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新菜いに/丹㑚仁戻

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第三章 グッバイ、ハロー

【第九話 距離】9-1 『一葉ちゃん可愛い!』って言って?

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 おぼんの上に熱々の鍋焼きうどんを載せて、屋敷の長い廊下を歩いていく。出汁の良い香りが私の食欲をそそるけれど、これは私のためのものではないので今は我慢。
 目的地である部屋の前まで来たらしゃがみ込んでおぼんを床に置き、「開けるよー」と声をかけながら廊下と部屋を区切る襖をそろそろと開いた。

「キョウ、体調平気?」

 置いてあったおぼんを手に部屋の中に入れば、そこにいたキョウはゆっくりとした動きで布団から起き上がった。レイフの伝手で人間の手当てができるお医者さんに治療してもらったけれど、顔色は悪いまま。身体のあちこちに怪我をしているせいで少し熱もあるようだ。

「これ……どうしたんだ?」

 私の手にある鍋焼きうどんを見てキョウが首を傾げる。熱でぼんやりしているのか、それとも鰹節の魔力のせいか、彼の目はほかほかのうどんに縫い付けられていた。

「夜明け前にコンビニで買ってきてたんだなぁ、私は天才だから。とはいえ天才でも都合上うちで出せるのはこのシリーズだけです。おかわりは自由だよ」
「いくつ買ったんだよ……」
「カゴに入るだけ!」

 おぼんを膝に置いてグッと拳を掲げれば、呆れたような視線が向けられた。あれ、君の目はうどんに夢中じゃなかったの?

「金は後でまとめて払う。この治療の分も……」
「このくらい別にいいよ。おうどんも余ったら私のおやつにするし」
「治療代はそれなりにするだろ。こういうのはちゃんと俺が払うべきだ」
「えー……じゃあキョウ、『一葉ちゃん可愛い!』って言って? それでチャラに――」
「払わせろ」
「……はあい」

 それまでぼんやりしていたキョウはどこへやら、はっきりとした口調でピシャリと言い放つ。いつもだったらもう少し粘ってもいいけれど、相手は怪我人なので私は大人しく引き下がることにした。

「そういえば壱政様はもうすぐ来れるみたいだよ。でもキョウ、本当に夜は仕事行くの? 正直に話して休ませてもらった方が……」
「これで休んだら負けたみたいだろうが」
「そうだけどー……」

 朝に一度目覚めたキョウに一応事の経緯は聞いている。手負いで大人のハンター二人を負かしたのだから負けも何もないと思うのだけど、キョウの中ではこれで平然と仕事をしてこそ完全勝利らしい。こういうところはお子様だ。
 そんなお子様キョウは私からうどんを受け取ると、小さく「いただきます」と言ってからふうふう冷ましながら食べ始めた。キョウ、いただきますとか言えるんだ。意外すぎる。
 そういえば彼が何かを食べているところを見るのは初めてだな。この屋敷の台所事情で鍋焼きうどんを買ってきたけれど、躊躇わずに食べ始めたあたり苦手な食べ物ではなかったようで安心した。
 がしかし、キョウってもしかして猫舌なのだろうか。一度に二、三本ずつしか取らないのは体調もあるだろうからまあいいとして、そんな量なのにふうふうする時間長くない? 普通はお箸に触れている部分を中心に冷ますものだけど、どうにもキョウはその先の方まで狙って冷ましているような気がする。

 なんて、キョウの食事風景を観察していてもしょうがない。いやふうふうする顔もうどんを啜る顔も無駄に整っている上にお口がとんがっているから可愛いのだけれども、あまり食べているところをジロジロと見られたらキョウも食べづらいだろう。
 そんなわけで私はどうでもいい話を振りながら、こっそりとキョウの横顔の観察を続けた。

「――悪かったな」

 食べ始めてからから十分ほど経った頃、すっかりとうどんを平らげたキョウは後片付けをする私にぽつりと謝ってきた。

「え?」
「今までの態度とか、そういうの」
「昨日それは謝ってもらったよ?」
「ああ……でも、ちゃんと言ってなかったから。……俺が狩るのと、アンタや壱政さんは別だ」
「キョウ……」

 なんだろう、キョウが素直だ。お腹いっぱいで機嫌が良いのかな。それとも熱があるせいで弱気になっているのだろうか。私はもう長いこと発熱というものをしていないから忘れてしまったけれど、うんと小さい頃は体調を崩すと心細かった気がする。
 なんて思っていたら、ゆっくりと開けられた襖から「馬鹿馬鹿しい」と声が響いた。

「俺達がお前達の獲物とは別? それはお前がそう思いたいだけだろ」

 ずかずかと入ってきたのは壱政様。声のとおり不機嫌で、キョウの様子を見るなり更に顔を顰めながら私の隣に腰を下ろした。一応呼ぶ時にキョウが怪我をしているからこの部屋に来てくれと伝えていたけれど、その経緯や重症度の説明を省いたから驚いたのかもしれない。

「全く、また人を呼びつけて何かと思えば……ハンターが獲物に助けを求めるだなんて誇りはないのか?」
「壱政様!」
「いいんだ、一葉。この人の言ってることの方が正しい。壱政さんも、急に呼び出して悪い」

 キョウの様子に壱政様はまた眉間の皺を深くした。観察するように彼を睨みつけて、「手負いで弱ってるのか?」と馬鹿にするように口角を上げる。

「手負いは事実だけど弱っちゃいねェよ」
「どうだかな。ここにいるってことは、その傷は仲間にでもやられたんだろう。だから俺達にすり寄ってきてるんじゃないか?」
「取引をしにきたんだ」
「前回の俺への借りも返せないお前が?」

 その言葉にキョウがうっと顔を歪ませる。それを見た壱政様は、「そういうのは取引って言わないんだよ」と溜息を吐いた。

「お前は自分の立場が分かっているのか? 貸し借りがどうと言う以前に、そもそもお前はただの弱者だ。手当てされて勘違いしているようだがな、今この場においてお前は餌でしかないんだよ」
「なんてこと言うんですか! 私も壱政様もそんなつもりないのに……!」
「それはお前だけだ、一葉。こいつが俺に差し出せる価値有るものなんてその血くらいしかない。小僧は自分を切り売りすることでしか俺と取引できないんだよ」
「ッ……そんなの駄目だよ! キョウ、やっぱり壱政様に頼むのはやめよう。時間かかっちゃうかもしれないけど私が代わりに調べるから……!」

 壱政様の言っていることは確かに正しいかもしれない。キョウが自力で用意できる物の中に、壱政様が欲しいと思うものがあるとは思えない。あるとすればその身体に流れる血液だけ。壱政様は私と違って人間の血の味をよく知る人だから、彼はそれであれば見返りとして認めるだろう。
 だからこそその言葉が本当にしか思えなくて、私はキョウを止めようと彼の方を向いた。

「いいんだ、一葉」

 そう言って私と目を合わせたキョウに、動揺は一切見られなかった。覚悟を決めたとも取れるその表情に不安が募る。
 そうだ、キョウは自分の血を撒き餌にできる人だ――そのことを思い出した途端にいたたまれない気持ちになったけれど、直後に聞こえてきた言葉は予想していたものではなかった。

「悪いけど俺の血をやることはできない」

 きっぱりと、キョウが壱政様の言葉を否定する。

「理由は?」

 壱政様もそんなキョウの様子が不思議なのか、相手を観察するように目を細めた。

「アンタと一葉の仲がおかしくなるだろ」
「は?」

 ……ん?

「今こうやってアンタに怒ってる奴なんだ。実際に俺がアンタに自分の血をやったら、アンタ達がまたギクシャクするかもしれないだろ」

 キョウの言葉にさっきまでの不安が霧散していくのを感じた。でもそれは決して安心させられたわけではなくて、思ってもみなかった理由に思考が追いつかないからだ。
 それは壱政様も同じようで、一瞬虚を衝かれたと言わんばかりに驚いた顔をしていた。でも流石は壱政様だ。すぐにいつもの不機嫌顔に戻って、「それがお前と何の関係がある」と低い声を出した。

「関係はない。ないけど、アンタと不仲になるとこいつはきっと嫌だろ。だから俺は自分がそのきっかけになりたくないだけだ」

 ちょっと待って、キョウが優しい。なんだこれ幻かな。いや、本当に優しさか? 自分が揉め事の種になりたくないだけっていうのは優しさじゃない……かな。多分。自信ないけど。

「一葉に甘えることにしたのか? 言っておくがこいつだってお前の大嫌いな化け物だぞ。一葉にはあまり人間の血を飲ませたことはないが、いつかお前を餌としか見なさなくなるかもしれない。手を組むのがそんな奴でいいのか?」
「私は……――!」

 慌てて反論しようとした私をキョウが手で制す。ほんの少しだけれど、小さく口元に笑みを浮かべて。
 その顔を見た瞬間、否定しなくていいんだ、と不思議な安心感が胸の中に広がった。私が人間の血でも飲めることを、この人には後ろめたく思う必要がない。それはそういう生き物だと見放されているわけではなくて、何故だか受け入れられているように感じられる。
 これまでのキョウの言動を考えればそんなはずはないのに、僅かに笑うその顔がまるで大丈夫だと言ってくるようで。頭の中の情報と感情がうまく噛み合わなくてどうしたらいいか分からなくなっていると、キョウが壱政様に向かって話を続けるのが聞こえてきた。

「分かってる。アンタらが人間を餌としか見なくなる日が来るかもしれないってことくらい」
「さっきは自分の獲物とは違うと言っていたが? 人間を食らうなら俺達もお前が狙う連中も同じだろう。そうなったらお前は一葉の命も狙うのか?」

 壱政様が静かにキョウを見る。いつもよりも厳しさのない視線なのに、相手の嘘を見逃さないような、緊張感のある眼差し。
 そんな目に射抜かれたキョウは少し答えに詰まった様子で、「……分からない」と小さく答えた。
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