値があるのか?」

 その指摘に、昇陽はまたも何も返せなかった。口を開こうにも、何も思いつかないのだ。その理由に気付くとより昇陽の胸には虚しさが広がって、これ以上傷つかないためには何も言わないようにするしかない。そうして黙っていると、昇陽の耳に白柊が大きな溜息を吐く音が届いた。

「貴殿の立場にも同情の余地はある。自ら望んで雪丸殿を害そうとしたわけではないのだろう?」

 何故それを――そう思ったが、これを認めてしまえば菖蒲達の関与も認めてしまうことになる。昇陽はやはり何も言えないまま、俯いていることしかできなかった。

「まあ、いい。貴殿の罪は多少軽くできればと思っていたが、本人が望まないのならば仕方がない。毒も手拭いも、これら証拠の品は雪丸殿にお渡ししよう。あの者であれば琴殿もいるし、正しく人を罰することができるだろう」
「お、お待ち下さい! それは母上達に沙汰が及ぶと言う意味でしょうか!?」

 昇陽が慌てて口を開けば、白柊は相変わらず冷たい目で彼を見下ろした。

「何故だ? 菖蒲殿達は関与していないのだろう?」
「あ……」
「時嗣に連なる者の暗殺未遂だ。滅多に日の目を見ない私の時和の力を求められるだろうな」

 昇陽にとっては決定的な言葉だった。白柊の時和の力――それは過去を読み取るもの。自分だけでなく証拠の品が既に揃っているのであれば、たとえ狙った過去を読むのが難しくとも、犯行に関連する出来事が読み取られてしまう可能性がある。
 そしてその力の行使は、公の場で行われるだろう。その場で白柊の口から出る言葉は絶対、そこに菖蒲や日永の関与を思わせるものがあれば、過去読みの対象は彼らにも及ぶことになる。そうなれば、言い逃れしようもない過去を読み取られてしまうかもしれない。
 そうなってはもう、昇陽にはどうすることもできない。ならば公になる前に、自分の減刑を検討していたらしいこの少年とどうにか交渉をしなくては――昇陽は覚悟を決めて、白柊を見上げた。

「お願いです。すべて正直にお話しします。ですからどうか、どうか母上達には調査の手が及ばぬよう……」
「昇陽殿は阿呆だな」
「え……?」

 自分の懇願に返された言葉に、昇陽は思わず間抜けな表情を浮かべる。

「雪丸殿の暗殺に失敗した貴殿は、菖蒲殿や日永殿にとってもはや邪魔だとは思わんのか?」

 ぞわり、昇陽の全身に寒気が襲った。考えないようにしていたのだ。全ての罪を被る――もしそれが上手くいった上で、なんとか死なずに済んだのならば。自分は菖蒲や日永に認められるのではないかと期待していた。
 しかしその一方で、ずっと頭の隅にはちらついていたのだ。罪を被って死ねと言うような人間が、果たしておめおめと命拾いした自分を許すだろうか、と。白柊の言葉は無理矢理隅に押し込めたその考えを引っ張り出してくるもので、それが現実味のあるものだと知っている昇陽は、一気に恐ろしさに身を包まれた。

(この少年にこうべを垂れて、彼らの無事を手に入れて……その先に、私の生きる場所はあるのか……?)

 考えないようにしていた未来が、昇陽を襲う。何度も葛藤し、どうにか友とも呼べる雪丸を殺そうとまでして――失敗に終わったと言っても、自分は一体何のためにこんなことをしたのだろう。暗殺が成功していたとしても、自分に微塵も疑いがかからなかったとしても、自分は母や兄に認められていたのだろうか。また同じことをさせられるだけではないのか。
 自分のしたことが全て無駄だと思えるような絶望感に、昇陽の息はどんどん浅くなっていった。

(もう、何も考えたくない……)

 全てどうでもいいような、そんな虚無感。暗い感情にそのまま身を預けようとした昇陽を止めたのは、聞き慣れた声だった。

「――お待ち下さい、行雲宮」

 そう言いながら、障子の向こうから昇陽の守護・光明が顔を覗かせた。

「言いつけに背くことをお許しください」

 その言葉と共に光明が頭を下げた相手は、主の昇陽ではなく白柊だった。

「昇陽殿を助けたければ、全て終わるまで黙って見ていろと言ったはずだが」
「主人を守るためには必要なことと判断しました」

 白柊と光明のやり取りを見て、昇陽は自分の守護もまた滝之助のように白柊から指示を受けていたのだと知った。
 主でもない相手にどうして従うのか――昇陽は不満を覚えたが、すぐに二人の『昇陽を助けるため』という言葉が頭を過ぎる。自分を守ることが仕事の守護であれば、それを最優先するために主以外の指示を聞くことがあってもおかしくはない。光明は自分を裏切ったのではなく職務を全うしているのだと気が付いて、昇陽は気まずそうに顔を背けた。

「行雲宮、私からもお願い申し上げます。主人がこのようなことを企てていたのに、気付かないどころか止めることすらできなかった。責任は私にもあります」
「光明……」

(それは守護の仕事じゃないだろう……)

 まるで一緒に罪を被ろうとしているとも取れる光明の発言に、昇陽の胸にはじわりと何かが広がった。しかし光明に懇願された白柊は、馬鹿にするかのような笑みを浮かべている。

「当然だな。これが明るみに出れば、お前も罰せられるのだろう?」

 その言葉に、光明は小さく頷いて肯定を示した。それを見ていた昇陽はどこかがっかりとした気持ちになったが、自らの保身のための方がよっぽど信用できる、と苦笑を零す。

「それで? 守護の役割を果たせなかった、羽刄のそちらも同じか?」
「……恥ずかしながら、私からもどうかお願いを。雪丸様を救っていただいたことは感謝してもしきれません。ですがもしこれが知られれば、羽刄は守護としての信用を失います」

 それまで静かに状況を見守っていた三郎は、滝之助は何としてもこの件をなかったことにしたいのだろうなと思った。何せ羽刄にはもう、後がないのだ。琴の不興を買ったせいで羽刄の守護が解任される――正当な理由なく守護が途中で外されるなどそうそうない。それなのにここで雪丸を守れなかったことが公になれば、滝之助一人の問題では済まなくなる。

(だから天真殿も、白様からの指示を全部こなしたんだろうな)

 この件を公にせず解決することができる者がいるとしたら、それは白柊しかいない。だから天真は、文句を言いながらも白柊の駒に徹したのだ。
 昇陽達を追って山に入り、雪丸を直接助けるのではなく、昇陽の隠した証拠集めに専念した。更には気絶させただけとはいえ兵部にも手を出し、その上滝之助や光明への連絡係までも買って出ている。彼の働きぶりは目を見張るもので、ただ白柊の信用を得たいだけではここまでしないだろう、と三郎は思っていた。

(ま、白様だったら天真殿がいなくてもどうにかしてたんだろうけど)

 自分が代わりにそれらを命じられたかもしれないし、そうではないかもしれない。白柊であれば証拠の品などなくても昇陽達を言いくるめられるだろう。それなのに天真にあれこれ命じたのは、彼が自分の守護としてどこまでできるか試していたのかもしれない。

「――言っておくが、今日明日で全てが終わるわけではないぞ」

 三郎が主の意図に考えを巡らせていると、白柊が昇陽達に向かって話しかけるのが聞こえてきた。三郎は意識を現実に戻し、その様子を見守る。

「この場にいる人間だけの問題ではない。特に昇陽殿は、雪丸殿の暗殺を企てた者――菖蒲殿の信用を失うんだ。私のこの件への関与を隠しても、貴殿はいつか消されるかもしれない」
「私はどうすれば……」
「やっと菖蒲殿の企みだと認める気になったか」

 白柊が満足気に笑えば、昇陽は苦しそうに頷いた。菖蒲や日永が罰せられないようにするには、もはや全て認めて白柊に助けを求めるしかないのだ。

「菖蒲殿さえ黙らせれば、日永殿は何もしてこない――そう考えて問題ないか?」
「はい、恐らくは……。しかし先程申しましたように、母達に沙汰が行くようなことは……」

 確認の意味も込めて昇陽がそう言うと、白柊は呆れたように息を吐いて、「そうしないと貴殿がすぐ殺されるだろう」と恐ろしいことを口にした。

「雪丸殿の暗殺未遂自体がなかったことにしなければ、昇陽殿や守護達の願いは叶えられん」

 昇陽に疑いが残れば、菖蒲は彼を切り捨てるだろう。そして同時に雪丸暗殺を疑われるような行動を主に許したという点で、守護である光明も罰を受けることになる。一方でもし仮に昇陽に疑いがかからなくとも、雪丸が何者かに殺されそうになったという事実があれば、滝之助の守護としての責任問題となってしまうのだ。
 そのことに思い至ると、昇陽はやっと安堵の息を漏らした。これであれば白柊に任せておけば、菖蒲達を守ることができる――そうする必要があるのかと疑問が頭を過ぎったが、自分の身を守るためだと言い聞かせた。

「ただし私がここまでやってやるのだから、流石に無条件とはいかない」

 そう言われて、昇陽達は背筋を正した。自分達を守ったところで白柊に得があるとは思えない。それなのに願いを聞き入れてもらえるのだから、相当の代償は覚悟しないとならないだろう。

「まず、昇陽殿の守護だが――」

 白柊は光明を呼びながら、彼に視線を合わせる。

「――お前はこれまでどおり守護の仕事をすればいい。が、同時に昇陽殿の監視をし続けろ。何か不審な点があれば、玉葛ではなくまず私に伝えるように」

 監視が必要と言われて、光明は仕方がないと言わんばかりに深く頷いた。今回は失敗したが、昇陽が今後も菖蒲に言われて何かしないとも限らない。今はそんな気が起きなくとも、いずれはそうなる日も来るかもしれない。流石に白柊は二度も助けてはくれないだろうと思うと、光明には異を唱える気は起きなかった。
 光明のその様子を見て了承と判断した白柊は、次に「羽刄の」と滝之助に身体を向けた。

「雪丸殿には『蛙の毒に触れてしまったようだが、少量だから運良く助かった』と伝えるように」
「……それで納得してくださるでしょうか?」
「納得させるまでがお前の仕事だろう」

 そう言って白柊が睨みつければ、滝之助はぎくりと身体を固める。それを見て三郎は、初めて睨まれたらそうなるよな、と少しだけ滝之助に同情を覚えた。
 そして白柊はすぐに視線を元の強さに戻すと、それをゆっくりと昇陽に合わせた。ほんの少しだけ強さが残るのは、昇陽の立場のせいだろう。守護達と違い罪を犯した本人なのだ。昇陽自身もそれは自覚していたため、どんな無理難題でも頷かなければ、と顔に緊張を浮かべる。

「昇陽殿、貴殿には洗いざらい吐いてもらう。そしてこれまでの自らの行いを省みろ。母親や兄の言いなりになるばかりでなく、少しは自分で物を考えることだ」
「……それだけ、ですか?」

 あまりに呆気なかった自らへの条件に、昇陽は肩透かしを食らって白柊に尋ねた。しかし白柊は呆れたような表情を浮かべ、「そう思っているうちは反省が足りんということだ」と昇陽を睨みつける。
 白柊にそうされてしまえば、意味が分からなくとも昇陽には頷くしかなかった。自分よりも小さな子供に何故こんなことを言われなければならない――という思いは、もう昇陽の中には生まれなかった。相手は見た目こそ子供だが、中身は自分よりもよっぽどできている。そう思うと、どこか尊敬の念すら抱くようだった。

「あの、どうして行雲宮は……私にここまで寛大な措置を……?」

 思わずそう尋ねたのは、白柊にそうしてもらう理由が思いつかなかったからだ。こんなことをしても白柊に得など一つもないし、そもそも自分は雪丸を本当に殺そうとしたのだ。事の顛末を全て話すだけで、どうして咎められもしないのだろう、と白柊を見上げた。

「貴殿は菖蒲殿に言われて仕方なくやっただけ。そんな人間に責を負わせたところで何の解決にもならん」
「確かにそうかもしれませんが、私が本当に母に言われたからやったのかは、分からないのでは……?」

 白柊は断定するように言うが、その証拠などないのだ。昇陽は自分自身でも母親の言いなりになったのだとは思っていたが、そこに雪丸に対して全く悪意がなかったかと聞かれると、自分のこととはいえ自信を持って答えることができない。
 昇陽自身でさえそう思っているのに、白柊は当たり前というように口端を上げた。

「言っただろう? 私に隠し事ができると思うな」
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