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第二章
〈二〉夜闇の逢瀬・弐
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『――どこに行くんだ?』
(嘘……)
すぐ後ろから聞こえた声に、三郎の心臓が大きく跳ねた。後ろを取られるまで全く気付かないなど有り得ない――そう否定したくとも、自身の置かれた状況がそれを妨げる。
「お前御三家の人間だろう? こうして近くで見ても存在感が薄いしな」
静かな男の声だった。彼も隠れているのか、声を潜めている。だがそれはどこか愉悦を含んでいて、三郎は必死に男の目的に考えを巡らせた。
しかしいくら考えたところで、相手が何者なのかも知らないのに分かるはずがない。幸いなのは、男から敵意が感じられないこと。もしかしたら隠しているだけかもしれないが、敵意がないということは話が通じるかもしれない――そんな淡い希望を抱かずにはいられなかった。
「御三家だったら、見逃してくれます?」
男に背を向けたまま、三郎が小さな声で尋ねる。
「目的によるな」
「……誰にも危害を加えるつもりはないですよ。その証拠に武器は持ってきていません」
身体の向きはそのままに、両手のひらを男にも見えるよう上に向ける。普段の三郎は他人に見えないように武器を持っているが、今回は本当に何も持っていなかった。もし万が一にも月霜宮の警備に捕まってしまった場合、少しでも害意はないと示すためだ。
「素手で人間の頸くらい捩じ切れるくせによく言うよ」
「いや無理ですよ、死体ならどうにかなるかもしれませんが」
「今更誤魔化すなよ。普通できるだろ」
「いや……え? できるんですか……?」
「できねェの?」
「いやいやいやいや……え?」
もしやこの男は本気で言っているのか――頭巾に隠れた三郎の顔が引き攣った。
確かに虚鏡にも豪腕を持つ者がいる。そういった者達であれば、この男の言うように人間の頸を素手で捩じ切れるかもしれないが、ここまで断言できるものなのだろうか。
生きた人間というのは抵抗するのだ。いくら気配なく襲いかかったところで、咄嗟に力を込められてしまえば捩じ切るのに必要な腕力は一気に大きくなる。それを考慮した上での発言であれば、この男は相当強い。しかも守護である自分のように誰かを守るためではなく、他者を排除するための能力に特化している可能性がある。
既に手練であることは分かっていたが、いざとなれば逃げようという考えは捨てた方が良さそうだ、と三郎は小さく喉を動かした。
「まァいい。――お前、虚鏡だな?」
やはり分かるか、と三郎は眉根を寄せた。
相手が何者か分からない状況というのは、もう終わっているのだ。男も三郎も、相手が御三家の誰かだろうと考えた時、真っ先に消せるのは玉葛だ。何故なら彼らは集団行動を好む。昇陽達兄弟に付いている守護が玉葛の時点で、こうして忍ぶ必要などないのだ。
だから残るは、虚鏡か羽刄か。三郎も虚鏡の人間すべてを知っているわけではないが、これだけ実力のある者であれば噂くらいは聞いたことがあるはずだし、何より先程の頸を捩じ切れるかという会話で常識が違うのだと分かる。
となれば残りは羽刄しかいない。そして相手が羽刄であれば、彼も三郎と同じ理由で相手が虚鏡だと分かるだろう。
「虚鏡だったらどうします? お互いここにいちゃまずい立場だと思うのですけど」
「何、脅そうとしてんの?」
「いやいや、仲良くしたいだけですよ」
「男と仲良くなったところでなァ……」
三郎の性別を勘違いしているらしく、男がつまらなさそうな声を出す。しかしすぐに、「いや、お前虚鏡か」と思い出したかのように声を上げた。
「性別隠してるだけで、実は綺麗な姉ちゃんだったりする?」
なんと答えるべきか、と三郎は頭を悩ませた。虚鏡が姿も性別も隠すのは有名な話だ。それは虚鏡が個を滅するという特徴を持っているからで、三郎も例に漏れず性別を悟られないよう普段から極力肌を隠し、声色も低めにしている。この男の美醜感覚は定かではないが、少なくとも『姉ちゃん』であれば友好関係を築けるのかもしれない。
だが虚鏡である以上、無闇に素顔を晒すわけにもいかない。それなのに僅かな望みにかけて顔を晒して、やっぱり仲良くできないと言われてしまえば三郎には不都合しかなかった。
「軟派な方は信用できませんね」
とりあえず、と三郎は誤魔化す。
「……ほほう、つまり確かめてみろと?」
(どういう曲解したらそうなるんだよ)
という不満は口には出さず、相手がその気なら、と三郎も次の言葉を考える。普段から口の達者な白柊の傍にいるのだ。彼ほどではないが、どう言えば相手が嫌がるのかは心得ている。
「私に触れた時点で、見逃してくれるものと解釈しますよ」
「高い身体だなァ、オイ」
「虚鏡の素性です、当然でしょう?」
虚鏡の人間の素顔は、基本的に同じ虚鏡の人間しか知り得ない。そういう意味では三郎の素顔を知る白柊は特殊だが、そもそも白柊との関係自体も特殊なため考慮しても仕方がない。
男は三郎の答えに納得するように小さく息を吐いて、「まっ、いいか」と呟いた。
「結局、お前さんは何してるわけ?」
「……言ったら見逃して――」
「だァから、目的次第だっての」
そういえばそうだった、と三郎は顔を歪めるが、答えるためにはまず確認すべきことがある。
「貴方の目的も分からないのに、答えられるわけがないでしょう」
「だったら聞けよ。俺はちょっとほら、いろいろと観察して回ってんの」
あっけらかんとした声色で男が答える。いくらかぼかした言い方だったが、そこに嘘や打算は感じ取れない。まさか正直に言うとは思っていなかった三郎は、男に見えないながらも目を丸めた。
「……普通言います? 御所にそんな目的で来たって、場合によっちゃ打首ですよ」
「見つからなきゃいいじゃん」
「ならなんで私に話しかけたんですか?」
「……アレ?」
(この人馬鹿なのかな)
確かに男の言う通り、御所に忍び込むのは重罪だが見つからなければいい。そして男自身にその力があることは、既に三郎の身にも染みている。
だが自分に声をかけてしまった時点で、それはすべて意味がなくなってしまっているのだ。男が自分を口封じに殺すつもりなら話は別だが、そういった様子も感じられない。
(って言っても、気が変わるかもしれないけど)
男が急に三郎を殺す結論を下すこともあるだろう。その時、この距離でこれだけの実力差がある相手に襲われれば、三郎も逃げ切れる自信はない。
これは尚更穏便に話を進めなければ――男に最悪の結論を出させないように、三郎は慎重に言葉を選んだ。
「――信じますよ。私も貴方と似たようなものです、ちょっと観察に」
「なんで?」
「それは流石に言えません。で、見逃してくれます?」
これで駄目だと言われれば、嘘だと気付かれる危険を冒しても、適当な理由を並べ立てるしかない――そう思って、三郎がごくりと喉を動かした時だった。
「うーん、ちと足りねェな。ほれ」
「ひゃっ!?」
「お、良い腰。女?」
男は断りもなく、三郎の腰に手をやった。体型を確認したかっただけのようですぐに手を離したが、それでも自分がこれだけ緊張しているのに、ふざけたような態度を取られたことで三郎の中にむかむかとしたものが込み上げる。
「触ったら見逃してくれると判断するって言いましたよね?」
「怒るなよ。アンタ本当に虚鏡か?」
「は?」
どういう意味だ、と声で睨みつけた。
「虚鏡ってのは感情削ぎ落とした連中だと思ってたんだけどな。アンタ見てると普通の町娘相手にしてる気分になる」
「侮辱してます?」
虚鏡なのに、虚鏡らしくない。しかも町娘などと言われてしまえば、馬鹿にされているとしか思えなかった。
「いや、どっちかってーと褒めてる。もっとつまらん人間かと思ってたし」
(つまり虚鏡がつまらない、と)
結局侮辱しているではないかという怒りは飲み込んで、三郎は早くこの場を立ち去ろうと確認を急ぐ。
「それはどうも。で、見逃してくれるんですよね?」
「アンタそればっかだな、もっと話そうぜ」
楽しそうに男が言うが、三郎にその気はない。見逃してくれそうなのは良いのだが、先程腰を触られた苛立ちが胸の中に残っている。
「お断りします。さようなら!」
一音ずつはっきりと怒りを込めて。言うと同時に姿を消した三郎に向かって、男は「またなー」と楽しそうな声で別れを告げた。
(嘘……)
すぐ後ろから聞こえた声に、三郎の心臓が大きく跳ねた。後ろを取られるまで全く気付かないなど有り得ない――そう否定したくとも、自身の置かれた状況がそれを妨げる。
「お前御三家の人間だろう? こうして近くで見ても存在感が薄いしな」
静かな男の声だった。彼も隠れているのか、声を潜めている。だがそれはどこか愉悦を含んでいて、三郎は必死に男の目的に考えを巡らせた。
しかしいくら考えたところで、相手が何者なのかも知らないのに分かるはずがない。幸いなのは、男から敵意が感じられないこと。もしかしたら隠しているだけかもしれないが、敵意がないということは話が通じるかもしれない――そんな淡い希望を抱かずにはいられなかった。
「御三家だったら、見逃してくれます?」
男に背を向けたまま、三郎が小さな声で尋ねる。
「目的によるな」
「……誰にも危害を加えるつもりはないですよ。その証拠に武器は持ってきていません」
身体の向きはそのままに、両手のひらを男にも見えるよう上に向ける。普段の三郎は他人に見えないように武器を持っているが、今回は本当に何も持っていなかった。もし万が一にも月霜宮の警備に捕まってしまった場合、少しでも害意はないと示すためだ。
「素手で人間の頸くらい捩じ切れるくせによく言うよ」
「いや無理ですよ、死体ならどうにかなるかもしれませんが」
「今更誤魔化すなよ。普通できるだろ」
「いや……え? できるんですか……?」
「できねェの?」
「いやいやいやいや……え?」
もしやこの男は本気で言っているのか――頭巾に隠れた三郎の顔が引き攣った。
確かに虚鏡にも豪腕を持つ者がいる。そういった者達であれば、この男の言うように人間の頸を素手で捩じ切れるかもしれないが、ここまで断言できるものなのだろうか。
生きた人間というのは抵抗するのだ。いくら気配なく襲いかかったところで、咄嗟に力を込められてしまえば捩じ切るのに必要な腕力は一気に大きくなる。それを考慮した上での発言であれば、この男は相当強い。しかも守護である自分のように誰かを守るためではなく、他者を排除するための能力に特化している可能性がある。
既に手練であることは分かっていたが、いざとなれば逃げようという考えは捨てた方が良さそうだ、と三郎は小さく喉を動かした。
「まァいい。――お前、虚鏡だな?」
やはり分かるか、と三郎は眉根を寄せた。
相手が何者か分からない状況というのは、もう終わっているのだ。男も三郎も、相手が御三家の誰かだろうと考えた時、真っ先に消せるのは玉葛だ。何故なら彼らは集団行動を好む。昇陽達兄弟に付いている守護が玉葛の時点で、こうして忍ぶ必要などないのだ。
だから残るは、虚鏡か羽刄か。三郎も虚鏡の人間すべてを知っているわけではないが、これだけ実力のある者であれば噂くらいは聞いたことがあるはずだし、何より先程の頸を捩じ切れるかという会話で常識が違うのだと分かる。
となれば残りは羽刄しかいない。そして相手が羽刄であれば、彼も三郎と同じ理由で相手が虚鏡だと分かるだろう。
「虚鏡だったらどうします? お互いここにいちゃまずい立場だと思うのですけど」
「何、脅そうとしてんの?」
「いやいや、仲良くしたいだけですよ」
「男と仲良くなったところでなァ……」
三郎の性別を勘違いしているらしく、男がつまらなさそうな声を出す。しかしすぐに、「いや、お前虚鏡か」と思い出したかのように声を上げた。
「性別隠してるだけで、実は綺麗な姉ちゃんだったりする?」
なんと答えるべきか、と三郎は頭を悩ませた。虚鏡が姿も性別も隠すのは有名な話だ。それは虚鏡が個を滅するという特徴を持っているからで、三郎も例に漏れず性別を悟られないよう普段から極力肌を隠し、声色も低めにしている。この男の美醜感覚は定かではないが、少なくとも『姉ちゃん』であれば友好関係を築けるのかもしれない。
だが虚鏡である以上、無闇に素顔を晒すわけにもいかない。それなのに僅かな望みにかけて顔を晒して、やっぱり仲良くできないと言われてしまえば三郎には不都合しかなかった。
「軟派な方は信用できませんね」
とりあえず、と三郎は誤魔化す。
「……ほほう、つまり確かめてみろと?」
(どういう曲解したらそうなるんだよ)
という不満は口には出さず、相手がその気なら、と三郎も次の言葉を考える。普段から口の達者な白柊の傍にいるのだ。彼ほどではないが、どう言えば相手が嫌がるのかは心得ている。
「私に触れた時点で、見逃してくれるものと解釈しますよ」
「高い身体だなァ、オイ」
「虚鏡の素性です、当然でしょう?」
虚鏡の人間の素顔は、基本的に同じ虚鏡の人間しか知り得ない。そういう意味では三郎の素顔を知る白柊は特殊だが、そもそも白柊との関係自体も特殊なため考慮しても仕方がない。
男は三郎の答えに納得するように小さく息を吐いて、「まっ、いいか」と呟いた。
「結局、お前さんは何してるわけ?」
「……言ったら見逃して――」
「だァから、目的次第だっての」
そういえばそうだった、と三郎は顔を歪めるが、答えるためにはまず確認すべきことがある。
「貴方の目的も分からないのに、答えられるわけがないでしょう」
「だったら聞けよ。俺はちょっとほら、いろいろと観察して回ってんの」
あっけらかんとした声色で男が答える。いくらかぼかした言い方だったが、そこに嘘や打算は感じ取れない。まさか正直に言うとは思っていなかった三郎は、男に見えないながらも目を丸めた。
「……普通言います? 御所にそんな目的で来たって、場合によっちゃ打首ですよ」
「見つからなきゃいいじゃん」
「ならなんで私に話しかけたんですか?」
「……アレ?」
(この人馬鹿なのかな)
確かに男の言う通り、御所に忍び込むのは重罪だが見つからなければいい。そして男自身にその力があることは、既に三郎の身にも染みている。
だが自分に声をかけてしまった時点で、それはすべて意味がなくなってしまっているのだ。男が自分を口封じに殺すつもりなら話は別だが、そういった様子も感じられない。
(って言っても、気が変わるかもしれないけど)
男が急に三郎を殺す結論を下すこともあるだろう。その時、この距離でこれだけの実力差がある相手に襲われれば、三郎も逃げ切れる自信はない。
これは尚更穏便に話を進めなければ――男に最悪の結論を出させないように、三郎は慎重に言葉を選んだ。
「――信じますよ。私も貴方と似たようなものです、ちょっと観察に」
「なんで?」
「それは流石に言えません。で、見逃してくれます?」
これで駄目だと言われれば、嘘だと気付かれる危険を冒しても、適当な理由を並べ立てるしかない――そう思って、三郎がごくりと喉を動かした時だった。
「うーん、ちと足りねェな。ほれ」
「ひゃっ!?」
「お、良い腰。女?」
男は断りもなく、三郎の腰に手をやった。体型を確認したかっただけのようですぐに手を離したが、それでも自分がこれだけ緊張しているのに、ふざけたような態度を取られたことで三郎の中にむかむかとしたものが込み上げる。
「触ったら見逃してくれると判断するって言いましたよね?」
「怒るなよ。アンタ本当に虚鏡か?」
「は?」
どういう意味だ、と声で睨みつけた。
「虚鏡ってのは感情削ぎ落とした連中だと思ってたんだけどな。アンタ見てると普通の町娘相手にしてる気分になる」
「侮辱してます?」
虚鏡なのに、虚鏡らしくない。しかも町娘などと言われてしまえば、馬鹿にされているとしか思えなかった。
「いや、どっちかってーと褒めてる。もっとつまらん人間かと思ってたし」
(つまり虚鏡がつまらない、と)
結局侮辱しているではないかという怒りは飲み込んで、三郎は早くこの場を立ち去ろうと確認を急ぐ。
「それはどうも。で、見逃してくれるんですよね?」
「アンタそればっかだな、もっと話そうぜ」
楽しそうに男が言うが、三郎にその気はない。見逃してくれそうなのは良いのだが、先程腰を触られた苛立ちが胸の中に残っている。
「お断りします。さようなら!」
一音ずつはっきりと怒りを込めて。言うと同時に姿を消した三郎に向かって、男は「またなー」と楽しそうな声で別れを告げた。
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