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最終章 転がり落ちていく先は
【第十一話 窮鼠】11-3 食い物のことしか考えてないのか
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終電が終わって二時間も経てば、夜の都会はかなり静かになる。居酒屋の立ち並ぶあたりに行けばまだ賑やかさもあるが、早い時間のそれには遠く及ばない。
人影はまばら。タクシーを拾おうとしていた者達の波もとうに収まり、普段は常に渋滞している道路だって広々としている。元々人通りの少ない道に行けばそれは一層顕著で、本当にここは都会なのだろうかと思ってしまうくらいの静寂が訪れる。
だけど俺の隣だけはいつも騒がしい。以前まではこの静けさの中一人歩いていたのに、最近はずっと近くに彼女がいる。
「――でさァ、その頃あんまり日本に行けてなかったから恋しくなってお寿司屋さんに入ったの。そしたら何が出てきたと思う? こんがり揚げられたカルフォルニアロールだよ!? 洋風な巻き寿司はなんとか受け入れられたんだけど、それに衣付けて揚げてるんだよ!? 『アメリカ怖ッ』って思ったよね!」
「でもそんなもん売ってるってことは食べられる味なんだろ?」
「そう、美味しかった! 誠に遺憾ながら!」
さっきから『記憶に残っているカルチャーショック』を力説している一葉はその味を思い出したのか、「日本でも出してくれないかなぁ」と呟いた。見廻りを始めてから数時間、彼女はずっと話し続けている。よくもまあこんなに話題が尽きないものだと思いながら、俺は「あんまり食いたくないけどな」と相槌を打った。
以前から薄々思っていたが、一葉は長く生きているくせに今の世の中に順応しすぎている気がする。吸血鬼の世界にはネットどころか電気もあまりないという話なのに、街中を歩いていても特に驚く様子はないし、一時的に流行していただけの食べ物のことだって把握しているようだ。
「アンタはこだわりとかないのか? 寿司だって海外のやつはおかしいって言う連中は結構いるだろ」
「こだわりねぇ……なくはないけど美味しいなら別に何でもよくない? 日本が洋食輸入してくれてよかったと思ってるよ、私は」
「食い物のことしか考えてないのか」
「食べ物のことも考えてるの!」
そう言って笑う彼女を見ながら、これでいいんだと自分に言い聞かせる。
どうでもいい雑談をして、ほんの少しだけ楽しんで。以前の俺なら吸血鬼相手に馴れ合い過ぎだと思っただろうが、これ以上近付かなけれれば問題はないはずだ。
『……そういうのはいらないしな』
一葉からの問いへの、俺の答え。俺と毎日一緒にいる一葉は自分のせいで俺が恋人と不仲にならないのかと心配したようだったが、そんな相手などいないから心配する必要はない。
過去にもそうだ。興味本位で遊んでみたことはあっても、名前どころか顔すら覚えていない。それは俺だけでなく相手だって同じだろう。
恋人なんていらない――ずっと思ってきたことだ。だから一度も真剣な告白は受けたことはないし、俺自身からそういった行動を取ったこともない。
『今後も作ることはねェよ。多分俺は仕事を優先するだろうし、こんな仕事じゃいつ死ぬかも分からない』
だからこれは嘘じゃない。嘘じゃないのに、それを口にするのがなんだか嫌だった。
『だからアンタは安心して歩いとけ。いきなり知らない女に絡まれることはないから』
慌てて付け足したこの言葉は、まるで彼女を近くに引き留めようとしているかのようで。近付く気もないくせに今の距離から離れてしまうのは嫌だなんて、我ながら幼稚すぎて笑う気すら起きない。
「――キョウ、体調悪いの?」
突然一葉の真面目な声が聞こえてきて、俺は自分が考えに耽っていたのだと気が付いた。「いや……」と口にしながら隣を見れば、一葉が心配そうな表情で俺を見上げていた。
「本当? 急に黙っちゃったから辛いのかと思った。まだ万全じゃないんだから身体おかしかったら言ってね?」
「……ああ」
居心地が悪くなって、ぶっきらぼうに答えながら顔を背けた。普段人をおちょくってばかりいる相手にこうして心配されると調子が狂う。最近はよく怪我をしているせいでその頻度が上がり、彼女に心配されるたびに自分の力のなさを思い知る気がして嫌だった。
たとえ純粋にこちらの身を案じてくれているのだとしても、慣れないむず痒さだけを感じていられるほど俺はできた人間じゃない。そう思うと余計に自分の小ささを感じて、また一段と気分が暗くなる。
「キョウ、やっぱり何か――ッ!?」
不自然に途切れた一葉の声。一瞬どうしたのかと思ったが、視界に映った彼女が既に仕込み刀に手をかけているのを見て俺は自分を叱咤した。自分も構えながら一葉の視線の先に目をやれば、真っ黒な霧のようなそれが俺達から五メートルほどの距離に漂っている。
上位種がいる――見慣れてきたそれに自然と頭に浮かぶ。味方、ではないだろう。俺よりも一葉の方が相手の気配をより正確に探れるはずだ。その彼女が身構えているのだから、そこにいるのは味方以外の何か。
「……どちら様?」
低い声で一葉が尋ねる。黒い煙はすぐに人の形になって、そこから男が姿を現した。
「執行官は不自由だな。不利と分かってても相手の素性が分からない限り動けないだなんて」
街灯で逆光になっているせいで俺の目では男の容姿はよく分からなかった。言葉の訛りのなさから日本人かと思ったが、それにしては体格に恵まれている。
「あなた会話できない人? 誰って聞いてるんだけど」
「すぐに答えたらつまらないだろ?」
「うわ、うっざ。答えたら不都合がある人って捉えるけどいい?」
「それで処理対象外の相手だったら処分されるのはお前だけどな」
「やだ、ドヤ顔。なんかナルシスト臭するぅ……」
口調こそふざけているが、今の一葉に隙は微塵も見つけられなかった。二人の会話から察するに、執行官である一葉は誰彼構わず斬りつけることはできないのだろう。相手はそれを分かっていて、わざと名乗らずにいる。その時点で疑うには十分だと思ったが、この様子ではただの疑いだけで彼女は動くことはできないのだ。
酷くもどかしかった。ハンターであれば吸血鬼だというだけで攻撃をしかける正当な理由になるのに、俺が動けば足手まといになるであろうという直感が。
彼らの会話にすら入れない上に、戦力としても役に立たないのかもしれない――俺にできるのは一葉の邪魔にならないようにしながら、相手の目を見ないよう視線を意識することだけだった。それに意味があるのかは分からなかったが、他に思いつくことがない。
「酷い言われようだな。俺は本当のことを話しているだけなのに」
「だとしても、こっちに攻撃しかけられないように正体隠す時点でお察しじゃん? 自己愛強い上に卑怯な弱虫とかモテないよ」
「日本人の執行官は人の話を聞かないことで有名だからな。攻撃をしかける理由を与えてしまえば、お前は間髪入れずに俺の動きを封じようとしてくるんだろう?」
「……もしかして、あなた私のことに詳しいのかな?」
一葉の放つ雰囲気が一気に張り詰めたのが分かった。カチ、と僅かに聞こえた音は何なのか――その正体を考えたかったが、それよりも今は一葉の様子の方が気になった。彼女から滲み出るものは敵意というよりも警戒に近い。これまでの会話の中で一葉により強い警戒心を持たせる何かがあったのだろう。
だけど俺にはそれが何なのか分からなかった。もしかしたら相手が一葉に詳しいということかもしれないかとも思ったが、それにどんな意味があるのか分からない。自分に苛立ちを感じながら俺もまた警戒を強めようとした時、「キョウさ」と一葉が静かに口を開いた。
「逃げる準備しておいて。っていうか、私が刀抜いたらもう逃げちゃって」
「は……? なんで――」
「なんでも。お願い」
一葉が僅かに顔をこちらに向ける。そこにあった瞳は、本当に彼女のものかというくらい真剣な光を帯びていた。
「安心しろ。そっちの人間には興味ない」
「他の人間だったらあるってこと?」
「いや? 俺はただ、執行官を痛めつけたいだけだよ」
その瞬間、全身が怖気で固まったのが分かった。同時に隣から一葉の姿が消える。
直感で視線を動かせば彼女はもう男のすぐ前にいて、右手には抜身の刀を掲げていた。
「ハッ! 狂犬かよ!」
男が一歩後ろへ飛ぶ。その頬からは僅かに赤い雫が飛び散っている――既に一葉は一太刀しかけていたのだ。刀を掲げていたのは振り切ったから。彼女の速さもそうだが、男がかすり傷で済んでいることもまた俺の背筋を冷たくした。
こんなの、俺が入れるはずがない。
「狂犬で結構!」
一葉が左手に持っていた傘を投げる。そのまま一歩前へと踏み込んで、振りかぶった刀を男へと振り下ろした。
「――連れはいいのか?」
男が一葉に問いかける。男の口角が、いやらしく持ち上がる。
「お前の負けだ、執行官」
一葉の刀が、完全に振り下ろされることはなかった。
人影はまばら。タクシーを拾おうとしていた者達の波もとうに収まり、普段は常に渋滞している道路だって広々としている。元々人通りの少ない道に行けばそれは一層顕著で、本当にここは都会なのだろうかと思ってしまうくらいの静寂が訪れる。
だけど俺の隣だけはいつも騒がしい。以前まではこの静けさの中一人歩いていたのに、最近はずっと近くに彼女がいる。
「――でさァ、その頃あんまり日本に行けてなかったから恋しくなってお寿司屋さんに入ったの。そしたら何が出てきたと思う? こんがり揚げられたカルフォルニアロールだよ!? 洋風な巻き寿司はなんとか受け入れられたんだけど、それに衣付けて揚げてるんだよ!? 『アメリカ怖ッ』って思ったよね!」
「でもそんなもん売ってるってことは食べられる味なんだろ?」
「そう、美味しかった! 誠に遺憾ながら!」
さっきから『記憶に残っているカルチャーショック』を力説している一葉はその味を思い出したのか、「日本でも出してくれないかなぁ」と呟いた。見廻りを始めてから数時間、彼女はずっと話し続けている。よくもまあこんなに話題が尽きないものだと思いながら、俺は「あんまり食いたくないけどな」と相槌を打った。
以前から薄々思っていたが、一葉は長く生きているくせに今の世の中に順応しすぎている気がする。吸血鬼の世界にはネットどころか電気もあまりないという話なのに、街中を歩いていても特に驚く様子はないし、一時的に流行していただけの食べ物のことだって把握しているようだ。
「アンタはこだわりとかないのか? 寿司だって海外のやつはおかしいって言う連中は結構いるだろ」
「こだわりねぇ……なくはないけど美味しいなら別に何でもよくない? 日本が洋食輸入してくれてよかったと思ってるよ、私は」
「食い物のことしか考えてないのか」
「食べ物のことも考えてるの!」
そう言って笑う彼女を見ながら、これでいいんだと自分に言い聞かせる。
どうでもいい雑談をして、ほんの少しだけ楽しんで。以前の俺なら吸血鬼相手に馴れ合い過ぎだと思っただろうが、これ以上近付かなけれれば問題はないはずだ。
『……そういうのはいらないしな』
一葉からの問いへの、俺の答え。俺と毎日一緒にいる一葉は自分のせいで俺が恋人と不仲にならないのかと心配したようだったが、そんな相手などいないから心配する必要はない。
過去にもそうだ。興味本位で遊んでみたことはあっても、名前どころか顔すら覚えていない。それは俺だけでなく相手だって同じだろう。
恋人なんていらない――ずっと思ってきたことだ。だから一度も真剣な告白は受けたことはないし、俺自身からそういった行動を取ったこともない。
『今後も作ることはねェよ。多分俺は仕事を優先するだろうし、こんな仕事じゃいつ死ぬかも分からない』
だからこれは嘘じゃない。嘘じゃないのに、それを口にするのがなんだか嫌だった。
『だからアンタは安心して歩いとけ。いきなり知らない女に絡まれることはないから』
慌てて付け足したこの言葉は、まるで彼女を近くに引き留めようとしているかのようで。近付く気もないくせに今の距離から離れてしまうのは嫌だなんて、我ながら幼稚すぎて笑う気すら起きない。
「――キョウ、体調悪いの?」
突然一葉の真面目な声が聞こえてきて、俺は自分が考えに耽っていたのだと気が付いた。「いや……」と口にしながら隣を見れば、一葉が心配そうな表情で俺を見上げていた。
「本当? 急に黙っちゃったから辛いのかと思った。まだ万全じゃないんだから身体おかしかったら言ってね?」
「……ああ」
居心地が悪くなって、ぶっきらぼうに答えながら顔を背けた。普段人をおちょくってばかりいる相手にこうして心配されると調子が狂う。最近はよく怪我をしているせいでその頻度が上がり、彼女に心配されるたびに自分の力のなさを思い知る気がして嫌だった。
たとえ純粋にこちらの身を案じてくれているのだとしても、慣れないむず痒さだけを感じていられるほど俺はできた人間じゃない。そう思うと余計に自分の小ささを感じて、また一段と気分が暗くなる。
「キョウ、やっぱり何か――ッ!?」
不自然に途切れた一葉の声。一瞬どうしたのかと思ったが、視界に映った彼女が既に仕込み刀に手をかけているのを見て俺は自分を叱咤した。自分も構えながら一葉の視線の先に目をやれば、真っ黒な霧のようなそれが俺達から五メートルほどの距離に漂っている。
上位種がいる――見慣れてきたそれに自然と頭に浮かぶ。味方、ではないだろう。俺よりも一葉の方が相手の気配をより正確に探れるはずだ。その彼女が身構えているのだから、そこにいるのは味方以外の何か。
「……どちら様?」
低い声で一葉が尋ねる。黒い煙はすぐに人の形になって、そこから男が姿を現した。
「執行官は不自由だな。不利と分かってても相手の素性が分からない限り動けないだなんて」
街灯で逆光になっているせいで俺の目では男の容姿はよく分からなかった。言葉の訛りのなさから日本人かと思ったが、それにしては体格に恵まれている。
「あなた会話できない人? 誰って聞いてるんだけど」
「すぐに答えたらつまらないだろ?」
「うわ、うっざ。答えたら不都合がある人って捉えるけどいい?」
「それで処理対象外の相手だったら処分されるのはお前だけどな」
「やだ、ドヤ顔。なんかナルシスト臭するぅ……」
口調こそふざけているが、今の一葉に隙は微塵も見つけられなかった。二人の会話から察するに、執行官である一葉は誰彼構わず斬りつけることはできないのだろう。相手はそれを分かっていて、わざと名乗らずにいる。その時点で疑うには十分だと思ったが、この様子ではただの疑いだけで彼女は動くことはできないのだ。
酷くもどかしかった。ハンターであれば吸血鬼だというだけで攻撃をしかける正当な理由になるのに、俺が動けば足手まといになるであろうという直感が。
彼らの会話にすら入れない上に、戦力としても役に立たないのかもしれない――俺にできるのは一葉の邪魔にならないようにしながら、相手の目を見ないよう視線を意識することだけだった。それに意味があるのかは分からなかったが、他に思いつくことがない。
「酷い言われようだな。俺は本当のことを話しているだけなのに」
「だとしても、こっちに攻撃しかけられないように正体隠す時点でお察しじゃん? 自己愛強い上に卑怯な弱虫とかモテないよ」
「日本人の執行官は人の話を聞かないことで有名だからな。攻撃をしかける理由を与えてしまえば、お前は間髪入れずに俺の動きを封じようとしてくるんだろう?」
「……もしかして、あなた私のことに詳しいのかな?」
一葉の放つ雰囲気が一気に張り詰めたのが分かった。カチ、と僅かに聞こえた音は何なのか――その正体を考えたかったが、それよりも今は一葉の様子の方が気になった。彼女から滲み出るものは敵意というよりも警戒に近い。これまでの会話の中で一葉により強い警戒心を持たせる何かがあったのだろう。
だけど俺にはそれが何なのか分からなかった。もしかしたら相手が一葉に詳しいということかもしれないかとも思ったが、それにどんな意味があるのか分からない。自分に苛立ちを感じながら俺もまた警戒を強めようとした時、「キョウさ」と一葉が静かに口を開いた。
「逃げる準備しておいて。っていうか、私が刀抜いたらもう逃げちゃって」
「は……? なんで――」
「なんでも。お願い」
一葉が僅かに顔をこちらに向ける。そこにあった瞳は、本当に彼女のものかというくらい真剣な光を帯びていた。
「安心しろ。そっちの人間には興味ない」
「他の人間だったらあるってこと?」
「いや? 俺はただ、執行官を痛めつけたいだけだよ」
その瞬間、全身が怖気で固まったのが分かった。同時に隣から一葉の姿が消える。
直感で視線を動かせば彼女はもう男のすぐ前にいて、右手には抜身の刀を掲げていた。
「ハッ! 狂犬かよ!」
男が一歩後ろへ飛ぶ。その頬からは僅かに赤い雫が飛び散っている――既に一葉は一太刀しかけていたのだ。刀を掲げていたのは振り切ったから。彼女の速さもそうだが、男がかすり傷で済んでいることもまた俺の背筋を冷たくした。
こんなの、俺が入れるはずがない。
「狂犬で結構!」
一葉が左手に持っていた傘を投げる。そのまま一歩前へと踏み込んで、振りかぶった刀を男へと振り下ろした。
「――連れはいいのか?」
男が一葉に問いかける。男の口角が、いやらしく持ち上がる。
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