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最終章 転がり落ちていく先は
【第十一話 窮鼠】11-4 なんで……
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男が嗤う気配がした。表情は口元以外未だよく見えないが、声が、紫色の瞳が、一葉を嘲笑っているのだと物語っている。
そして一葉は……――刀を振り下ろそうとした体勢のまま固まっていた。男の目の前で、無防備に。
何かに止められているわけでもない。本人が躊躇っているようにも思えない。まるで彼女の時間だけが止まってしまったかのように、一葉は全く動かなかった。
「一撃で仕留められなきゃ序列の低い奴はもうそこまで。いくらこっちの目を見ないようにしたところでそれにも限界がある。今みたいに気になることを言われれば、無意識のうちに見てしまってもしょうがない」
ねっとりとした男の声が耳に障る。一葉に向けて言っているであろう言葉の意味は完全には分からないのに、彼女にとって不都合だということだけは嫌でも感じ取れてしまう。
「執行官のシステムは穴だらけだ。いくら人手が足りないからとはいえ、中途半端な序列の連中まで執行官になれるというのは考えものだな。しかも自分のそれを隠すことも許されない。まあ、お陰で俺は楽できるが」
男が下卑た笑いを一葉に向ける。それなのに、やはり一葉は全く動かない。
「聞こえてるだろ? 奪ったのは身体の動きだけだ」
その言葉で俺はやっと一葉が操られているのだと理解した。前に彼女から聞いた話では、吸血鬼同士でだって相手を操れる。そして、確かそれには序列の高さが関係しているのだと――そこまで思い出した時、二人の会話の意味が分かった。
一葉が俺に逃げろと言ったのは、自分の序列が男より低いと思ったからではないのか。相手が自分のことを知っていたから、だからその可能性もあると判断して俺を逃がそうとしたのではないか。
そうと分かったのに、俺の足は動いてくれなかった。一葉が逃げろという意味も、残ったところで俺は役に立たないのだということも理解しているのに。
「最初の質問に答えてやろう。俺はお前を殺しに来たんだよ。お前がこの間捕まえた男は一応仲間でね、同情はないが執行官にしたり顔をされるのは気分が悪い」
男はずっと一葉に話しかけている。俺のことは視界にすら入れていない――腹立たしいはずのその事実が、今の俺にとっては救いだった。
一瞬でいい。ほんの一瞬でいいから、男に隙を作れないものか。
どうやったら男の支配から一葉が解放されるのかは分からないが、とにかく彼女を連れてあの男から離れなければならない。
そのためには男の警戒に引っかかってはならない。一葉に逃げろと言われた弱い人間のまま、静かに腰のナイフを引き抜く。
できれば一葉から預かっている枷を使いたかったが、あの男相手にそこまでできる気がしなかった。俺が男に許されるのはきっと最低限の動きだけ。慣れた動きにのみ集中しないと、意味のある行動はできない。
ナイフを手に取ることは見逃された。なら次はどうする?
直接向かっていったところで無意味だろう。簡単に避けられるか、操られるのがオチ。避けられた後は……そうと気付かないまま殺されるかもしれない。最初の二人の動きを目で追うことすらできなかった俺には、向こうの攻撃を避ける術がない。
ならばもう、投げるしかない。到底当たるとは思えないが、一瞬でも意識を逸らしてくれと願うしかなかった。
「――だが、ただ殺すんじゃつまらない。手軽さ故に相手に自害の強制をすることを好む吸血鬼は多いが、俺は正直それはどうかと思う……呆気なさすぎるとは思わないか? この手で肉を切り裂く感触を味わってこそ、相手の命を奪っていると実感できるのに」
俺を無視して男が一葉に話しかけ続ける。僅かに男が動いたその瞬間、俺はナイフを投げようと腕を振り上げた。
真上を向いた切っ先を男の方へ。柄から手を外そうと指先に意識を集中した時、見覚えのある背中が俺の眼前に現れた。
「ッ!?」
咄嗟に受け止めたのは、それが一葉だと分かったからだ。慌ててナイフを持ち直し、体勢を崩す彼女を支えるために空いていた左手をその腹に回す。
触れるのは洋服の感触のはずなのに、嫌な温かさが手のひらを濡らした。
「一葉!?」
抱え直した彼女の身体には大きな四本の線が斜めに走り、そこから出た真っ赤な血が見慣れたパーカーを汚していた。
それなのに一葉は悲鳴も上げず、かと言ってぼんやりと開いた目は意識を失っているようにも見えない。苦悶の表情すら浮かべない彼女に、これが操られるということかと実感して背中が一気に寒くなった気がした。
「そういえば今は人間のハンターと動いているんだったな。その執行官も言っていたが、逃げたいなら逃げていいぞ。お前ら末端が何をしようと何の障害にもならない」
聞こえてきた声に視線を向ければ、男の手の形が変わっているのが分かった。モロイでも時々あんな手を持つ者がいる。人間には有り得ないはずの鉤爪のようなものがついた手で、その爪からはポタポタと一葉の血が滴り落ちていた。
「逃げるわけねェだろ! こいつを追いてだなんて――」
「こちらに来い、女」
「――何を……ッおい!」
動かなかったはずの一葉が俺の腕を振り払う。腹から血が流れるのを気に留めることもなく、当然のように男の方へと歩いていく。
「なんで……待て、一葉!」
「無駄だ、今この女は自分の意思で動けない。さあ、もっと近くに来い。そうだ、そこで止まれ」
「ッよせ!」
俺の声にかぶせるように、湿り気のある嫌な音が耳朶を打った。男に言われるがまま歩いていった一葉の背中にはさっき見たばかりの鉤爪があって、それは再び嫌な音を立てながら彼女の身体から引き抜かれていった。
「クソッ!」
銃声が響き渡る。男の頭を狙って俺が撃ったからだ。案の定男はそれを避けたが、狙い通り頭をずらしたのを見て俺は一葉の方へと走り寄った。
口からも血を流した彼女は相変わらずぼんやりとしたまま。構わずその身体を抱き上げれば、思いがけない軽さにスッと頭から血の気が引くのを感じた。
「一人で逃げればいいのに。女、まだ動けるだろう? こっちに……」
「もうやめろ! 十分だろ!?」
「生きているのにどこが十分なんだ?」
歪な笑顔が俺の全身を粟立たせる。この男はただただ一葉をいたぶって遊びたいだけなのだ。抵抗しない彼女を好き放題痛めつけて、身体が壊れていく様を見ていたいだけ。
以前俺だってハンター達にやられた。だけどあれとは全く違う。彼らのあの行動がなんてことないと思えてしまうくらい、眼前の男からは狂気を感じる。
「死んだら終わりだが、生きているならまだ続きが楽しめるだろう? 執行官っていうのは特権を振りかざす代わりにこういうことだって受け入れなきゃならない。――なあ、そうだろ? そいつを振り払ってこっちで続きをしよう」
「やめろ! ッ待て一葉!」
有り得ない力で一葉が俺の胸を押す。操られているのだとしてもこれだけの深手なら筋力に影響が出そうなものなのに、俺がどれだけ力を込めても彼女を掴む腕はみるみる外れそうになっていく。
「人間の力でどうにかできるわけがないだろ? そうだ、折角ならその女にお前を殺させてみるか? 執行官なら人間を殺すことは嫌うはずッ……――」
男の声が不意に途切れる。一葉を押さえながらどうにかそちらに目をやれば、男の胸を何かが貫いているのが見えた。
そして一葉は……――刀を振り下ろそうとした体勢のまま固まっていた。男の目の前で、無防備に。
何かに止められているわけでもない。本人が躊躇っているようにも思えない。まるで彼女の時間だけが止まってしまったかのように、一葉は全く動かなかった。
「一撃で仕留められなきゃ序列の低い奴はもうそこまで。いくらこっちの目を見ないようにしたところでそれにも限界がある。今みたいに気になることを言われれば、無意識のうちに見てしまってもしょうがない」
ねっとりとした男の声が耳に障る。一葉に向けて言っているであろう言葉の意味は完全には分からないのに、彼女にとって不都合だということだけは嫌でも感じ取れてしまう。
「執行官のシステムは穴だらけだ。いくら人手が足りないからとはいえ、中途半端な序列の連中まで執行官になれるというのは考えものだな。しかも自分のそれを隠すことも許されない。まあ、お陰で俺は楽できるが」
男が下卑た笑いを一葉に向ける。それなのに、やはり一葉は全く動かない。
「聞こえてるだろ? 奪ったのは身体の動きだけだ」
その言葉で俺はやっと一葉が操られているのだと理解した。前に彼女から聞いた話では、吸血鬼同士でだって相手を操れる。そして、確かそれには序列の高さが関係しているのだと――そこまで思い出した時、二人の会話の意味が分かった。
一葉が俺に逃げろと言ったのは、自分の序列が男より低いと思ったからではないのか。相手が自分のことを知っていたから、だからその可能性もあると判断して俺を逃がそうとしたのではないか。
そうと分かったのに、俺の足は動いてくれなかった。一葉が逃げろという意味も、残ったところで俺は役に立たないのだということも理解しているのに。
「最初の質問に答えてやろう。俺はお前を殺しに来たんだよ。お前がこの間捕まえた男は一応仲間でね、同情はないが執行官にしたり顔をされるのは気分が悪い」
男はずっと一葉に話しかけている。俺のことは視界にすら入れていない――腹立たしいはずのその事実が、今の俺にとっては救いだった。
一瞬でいい。ほんの一瞬でいいから、男に隙を作れないものか。
どうやったら男の支配から一葉が解放されるのかは分からないが、とにかく彼女を連れてあの男から離れなければならない。
そのためには男の警戒に引っかかってはならない。一葉に逃げろと言われた弱い人間のまま、静かに腰のナイフを引き抜く。
できれば一葉から預かっている枷を使いたかったが、あの男相手にそこまでできる気がしなかった。俺が男に許されるのはきっと最低限の動きだけ。慣れた動きにのみ集中しないと、意味のある行動はできない。
ナイフを手に取ることは見逃された。なら次はどうする?
直接向かっていったところで無意味だろう。簡単に避けられるか、操られるのがオチ。避けられた後は……そうと気付かないまま殺されるかもしれない。最初の二人の動きを目で追うことすらできなかった俺には、向こうの攻撃を避ける術がない。
ならばもう、投げるしかない。到底当たるとは思えないが、一瞬でも意識を逸らしてくれと願うしかなかった。
「――だが、ただ殺すんじゃつまらない。手軽さ故に相手に自害の強制をすることを好む吸血鬼は多いが、俺は正直それはどうかと思う……呆気なさすぎるとは思わないか? この手で肉を切り裂く感触を味わってこそ、相手の命を奪っていると実感できるのに」
俺を無視して男が一葉に話しかけ続ける。僅かに男が動いたその瞬間、俺はナイフを投げようと腕を振り上げた。
真上を向いた切っ先を男の方へ。柄から手を外そうと指先に意識を集中した時、見覚えのある背中が俺の眼前に現れた。
「ッ!?」
咄嗟に受け止めたのは、それが一葉だと分かったからだ。慌ててナイフを持ち直し、体勢を崩す彼女を支えるために空いていた左手をその腹に回す。
触れるのは洋服の感触のはずなのに、嫌な温かさが手のひらを濡らした。
「一葉!?」
抱え直した彼女の身体には大きな四本の線が斜めに走り、そこから出た真っ赤な血が見慣れたパーカーを汚していた。
それなのに一葉は悲鳴も上げず、かと言ってぼんやりと開いた目は意識を失っているようにも見えない。苦悶の表情すら浮かべない彼女に、これが操られるということかと実感して背中が一気に寒くなった気がした。
「そういえば今は人間のハンターと動いているんだったな。その執行官も言っていたが、逃げたいなら逃げていいぞ。お前ら末端が何をしようと何の障害にもならない」
聞こえてきた声に視線を向ければ、男の手の形が変わっているのが分かった。モロイでも時々あんな手を持つ者がいる。人間には有り得ないはずの鉤爪のようなものがついた手で、その爪からはポタポタと一葉の血が滴り落ちていた。
「逃げるわけねェだろ! こいつを追いてだなんて――」
「こちらに来い、女」
「――何を……ッおい!」
動かなかったはずの一葉が俺の腕を振り払う。腹から血が流れるのを気に留めることもなく、当然のように男の方へと歩いていく。
「なんで……待て、一葉!」
「無駄だ、今この女は自分の意思で動けない。さあ、もっと近くに来い。そうだ、そこで止まれ」
「ッよせ!」
俺の声にかぶせるように、湿り気のある嫌な音が耳朶を打った。男に言われるがまま歩いていった一葉の背中にはさっき見たばかりの鉤爪があって、それは再び嫌な音を立てながら彼女の身体から引き抜かれていった。
「クソッ!」
銃声が響き渡る。男の頭を狙って俺が撃ったからだ。案の定男はそれを避けたが、狙い通り頭をずらしたのを見て俺は一葉の方へと走り寄った。
口からも血を流した彼女は相変わらずぼんやりとしたまま。構わずその身体を抱き上げれば、思いがけない軽さにスッと頭から血の気が引くのを感じた。
「一人で逃げればいいのに。女、まだ動けるだろう? こっちに……」
「もうやめろ! 十分だろ!?」
「生きているのにどこが十分なんだ?」
歪な笑顔が俺の全身を粟立たせる。この男はただただ一葉をいたぶって遊びたいだけなのだ。抵抗しない彼女を好き放題痛めつけて、身体が壊れていく様を見ていたいだけ。
以前俺だってハンター達にやられた。だけどあれとは全く違う。彼らのあの行動がなんてことないと思えてしまうくらい、眼前の男からは狂気を感じる。
「死んだら終わりだが、生きているならまだ続きが楽しめるだろう? 執行官っていうのは特権を振りかざす代わりにこういうことだって受け入れなきゃならない。――なあ、そうだろ? そいつを振り払ってこっちで続きをしよう」
「やめろ! ッ待て一葉!」
有り得ない力で一葉が俺の胸を押す。操られているのだとしてもこれだけの深手なら筋力に影響が出そうなものなのに、俺がどれだけ力を込めても彼女を掴む腕はみるみる外れそうになっていく。
「人間の力でどうにかできるわけがないだろ? そうだ、折角ならその女にお前を殺させてみるか? 執行官なら人間を殺すことは嫌うはずッ……――」
男の声が不意に途切れる。一葉を押さえながらどうにかそちらに目をやれば、男の胸を何かが貫いているのが見えた。
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